以下は(読む人によっては)ネタバレを含んでる場合もありうるから、注意して自己責任において読んでください。
筆者は原作のゲームはやったことが無いので、『AIR』という作品はこの劇場版と、現在放映中のTV版しか知りません。基本的にTV版の方が原作に忠実だという前提でいますが、間違ってたらごめんなさい。
この劇場版、TV版と比べて最大の違いは「電車が動いてる」ということです。(そこかいっ!)
いや、ボケをかましたつもりじゃなくて、たぶん明確な出崎監督の意思によるものでしょう。TV版では最初から廃線になってて、電車が来ない、寂れた駅前が舞台になってるわけですが、それが往人が人形芸で稼げないという理由付けにもなってます。でも、本当に駅前が賑わってたら稼げるかというと、たぶん疑わしいものでしょう。なぜなら、往人の芸はただ人形を動かすだけで、それ以上の工夫も何も無いつまらないものだからです。そうすると、この芸で稼ぎながら旅をしてきたという往人の設定自体に無理があることになります。
劇場版ではこの往人が人形劇で稼いで旅を続けてきたという設定にリアリティを与えるため、二つの材料が用意されました一つ目は祭りの存在。ただの街中のような観客が集まるかどうかわからない場所じゃなく、ちゃんと人が集まるという舞台。もうひとつは稼げるだけの芸を往人が身に付けてるということ。この二つで往人が人形芸で稼ぐためにこの町にやってきたという明確なリアリティが出来ます。
この時点で「往人は祭りで稼ぐためにこの町にやってきた」という存在理由が確立したために、その他の余計な小細工は必要なくなります。そこで、電車は別に廃線になってる必要はなくなったわけです。
もっともTV版では往人が人形芸で稼げないのは霧島病院でバイトするための理由付けにもなってるので一概に無意味ではないのですが、劇場版では佳乃と美凪の話はばっさりなくなって観鈴だけに絞られてるので、別にバイトする必要もありません。
こうしてTV版に比べて設定がリアリティのあるものに変えられてるのは往人だけではありません。ある意味、観鈴の方が大きいのではないでしょうか。
TV版の観鈴は普通に学校に通ってる生徒です。夏休みに補習が続いてるのは成績だけじゃなくて出席日数の関係もあるのかも知れませんが、佳乃や美凪のことは名前くらいは知ってて、それなりには登校してるようです。ところが劇場版では1学期まるまる長期欠席していたという話。これは観鈴の病気と晴子さんとの関係、そして最後の夏を演出するための出崎監督なりのリアリティのある解釈なのでしょう。
観鈴と晴子さんの関係も、TV版では距離をおいた冷めた関係なのですが、劇場版では本当の親子のように打ち解けあっています。でも、それが余計に切なくて悲しい状況になるのですが……
往人と観鈴の出会いも夏休みのフィールドワークを絡めることで(TV版よりは)自然に描き、さらにその素材を翼人伝説とすることで、神奈と柳也の物語と往人と観鈴の進展をうまくシンクロさせています。もっとも、この辺はTV版ではまだの話なので、どこがどう違っているのかわかりませんが……でも、翼人伝説も往人と観鈴の結末に合わせて、けっこうアレンジ加えてるんじゃないでしょうかね。
リアリティといえば、ポテトなんか劇中TVのキャラとしてしか出してもらってないのは、やはり「ピコピコ」と無く変な犬は出崎監督のリアリティの前には存在が赦されなかったんでしょうね。(それでいて、しっかり流し素麺のシーンまで入ってるし)
でも、観鈴と友達の変なカラスはいましたけど……
そういうことで、この電車が動いているということは、劇場版のリアリティのある設定に関わってるわけですが、電車の意味合いはこれだけではありません。
この作品では、往人を観鈴のいる町に連れて来たのがバスで、最後に往人は電車で町を去って行きます。途中、往人は一度バスで町を去ろうとしますが、それでは結局去ることが出来ずに戻ってきてしまいます。もちろん、出崎監督のことですからバスに乗ってたらいつのまにか元のバス停に戻っていたなんて不条理な描写はありませんが、バスが往人を観鈴のいる町に結びつける働きを担っていることには違いはありません。
逆に往人を舞台から退場させる働きを担ってるのが電車です。
バスというのは、時刻表はあるけれど、多少の遅れは当然なファジーな存在の乗り物です。そういう点で着の身着のままに旅を続けて来た往人に似合った乗り物だったのでしょう。一方、鉄道は秒刻みの正確さが要求される厳格な乗り物です。そりゃ電車だって着の身着のままの旅はできますが、普通は最初に目的地までの切符を買う以上、ある程度は目的の決まった旅をするための乗り物です。
おそらく、作品では明確に描かれているわけではありませんが、この町に来るまでの往人は人生の目的さえないまま、単に旅を続けていたのだけど、町を去っていくときの往人には観鈴との出会いがきっかけで何か旅の目的なり意図なりが見え始めてきたのだと思います。
そういう視点から見たら少し残念なのは、最初にこの町にやってきた往人がバスを降りる時に料金を払ってないんですね。たぶん、スタッフは都会の均一料金で前払い制のバスを思い描いて作ったのでしょうけど、どう見ても場所は田舎の町だから料金後払いの乗合バスの方が現実的だったと思います。
でも、それじゃあのいかにも出崎作品の主人公然としたバスの降り方が絵にならないのは確かですけどね。
電車の話はそこまでにして、この映画、露骨に出崎アニメならではの演出パターンを盛り込みすぎなんですね。5分も画面眺めてたら必ず出崎アニメのパターンがあるって感じで、まさに出崎演出のオンパレードです。素人目にも異様に止め絵の多い映画だというくらいは印象を受けると思います。
まぁ、この映画としてはきれいな萌えアニメを作ってるというわけじゃなく、往人の目で見た神尾観鈴という一人の少女の生き様を描いたドキュメンタリータッチな作品を目指し、その観点から効果的な表現方法を並べ立てたということなのでしょうから、それはそれで良いのですが……その効果それぞれにタッチが違って、まるでキャラが別人になってるというのはどうかという気がしますね。だいたい出崎演出の手法パターンというのはTVアニメの制約下の中で生まれたもので、それを劇場用映画で多用するのもどうかと……ま、今となっては出崎監督のお家芸みたいなものだから、それが無ければ味がないのかもしれませんが。
でも、それでいて、普通にアニメを作ってる部分は非常にうまく作られているんですね。TV版の観鈴よりも、ずっと生き生きとして輝いてる観鈴が見れたのはすばらしかったです。一箇所、へんにデフォルメしたキャラのシーンがあったんだけど、あれは演出的な意図であえてデッサン崩したデフォルメにしてると思うので、それはそれでかわいくて良かったですね。
それにしても、バリバリの出崎演出てんこもりの映画なのに、それでいてちゃんと『AIR』の映画になっていたのは驚きでした。最初、出崎監督が手掛けると聞いたときは、出崎演出を前に出したら『AIR』とは完全に別物の作品になってしまうだろうし、反対に作品イメージを重視して出崎演出を抑えたら、誰が作ったかわからない無難なだけの映画になってしまいそうだと危惧していたんですが、まったくの杞憂だったようです。
ところで、筆者は原作をしらないからわからないのですが、『AIR』のラストって、ああいう結末だったんでしょうか? なんかこれからTV版を見ていくのがとても辛い気になって来たのですが……
機会(金と時間)があったら原作のゲームでもやってみようかな。
筆者は原作のゲームはやったことが無いので、『AIR』という作品はこの劇場版と、現在放映中のTV版しか知りません。基本的にTV版の方が原作に忠実だという前提でいますが、間違ってたらごめんなさい。
この劇場版、TV版と比べて最大の違いは「電車が動いてる」ということです。(そこかいっ!)
いや、ボケをかましたつもりじゃなくて、たぶん明確な出崎監督の意思によるものでしょう。TV版では最初から廃線になってて、電車が来ない、寂れた駅前が舞台になってるわけですが、それが往人が人形芸で稼げないという理由付けにもなってます。でも、本当に駅前が賑わってたら稼げるかというと、たぶん疑わしいものでしょう。なぜなら、往人の芸はただ人形を動かすだけで、それ以上の工夫も何も無いつまらないものだからです。そうすると、この芸で稼ぎながら旅をしてきたという往人の設定自体に無理があることになります。
劇場版ではこの往人が人形劇で稼いで旅を続けてきたという設定にリアリティを与えるため、二つの材料が用意されました一つ目は祭りの存在。ただの街中のような観客が集まるかどうかわからない場所じゃなく、ちゃんと人が集まるという舞台。もうひとつは稼げるだけの芸を往人が身に付けてるということ。この二つで往人が人形芸で稼ぐためにこの町にやってきたという明確なリアリティが出来ます。
この時点で「往人は祭りで稼ぐためにこの町にやってきた」という存在理由が確立したために、その他の余計な小細工は必要なくなります。そこで、電車は別に廃線になってる必要はなくなったわけです。
もっともTV版では往人が人形芸で稼げないのは霧島病院でバイトするための理由付けにもなってるので一概に無意味ではないのですが、劇場版では佳乃と美凪の話はばっさりなくなって観鈴だけに絞られてるので、別にバイトする必要もありません。
こうしてTV版に比べて設定がリアリティのあるものに変えられてるのは往人だけではありません。ある意味、観鈴の方が大きいのではないでしょうか。
TV版の観鈴は普通に学校に通ってる生徒です。夏休みに補習が続いてるのは成績だけじゃなくて出席日数の関係もあるのかも知れませんが、佳乃や美凪のことは名前くらいは知ってて、それなりには登校してるようです。ところが劇場版では1学期まるまる長期欠席していたという話。これは観鈴の病気と晴子さんとの関係、そして最後の夏を演出するための出崎監督なりのリアリティのある解釈なのでしょう。
観鈴と晴子さんの関係も、TV版では距離をおいた冷めた関係なのですが、劇場版では本当の親子のように打ち解けあっています。でも、それが余計に切なくて悲しい状況になるのですが……
往人と観鈴の出会いも夏休みのフィールドワークを絡めることで(TV版よりは)自然に描き、さらにその素材を翼人伝説とすることで、神奈と柳也の物語と往人と観鈴の進展をうまくシンクロさせています。もっとも、この辺はTV版ではまだの話なので、どこがどう違っているのかわかりませんが……でも、翼人伝説も往人と観鈴の結末に合わせて、けっこうアレンジ加えてるんじゃないでしょうかね。
リアリティといえば、ポテトなんか劇中TVのキャラとしてしか出してもらってないのは、やはり「ピコピコ」と無く変な犬は出崎監督のリアリティの前には存在が赦されなかったんでしょうね。(それでいて、しっかり流し素麺のシーンまで入ってるし)
でも、観鈴と友達の変なカラスはいましたけど……
そういうことで、この電車が動いているということは、劇場版のリアリティのある設定に関わってるわけですが、電車の意味合いはこれだけではありません。
この作品では、往人を観鈴のいる町に連れて来たのがバスで、最後に往人は電車で町を去って行きます。途中、往人は一度バスで町を去ろうとしますが、それでは結局去ることが出来ずに戻ってきてしまいます。もちろん、出崎監督のことですからバスに乗ってたらいつのまにか元のバス停に戻っていたなんて不条理な描写はありませんが、バスが往人を観鈴のいる町に結びつける働きを担っていることには違いはありません。
逆に往人を舞台から退場させる働きを担ってるのが電車です。
バスというのは、時刻表はあるけれど、多少の遅れは当然なファジーな存在の乗り物です。そういう点で着の身着のままに旅を続けて来た往人に似合った乗り物だったのでしょう。一方、鉄道は秒刻みの正確さが要求される厳格な乗り物です。そりゃ電車だって着の身着のままの旅はできますが、普通は最初に目的地までの切符を買う以上、ある程度は目的の決まった旅をするための乗り物です。
おそらく、作品では明確に描かれているわけではありませんが、この町に来るまでの往人は人生の目的さえないまま、単に旅を続けていたのだけど、町を去っていくときの往人には観鈴との出会いがきっかけで何か旅の目的なり意図なりが見え始めてきたのだと思います。
そういう視点から見たら少し残念なのは、最初にこの町にやってきた往人がバスを降りる時に料金を払ってないんですね。たぶん、スタッフは都会の均一料金で前払い制のバスを思い描いて作ったのでしょうけど、どう見ても場所は田舎の町だから料金後払いの乗合バスの方が現実的だったと思います。
でも、それじゃあのいかにも出崎作品の主人公然としたバスの降り方が絵にならないのは確かですけどね。
電車の話はそこまでにして、この映画、露骨に出崎アニメならではの演出パターンを盛り込みすぎなんですね。5分も画面眺めてたら必ず出崎アニメのパターンがあるって感じで、まさに出崎演出のオンパレードです。素人目にも異様に止め絵の多い映画だというくらいは印象を受けると思います。
まぁ、この映画としてはきれいな萌えアニメを作ってるというわけじゃなく、往人の目で見た神尾観鈴という一人の少女の生き様を描いたドキュメンタリータッチな作品を目指し、その観点から効果的な表現方法を並べ立てたということなのでしょうから、それはそれで良いのですが……その効果それぞれにタッチが違って、まるでキャラが別人になってるというのはどうかという気がしますね。だいたい出崎演出の手法パターンというのはTVアニメの制約下の中で生まれたもので、それを劇場用映画で多用するのもどうかと……ま、今となっては出崎監督のお家芸みたいなものだから、それが無ければ味がないのかもしれませんが。
でも、それでいて、普通にアニメを作ってる部分は非常にうまく作られているんですね。TV版の観鈴よりも、ずっと生き生きとして輝いてる観鈴が見れたのはすばらしかったです。一箇所、へんにデフォルメしたキャラのシーンがあったんだけど、あれは演出的な意図であえてデッサン崩したデフォルメにしてると思うので、それはそれでかわいくて良かったですね。
それにしても、バリバリの出崎演出てんこもりの映画なのに、それでいてちゃんと『AIR』の映画になっていたのは驚きでした。最初、出崎監督が手掛けると聞いたときは、出崎演出を前に出したら『AIR』とは完全に別物の作品になってしまうだろうし、反対に作品イメージを重視して出崎演出を抑えたら、誰が作ったかわからない無難なだけの映画になってしまいそうだと危惧していたんですが、まったくの杞憂だったようです。
ところで、筆者は原作をしらないからわからないのですが、『AIR』のラストって、ああいう結末だったんでしょうか? なんかこれからTV版を見ていくのがとても辛い気になって来たのですが……
機会(金と時間)があったら原作のゲームでもやってみようかな。
なので、この後の、エンディングは、・・ですね。ラストよりもその過程がね。
はっきり言ってゲームはやるべきです。わたくしゲームをし終えた後、1週間廃人、1ヶ月現実と夢を行き来しました。
AIRについて言えばもっと厳しく、全部のストーリーを一回はやってみないと物語の本質を見極めるのは厳しいと思います。ですが、それだけの価値のあるゲームですよ。たまんさんも言われているとおり、何としてもやるべきです。まずは京アニ版を、是非最後までご覧になって下さい。劇場版よりも遙かに原典に近いものを見られることを、そして比べものにならない感動を得られることを、今時点で断言してもイイです。そしてその破壊力に胸打たれたら、是非ゲームにも手を出して下さい。
佐祐理シナリオとか、香里シナリオとか、美汐シナリオとか、秋子シナリオとか隠しシナリオがあったら気合入れてやってたかもしれないです。
『AIR』のゲーム版は取り合えずネットで発注かけてしまいました。物理的にゲームやる時間があるかどうかはわかりませんが。