神は死んだ? 既存宗教は健康教に負けた
神は死んだ・・・
ニーチェが書いてから100年以上経ちました。
それが加速したかもと思っています。いいか悪いかは別です。
ホモサケルを書いたイタリアの哲学者、
ジョルジョ・アガンベンは、コロナ初期から
政府の対策や従順に従う社会の動きを非難していました。
そして炎上したことが少し話題になりましたが、言うべき事を
世の中の空気に関係なく、言うべきときに言う姿勢は素晴らしいです。
殆どの人が、怖がっていたか、だんまりでしたからね。
そんなアガンベンの寄稿やインタビューをまとめたのが、
私たちは何処にいるのかという本です。
この本には、コロナ禍で自分が仏教に抱いた疑問と
同じような感じの事を考えているのだなと思う部分が
ありました。
コロナの為に、キリスト教の教えを捨ててしまっている
けれど、それで良いのか?というような問いです。
(本筋は政治的な内容(政治哲学)で、例外状態に
ついて書かれた本でもありますが、いずれまた。)
聖職者など、本来は病人に寄り添うものだろうが、
そんな事もしなかったことなど、批判しています。
そして、これからは医学教の方が力を持つという事を
述べています。
本当にそう・・・ワクチン打ったらOKみたいなおかしな世の中を
否定もしなかった宗教。(結果、ただのバカ騒ぎだった。)
一方で、ブッダは、この世で生きる事は苦しみである。
欲を捨て去りましょうという。
長生きしたい、健康でいたい、お金も欲しい、愛も欲しい、
美も、食も、あれも、これも・・・
でも、人間いつか死ぬ、誰でもいつか死ぬ、
そういう考えに執着する事が、苦しみになってしまう。
だから執着を捨てよという事・・・
いまの仏教は執着しまくってんじゃんと思ったと、以前書いた。
唯識の考え方からすれば、恐怖を作り出しているのは自分。
恐怖が外にある訳ではない。自分の中にある心の働き。
実際にそうだったでしょ。みんなビクビク生活していたけど、
その恐怖は人の心の中にできたもの。それを投影した世界を
見ていただけ。人によって見ている景色が違う訳です。
コロナを恐れる人、恐れない人、お互いに理解しえないのは、
当然です。同じ事象を見ていても、受け取り方が違う。
きっと見えないウイルスが飛び交っている景色だと思います。
自分はそれと違った景色を見ていましたよ。
ありもしない恐怖に怯える社会をみていました。
しかもウイルスは変異しまくる・・・諸行無常です。
だから自分は色々気になって、唯識関係の本を少し読みましたよ。
般若心経の解説とかも。とても完全には理解できないけれど、
仏教界はコロナをどう捉えていたのだろうか。
以前、ある寺で、数珠回しという行事が3密を避ける為、
中止になったと話題になりました。
皆で輪になって、大きな長い数珠を回して無病息災を祈るやつ。
やめたら本末転倒ですよね。別に祈りを否定しないけど、
何の為にやってたんだよって話です。
葬式仏教とも揶揄されていますが、葬式すら簡略にしたり、
やらないとかになると存在自体がおかしくなるのにね。
まあ実際は殆どの人が金も掛かるし面倒だと思っているから、
文句も出ないし、案外良かったと思っているでしょう。
宗教の役割って何だろうと思わずにはいられない。
宗教の教えを捨て去っても、健康を選んだ。
マスクとワクチンで健康長生き!
(果たしてそれが本当に健康を選んでいたのかな?)
意外にこれって重要な事だと思っています。
結局恐怖に捕らわれると、命が第一になってしまい、
宗教界も、大事な教義もぶっ飛んでしまうらしい。
命が一番大切? とは簡単に言いきれないでしょう。
まあ、これだけ科学が発達した世の中で、
宗教の役割は変わってきてはいるけれど、
コロナ禍では、一時的な措置とはいえ、宗教界でさえ
対策の為に全てを譲ってしまった事を、
仕方ないと考えるか、歴史的にみて大きな出来事か、判断は今は
できないのでしょうが、宗教の形骸化がますます進み、
後から色々言われると思っています。
今だって、宗教より、専門家がアドバイスする栄養の話や、
運動の話の方が人気がありますからね。
〇〇は体に良いとか、〇〇は◇◇に効くとか、
▲▲はガンの予防になるとか・・・きりがない。
長く生きる事よりも、より良く生きる事を考えた方が
いいと思うのです。