marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(595回) 「僕の生まれた小さな村の大きな物語」-例えば大江健三郎の小説の四国の兵衛伯父さんの革命について

2019-10-19 12:56:52 | 小説

親愛なるJ

 台風19号の影響で甚大な被害が毎日ニュースに流れ、被災された方々、多くのインフラが破壊されたことに心が痛みます。こちらは、普段と変わらず、雨と多少の強風がありましたけれど本当に申し訳ないほどに青空が見えてすがすがしい秋晴れの天候が続いています。

 ◆ブログ更新期間がひと月ほど空白がありましたね。このブランク・・・「僕の生まれた小さな村の大きな物語」を書こうとしましたが、「大きな物語」という部分が、日本古代や世界史を巻き込むようなとてつもなく大きな話になってきそうで、少し勉強しなければいけないなと思わされました。僕の生まれた村が、否、日本中のといっていい読者の方の住まわれているところの町や村の古代の歴史が地球の裏側の世界の歴史につながっていたんだと思われるような物語が眠っていたのだと気づいてしまったからです。

◆そのような中でいろいろ本も読みましたし、youtube(ほとんどのコメントに高評価をいただきましたよ)もたくさん見ましたよ。東京に遠征的?散歩に行ったときは、キリスト教の神学者や牧師先生にも会ってきました(東京散歩はブログに投稿しましたがこちらの方は専門的なので書いてませんが)。それから当地区でも訓練セミナーも著名な先生(youtubeでもお会いできるとは)をお招きして参加しましてね。いろいろ勉強になりました。それら、僕が考えてきたこと(神様から示されて来たことと書けば抹香臭くなるが)が、少しづつ学問的にもあらわになって来たと思っているので嬉しく思っているのですよ。

◆きっかけは、古い本になりますが、だいぶ以前にO先生からいただいていたヨルダン社から「日本の神学」という本です。共著のF先生は昨年、亡くなられました。主にF先生が書かれている内容がメインですが、貴重な重鎮がいなくなりとても残念に思います。これからのT神学大学はなかなか困難になるのかなぁ。いただいたこの本は1996年4版。だいぶ昔のだが、今は更新されて出版されているのかしら。いずれこの国の大戦後の洗脳から、神学といえども偏った見方があるようで、と書いたらとても叱られるのですが・・・。偏った?その例を言えば、世界史の高校の教科書がどうして西欧の歴史から始まっているのか? 最も古いと言えばシュメールあたりだろうけれど、僕らの住んでいるアジア大陸の方が文字としても古い歴史を持っているのにね。西欧はその当時、森に覆われた未知の世界の方がほとんどだったのに・・・。

◆露わになったきたこと、それは先に写真を掲載しましたおそらく古代からあるであろう「神社」、無論、現在僕らがこんな田舎でも目に見ることができる「神社」という建物は明治の国威掲揚のために建て替えられたものが多くあるのでしょうけれど、これがなぜ日本中にあったり、広く住んでいる地域の名前になっているのか。これがおそらく、日本の古代の基本、この国に住んでいた人々の精神性をなしてきたものの現れが今の僕らの身の回りの至る所に残っていると改めて発見したということなのです。それは古い古い時代に遡ります。神話の時代・・・それは僕の頭にすぐ浮かぶのは本居宣長という昔の学者や丸山真男というような学者さんが通奏低音のように流れている精神性というようなものの起源。さらにそれはもっとあるかもしれない。ある時には「その場の空気」と呼ばれたりするものを助長するものだったりしたけれど。

◆それらが今や正式な学問として「あらた(新たにこれが正しい解釈だろうと)」眼前に現れてきたということなのです。そもそもどうして僕が面白くもない事柄を考えているかと言えば、この国の神を求める心というのは、聖書の語る全知全能の神が居られるとするならば、求める指向性が、それ(神の摂理)に最もそう仕組みだったのではないかと考えはじめて来たからなのです。この古代の精神性と現代の例えば西欧の思想のなりたちは、どちらがいいとか悪いとか、評価の対象としてその思想(言語化された精神性)などとして取り出されたものではなく、まさに人を含めた創造者の天上界の僕らには到底知り得ない深いシナリオの元に動いているように思われてきているのです。

◆大江の小説「揚げソーセージの食べ方」から、・・・レヴィー=ストロースの親戚関係で、僕と兵衛爺さんとの実際の関係がーーおおいに心理の真相にかかわりつつーー母方の伯父と自分の、関係のありようにつうじると自覚されるものである。・・・

◇僕が彼の「いかに木を殺すか」という文庫本をいつも手元に置いてきたのは、彼の田舎の四国の田舎にいる親族が、あの時代、現代にも通づるような不思議な革命なんぞというようなとんでもない行動を起こすことや、村の話に「旧約聖書のレビ記」の言葉を載せているからなのである。古代と現代、実は古い時代、安穏と山の猟や野の百姓を営みながらも内実は、四国の島や東北に押し分け逃げ込まれてこなければならなかった、実に政治的な人々が僕の生まれた道沿い数キロもない小さなにもいたということなのである。・・・ 続く