2月3日は節分。
現代では「節分」というと立春の前日のことを言うが、もともと、節季のかわりめ、つまり、立春、立夏、立秋、立冬の前日をそれぞれ「節分」としていたのだ。
そのなかでも、立春は四季のはじまり、つまり一年のはじまりとして重要とされていたのだ。
残業で遅くなったのだが、何とか夜中の12時前には帰り着いて、豆まきをして、先日穴八幡宮でもらった「一陽来復」のお守りを貼った。

↑銀座あけぼのの「福豆」。えとの絵が描かれた塗りの升に、豆や金平糖、干菓子が入っている。

↑早稲田の穴八幡宮で冬至から節分の間に売られている、「一陽来復」のお守り。その年の恵方に向けて貼る。
このご時世、忙しい日々のなかで、古くからの行事はついついないがしろにされてしまいがちである。そのうちに、こういった習慣も消えてなくなってしまうのでは、と危惧してしまう。
そもそも、明治維新による西洋暦導入以降定められた国民の休日には、日本の伝統行事と関わるものが少ない気がする。
建国記念の日よりもむしろ、節分を休日にしたほうがいいのではないだろうか(もちろん、両方とも休日になったほうがいいけど)。
節分には、あちらこちらの社寺で豆まきが行われる。寄席や歌舞伎座でも、公演の間に豆や手ぬぐいがまかれる。
その雰囲気を楽しむだけでも、厄払いができた気分になると思う。何事も気の持ちよう、「病は気から」と言うから、「気分の問題」などと言っておろそかにはできない。
今年は残念ながら行かれなかったのだが、友人がゲットした手ぬぐいと豆を見せてくれたので、福をおすそわけしてもらえた気分である。

↑節分の日、寄席では豆や落語家の手ぬぐいなどがまかれる。ちなみに寄席では、お客さんが入るようにと「福は内」のかけ声のみ。
節分の行事といえば、最近では、その年の恵方に向かって太巻きを丸かぶりする風習が定着しはじめているようだが、この風習はもともと、関西地方の一部で行われていた風習だったようだ。
それが、コンビニエンスストアなどの販促活動によって広まり、今では全国区になりつつある。
テレビの普及以来、遠く離れた土地の情報を労せずに手に入れられるようになったのはいいことだが、それによって、それぞれの土地ならではの生活習慣がくずれていくこともある。
テレビで標準語や流行語をつねに耳に入れてきた世代が増えるにつれ、その土地に古くから伝わる言語がくずれているのも事実だ。
最近、京都に行くと、若い人の間で、標準語と関東の流行語と関西弁をあわせたような変な関西弁が当たり前のように使われていて、気持ちが悪い。
一口に関西と言っても、京都と大阪では言葉がちがうし、同じ京都や大阪のなかでも地域がちがえば言葉もちがう。京都や大阪に限らず、どの地域にもその土地ならではの言葉や生活習慣がある。それが、情報の伝達手段の発展によってくずれてしまうのは、残念な気がしてならない。
現代では「節分」というと立春の前日のことを言うが、もともと、節季のかわりめ、つまり、立春、立夏、立秋、立冬の前日をそれぞれ「節分」としていたのだ。
そのなかでも、立春は四季のはじまり、つまり一年のはじまりとして重要とされていたのだ。
残業で遅くなったのだが、何とか夜中の12時前には帰り着いて、豆まきをして、先日穴八幡宮でもらった「一陽来復」のお守りを貼った。

↑銀座あけぼのの「福豆」。えとの絵が描かれた塗りの升に、豆や金平糖、干菓子が入っている。

↑早稲田の穴八幡宮で冬至から節分の間に売られている、「一陽来復」のお守り。その年の恵方に向けて貼る。
このご時世、忙しい日々のなかで、古くからの行事はついついないがしろにされてしまいがちである。そのうちに、こういった習慣も消えてなくなってしまうのでは、と危惧してしまう。
そもそも、明治維新による西洋暦導入以降定められた国民の休日には、日本の伝統行事と関わるものが少ない気がする。
建国記念の日よりもむしろ、節分を休日にしたほうがいいのではないだろうか(もちろん、両方とも休日になったほうがいいけど)。
節分には、あちらこちらの社寺で豆まきが行われる。寄席や歌舞伎座でも、公演の間に豆や手ぬぐいがまかれる。
その雰囲気を楽しむだけでも、厄払いができた気分になると思う。何事も気の持ちよう、「病は気から」と言うから、「気分の問題」などと言っておろそかにはできない。
今年は残念ながら行かれなかったのだが、友人がゲットした手ぬぐいと豆を見せてくれたので、福をおすそわけしてもらえた気分である。

↑節分の日、寄席では豆や落語家の手ぬぐいなどがまかれる。ちなみに寄席では、お客さんが入るようにと「福は内」のかけ声のみ。
節分の行事といえば、最近では、その年の恵方に向かって太巻きを丸かぶりする風習が定着しはじめているようだが、この風習はもともと、関西地方の一部で行われていた風習だったようだ。
それが、コンビニエンスストアなどの販促活動によって広まり、今では全国区になりつつある。
テレビの普及以来、遠く離れた土地の情報を労せずに手に入れられるようになったのはいいことだが、それによって、それぞれの土地ならではの生活習慣がくずれていくこともある。
テレビで標準語や流行語をつねに耳に入れてきた世代が増えるにつれ、その土地に古くから伝わる言語がくずれているのも事実だ。
最近、京都に行くと、若い人の間で、標準語と関東の流行語と関西弁をあわせたような変な関西弁が当たり前のように使われていて、気持ちが悪い。
一口に関西と言っても、京都と大阪では言葉がちがうし、同じ京都や大阪のなかでも地域がちがえば言葉もちがう。京都や大阪に限らず、どの地域にもその土地ならではの言葉や生活習慣がある。それが、情報の伝達手段の発展によってくずれてしまうのは、残念な気がしてならない。
