八重山吹 posted by (C)海老名誠
太田道潅が、父の道真を尋ねて越生(埼玉県)に来ました。その時、突然のにわか雨にあい雨具を借りようと農家に立ち寄りました。
その農家から、乙女が出てきて一枝の山吹の花を差し出しました。
しかし、道潅は、これが何の意味か解りませんでした。
これは、古歌、兼明親王(かねあきらしんのう)〔後拾遺和歌集〕の、
「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに なきぞ悲しき」
を踏まえ、貧しくて蓑ひとつもお渡しできません、と云う断りでした。
その後太田道灌は、古歌を知らなかった事を恥じて歌道に励んだと云うことです。
と、云うことで、八重山吹は、花は咲くが実はならないそうです。
以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用。
太田 道灌(おおた どうかん、永享4年(1432年) - 文明18年7月26日(1486年8月25日))は室町時代の武将。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱の活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。
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