著者は1958年生まれとある。1950年代生まれは、そもそもこういう人が誕生する宇宙に浮かぶ地球時代であったと思われる。こういうことを考えるのは自分だけではないかと書いているが、実は多く存在する時代でもあった。
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『超越と実存 「無常」をめぐる仏教史』 と扉に、『序章 問いの在りか 死と自己』 初めの数ページに彼が、この宗教(仏教)に取りつかれた原因、幼児体験、生い立ちやその過程での様々な問いが書かれている。彼が求める続ける起源はここに書かれている。
煎じ詰めた課題は二つであったと。それは、
『簡単に言うと 1.死とは何か 2.私が私である根拠はなにか 実をいうと、私はこの二つの問題に、およそ記憶を遡り得る限りの昔から、憑りつかれて来た。』とあり、次にその要因として幼少期に病気がちだった経験を述べている。
書かれていことは、僕個人も同じ思いで生きて来たからだ。しかし、専門の寺の住職でもないし、教会の牧師でも司祭でもない。もし、そういう職?についていたら同じように何かを記録として書き遺す時間を費やしていたか・・・?
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宗教的次元の結論から言えば、言葉の宗教と言われるキリスト教の方が先んじている。彼はそもそも宗教ぬきの思考次元にまで到達せんとすれば、つまり『超越次元』の会話をしようとすれば、キリスト教、さらにそれが語っているところの『キリストとは何か』までも網羅して考えるべきであった。僕はそう思う。
その裾野は限りなく広く、すべての学問の起源ともなって来た。それは、神が自分の似姿に創造した『人』にすべての種があるからである。
道元禅師の言葉の言いようであれば、まさに言葉と文字を超えたところにその求めるべき『超越』があるのであるから、さらに世界中の宗教を網羅して、それに人という生き物の思考と行動誘導をめざすべきであった、と思うのである。
『死とはなにか、人とは何か』、そもそもこの『問』が人になかったならば、神の言葉と言われる生きたキリストを命をかけてまでも、例えそれがその時点で錯覚であった、幻想であったとしても、そしてそれが大きな誤解や反発に耐えて、世界に伝えられる大きなうねりにはならなかったであろう。
ここに超越からの我々にあらゆる行動を促す秘密があると思われるのだ。・・・つぎのブロブ(その2)へ続く