信州山里だより

大阪弁しか話せないの信州人10年目。限界集落から発信している「山里からのたより」です。

ケヤキを「ころばす」

2011年03月23日 07時21分57秒 | Weblog
2011年3月22日(火) 記

3月5日からこちら、私のお便りも震災ばかりで、信州山里のたよりを送れていませんね。
震災があっても山里の生活は刻み続けています。今回はほんの短く、21日の日曜日の出来事を。

日曜朝8時。裏山で伐採後の木の後片付けをしていると、トシカズさんから「今からケヤキ、ころばすよ(信州弁で、伐採すること)」と携帯に電話。
実は3年前の秋分の日、右ひざを電気丸ノコで食い込ませて停止してしまうほど切って救急車で運ばれてから少々恐怖心が残り、「大丈夫かな」と不安と緊張とチエンソーを持って9時に現場へ。なにしろトシカズさんの畑を被さるような大きなケヤキですから。

たまたま隣に接している自分の畑に来たマサカズさんも加わって、3人で3時間ほどかけて無事にころばすことができました。
写真は、日曜日にころばせて(言い得て妙でしょう)そのままだったのを、トシカズさんかマサカズさんかが枝をある程度片付けてくれて、今日時間がある私が作業する前のもの。その隣の写真は同じ場所から撮ったわがムラの風景。豊かではないけれど(叱られるかな)心安らぐいい山里です。
  

木を切ることは少々怖いというか、厳粛な気になるというか、そんな気になります。これは「危険を伴うから」というだけでなく、なにか感じるんですよ、木に対しては。
したがって家の裏山で、あるいは自分ひとりでやる時は、太い木にはお神酒を少しふりかけてから、細い木には「悪いな、切らせてもらうよ」とつぶやいてからチエンソーを使います。

この時嬉しかったことが一つ。
日曜日に作業をしているとマサカズさんのお母さんが(80少し前位かな)やってきて、「誰かと思ったらKさん(私のこと)やな。都会から来た人はなかなかこんなことできんのに、すっかり山の人になって」と言われました。「すっかり山の人になって」って、嬉しいじゃないですかこの言葉。
ちなみに私が市の広報を配りに行ったとき、なんと縁側で『現代農業』という雑誌を読んでいたんですよ、このお母さん。

今日は一人で黙々と小枝の整理にいそしみました。12時頃から夕方6時前まで。日が長くなってきたのは作業がはかどって嬉しいことです。
でもその間、ラジオでは余震のニュースが続いています。そして東北大地震翌日の12日午前3時59分に起こった長野北部震度6弱の地震発生からからずっと、大きくないのであまり注目されていないけれど、わが山里にも連日数回の余震が続いています。

「(息子夫婦が住んでいる)茨城は地震が多いなぁ。あの子ら大丈夫かや(「かや」も信州弁。知らず知らずでてきます)」と夫婦で案じていた数ヵ月後にこの大震災。長野も安心できません。なにしろフォッサマグナが通っているし善光寺大地震の経験もしている土地ですから。はやくおさまって欲しいです。


【原発事故関連】
昔むかし、ずっと昔。独身の頃から反原発の立場だったので「東京に原発を!」や「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」や「危険な話」(広瀬隆)などを読み、原発の学習会にも反対集会にも参加していた。

それから年月が少し経ち、RCサクセション、忌野清志郎の原発反対の歌が放送禁止になり、レコードも発売中止になったことを知って「へえ、そんな奴も居るんや」と彼に興味を持ち、好きになり、ロックの新しい聞き方ができるようになった子育て時代。

それから私は、原発には反対の立場であったものの、国政選挙で投票する時の基準の一つとしてはいたけれど、それ以上でもそれ以下でもなく、原発で生まれた電力を享受した日々の生活を送っていた。先の書籍も本棚に眠ったままになった。
そして今、東京電力福島第一原子力発電所の惨状に接するたびに、子や孫たちなど、次の世代に大きな禍根を残してしまったのじゃないかと悔いている。

今、あの世にいる忌野清志郎はどんな気持ちでいるでしょうね。「それみろ、俺が言ったじゃないか」か、それとも、ただただ悲しい顔をしているだけだろうか。
見た目は奇抜でその姿で反感を持たれることもあったけれど、根は優しかった彼は後者だろう、きっと。
RCサクセションの反原発の歌『サマー・タイム』。聞いてみてください。
http://protestsongs.michikusa.jp/japanese/summertime.htm

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