私としては、連絡船うどん=宇高連絡船と言うイメージで有る。
とうぜん宇高連絡船=連絡船うどんでも有るのだが。
私は宇高連絡船が好きで、連絡船を思い出すと必ず一緒に連絡船うどんの味も思い出してしまう。
連絡船に乗れば、必ず食すのが船の中にあるうどん屋の通称「連絡船うどん」いわゆる、さぬきうどんを食べていた。
わずか1時間足らずの船旅では有ったが、瀬戸内の美しい島々を見ながら
心地よい海風を受けのんびりと食す連絡船のうどんは今思い出しただけでも
生唾が出てしまうし、当時の光景が鮮明に思い出される。
宇高連絡船は船底部には貨車を乗せ、上部は一般座席とグリーン座席が有り
車は乗せる事は出来ない、車は当時瀬戸大橋が無いので、私鉄の国道フェリーで四国に渡る事になる。
宇高連絡船に乗る大半の乗客は岡山から宇野線で終点の玉野市の
宇野駅に降り立ち、ホームの端に接岸している宇高連絡船に乗り込むのだが
一気に人が移動するので電車が到着するとすごいラッシュ状態になる。
奥チャマの実家は宇野なので、結婚前のデートで四国に遊びに行く時は、
宇野線の電車が到着する前に連絡船に乗り込むようにしていた。
こうすれば、私のすきな連絡船をゆっくりと眺めながら乗り込む事が出来る。
宇高連絡船の歴史の中には紫雲丸と第三宇高丸の衝突、沈没で修学旅行生など168名が亡くなったという悲しい歴史も有る。この紫雲丸はこの事故を起こす前にも一度沈没事故を起こしていたようである。
ちなみに柴雲丸船の名前は高松にある「紫雲山」に因んでいるが、
「紫雲」という言葉自体に「臨終時に仏が乗って迎えに来る雲」という意味があり、さらには「死運」に通じるなど語呂があまりにも悪く、就航時から「死運丸」と囁かれていたらしい。なお5回目の事故後、船は「瀬戸丸」と改称されて復旧し、以後は1966年(昭和41年)の廃船まで無事故で運行されたようである。
話はもどって(笑)
連絡船うどんを初めて食べたのは、確か私が子供の頃家族で屋島に旅行に行った時に食べたのが始めてと記憶している。
それまでは、こんなに大きな船に乗った事も無く、ましてや船の上でこんなに美味しいうどんが食べられるとは思っても無かったので、なおさら印象深い記憶として残っているのかもしれない。
その後は何度か乗船する機会が有ったが、当然連絡船のうどんは必ず食べていた。
ただし、讃岐うどんと言いながらも私の覚えでは食べやすいうどんと言う記憶がある。
一般的なあごが疲れるほどのこしが利いたうどんでは無かった。
で・・・調べて見たら
「連絡船上で供されるうどんは、船上で生麺から茹でず、茹で上げ済みの麺を搭載していたため、時間経過の為ややコシが失われた麺にイリコかサバぶしの類による庶民的なだし汁が相まって、上等とは言い難いが香川県民をはじめとする四国の人々に帰郷を実感させる味であった。そのため、帰省シーズンには展望デッキの上で潮風にふかれながらこれを食する人が大勢いた」
と記されている。
私の「出汁は良く利いており、柔らか目のうどん・・・」と言う記憶は間違っていなかったようだ。
今では、高松駅構内に当時の連絡船のうどんを参考に味を再現した「連絡船うどん」と言う店があるらしい。
ついでに(笑)連絡船料金に急行料金を支払うと船で1時間の行程をわずか23分で結ぶホーバークラフトを利用する事が出来る。
一度は乗ってみたいと思っていたけど、結局乗る事が出来ないまま連絡船とともに廃止となってしまった。
宇高連絡?最初分からず宇都宮~高崎かと思った(笑)
ちょっともう眠いから明日また読みます。
おやすみなさい
そうか~。その説明をしてなかった(爆)
この文体で今子育て日記を作成中だけど・・・
読まないだろな(爆泣)