marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(609回) また 冬がやって来た 作家 大江健三郎の宗教観 

2019-12-14 21:25:58 | 日記

 又、冬がやってきた。毎年やってくるのに北国に住む人々は、それを当然のこととして、また雪がないと実りの保証もできないものもあるのだからと当然のごとく、ダイナミックに大地の動きをとらまえてている。その身体への困難さより積極的なこの大地の恵みに夢を託すのだ。この厳しさは、発露のエネルギーの蓄積の為であると。

◆僕は、その作家の作品そのものというより、その作家の内なる思いを知りたいのだ。完成品というより、それを生み出す人のこと。それは、その彼の時代に生まれ、他人もいる社会のその時代に、何を体験し、何を考え、そしてそれが作品に結びつくようになったかということ。

◆だから、僕は大江健三郎が、幼少時代に四国の山の村に生まれ、敗戦を体験し、その村の昔語りに惹かれ、風変わりな親戚などの物語。。。それに、評論家などの酷評に耳を貸さず、ひたすら自らの身体の叫びに耳を澄ませ、その支えに海外の多くの作家の、いや、自分の作品からのアフォリズム、文言に支えられて創作活動をしてきたということ。作家が「これ」と明言すれば、その時点で布教するものとなるために宗教性は明言しないが、彼が訴えるのは、言葉にならないところの、いや、すべての言葉を駆使する者たちがと言っていいが、表現するところはすべてそこに(宗教性の向かうところ)へ向かっているのであると僕は思う。

◆先、自分の作品に海外の作家の言葉を多く引用することに対して、僕はアンフェアーのようにも思われると書いたが、考えてみれば、生きとし生ける人は何らかの言葉(それは外からであろうと、あるいは自分の内からの言葉であろうと)に支えられなければ、積極的には生きていけないものなのである。

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 私がイェーツに習ったのは、信仰に入らぬ人であれ、常に天の館に思いを寄せざるを得ない詩人としての態度だった。わが国の文壇では、いまやカトリックであれ、プロテスタントであれ、信仰を持つ作家、批評家たちの発言が盛んである。とくに信仰に入りたての気鋭の人々による、教会を背に負った呼びかけは、時にノンキ坊主ではないかと思えるくらいに高姿勢なものだ。そしてこちらも幾らかはノンキ坊主ながら、自分と信仰との別れ目はの幾つかを平気で見過ごしてきたわけではない以上、彼らに対する自分としての raging in the darkもあるわけなのだが。・・・・・ イェーツには、それがレインのブレイク研究、またイェーツ研究にまっすぐにつながるけれど、ユダヤ・キリスト教の背後、あるいは外側の伝統としての宗教感情、イマジェリー、宇宙観が明らかで、わたしはそれに導かれてきた。・・・(「私という小説家の作り方」四章 詩人たちに導かれて 新潮文庫)    ・・・