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本朝徒然噺

着物・古典芸能・京都・東京下町・タイガース好きの雑話 ※当ブログに掲載の記事や写真の無断転載はご遠慮ください。

桜めぐり

2005年04月09日 | つれづれ
冒頭の写真は、京都のお茶屋さんの窓から見た桜である……と言いたいところだが、実はそうではない。

では、一体どこなのかというと……新宿御苑のお茶室である。
新宿御苑にあるお茶室の前には、大きなしだれ桜が2本植えられている。
それをお茶室の中から見ると、こんな感じになるのだ。
思わぬところで風情のある絵が見られて、よかった。

この日は、天気のいい土曜日だったので、朝早く起きて東京のお花見スポットを回って歩いた。

まずは、北区・王子にある「飛鳥山公園」へ。
飛鳥山は、上野の山(上野公園)と同様、江戸時代から東京の花見の名所であった。
まだ早い時間だったので、人もまばらで、空気も清々しかった。

飛鳥山公園
↑飛鳥山公園の桜


飛鳥山公園を後にして、千鳥ヶ淵へ。
ここは、朝からすでに大変な人出になっていた。ボート乗り場にも長蛇の列ができていた。
千鳥ヶ淵
↑千鳥ヶ淵の桜

千鳥ヶ淵沿いの緑道を人の波に乗って歩き、英国大使館の前を通って、四谷まで歩いた。
英国大使館の前の道にも、桜並木があってきれいである。
満開になって幾日も経っていないというのに、風が吹くともう花吹雪が舞っていた。


四谷から地下鉄に乗って、新宿御苑へ。
新宿御苑前駅に着くと、着物(訪問着などの盛装)を着た女性やスーツを着た男性がたくさんいたので、近くで結婚式でもあったのかと思っていたら、どうやらこの日、朝から新宿御苑で内閣主催の「桜を見る会」が行われていたらしい。それに招かれた人たちだったようだ。
そのため、通常より少し開園時間が遅くなっていたのだが、入場券の販売機の前には、一般の花見客で長蛇の列ができていた。

園内にはたくさんの桜が植えられており、一面がピンク色に染まって見えるようなところもあった。
都会の真ん中にある公園らしく、下のような風景も見られた。

新宿副都心の高層ビルと新宿御苑の桜
↑新宿副都心の高層ビルを背景にして咲く、新宿御苑の桜


新宿御苑の桜を堪能した後、大移動して、隅田川へ。
浅草側、向島側それぞれの川岸に、桜並木が続いている。
まずは、向島側を歩いた。
ここでは、向島の芸者さんや半玉さん(はんぎょくさん。京都でいう「舞妓さん」にあたる人。向島では「かもめさん」という)による茶店が出ていて、芸者さんたちがお団子やお茶を運んできてくれる。
向島では半玉さんも含めて、日本髪の場合は通常かつらを使用するが、中に一人、地毛で桃割れを結っていた半玉さんがいた。
東京の花柳界でも、以前は半玉さんの髪は地毛で結っていたそうだが、今ではかつらが主流になってしまっている。地毛で結うほうが自然な感じがしてよいのだけれど、現代の生活ではなかなか難しいのだろうか。

ひとしきり川岸を歩いた後、ちょっと早めの夕食をとりに浅草の観音裏へ。
食事を終えて店の外に出たら、芸者さんが歩いていた。

その後、水上バスの「夜桜見物船」に乗った。1時間弱で隅田川を周遊するコースで、船から両岸の桜を見物できる。
川には、屋形船もたくさん出ていた。

夜桜見物船には、浅草の「振袖さん」が乗船していた。
「振袖さん」は、半玉さんと同じ格好をしているのだが、見番(花柳界の組合のようなもので、芸者さんは通常これに所属する)には所属していないため、半玉さんや芸者さんとは少しちがう。
浅草の観光振興のため、様々なイベントに出席したり、宴席で踊りを披露したりするのだ。
この「振袖さん」を卒業した後、浅草の見番に所属して芸者さんを志す人もいるという。
船内では、振袖さんの踊りも披露された。

大移動の一日だったけれど、短い花の盛りを満喫できた日だった。



芸術座さよなら公演「放浪記」

2005年03月26日 | つれづれ
「日本のおしゃれ展」を見た後、デパートの地下で食料を買って、日比谷の芸術座へ向かった。

千秋楽を翌日に控えた「放浪記」を観るためだ。
以前の記事でも書いたが、芸術座は、老朽化による建て替え工事のため、この3月をもっていったん閉鎖される。
もちろん、数年後には新しい劇場になって生まれ変わる予定なのだが、伝統のある現在の劇場とはこれでお別れとなる。
今月の、森光子主演「放浪記」が、「芸術座さよなら公演」となるのだ。
同劇場で数え切れないほどの公演を重ねてきた「放浪記」は、現・芸術座のさよなら公演にふさわしい演目と言えるだろう。
人気も高かったようで、発売からすぐにチケットは完売していた。

お芝居自体もさることながら、芸術座のさよなら公演ということも私にとってはかなりのウエイトを占めていたので、着物を着ているにもかかわらずデジカメを片手に芸術座を撮影しまくる。

まずは外観から。
芸術座の入っている建物には、映画館「みゆき座」も入っている。
芸術座看板

ビルの外壁には、その月の芸術座の公演の大きな看板が掲げられている。
私は日比谷を歩くとき、いつもこの看板に目を向けていた。
芸術座公演看板

外観をひとしきり撮った後、中へ入り、エレベーターで4階へ。
4階に着くと、「芸術座」という文字の横に、公演のポスターが。
芸術座入口脇

入口でチケットを渡し、ロビーへと入る。
まだ開場前だったが、ロビーで待っている人が大勢いた。
私と同様、カメラ持参で場内を撮影している人もちらほらと見えた。
テレビ局も撮影に来ていた。

ロビーに入ると、いきなり「放浪記」初演時のポスターの写しが、大きく飾られていた。
放浪記初演時ポスター復刻版

撮影していると、係員のおねえさんが、「お客様」と言ってこちらへ寄ってきた。
「も、もしかして、撮影しちゃまずかったのかしら……。それとも、コンサートみたいに、カメラは預けないといけないのかしら……もちろん上演中は写真なんて撮らないけど……」とビクビクしていると、おねえさんの口からは意外なお言葉が。

「シャッターお押ししましょうか?」
何と、そのおねえさんは、私がその大きなポスターを撮っていたのを見て、そのポスターの前に立った写真を撮ってくれようとしていたのだ。
何というありがたいはからい。
私が、着物を着てパシパシ写真を撮っていたので、見るに見かねてくださったのかも……(笑)。

でも、芸術座の係員のみなさんには、こんなふうにあたたかみのある雰囲気の人が多い気がする。
何というか、「お高くとまっていない」という感じで、とても雰囲気がよいのだ。
制服を着た係員がたくさん並んでいても、威圧感がないのだ。
かといって、品性も保っているのだ。
係員のみなさんの雰囲気が、芸術座そのもののありかたと重なるのかもしれない。

係員のおねえさんに写真を撮っていただいたところへ、そばを通りかかった一人の女性が声をかけてくださった。
「あら、丈の長い昔風の羽織を着てらっしゃるのね。いいわねえ、『放浪記』にはピッタリの雰囲気! 楽しんでらしてね」

「ありがとうございます」と御礼を言いながら、うーん、見たことのあるお顔だなあ……と思った。
ひょっとして、役者さんだったかも……。とっさに思い出せなくて申し訳なかったかも……。
芸術座は、「演劇の殿堂」と言われるだけあって、客席のなかに役者さんの姿が見られることもしばしばある。
もちろん、出演されている役者さんが座っているのではなく、ほかの役者さんがお芝居を観にいらっしゃるのだ。それだけ、芸術座の公演が充実しているということだろう。

そうこうしているうちに開場時刻になった。
芸術座は、比較的小さな劇場である。この大きさが、演じるほうにも観るほうにもちょうどよいのだと思う。
ドレープのかかった幕に、ベルベット調の赤いシート。クラシックな劇場の雰囲気が、何とも言えず心地よい。
芸術座場内

開演前の知らせも、ブザーではなくチャイム(学校風ではなく、「リンゴーン」という音のもの)である。
開演前から、芝居の雰囲気をこわさないよう、ゆったりとした時間が流れていく。
まさに「古き良き時代の劇場」といった感じである。

お芝居を楽しんだ後、出口に向かう階段を降りる途中に、次のような看板がかかっている。
芸術座出口付近看板

私は、芸術座のこの看板がとても好きである。
劇場が壊されてしまう今、この看板の最後に書かれている「またのお越しをお待ちしております」の文字は、さびしく感じられた。
しかし、それと同時に、新劇場の完成への期待もふくらむ。

劇場リニューアル後の第一弾として、「放浪記」の上演が決まったそうだ。
生まれ変わった芸術座を見るのが、今から楽しみである。


<本日のキモノ>

桜の小紋に白の長羽織

青地にしだれ桜柄の小紋と、白地に四季の花模様の長羽織。帯は、白地に有職模様の織りの名古屋帯。しだれ桜柄の小紋は、叔母が若いころに着ていたもの。ちょっと派手になってきたかなあと思っていたのだが、白地部分の多いこの羽織をあわせると、派手さが抑えられてちょうどよい。
柄ものの着物に柄ものの羽織なので、帯は白地部分が多く色づかいも抑えたものに。



厄落とし!?

2005年03月20日 | つれづれ
十八代目中村勘三郎襲名披露の三月大歌舞伎、口上のある昼の部のチケットを、3階席ながらやっとのことでとっていたのだが……。

日にちを一日かんちがいしていた。
一日早い日付とかんちがいしたなら問題ないのだが、あろうことか、一日遅い日付とかんちがいしていたのだ。

ずっと、明日だと思いこんでいて、明日に備えてチケットを用意しておこうと思って見てみたら、チケットには思いきり今日の日付が印字されていた。
公演はすっかり終わっている時間……。

がっくり……。
これを楽しみに、先週末必死になって仕事をしたというのに……。ううう(涙)。

思い込みというのはおそろしいもので、チケットの確認もしていなかった。それがいけなかった。昨夜のうちにきちんと確認しておけばよかったのだ。
今にして思えば、昨日なんとなく気になったんだよなあ……。
歌舞伎のチケットでは今回が初めてだが、同様のことはこれまでにも何度かあって、そのたびに懲りていたというのに……。やはり油断は禁物である。

でも、まあ、今回の場合、逆にこれでよかったのかもしれない、と思った。
今朝、福岡地方で大きな地震が発生したのだが、両親が福岡にいるため、連絡をとるのに必死だったからだ。

一口に福岡と言っても広い。震源に近い福岡市からは離れているため、幸いにしてうちはとくに被害はなかったらしい。しかし揺れはかなり大きかったようだった。
お城の天守閣の瓦も落ちたそうである。
地震の起きる瞬間、「ゴーッ」という音が聞こえて、暴風でも吹いているのかと思って父は外を見てみたらしい。その直後に大きな揺れが来たので、父と母はあわててテーブルの下へ入ったという。幸い家具などが倒れることもなく、ケガがなかったのが何よりだった。
しかし、地域によっては、家屋が倒壊したところや、家具が倒れて家の中に物が散乱したところもあり、亡くなった人やケガをした人もいるので、被害にあわれた方たちのことを考えると本当に気がかりである。

起きてテレビをつけていたら地震速報が入って、びっくりしてすぐに電話をかけてみたのだが、すでに回線が混み合ってつながらない状態になっていた。
その後、固定電話や携帯電話に何度かかけてみたのだが、やはりつながらない。
しかたなくメールを送っておいたのだが、果たして見られるだろうか……。
連絡がつかないということほど不安なものはない。
そうこうしているうちに、向こうから電話がかかってきて、安心した。
電話がかかってきたときに、歌舞伎座にいたのでは出られないし、地震のことも知らずに過ごしてしまっていたかもしれないので、家にいてよかったのかもしれない。

昔は、厄年の人が、身に付けているものをわざと道端に落としてくると厄を免れる、と言われていたという。
両親がケガもなく無事だったことを考えると、歌舞伎座のチケットをうっかり反故(ほご)にしてしまったことは、厄落としだったのかもしれない。

何事も、「ものは考え様(よう)」である。



雪と梅

2005年03月05日 | つれづれ
昨日の雪から一転してよい天気になったので、新宿御苑へ梅を見に行った。

以前の記事でも少し書いたが、私は、桜よりも梅のほうが好きである。
桜ももちろん好きだが、梅の花のもつ何ともいえない趣が好きだ。
とくに、紅白の色彩の対比は、ほかの花にはなかなかなく、梅ならではの美しさといった感じだ。
今は桜が「日本の花」とされているが、平安時代以前は「花」というと梅の花のことを指していたほど、梅が好まれていた。

実家の庭に紅梅と白梅が並んで植えられているのだが、私は子どものころからこの2本の梅を見るのがとても好きだった。
私が小学校に入学するときに白梅の苗木が植えられ、2つ下の妹の小学校入学の際に紅梅の苗木が植えられたのだ。
はじめは白梅よりも紅梅が一回り小さかったのだが、木が成長するにつれ、いつのまにか同じ大きさになって並んでいた。人間の成長と同じでおもしろい。

ある年、庭の梅が咲いている時期に雪が降り、梅の花が雪をかぶったのだが、この様子が何ともいえず趣深かった。
桜だとこうはいかない。何年か前に関東地方で、もう桜が咲いている3月末に寒の戻りで雪が降ったことがあったが、雪のなかで咲いている桜は何だか興ざめだった。
梅の花は、小春日和のなかで見ても、名残の雪のなかで見ても、それぞれ趣がある。やはり「百花のさきがけ」にふさわしいのだなあ、と思う。

新宿御苑では、前日の雪がまだ溶けずに残っている所があり、雪と梅の対比が見られた。
福寿草も咲いていて、春の訪れを感じさせてくれた。

福寿草


梅の花と香りを楽しんだあと、三宅坂にある国立演芸場へ行った。
私の好きな三遊亭圓彌師匠がトリをとっていたのだ。

落語を楽しんだあと、夕食をとって、映画「北の零年」を観に行った。
前売り券を買っていたのだがなかなか行かれなかったので、そろそろ観ておかないと、と思ったのだ。

吉永小百合さんは、いくつになってもきれいだなあ、と思った。
もちろん、年齢とともに外見は変わっていくのだろうけれど、年齢に応じた美しさ、つまり「時分の花」というのを持っていると思う。

最近発売された吉永小百合さんの写真集のなかに、「私は、過去を振り返るのは好きではない」というようなコメントがあった。年を重ねても、常に現在とこれからを見つめ、新しいことにチャレンジしていきたいのだという。
そういった考え方が、年齢を重ねてなお魅力を放ち続けている根本なのだろう。
以前の記事でも書いたが、年を重ねてはじめて出てくる魅力というのがあると思う。
もちろん、若いときには若いときの魅力があるのだろうが、逆に、若いときには出せない魅力というのもある。
若いときにも、年を重ねてからも、そういう考えを持っていられる人は、よい年のとり方ができるのだろう。

観梅と落語と映画、一日でたくさんのことを楽しめて有意義だった。



また大雪

2005年03月04日 | つれづれ
昨夜遅くから降り出した雨が雪に変わり、今日は朝から雪だった。
朝の時点ですでに積もっており、バスもなかなか来なくて、通勤時間もふだんの倍近くかかった。
前日から「大雪のおそれ」と言われていたので早く起きて家を出ておいたのだが、会社に着いたのは結局いつもと同じくらいの時間だった。
しかも、バスを待っている間に靴がぬれて、靴下までびしょびしょになってさんざんだった。

会社に着いて窓から外を見たら、都心もすっかり雪景色になっていた。
ビルの上のほうだと風も強く、まるで吹雪のようだった。

今年は本当に雪が多い。
でもまあ、これが本来の冬のありかたなのだろう。



「あさかぜ」のなかで……

2005年03月01日 | つれづれ
昨夕、下関駅を発車した、最後の上り「あさかぜ」が、今朝早く、東京駅に到着した。

この上りの「あさかぜ」には、最終運行を記念して「メモリアルヘッドマーク」がつけられていると聞いたので、これも写真におさめるべく、早起きして出勤前に東京駅に立ち寄った。

上りの「あさかぜ」が東京駅に到着するのは、7時30分。
東京駅では、30分前からすでに大勢の人が待機していた。
某テレビ局のカメラも来ていた。おそらく、到着の瞬間や乗客へのインタビューなどをおさめるためだろう。
どのあたりで待っているのがいいのかがいまいちよくわからなかったのだが、なんとなくテレビ局のカメラの近くに立っていた。
すると、やはりテレビ局の人はきちんと下調べができていたようで、ちょうど私の目の前の位置で「あさかぜ」の先頭の機関車が止まった。
これはラッキーと思ってシャッターを押そうとした瞬間、ほかの位置で待機していた人たちが一斉に押し寄せて来たので、もみくちゃになってしまった。
しかも、押されて前にのめっていたら、駅員さんから「前に乗り出さないように」と怒られてしまった。自分の意思で前に乗り出しているのではないのに、さんざんである。
もう少しマナーよく写真を撮ってもらいたいものだ。

それでも何とか写真を撮って、人ごみの中から脱出。
行き先表示の写真などを撮りつつ、「ブルートレインの元祖」である寝台車の青い車体を眺めていた。
その間に、機関車と寝台車が切り離され、後ろに別の機関車がつけられた。そして、「あさかぜ」の寝台車は東京駅を離れ、車庫へ運ばれていった。
その後、「あさかぜ」を牽引してきた機関車が、寝台車の後を追うようにして東京駅を出て行った。
その姿を見送る人々に対して別れを告げるように、機関車の警笛が鳴らされた。

寝台特急「あさかぜ」は、名前のとおり、朝風のなかで最後のつとめを終え、そして、朝風のなかに消えていった。



さようなら「あさかぜ」「さくら」

2005年02月28日 | つれづれ
寝台特急「あさかぜ」と「さくら」が、ダイヤ改正に伴い、本日をもって廃止された。

「あさかぜ」は、1956年、日本で最初の寝台特急として、東京~博多間で運行を開始した。
「さくら」は、その3年後の1959年に運行を開始した。

当然、まだ新幹線などなかった時代である。
これらの寝台特急は、またたくまに一世を風靡(ふうび)した。


今年古稀を迎える私の父は、東京で大学生活を送った。
早くに夫を亡くし、女手一つで子どもを育て上げた祖母は、当時にしては教育熱心で、3人の子どもを東京の大学に行かせた。
しかし、もちろん家計は楽ではなく、父は学費を稼ぎながら苦労して大学へ通った。

寝台特急に乗るだけの経済的な余裕もなかった当時、父は急行列車に乗って上京してきたという。
そして、大学を卒業するとき、さまざまな夢を残したまま「あさかぜ」に乗って東京を離れ、故郷に戻った。

苦学生だった父は、わが子には同じ苦労をさせまいと、不自由のない生活を送らせてくれた。
東京での大学生活にも、多くの援助をしてくれた。
自分が東京で夢をかなえられなかったぶん、私たちには好きなようにさせてくれている。

そんな父のためにも、私は、東京駅を出る「あさかぜ」の写真を撮りたいと思った。

最終運転日の今日は平日だから行けそうもないし、大勢の人がつめかけて満足に撮れないだろうと思ったので、先週末のうちに東京駅へ行って撮ってきた。それでもかなり多くの人がつめかけていて、もみくちゃになりながら撮影をした。
何とか写真が撮れたので、インターネット上にアップロードして父も見られるようにしておいた。
元来「新しもの好き」の父は、割に早くからワープロやパソコンを使っていた。今も、インターネットをやる程度には、パソコンを使いこなしている。
50年近く前に作られた車両を撮影した写真を、現代ならではの手法で撮影・保存するというのは、何だか不思議な感じがした。


かつて一世を風靡した「ブルートレイン」も、新幹線の開業や航空網の整備といった時代の移り変わりとともに、その人気が衰えていった。

新幹線のスピードもどんどんアップし、日帰りの出張や旅行も当たり前のように行われる時代になった。
しかし、それとともに、人々の意識も変わってきてしまったような気がする。

普通列車や急行列車、寝台特急で移動していた時代、遠く離れた土地へ行くのには非常に多くの時間を費やした。
そしてそれは、自分が生まれ育った土地とは別の「異文化の世界」へ行くための、長い長い旅だったのだ。
だからこそ、新しい土地へ足を踏み入れることへのおそれ、不安、緊張、そして期待があった。
簡単に帰ることもできないから、覚悟をして新しい土地になじもうとした。そして、時間をかけてその土地の住人になっていった。

500キロ離れたところにも新幹線でわずか3時間足らずで行けてしまう今、人々は簡単にいろいろな土地へ移動できる。
それはたしかに便利だが、そのぶん、異なる文化をもつ土地へ行くことに対するおそれ、緊張、覚悟といったものが薄れていないだろうか。
旅先で傍若無人にふるまう観光客などを見ると、そう思わずにはいられない。

よその土地へ行って、一朝一夕にその土地の住人になれるはずはない。
10年、20年と経たなければ、その土地のことなど完全にはわからないし、ましてや「その土地の人間」にはなれない。
観光客に限らず、そういった自覚なしに「わがもの顔」をしてふるまうことは、その土地で生まれ育った人々の誇りを傷つけることにほかならない。
その土地の人々の生活に土足で踏み込むようなまねをする人たちが増えたのは、新幹線のスピードアップと時を同じくしているのではないだろうか。

鉄道に限らず、「スピードアップ」はたしかに大切だと思うけれど、そればかりに目を向けて大切なものが失われないよう、祈るばかりである。


今日午後7時、日本で最初の寝台特急「あさかぜ」は、もう戻って来ることのない東京駅を出発していった。
時代の流れとともに引退していく「あさかぜ」の姿を見て何とも言えずさびしい気持ちになるのは、老いた父の姿を重ね合わせてしまうからなのかもしれない。



東京駅ホームの表示
東京駅のホームの発車案内にこの文字が並ぶのも最後

さくら号ヘッドプレート あさかぜ号ヘッドプレート
先頭車両(電気機関車)

さくら号後部プレート あさかぜ号後部プレート
最後部車両(寝台車)

さくら号行き先表示 あさかぜ号行き先表示 
行き先表示。「あさかぜ」は当初博多行きだったが、2000年12月をもって東京~博多間の列車がすべて廃止され、東京~下関間の運行になった。

発車直前のあさかぜ号
発車直前の「あさかぜ」の最後部寝台車。後ろに見えるのは、東京駅ホームに入ってくる「あさかぜ」を車庫から牽引してきた特急「出雲」の電気機関車。

東京駅を出るあさかぜ号
東京駅を出て行く「あさかぜ」

さくら・あさかぜ記念弁当 
さよならさくら・あさかぜ記念弁当。東京駅で限定発売されていた。

さくら・あさかぜ記念弁当中身
中は幕の内風。「さくら」にちなんで、桜の形にくりぬいたさつまいもの天ぷらとさつま揚げが入っている。
「あさかぜ」はどこにいるのか謎……。



2005年02月24日 | つれづれ
東京地方は夜遅くから雪が降り始めた。
しかも、昨年大みそかのような大雪である。

会社を出たときはみぞれという感じだったのだが、地下鉄を降りて、JRに乗り換えるためホームにあがったら、雪になっていた。
その後、車窓から外の様子を見ていたら、はじめのうちは道路が濡れているだけだったのに、そのうち道端にうっすらと積もってきて、みるみるうちに線路にも積もってきて、あっというまに雪景色になっていった。
電車を降りたころには、銀世界だった。

最寄り駅にはタクシー待ちの行列ができていることが予測されたので、一つ前の駅で降りてタクシーに乗ろうとしたのだが、そこも長蛇の列になっていた。
しかし、台数が多くて回転が早いのか、そんなに長いこと待たずに乗れた。

私が乗ったタクシーは後輪をスタッドレスタイヤにしていたそうだが、それでも運転手さんは慎重に走ってくれていた。
車を運転する人ならおわかりだと思うが、雪道でバックをするのはかなりあぶないので、家の少し手前の、元きた道に戻りやすそうなところでとめてもらい、家へかけこんだ。まさか雪が降るとは思っていなかったため、スカートに革靴といういでたちだったので、歩きにくいうえに寒い……。
タクシーの運転手さんには、雪のなか、一駅となりの町まで来てもらったので、当たり前だがお釣りはチップにした。ゆっくり走らないといけないので、元の駅まで戻るのには少し時間がかかるだろうし(5000円も1万円もかかるような距離ならともかく、1000円を超すくらいの中途半端な距離で、しかもタクシー待ちの行列ができているようなときなどは、1メーターの距離まで行ってまたすぐに戻ってきて次のお客さんを乗せるほうが、運転手さんにとっては効率がいいのだ)。


最近は、タクシーに乗ってもお釣りをチップにする人が少ないのか、お釣りは結構ですのでと言うと運転手さんに驚かれることが多い。別に、たいそうな額を出しているわけではなく、キリのいい額で払ってお釣り分はとっておいてもらうというだけなのだが……。

一度、不祝儀のときに乗ったタクシーでチップを払ったら、「えっ、いいんですか?」と驚かれたので、逆にこっちがびっくりしてしまった。
私の親の世代くらいだと、身内の祝儀・不祝儀のときはもちろん、ひとさまの通夜やお葬式に参列した帰り、病人や大きな荷物を乗せてもらったときなど、当然のように心付けを渡すし、それを見てきたので自分もそうしている。
とくに不祝儀のときは、お通夜やお葬式の帰りの人を乗せるのは誰しもあまり気持ちがよいものではないだろうから、気を配らなければいけない。
喪主だったら、火葬場の職員のかたや霊きゅう車やマイクロバスの運転手さんなどにも心付けを渡す必要がある。
タクシーの運転手さんの反応を見ていると、最近はそういった習慣が薄れてきているのかもしれない、と、ちょっと不安になってしまう。

いくら合理主義の世の中でも、気持ちを形であらわすことはそれなりに意味があるのだと思う。
私だって、決して経済的に余裕があるわけではない。むしろいつもかなりピーピーである(衝動買いをするのがいけないのかもしれないが……)。
しかし、落語の世界にもあるように、たとえ長屋住まいであっても祝儀不祝儀の際のつきあいは必要なのだ。いわゆる「義理とふんどしは欠かせない」というやつである(さすがにふんどしは締めないけど 笑)。チップは海外やお金持ちの人だけの習慣というわけでは、決してない。


それにしても、今年は雪が多い。
雪が多い年は豊作と言われるが、昨年の新潟県中越地震で米どころも被害を受けているので、大変だろうなあ……。




誕生日

2005年02月18日 | つれづれ
また一つ、年を重ねてしまった。
「重ねてしまった」といっても、私は、20代のころから「早く30代になりたい」と思っていたくらいなので、年を重ねるのが嫌だというわけではない。

日々のあわただしさで、気がついたら誕生日を迎え、一つ年を重ねてしまっていた、ということなのだ。
前日まで、自分の誕生日のことなどすっかり忘れていたし、前日の夜になって「あれ、そういや明日は誕生日か、後厄だなあ……早く厄よけ祈願に行かなくちゃ」と思ったくらいで、当日になったらまた仕事でバタバタしていて忘れていた。
去年の誕生日も、転職して間もなかったので、あわただしい日々のなかですっかり忘れてしまっており、数日後になって「あ、一つ年をとってた」と思ったのだ。

大厄の年だった去年は、母から「厄年で、しかも転職で環境が変わるんだから、きちんと厄よけ祈願をしてもらうように」と言われていたにもかかわらず、ずるずると引き延ばし、6月ごろになってやっと本格的な厄よけ祈願をしてもらった。
そもそも、男性の場合も女性の場合も、一生のなかで体調をくずしやすい時期だから厄年とされているのだ、と言われている。だから、大きな病気やケガをしなかったのが何よりだと思う。
それ以外の細かなことは、厄年じゃなくたって起き得ることだし、気にしても仕方がない。

「十人十色の着物がたり」(主婦と生活社)という本のなかで、「30代、40代は『着物ざかり』」という、着物スタイリストさんの言葉が紹介されている。
「20代に比べ、心も体もやや丸みをおび、落ち着いた雰囲気を醸す年代」なので「どんな着物をも着こなせ、いろいろな着方に挑戦できる」ときなのだそうだ。

私は、心はまだあんまり丸くなってないかもしれないが(笑)、言われてみるとたしかに、20代のときと比べて、着物姿が少し自然に見えるようになった気がする。
ほかの人の着物姿を見ていても、30代の女性には、「着物が体になじんでいる」といった雰囲気があるように思う。
もちろん、20代の女性の着物姿は、はつらつとした華やかな魅力があって素敵だと思うが、それとはまた違ったよさが出ている感じだ。
20代のときに漠然と「早く30代になりたい」と思っていた原因の一つも、もしかしたらこんなところにあったのかもしれない。

さらに、50代、60代と進むにつれ、また違った雰囲気が出てくるのも、着物のよいところである。
たとえば、この年代の女性の着こなしを真似しようと思っても、全体から醸し出される雰囲気が全然ちがうので、うまく真似できない。やはり、50代、60代だからこそできる着こなしというのがあるのだ。
そう思うと、年を重ねることが楽しみになってくるから、不思議である。

「十人十色の着物がたり」では、20代、30~40代、50代~60代それぞれの年代のよさと、それを生かした着こなし方や着付けの仕方を、コラムで紹介している。
それぞれの年代ならではの体型や雰囲気があるので、その雰囲気を大切にした着こなしが必要ということらしい。
たとえば、おばあさんになって体のラインが変わったときに、それを生かしたゆったりとした着方をしていると、とてもなじんで見えるが、同じような着方を20代や30代の女性がしていたら、やはりしっくりこないものがある、ということのようだ。

実際、若い人の着物姿で、身八つ口(女性用の着物で、袖のつけ根が三角に開いている部分)が帯の上から出てしまって上半身がゆるい感じになっていたりすると、老けて見える感じがする。
20代の若い女性は、やはり帯を胸高に締めてきっちりと着るほうが、せっかくの若さを殺さずにすむのではないかなあ、と思う。

50代~60代になると、お太鼓をわざと斜めに作るというのも、粋に見えていいらしいが、これを20代や30代の人がやると、ややもすると野暮に見えてしまうかもしれない。
お太鼓の大きさも、若いときは大きめにして、年代が進むにつれ小さめにするのが、身長とのバランスもとれていいのだろう。

着物は、立体裁断される洋服とちがい、直線裁ちされているので、体型が変わっても着物のほうが体型にあわせてくれる。だから、それぞれの年代ならではの雰囲気が出てくるのだろう。
その人の年輪を生かしてくれる、着物。そのすばらしさを知ると、年を重ねるのが楽しみになってくるのかもしれない。



ラグビー日本選手権

2005年02月12日 | つれづれ
ラグビー日本選手権を観に、秩父宮ラグビー場へ行った。

第一試合のNEC対福岡サニックスの試合を途中から観て、その後、お目当ての早稲田大学対トヨタ自動車の試合を観た。

以前の記事でも書いたが、この日本選手権で学生が社会人に勝ったのは、1988年に早稲田が東芝府中を下して日本一に輝いたのが最後となってしまっている。
社会人選手は体格もいいし力もあるので、学生はなかなか勝てない。
しかし、今年の早稲田はかなり力をつけていたので、「もしかしたら」と期待が集まっていた。

試合開始後、早稲田はペナルティーゴールで先制点を決めたが、なかなかトライを奪えなかった。
ドロップゴールでの得点を狙った場面が何度かあったが、失敗してしまった。
後になって考えてみると、このドロップゴールが成功していれば、ひょっとすると勝てたかもしれない。
ほかにも、せっかく相手ゴール目前まで行っているのにちょっとしたミスや反則でチャンスを逃してしまった場面が何度かあった。それが残念だった。
ラグビーは、ちょっとしたことで一気に形勢が逆転してしまうスポーツであり、それが面白いところでもある。

しかし、体格のいい選手がそろい、外国人選手が何人も入っている社会人チームを相手に、よく守っていたと思う。すばらしいディフェンスだった。
社会人チームが学生相手にあれだけ本気になっていたのも、早稲田にとっては名誉なことだと思う。
途中、トヨタの選手のなかにフェアプレー精神にあるまじき行為があったのが残念だったが、全体的にはとても良い試合だったと思う。

試合後、涙を流しながらグランドを出る早稲田の選手を、トヨタの選手が肩をたたき激励しながら見送る様子が、とても感動的だった。
学生ながら社会人に善戦した早稲田に、トヨタの選手もエールを送ってくれたのだと思う。
これが「ノーサイドの精神」のすばらしいところである。

社会人の壁は厚いかもしれないが、今年の経験をバネにして、また来シーズンもがんばってほしい。
大きな相手に対してひるまず、精一杯ぶつかっていく早稲田の選手に、大きな感動と勇気を与えられた一日だった。
アカクロジャージ、バンザイ!


ちなみに、テレビなどの報道でご存じの方も多いと思うが、この早稲田対トヨタ自動車の試合のテレビ中継に関してすったもんだがあったようだ。
当初、NHKが試合の生中継を予定していたのだが、日本ラグビー協会と協賛企業である朝日新聞の契約で、レフリーやタッチジャッジのジャージに朝日新聞のロゴを入れることになったので、「企業名の過度な露出を避ける」ため、NHKが生中継をとりやめることを発表したのだ。
日本ラグビー協会が事前にNHKの了承を得ないまま事を進めてしまったのもまずかったらしい。結局、直前になって日本ラグビー協会が落ち度を認めたため、予定どおり生中継をすることが決まった。
生中継をすることに落ち着いたのが直前だったため、中継が行われたことを知らなかった人も多かったようだ。

たしかに、日本ラグビー協会の落ち度もあったのかもしれないが、NHKは、民放とちがって「視聴者からの受信料と税金で番組を運営している」放送局である。
だからこそ、最も視聴者のことを考えて番組制作をしなければいけないのではないのか。
「企業名の過度な露出を避ける」などともっともらしい理由をつけている場合ではない。
そりゃあ、民放の場合は、スポンサーのライバル会社の企業名を露出させたら大問題だが、NHKの場合はスポンサーがついていないのだから、企業名が出て来ようがどうしようが関係ないと思うが。

東京にいれば、スポーツの試合でも芸術的なイベントでも、比較的簡単に見ることができる。
しかし、地方にいる人にとっては、テレビでの中継が大きな頼りなのだ。
録画中継で見ることもできるのだろうが、やはり、リアルタイムで見る感動とはちがうと思う。

情報通信網がこれだけ発達した現代、本当にその恩恵を必要としている人たちのことを考えたら、企業同士のつまらないプライドなど、捨てるべきではないのか。


余談だが、NHKには歌舞伎の生中継ももっとやってもらえるといいのに、と思う。
地方にいると、例えば襲名披露興行などは、東京から一年くらい遅れてしまうところもある。
それに、地方の場合、チケットも高くなるし、すぐに売り切れてしまったりして手に入らないことも多い。
もっと生中継をしてくれれば、地方にいる人たちも感動を共有できる場が持てるのに。
それが、日本の文化水準のさらなる向上にもつながるのではないのだろうか。
番組を粗製乱造する前に、メディアの使命とは何なのか、もう一度よく考えてほしい。
私たちの受信料と税金を、むだにしないでください。