まちだ ひろがりネット

ネットワークで豊かな町に!
人と人との繋がりの道具になりますように

町田・生活者ネットワークの活動日記

どうしても原発をやめられない

2011年11月28日 | 活動
原発について一緒に語ろうと呼びかけると
不意に背を向ける人が居る。
反対も賛成も一緒に語ろうと呼びかけても
不愉快な顔をする人が居る。

たがいに語ろうと呼びかけてもどうせ反原発でしょと見抜いている。
見抜いて背を向ける人は原発を擁護したい人にちがいない。
どうしても、相容れない。
どうしても中間が無い。

このまま噛み合ずに進めば、行く先には原発が相変わらず待っている。
浜岡で泊で伊方で、原発訴訟をした地域の人々が破れたように、
こんどは日本全国の人々が、原発の前にあきらめの肩を落とすかもしれない。

ひょっとして、
ともかくも生活を守れるのだから、
少しばかりがんができても、少しばかり長生きできなくなっても、
少しばかり子どもたちが痛んでも、時には生まれて来れない子たちがいても
我慢できると思うのかもしれない。

生まれてきた子たちが自分だけでは生きて行かれなくても
みんなで支えあえばいいと思うのかもしれない。
ともかくも生活を守れるのだから。

でもつぎの光景が目に浮かぶ。
2人に一人が病を得るか、生まれながらに不自由で、
支える人は2人に一人しかいない。

極端な想像だと笑ってほしい。



いのちを守ることが

2011年11月21日 | 活動
いのちを守ることがこれほど難しいとは思ってもみませんでした。
一生懸命頼めば聞いてくれるものと思っていました。
せめて子どものいのちだけはと、親たちが懇願しているのに、
その言葉が通らないとは思いもよりませんでした。

大間の原発建設が止まらないらしいと聞きました。

今日、韓国ドラマ(時代劇)を見ていて、台詞にドキッとしました。
「なぜ、平気な顔で民を踏みにじるのか、教えてやろう。
それが権力だからだ。権力とはそういうものだからだ」
正義が勝つと信じている主人公に対して言われた言葉です。
正しいから勝つのではない、強いから勝つのだという言葉を
主人公は跳ね返すことができるでしょうか。

ドラマのような時代で今はあったのでしょうか。

原発事故でこれだけ大変な思いをしているのに、
原発を売り歩こうとするとは、それもいのちを持っているその人が、
他人のいのちなら無視できると言っているようなもの。
原発を止めようとしないことだけでも十分にいのちを無視している上に。

原発を続けることが経済である、などと言わないで欲しい。
いま、原発に経済発展の活路を求めるのは無策であるとひけらかすようなもの。
いま、原発が無ければ平和が守れないという人は言葉の矛盾に気がついて欲しい。

ああ、もっと知恵があれば。






畑のシーベルト

2011年11月10日 | 活動
家庭菜園で野菜を作っている人たちの要請で、畑の放射線量を測りました。
いずれも、畑地の表面は住宅街より低いのです。

たとえば空間線量0.8μSV/hの住宅街でも、その近くにある畑の表面は0.6μSV。
土や草地がセシウムをくっつける、アスファルト面は雨で流れる、
というにしてはこの値は逆。

ううむ。
理由を素人なりに考えました。
畑は3月以降に耕している。だからセシウムが表面ではなく地中に移動した。
それで、畑地表面は放射線量が低く出る。と。

結局、作物自体の吸収分を測定しないといけませんね、と申し上げたことでした。

それにしても、町田市内のどこで測っても自然放射線量に比べて線量が高めなのを
確認させられます。そしてやっぱり現実なんだ、やっぱり嘘じゃないんだ、
放射性物質はここかしこにあるんだと思って腹の底でむかっとしています。

測り続けるって、知ることですね~。
測り続けるって、忘れないことですね~。

(お)


もったいないからだよ

2011年11月01日 | 活動
ある新聞は、原発の再稼働が難しいので電力供給力不足は長期化する、と書いています。
だから、省エネをさらに進めなければならない、
家庭の省エネを進めなければならない、
太陽光パネルによる電力や深夜電力を蓄電して昼間に供給する、と書いています。

違うでしょ、みんなで無駄を省くのでしょう。
別に、原発の再稼働が難しいから省エネしなくちゃって話ではないでしょう。
原発があってもなくても、
わたしたちはもったいない精神で節約するんでしょう。

夜が暗ければ、それに合わせて暮らせばいいでしょう。
昼間のように煌煌と明るくなくてもいいでしょう。

原発があるのを前提にして省エネを考えるのではないでしょう。
それじゃあいつまでも省エネは間に合わせの当座しのぎの、できたらしたくないことになります。

そうじゃなくて、
生活するっていうことが「もったいない」と節約することだって、
ざぶざぶ湯水のように(湯水だって節約!)消費することじゃないって、
省エネ、なんていうマイナス気味の辛抱の産物みたいな発想ではなくて、
無駄にしない、もったいない、ということなんでしょう。
それで、
じゅうぶんやっていけると、
持続可能性を追求する人たちは言っています。

世界人口爆発だから原発は必需と一部の人に言わせてしまって残念。
どうしていつまでも、そんな風に思うかなあ。

(お)