ジョン万次郎ファンクラブ

ジョン万次郎(中浜万次郎)の偉業を顕彰し、”ジョン万”ファンを広げていきます。

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2

2015-06-27 | web

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2

             島袋良徳さん

小渡浜に着く

1850年5月、万次郎は日本への帰国を決意した。資金づくりのためゴールドラッシュにわくカリフォルニアで金山に入り、雇われて働いたその後独立して採金を始め、70日間で600ドルの大金を稼いだ。帰国に必要な捕鯨用ボートを買い求め、アドベンチャー号と名付け、準備を整え、漂流仲間にも呼びかけ、3人で帰ることになった。

 万次郎たちを乗せたサラ・ボイド号は琉球に接近した。船長は、3人の身を案じて「米国へ帰ろう」と話したが、「母を思えば、ここから引き返せません。私はもとより死を覚悟の上であります」と答えた。

 3人はボートに乗り本船を離れた。1851年旧暦の正月3日であった。冷たい強風が吹き荒れる。懸命にボートを漕いで数時間後にやっと岸に近づいた。ボートで一夜を明かした。浜辺のヒシ(干瀬)に出ていた人々は見慣れないイフーナスガイ(異風な服装)に驚いて次々姿を隠し、一人だけ残っていたが、言葉が通じない。近くに人家があるに違いないと、万次郎ら2人が島に上って、4,5人に出会った。若者が日本語で「ここは摩文仁間切(マブニマギリ、いまの町村)である」と答えた。漂流のいきさつを語ると「日本人とわかれば大事にいたしましょう」と慰め、北の方に船着場があると教えた。

万次郎上陸地の小渡浜から米須番所への説明(和田さん作成)

 船着き場にボートを留め、小渡村の海岸に上陸した。土佐の港から出漁してから10年の歳月が過ぎていた。コーヒーを入れる準備をしている間に、村人たちが蒸し立ての暖かい芋や砂糖きびをバーキグヮー(ざる)に盛って差し入れてくれた。

 

万次郎が滞在した豊見城間切翁長の高安家の当時を再現した絵(和田さんが修整再現) 

米須番所で取り調べ

砂浜に大勢の人が集まっている。「これから番所まで案内します」と男が案内し、宿道を通り、米須の村中に入った。番所に着くと、昼食が与えられた。2人の役人から取り調べを受けた。取り調べた役人は、首里王府から摩文仁間切へ派遣されていた、下知役(ゲチヤク)は喜久里里主親雲上(キクザトサトゥヌシペーチン)、検者(ケンジャ)は新嘉喜里主親雲上(アラカキサトゥヌシペーチン)であった。3人がハワイから持ち込んだ品物も取り調べた。砂金や銀のほか、航海術書をはじめ数学、辞書、歴史、ジョージワシントン伝記など13冊の英文書と地図7枚、時計など日用品、航海に必要なオクタント(八分儀)やコンパス石板、ピストル、鉄砲など道具類があり、役人たちは見たことのない品物ばかりだった。

 

翁長村にかくまう

 検者は「3人を那覇に護送するように」と間切長に命じた。番所を出発した一行が豊見城間切、小禄間切を過ぎ、ようやく湖城村(クグシクムラ・現国場川南岸地域)にたどり着き、夜明けまで休もうと腰をおろすいとまもなく、首里王府から急便が来て命令を伝えた。「漂流者の3人を那覇に入れてはならぬ。豊見城間切の翁長村へ連れて行け」。

 那覇の手前までたどり着いた万次郎たちを引換させた理由は、時の琉球国外交官・小禄親雲上(ウルクペーチン)から那覇里主(市長役)に出した文書で明らかである。

漂流者は那覇に送るべきであるが、万次郎は米国に10年も居て教育を受けて居り、普通の漂流者とは事情が違う。那覇には英国人のベッテルハイムが滞在中であり、彼に万次郎を会わすと都合が悪いとあり、当時薩摩藩から琉球に派遣されていた在番奉行による内々の取り計らいでなされていた。

万次郎が滞在した豊見城間切翁長の高安家の当時を再現した絵(和田さんが修整再現)

 翁長村で薩摩藩から派遣された役人が取り調べにあたった。3人が国外在住したことをとがめることもなく、終始おだやかな顔で取り調べにあたった態度に安どの胸をなでおろした。

 万次郎たちの住まいにあてられた家は、徳門家(徳門は屋号、高安家)の家族が住んで居た茅葺きの家であった。家の人は急いで隣に茅葺きの家を建て、家族8人が移り住むようになった。3人をかくまった家は高い竹の柵で周囲をかこい、近くには宿舎を設けて薩摩の役人5人と琉球の役人2人が交代で詰め、監視にあたった。それでも3人は日常生活には何の不便もなかった。食事は琉球王府から3人の調理人が派遣され、米飯に豚・鶏・魚肉や豆腐・野菜などを使った質の高い琉球料理を揃え、時には王府から贈られた泡盛が添えられるほどのもてなしであった。

万次郎と高安家の子孫が初めて対面したさいの報道

 このように、漂流者である3人を特別にもてなすことは、薩摩藩の政策的な配慮にもよるが琉球王府にとっては、漂流者が土佐藩の住民であれば、王府が大事にもてなすべき過去の事情があった。

 1705年7月、琉球の進貢船が福州からの帰りに遭難して土佐清水の港に4か月間滞留した。役人、乗組員82人が世話を受け、死亡した1人は地元蓮光寺境内の墓地に墓碑も建立して丁重にまつられた。進貢船が帰国の際、土佐藩主は狩野探幽画3幅の外に2幅の掛物や尾戸焼陶器などを船に託して琉球王に贈り、船員に対しては多量の食糧品が贈られた。45年前の出来事であった。この度の漂流者は土佐藩に対する返礼の機会でもあった。

 その後、取り調べはなく、万次郎は柵を抜けて積極的に村人たちと交わり、旧暦6月25日の村の綱引にも参加した。

 

 薩摩へ送られる

 取り調べに当たった薩摩役人たちは、万次郎があまりにも外国の事情に詳しいことに驚いた。在番奉行は、万次郎は日本の開国に臨んで最も必要とする人材になると予察し、野元一郎を急便として薩摩に帰藩せしめ、藩主島津斉彬に調査始末を報告させた。

 早期開国を望んでいた斉彬は、万次郎から外国情報の得られることを期待して急ぎ鹿児島に召還することを決め、5月に護送するよう命じた。梅雨に入り、風雨の強い日が続き5、6月中に送還できなかった。

 万次郎は、片言の沖縄言葉を覚え、村の環境にもなじんでいた。高安家に滞在中の話が伝わっている。

 月夜の晩、万次郎が満月を仰いで泣いていた。わけを尋ねると「お母さんの夢を見た。元気でいればいいが心配でならない。早くお母さんに会いたい」と言い、その心の優しさに、高安家の主人も心を打たれたと言う。

 旧暦7月11日、薩摩役人が来た。本国へ送還するから出発の準備を命じた。翌朝、多くの村人が集まり、涙を流して別れを惜しむと、万次郎は沖縄言葉で「皆も元気で、もし私の手紙が届かなかったら殺されたと思って下さい」と別れを告げ、出発した。

 那覇港から18日、薩摩の官船大聖丸で出航した。12日目に鹿児島の山川港に着いた。斉彬は3人を賓客なみに扱い、人払いをして万次郎からじかに米国事情を聞いた。島津公の熱意に感心した万次郎は、英語まじりの変調な日本語でアメリカ国民の自由・平等や文化の実情を細かに語った。万次郎が与えた海事知識は、後に薩摩藩の海事政策に役立った。

 3人は、幕府の取り調べを受けるため長崎奉行所へ送られた。漂流から帰国までの事情を問いただし、踏絵を終えると牢屋に入れられた。9カ月を過ぎ、1852年6月に奉行所の判決があり、3人は土佐藩から来た役人に引き渡された。

 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

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