marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(512回目)僕の宿題が一つ解け繋がった:『生きる者と死ぬ者』 

2018-05-15 06:42:59 | 日記
昨日は7535歩、歩数が少ないと疲労度もやはり違うな。庭に沢山のきれいな花々が咲き出した。
 
◆僕にとっては(生きている人にとってもと思うけれど)大切なことだと思っていることが、表題のカギ括弧。プロテスタント・キリスト教会で、覚えられる(唱えられる)「主の祈り」の中に、この言葉が出てくる。「生ける者と死ねる者を裁き給わん」。

 無論、イエスが語られた言葉が先なのだから、新約聖書のそちらによく聞くことが大切だ。聖書の中のイエスの言葉にも多くで出てくる(直截の言葉としてというより、その内容を含んで)この内容は、実は、これが実は、とても大切な要なのだと改めて思わされている。生ける者とは、死ねる者とは・・・?

 キリスト教というと、品行方正、清く正しく、美しく、というイメージが先立つ人が多いかこれは、裾野のことで、ここから入ると、逆にあまりに障害となることが多そうだ。神の前に生きる、神から離れ死ぬ、というのはどういうことか考えながら、聖書を読むと、いろいなイエスが語られた例え話も理解できてくるように思われる。実は、このことに神の言葉を伝えた人たちは自分のいのちを賭けた。 

◆例えば、有名な放蕩息子の話。ここで例えられるのは、放蕩息子を待つ父親は、神に例えられる。帰ってくるのは今日か、明日かと。帰って来た弟息子に、父親は「死んでいたのに生き返った」というような不思議な言葉を話す。

◆例えば、イエスが、会衆の前で、「ここには死なない者がいる」と話される。自分のことを言われているのかと初め僕はおもったのだが、イエスは同じ一つのことを言われて、繋がっていた。

◆通常、ぼくらは神に繋がることは困難である。そのつながりを神の独り子と言われるイエスが犠牲を払い中継ぎをされたということになる。
 
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 「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされた方を信ずる者は永遠の命を受け、またさばかれることはなく、死から命に移っているのである。
  ・・・死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今、すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。」(ヨハネ福音書 5:24-25)
 「・・・わたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである。」(同 8:24)
 「はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」(同 8:51)  
 「・・・わたしを信ずる者はたとい死んでも生きる。生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(同 11:25-26)

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