私が読んだ『ナショナリズムの正体』 半藤一利 保阪正康
この本は直接憲法について学ぶものではないが、半藤一利と保坂正康という昭和史研究の大家二人が歴史を踏まえてナショナリズム、愛国について対談する形式になっていて読みやすい。安倍内閣以降声が大きくなっている歴史修正主義的な主張を、史実からきちんと批判し否定してくれて、なんとも心強く感じた。今回はその中で、憲法について言及されている箇所を共有したい。
小見出しは「右翼だけでなく左翼とも戦わねばならない」。どちらかというと左翼かな?と自認する身としては、一瞬ドキリとしたが内容は示唆に富む。
保坂氏曰く、『今の憲法を「平和憲法」と呼び、市民運動などでやたらに「平和団体」を呼号する、これまでの左翼風のやり方をやめるべきだと思うんです。前にも言いましたが、今の憲法は決して平和憲法ではない、非軍事憲法に過ぎないんですよね。それなのに、「平和憲法」と呼び、「平和憲法」を守ろうなどと言ってしまうと、いきなり、大した努力もしないで平和が達成されたような錯覚が生まれる。』(1)
とても鋭い指摘だと思う。平和学では平和を消極的平和と積極的平和に分けて規定している。消極的平和とは戦争や紛争といった直接的な暴力はないが、貧困や排斥などがある状態であり、積極的平和とは戦争や紛争がなく、貧困や差別などを生み出す社会の構造的暴力もない状態である。確かに、今の憲法には健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が明記されているが、積極的平和への志向というよりは戦争の放棄を謳った消極的平和の意図が強いと思われる。より適切な表現は、「非軍事憲法」だろう。
「非軍事」と規定することは、積極的な平和を志向することにも繋がる。コロナ禍で職を失い、貧困に陥ったり自殺に追い込まれたりする人が多い状況であり、外国人が長期収容によって死に至るケースが起こるような今の社会は到底平和とは言えない。この国の現実を「平和憲法」という呼び名の下に埋もれさせてはならない。
これに続く指摘も面白いし、重要だ。
『さらに言えば、もし今の憲法を平和憲法ではなく非軍事憲法だと認識すると、憲法改正についても論じやすくなります。戦争を可能にする改正とは逆に、非軍事憲法を本物の平和憲法に近づける方向に変える議論もできるようになるからです。ところが、今の憲法を「平和」という名で呼んでしまうと、憲法改正は平和を捨てることしか意味しなくなり、頭から反対するしかなくなる。すると、戦後レジームの、古くなってしまってもう変えたほうがいい側面さえも、変えることができなくなるんですよ。』(2)
言葉は思考を規定する。実際、今までの憲法改正論には実感が湧かない。多かれ少なかれ戦争についてYES かNOの2択で多くの人がNOとなり、憲法改正の議論が深まらない一面があったように思える。しかし憲法は国の基本法として権力の在り方を規定し、国民の自由や人権を守る為のものである。安倍政権下で集団的自衛権の行使を容認した際、圧倒的多数の憲法学者が違憲と指摘したにも関わらず、いまだに撤回もされず我が国の方針となっている。こうした権力の横暴を阻止するための条文が追加されるのも、良いかもしれない。
さらに本書の中では、内閣総理大臣が形式的とはいえ天皇に任命されることに言及している。アジア諸国との平和的な関係構築のために、かつてアジアを侵略した責任者としての天皇を憲法とは別に存在させる、という可能性を例示している。個人的には、これにも大賛成である。同様に言及があるが、日本人がアジア諸国で犯した戦争犯罪は、今後の日本の未来を考えるうえできちんと継承し、反省されていかなければならない歴史である。しかし、現実には安倍政権以降、歴史修正主義的な思想が本や雑誌、ネットなどによって世の中に溢れている。反省するどころか居直るような言説が、一部の国民に受け入れられてビジネスとして成立してしまうような現状に、不安を覚える。本書の中で保坂氏が歴史の受け止め方について述べている一文も示唆に富むものなので、紹介したい。
『爆弾や焼夷弾を落とされて、やっと戦争はこんな酷いことなんだとわかった。けれど、その酷い戦争をどうして始めてしまったのか、自分たちの国の軍隊がよその国で何をしたのか、二度と同じ事を起こさないためにはどうすればいいのか、こうしたことは、ほとんどの人が考えて来なかったんですよ。自分の受けた被害しか覚えていない。被害者意識はあっても、他国に何をしたのかを知ろうとしないから、加害者だという自覚はない。あの戦争に対する、この認識の浅さが、今になって、若い人のナショナリズムの歪みになって表れているんです。因と果の関係にあるんです。』(3)
今回のコロナ禍でのオリンピックを巡る一連の政治決定にしてもそうだが、現状を認識した客観的な決定ではなく、恣意的で場当たり的な政治決定にいまだに国民は振り回されている。戦後70年以上経ても、未だに現実の認識の甘さによって国民は疲弊しているのだ。それは統計詐称に始まり公文書の破棄、隠蔽、改ざんと、国会では誠意のない答弁を繰り返す自民党政権がもう10年近くも与党の第一党として権力を握っている事と表裏一体である。この現状認識の甘さを容認し続けた先に何が起こるのかは、歴史を思い返せば明らかであろう。
憲法の改正手続きを定めた国民投票法の改正案が可決されるなど、憲法改正の下地は整い始めている。現実を見据え、自分の考えに基づいて1票を投じられるような準備は、より切実に求められていると感じる。ここから始まる書籍紹介で、私たちが少しでも憲法の知識を増やし、現実社会への認識を深め、より良い憲法を構想することで明るい未来を描きたい。(か)
引用
(1)(2)(3)『ナショナリズムの正体』 半藤一利 保阪正康 文春文庫
この本は直接憲法について学ぶものではないが、半藤一利と保坂正康という昭和史研究の大家二人が歴史を踏まえてナショナリズム、愛国について対談する形式になっていて読みやすい。安倍内閣以降声が大きくなっている歴史修正主義的な主張を、史実からきちんと批判し否定してくれて、なんとも心強く感じた。今回はその中で、憲法について言及されている箇所を共有したい。
小見出しは「右翼だけでなく左翼とも戦わねばならない」。どちらかというと左翼かな?と自認する身としては、一瞬ドキリとしたが内容は示唆に富む。
保坂氏曰く、『今の憲法を「平和憲法」と呼び、市民運動などでやたらに「平和団体」を呼号する、これまでの左翼風のやり方をやめるべきだと思うんです。前にも言いましたが、今の憲法は決して平和憲法ではない、非軍事憲法に過ぎないんですよね。それなのに、「平和憲法」と呼び、「平和憲法」を守ろうなどと言ってしまうと、いきなり、大した努力もしないで平和が達成されたような錯覚が生まれる。』(1)
とても鋭い指摘だと思う。平和学では平和を消極的平和と積極的平和に分けて規定している。消極的平和とは戦争や紛争といった直接的な暴力はないが、貧困や排斥などがある状態であり、積極的平和とは戦争や紛争がなく、貧困や差別などを生み出す社会の構造的暴力もない状態である。確かに、今の憲法には健康で文化的な最低限度の生活を営む権利が明記されているが、積極的平和への志向というよりは戦争の放棄を謳った消極的平和の意図が強いと思われる。より適切な表現は、「非軍事憲法」だろう。
「非軍事」と規定することは、積極的な平和を志向することにも繋がる。コロナ禍で職を失い、貧困に陥ったり自殺に追い込まれたりする人が多い状況であり、外国人が長期収容によって死に至るケースが起こるような今の社会は到底平和とは言えない。この国の現実を「平和憲法」という呼び名の下に埋もれさせてはならない。
これに続く指摘も面白いし、重要だ。
『さらに言えば、もし今の憲法を平和憲法ではなく非軍事憲法だと認識すると、憲法改正についても論じやすくなります。戦争を可能にする改正とは逆に、非軍事憲法を本物の平和憲法に近づける方向に変える議論もできるようになるからです。ところが、今の憲法を「平和」という名で呼んでしまうと、憲法改正は平和を捨てることしか意味しなくなり、頭から反対するしかなくなる。すると、戦後レジームの、古くなってしまってもう変えたほうがいい側面さえも、変えることができなくなるんですよ。』(2)
言葉は思考を規定する。実際、今までの憲法改正論には実感が湧かない。多かれ少なかれ戦争についてYES かNOの2択で多くの人がNOとなり、憲法改正の議論が深まらない一面があったように思える。しかし憲法は国の基本法として権力の在り方を規定し、国民の自由や人権を守る為のものである。安倍政権下で集団的自衛権の行使を容認した際、圧倒的多数の憲法学者が違憲と指摘したにも関わらず、いまだに撤回もされず我が国の方針となっている。こうした権力の横暴を阻止するための条文が追加されるのも、良いかもしれない。
さらに本書の中では、内閣総理大臣が形式的とはいえ天皇に任命されることに言及している。アジア諸国との平和的な関係構築のために、かつてアジアを侵略した責任者としての天皇を憲法とは別に存在させる、という可能性を例示している。個人的には、これにも大賛成である。同様に言及があるが、日本人がアジア諸国で犯した戦争犯罪は、今後の日本の未来を考えるうえできちんと継承し、反省されていかなければならない歴史である。しかし、現実には安倍政権以降、歴史修正主義的な思想が本や雑誌、ネットなどによって世の中に溢れている。反省するどころか居直るような言説が、一部の国民に受け入れられてビジネスとして成立してしまうような現状に、不安を覚える。本書の中で保坂氏が歴史の受け止め方について述べている一文も示唆に富むものなので、紹介したい。
『爆弾や焼夷弾を落とされて、やっと戦争はこんな酷いことなんだとわかった。けれど、その酷い戦争をどうして始めてしまったのか、自分たちの国の軍隊がよその国で何をしたのか、二度と同じ事を起こさないためにはどうすればいいのか、こうしたことは、ほとんどの人が考えて来なかったんですよ。自分の受けた被害しか覚えていない。被害者意識はあっても、他国に何をしたのかを知ろうとしないから、加害者だという自覚はない。あの戦争に対する、この認識の浅さが、今になって、若い人のナショナリズムの歪みになって表れているんです。因と果の関係にあるんです。』(3)
今回のコロナ禍でのオリンピックを巡る一連の政治決定にしてもそうだが、現状を認識した客観的な決定ではなく、恣意的で場当たり的な政治決定にいまだに国民は振り回されている。戦後70年以上経ても、未だに現実の認識の甘さによって国民は疲弊しているのだ。それは統計詐称に始まり公文書の破棄、隠蔽、改ざんと、国会では誠意のない答弁を繰り返す自民党政権がもう10年近くも与党の第一党として権力を握っている事と表裏一体である。この現状認識の甘さを容認し続けた先に何が起こるのかは、歴史を思い返せば明らかであろう。
憲法の改正手続きを定めた国民投票法の改正案が可決されるなど、憲法改正の下地は整い始めている。現実を見据え、自分の考えに基づいて1票を投じられるような準備は、より切実に求められていると感じる。ここから始まる書籍紹介で、私たちが少しでも憲法の知識を増やし、現実社会への認識を深め、より良い憲法を構想することで明るい未来を描きたい。(か)
引用
(1)(2)(3)『ナショナリズムの正体』 半藤一利 保阪正康 文春文庫