日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

1月28日

2024-01-30 11:21:32 | 日記
創世記ダニエル7:1~3,15~18、Ⅰコリ8:1~13、マルコ1:21~28
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二日市教会主日礼拝説教 2024年1月28日(日)
顕現後第4主日
「エバが人類にもたらしたもの」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
旧約聖書の創世記の学びを続けています。ことに創世記の最初の部分の天地創造の物語から、神による人間の創造ということに焦点を当てて考えてまいりました。
ところで、聖書に出てくる最初の人間はアダムとエバですが、アダムは土の塵で形作られ鼻に命の息を吹き込まれて造られました。一方エバは、アダムのあばら骨を取って造られたと書かれています。しかし、創世記にはもう一つの話があって、そこでは人間は、男も女もまったく同じように平等な存在として造られたと書かれているのです。
そういう意味では、創世記には人間の創造の話が二つあることになるのですが、それが書かれたあと時代がたってゆくと、人々はその二つの内、女が男のあばら骨で造られたという話を好むようになったのでした。もっとも、人々といっても聖職者や聖書の学者のことで、もちろん全員男性でした。
なお、創世記にはあばら骨の話だけでなく、男をそそのかし禁じられた木の実を食べさせた女の話もありますから、エバという女は、誘惑し転落した女たちの代表のようにも語られるようになりました。そして、それに輪をかけたのが聖母マリアの話でした。マリアも最初は田舎の女でしたが、キリスト教の歴史の中で語られるにつれて、イメージがどんどんふくらんでゆきました。語られる彼女の従順さに較べると、エバは不従順そのものの女となりました。その結果彼女は、わがままで非合理的、感情的でエロティック、理性でなく感情で生きる人間になってゆきました。

なお、このイメージはエバ一人だけで終わらず、色々な女性たちにも適用されるようになりました。しかも、キリスト教の教会までが、女性の誹謗中傷のお先棒をかつぐ際に利用し、ついには魔女狩りとなったことは、現代人がよく知るところです。ただこれは、あくまで中世の話ですが、中世という時代はものすごく長かったために、中世以後現代にまで、そのイメージの残存が人々の心に影響を及ぼすようになったのでした。
ここで私たちは、再び創世記の物語に立ち返り、エバのことを考えてみたいと思います。話はまだ人間が男と女に分かれる以前のことです。神は人間にこう言いました。「あなたは園の木のあらゆる実を食べてよい。ただ善と悪を知る木からは取って食べてはならない」。大変興味深いことに、それが人間への第一声でした。すなわち、人間が聞いた最初の神の言葉なのですが、神の言葉と聞いただけでありがたがる人もいるでしょうが、一番最初の神の言葉は食関連だったのでした。
ただし、その神の言葉には気になることがありました。それは、エデンの園の木の実はどれも食べてよいのですが、善悪の知識の木になる実は食べてはならないという点でした。なぜなら、「それを食べたら死ぬ」のだから。
ただしそれには問題がありました。なぜなら、すぐわかるように食べても二人は死ななかったからです。おや、神は嘘つきだったのか。けれども聖書はその種の議論は相手にしません。なぜなら、聖書で死が問題とされるのはいつも肉体の死ではないからです。というのも、聖書が投げかける死の問題は、人間関係の断絶のことだからです。たとえそれが気の毒な死に方であっても、人間関係が断絶していなければ深刻とは考えていません。だから、神が言った「それを食べたら死ぬ」は、人間関係が修復不可能なほどになるという意味なのでした。なお聖書は、人間関係の断絶を語る時は必ず神との関係の断絶をも語ります。たとえば、禁じられた木の実をめぐって男と女がバトルを始めると、神の足音が聞こえてきますが、それを聞くと二人は大急ぎで隠れたという話がそうなのです。なお聖書は、二人がしたような責任のなすりあいを罪の始まりととらえているようであります。

さてこのあと、禁止令を破った蛇と二人に「判決」を下します。最初は蛇でした。神は蛇を呪いました。二番目は女でした。ところが神は、女には呪いの言葉を投げかけていません。神が彼女に言った「判決」は、出産の際苦しむということだけでした。そのため多くの人は、生みの苦しみこそ神の裁きだと考えてきました。でも繰り返しますが、神は蛇は呪ったのに女は呪わなかったのです。呪ってもいないのに罰するなんて、それはありえない。このあとエデンからの追放で神の裁きや罰が色々出てはきますが、そういうのと出産の苦しみは結びついていません。エデンからの追放後人は、家族や社会の人間関係で死ぬような思いを数々させられるようになるのですが、それでも出産の話で神の呪いが出てくることはないのです。むしろあるのは祝福のみだからです。
ところで、エバが誹謗中傷を受けるきっかけとなったのは、善悪の知識の木の実を食べ、男にも食べさせたことでした。しかし神は、それを食べたら死ぬと言ったのに、二人は死ぬどころかピンピンしていました。むしろ罪のなすりあいに夢中になったほどでした。(それでも二人は死とは無関係だったのか)。あと、もうひとつ、「それを食べたら神のようになる」とも言われました。もちろん食べても神にはなりませんでした。(しかし二人は各自が、裁きの神のように相手を告発しまくった)。

最後に注目したいことは、木の実を食べた二人が裸であることに気がつき、いちじくの葉で腰を覆ったことです。これは人類史上重大なことを意味するからです。なぜなら人間はこの時点から衣服を造る技術を身につけ始めたからです。人類の服飾史を眺めると、人は羊の毛や麻を紡ぐようになり、布を織り、衣服を作ってゆきますが、それは女たちにゆだねられた仕事になりました。そのため女性たちは多大の知識を習得し、きめ細かに知恵を働かせて、服飾という独自の文明を築き上げてゆきました。そうかんがえると、エバはその文明の扉を開いたヒロインだったのでした。
なお、善悪の知識については、都市文明の功罪を問うバベルの塔の話の時に改めて考えます。いずれにしても、本日のエバを、世界の人口の半分を占める女性たちの服飾という分野の観点からとらえることは、現代的な感覚からすれば何の問題もないと思われるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週2月4日 顕現後第5主日
説教題: エデンの東で
説教者: 白髭義牧師
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1月21日

2024-01-25 11:27:32 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2024年1月21日(日)
顕現後第3主日
創世記3:1~13,Ⅰコリント7:29~31,マルコ1:14~20
「エバはだまされたのか、それとも」
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 旧約聖書の創世記の学びを続けております。前回は第2章を主に考えました。ところで、その前の第1章は、神にそっくりな人間が、神に似せて造られたと書かれていました。ではどんなところが似ているのかですが、第2章はそのことに触れていました。
 なお、神にそっくりな人間と言われても、男も神にそっくり、女もそっくりですから、「そっくり」は外見ではないはずです。そして2章23節では、2人は相手のことを「これこそ私の肉の肉、骨の骨」と呼んで手に手を取り合うように喜んだと書かれていました。つまり神は、自分の親しさという性質を、人間にも受け継がせたのでした。
 そしてこの2章のあとの、3章「蛇の誘惑」となります。話の焦点はエデンの園の中央にある1本の木になります。この木のことは2章17節で書かれていました。「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決してたべてはならない。食べると必ず死んでしまう』」。なお、この神の言葉はあとでまた出てきます。
 さて、創世記3章では、この善悪の知識の木がからんできます。話はいきなり蛇の登場です。「蛇は生き物のうちで最も賢い」とも言われます。蛇は人に語りかけます。「園のどの木からも食べてはいけないなどと神は言われたのか」。ところで、蛇が語りかけた相手は男ではなく女でした。大変興味深いことです。さて、蛇は女にこう言いました。「園にあるどの果物も食べるのが禁じられているのですか」。そんなことはありません。神は「全ての木から取ってたべなさい」と言ったからです。当然賢い蛇はそんなことは百も承知で、わざと聞いたのでした。しかし、蛇のこの質問のため、女の心は禁じられた木の実を強く意識するようになります。その彼女に追い打ちをかけて蛇は「それを食べても決して死なない」と言ったのでした。
 これでは、神と蛇の見解が対立してしまいます。ところで、このあと女は木の実を食べ、男にも食べさせますが、誰も死にませんでした。だから神は嘘をついたのだという人もいますが、それは違います。エデンの園では誰も死ぬことがなかったからです。しかし、あとで園から追放される人間は必ず死ぬようになるので、神の言葉も間違ってはいませんでした。
 さて、物語はこのあと大きな展開をとげてゆきます。というのも、二人の耳に園を歩む神の足音が聞こえて来たからです。二人はとっさに木かげに身を隠します。人は神の前からさっと身を隠す。これ以降そのことは人間の習性となります。なお神は人間に「どこにいるのか」と声をかけています。これ以降そのことは神の習性となりました。なぜなら神は今でも人間に「あなたはどこにいるのか」と声をかけているからです。それにしても、人間はなぜ神の前から隠れようとするのか。創世記3章の最大のテーマです。
 さて、人間は隠れっぱなしで神に答えました。「自分が裸だと知って恐ろしくなったからです」。ところが同じ2章には「人と妻は裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」と書かれています。でも今はそうではない。人間が変ったのでした。神はその、ことに気づきます。あの禁断の木の実を食べたからだ。そこで責任の追及を始めました。いちばん最初は男。彼はこう答えました。「妻が私に食べなさいと言ったから」。さらに言いました。「そもそもそういう女を私に与えたのは、神さま、あなたではありませんか」。驚くべき責任転嫁でした。そのあと女も蛇に責任転嫁をした点で男と同じでした。
しかし彼女は本当に蛇にやすやすとだまされるような人間だったのか。そのことを考えるために、もう一度物語を読み返してみたいと思います。そこで2章に戻るのですが、神が最初に二人に言ったのはこうでした。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。
そして3章に入ると、女は蛇の質問に対してこう答えました。「わたしたちは園の果実を食べてよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてもいけない、触れてもいけない。死んではいけないからと神さまはおっしゃいました」。
ここで女は、神が口にしなかった「触れてもいけない」という言葉を使いました。神は言っていなかったのですから、これは彼女が考えたものです。神が言わなかったことまで言った女は、神の言葉を正しく把握できなかった。だから、能力的に問題があったのである。ずっとのちの時代の人たちはそう考えました。
けれども、そんな理解でほんとうによいのか。最近は異議申し立ての声が上がりつつあるのです。というのも、彼女は神の言葉に「触れてはならない」というのを付け加えました。けれども、神の命令をより念入りに理解しようとつとめる人たちにはありがちな傾向なのです。そのような彼女が、蛇にうながされて、木の実をよく観察すると、それはいかにもおいしそうで、目を引き付け、好ましく思われました。こうして彼女は自分自身の判断で、その実を食べる決心をしたのである。その結果、男と同罪とされたとしても、その男は自分で考え行動したとはとうてい思われない。ただ女の言いなりになっていたからである。
創世記のエバは、男を誘惑し、転落していった女性の代表者のようにしばしば語られてきました。しかし、その創世記をていねいに読むなら、女を男より低く見るという考えは見当たりません。なぜなら、神が人間を男と女に造ったのは、親しさという神の性質を二人に平等に分かち与え、お互いにその親しさを発揮できるようにしたからでした。
しかし、本日の話の最後で、男も女も責任のなすりあいを始めたことは、親しさを発揮しながら生きてほしいと言う神の願いを打ち砕きかねないものでした。しかし聖書は、神がその願いを最後まであきらめることがなかったという話になっているのであります。
そのことは、私たちの生き方にもあてはまることを覚え、神が今願っていることは何かを思い起こせるような歩みをしてまいりたいものでございます。


次週1月28日 顕現後第4主日
説教題:エバが人類にもたらしたもの
説教者:白髭義牧師
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1月14日

2024-01-21 13:40:10 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2024年1月14日(日)
顕現後第2主日
創世記1:27、2:18~23,Ⅰコリント6:12~20,ヨハネ1:43~51
エバをどう考えるか
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。

先週は、旧約聖書の創世記1章と2章の天地創造の物語、ことに人間の創造のことを考えました。本日もそのことをもう少し考えたいと思います。
ところで、人がよく戸惑うのは、創世記には人間の創造の話が2つもあることです。それは、一つが1章27節のことです。「神はご自分にかたどって人を創造された」と書かれているからです。ところでこの「かたどって」は「似せて」と言いかえることもできます。つまり神は、自分に似ている人間、自分にそっくりな人間を創造したのでした。

もうひとつは、2章4節から25節までのことです。そこも人間の創造の話なのですが、ここではまず男が造られ、そのあと女が造られています。しかも、女は男のあばら骨から造られたと書かれています。この話を根掘り葉掘りしても仕方がないと思うのですが、この創世記が書かれたずっとのちの時代になると、男が一番に造られた、女は二番目だった。ゆえに女は男より劣るとか、男のあばら骨から造られたのだから、女は一人前ではないと考える人たちが現れました。
しかし、それが本当に聖書をきちんと読んだ結論かというとかなり疑問なのです。ところで、この2章4節からの話でのキーワードは「人が独りでいるのはよくない」という神の言葉です。18節ですが、それは女なしにはやってゆけないという狭い意味ではもちろんありません。そうではなく、たった一人で生きてゆかなければならないことのもろさ、あやうさを覚えた神が、だから「助ける者を造ろう」と決心をしたことがこの話のハイライトなのです。神は人間はいかにあるべきかを考えていたのでした。
ところで、神が「助ける者を造ろう」といった「助ける者」のことも、後世の人々は議論しました。もちろんこの話では女のことですが、人々は、女は男を助けるためにだけ造られたのだと言いました。要するにアシスタントである。これは男の側からの上から目線でした。

しかし、この「助ける者」という言葉は慎重に考える必要があります。なぜなら、私たちでもそうですが、助ける者は助けられる者よりもすぐれてないとつとまりません。従って、助ける者である女が助けられる者の男より劣っていたり、ひ弱だったりでは彼女は支援はできません。つまり、神は女を男を助ける者として考えたのは、女は男よりも長所が多々あることを知っていたからなのです。もちろん、女に男と同等の力量があれば、それでも男を助けられます。要は優劣の問題ではなく、共に生きながらも、女が自分の特質を生かして助け手になるよう神は言っていたのでした。

ところで、話は変わりますがギリシア神話にパンドラの箱という話があります。パンドラというのは女性の名前ですが、ギリシア神話では人類最初の女性となっています。ところで、彼女は生まれつき、偽りと甘き言葉、ふしだらさを身につけていました。しかも、神々から、欠乏と病苦、災いと疫病、死に至る病がぎっしり詰まった箱を贈られていました。ところが、ある日パンドラは好奇心からその箱を開けてしまいました。すると箱の中から無数のいまわしいものが飛び出して、世界中を覆ったのであった。そういう話でした。
ところで、ギリシア神話は古代ギリシア文化から生まれました。そして、古代ギリシア文化の根底には、女性蔑視の考えがありました。女は二流の人間であり、邪悪な存在であると見なされていたのですが、始末の悪いことに、古代ギリシアの文化や思想には大変な影響力があることでした。
なお、この影響力は聖書とも無関係ではなかったのですが、ただこの分厚い聖書という書物は何百年もの歳月をかけながら出来上がっていった書物です。だから、聖書でも古い部分つまり旧約聖書、ことに創世記のように古いのは、ギリシア思想の影響は受けていないのです。だから、ずっとのちの時代になって創世記を読んだ人が、聖書も女は男より劣ると書かれていると言ったのは、すでにギリシア思想の影響を受けている人たちだったのです。

さて創世記の話に戻りますが、人間が造られた話は二つありました。そして二つはどちらも重要なのです。まず第一の話である1章によると、人間は、神にかたどって、神に似せて造られたのですが、それでは神の何に似せて造られたのかというと、神の性質に似せて造られたのでした。それではどんな性質だったかになりますが、そのためには二番目の話をよみなさいだったのです。
さて、二番目の話の2章では、神に似せて造られた男と女は互いを「これこそ私の骨の骨、肉の肉だと言い合いながら一体となったとかかれています。しかしこれは狭い意味での結婚の話とは違います。結婚は別としてもこ人間は基本的に一人ではやってゆけないからです。だからこそ、第一の話にあったように、人間に与えられた神そっくりの性質が発揮されなければならないのでした。それでは、その性質とは? それは「親しさ」という性質のことでした。つまり、男と女だけでなく人間関係はもっと様々で複雑です。それでも、神から受けついだ親しさという性質を最後まで大事にしながら生きるのであれば、それはベストの人生となる。これが、人間の創造の物語がもっているメッセージだったのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週1月21日 顕現後第3主日
説教題:「エバはだまされたのか」
説教者:白髭義牧師
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2024年1月7日

2024-01-10 15:54:25 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2024年1月7日(日)
主の洗礼
創世記1:1~5,使徒言行録19:1~7,マルコ1:4~11
「光あれ!」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。

新年あけましておめでとうございます。これからの一年もよい年でありますようにお祈り申し上げます。

さて、2024年はじめに与えられたみことばは創世記1章の言葉でした。すなわち、「光あれ!」。私たちは今、自分をとりまく時代の、暗さ生きづらさという空気を感じていると思います。だからこそ、世の中全体に対して正しい道を照らしてくれる光への憧れも強いのだと思われます。「光あれ」を心に刻みつつ、新しい歩みを始めたいと思うものであります。
ところで、私たちは、この「光あれ」にもう少々こだわってみたいと思います。なぜなら、聖書のこの言葉は、スウィッチひとつで部屋がパッと明るくする光と同じではなく、じんわりと徐々に明るくしてゆく光のことだと思えるからです。

5節に「夕べがあり、朝があった。第1の日である」と書かれているからです。つまり、24時間サイクルの1日における光のことが言われていたのでした。人工的な、あるいは観念的な光ではなく、大自然における光が「光あれ」の光だったと考えたいのです。そしてここで注意したいことは、「夕べがあり、朝があった」という順序のことです。それは1日のことでしたが、1日は夕べつまり夜から始まるのだという考えがあるからです。この考えは、人々の価値観、人生観に影響を及ぼしていたのではと思われます。

ところで、「夕べがあり、朝があった」ですから、朝は突然現れる何かではなく、また夕べも突然消えてしまう何かでもありません。暗闇と光はゆっくり接近しあって、バトンタッチが行われてゆきます。まだうすぼんやりしていますが、光が駈け出そうとしているのです。四方の空にはまだ星が見えていますが、やがて赤みを帯び、元気な太陽が顔を出す。これらの全部が「光あれ」なのです。

ところで、NHKの大河ドラマ『光る君へ』でヒロインの紫式部役を演じる吉高由里子さんは、インタビューにこう答えていました。ドラマは「女の人が表に立つ、光がさすような内容です」。なお、このドラマの制作統括をする内田ゆきチーフ・プロデューサーはこう語っていました。紫式部について調べるうちに、平安の貴族社会では女性が男性と対等に付き合い、政治に大きな役割を果たしていたことがわかってきました。
吉高さんの言う「光がさす内容」の「光がさす」は、内田さんの「わかった」と結びつくのかもしれません。奥山景布子(おくやまきょうこ)という文芸批評家は書いていました。「源氏物語は、世界的な名作だが、読み通すにはハードルが高い。長大さのみならず、千年以上前の物語だということも。日本が舞台といっても、生活様式も違えば価値観も違う」。ところが紫式部には既存の価値観にとらわれない誇り高さと強い意志があった。奥山さんはそう考えるのでした。ところで、「読み通すにはハードルが高い、生活様式も価値観も違う」はもうひとつ、聖書もそうかも知れません。

 なぜなら、源氏物語が書かれたのは平安時代ですが、旧約聖書が書かれたのはエジプトでピラミッドが次ぎ次ぎと建てられていた時期だったからです。まさに、二千数百年も大昔に、日本とは生活様式も価値観も違う土地で書かれたという意味ではハードルが高い文書だからです。しかし今の人たちは、ピラミッドを作った人間の頭脳はどうなっていたのかを知りたがっているほどで、旧約聖書も、日本の縄文時代に書かれた文書なのに、現代世界の一番深い問題点に鋭く切り込んでくれるので、古いとか新しいの次元を超えたものを感じさせてくれるのであります。
ところで、旧約聖書の創世記の最初の部分は天地創造物語と呼ばれています。神が一週間のうちの六日間、天地創造の仕事をしたからですが、ここには大事なキーワードがちりばめられています。4節です。「神は光を見て、良しとされた」の「良しとされた」がキーワードだからです。さてこの「良しとされた」は英語のビューティフルにあたります。このあとも神は自分が創ったものを観ながら、ビューティフルと声を上げてゆきます。
さてそのように、三日目、四日目、五日目と続き、ついに天地創造の最後の日になりました。その日神は人間を創造しました。そう1章の27節に書かれています。すなわち「男と女に創造された」。神はこの時もビューティフルと叫ぶのですが、それが書かれる31節は「それは極めて良かった」となっています。人間もビューティフルであったが、超ビューティフルだったというのです。なおビューティフルは色々な解釈があるでしょうが、どんなビューティフルであろうが神は気に入った。だから今も気に入ってくれるのです。もちろん反論はあるでしょうが、その反論をも包み込むのが聖書の神なのです。
しかし、このあと、創世記はどろどろした人間関係の物語に入ってゆきます。しかし、どんなにどろどろしていようが、最後は神の「光あれ」で夜明けが訪れるであろう。これが、創世記の、そして聖書の読み方なのであります。
このことを覚えながら、今がどんな時でも、かならず訪れる朝があることを信じながら、今年も元気で歩み始めたいものであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
             

次回1月14日 顕現後第2主日
説教題:エバをどう考えるか
説教者:白髭 義牧師




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12月31日

2024-01-05 16:04:05 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年12月31日(日)
降誕節第1主日
イザヤ61:10~62:3  ガラテヤ4:4~7 ルカ2:22~40
「喜びはむねに」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。

いま一緒に歌った讃美歌『喜びはむねに』は、先週は有志の皆さんが独唱やフルートを交えながら素敵な演奏をしてくださいました。ところでこの曲を作ったのは、フィンランドの大作曲家シベリウスです。シベリウスの讃美歌はもうひとつ『やすかれわがこころよ』がありますが、そちらのほうが超有名だと思います。『喜びはむねに』のほうは最近日本入ってきたばかりで、これから有名になるのかも知れません。
ところで、シベリウスというと、私にはわすれがたい思い出があります。まだ東京にいたときのことですが、あるフィンランド人女性から興味深い話を聞いたからです。彼女の名前はソベリさんで、日本で仕事をしていた独身の宣教師でした。彼女は子どもの時、シベリウスのピアノ曲を弾きました。それ以来ずっと大人になっても弾き続け、今も弾いているというのです。ソベリさんはもうお若い方ではありませんでした。それはともかく、その話を聞くと私はすぐ秋葉原に行き、レコード店でシベリウスのピアノ曲をさがしました。すると見つかったのが、CD5枚一組のシベリウスのピアノ曲集でした。私はそれを買い、家に持って帰って聞き始めました。
ところでCDは1枚ごとにジャケットに収められており、そのジャケットには風景写真が印刷されていました。見ると写真は森と湖のある風景で、間違いなくフィンランドの写真だと思われました。さてその5枚を聞き終えてわかったことは、ピアノ協奏曲のような大作はひとつもなかったことでした。そうではなくて、どれもが短い曲で、しかもわかりやすかったことです。おそらくピアノのレッスンを受けた人ならすぐ弾けそうだとおもいました。だから、ソベリさんが少女時代にこれを弾いたのでした。しかも、大きくなる前にそれを卒業したのではなく、今も弾いているというのです。彼女はその後フィンランドに帰国しましたが、きっと今もご自宅で弾いているのではないでしょうか。
ところで、CDで聞いたピアノ曲は、ジャケットの風景写真とよくマッチしていました。それは、聞く者をフィンランドの自然の中にいざない、森の小径や湖のほとりに案内してくれる気がしました。それに、静かな曲だけでなく、軽やかで変化にとんだ曲もあって、まるで走り回ったり、寝転んだり、鬼ごっこをしたりする子どもの情景を思わせてくれました。
ところで。子どもといえば、いま歌った『喜びはむねに』も、シベリウスによる子どものための歌でした。このクリスマスソング以外にも彼は、子どもたちのための合唱曲を沢山書いています。ではなぜそんなに沢山書いたのかというと、わけがありました。それは小学校の音楽教師から要望があったからでした。でもシベリウスはもう世界的な大作曲家でしたから、そちらが忙しかったはずです。ところが、フィンランドの先生たちは闘う教師でした。なぜなら、教育の現場に権力が色々圧力をかけ続けていたからでした。
というのも、フィンランドは隣国の大国ロシアから政治的な干渉を受けていたからです。そして、ロシアの軍隊がいつ国境を越えて攻め込んでくるかわからないという状況にあり、誰もがそのことを恐れていました。そして、それともうひとつありました。それはロシアと並ぶ大国のスウェーデンが、常にフィンランドの首根っこを押さえつけていたことです。
とはいえ、ナポレオンの登場で、ヨーロッパは大きく変り初めていました。しかし変わるのも大国からなのか、フィンランドのようなちっぽけな国はいつまでも不安定なままでした。しかし、フィンランドにも、民族主義が起き、他国の介入を拒否する抵抗運動が進行していました。その一つが教育の現場で、特にスウェーデンが公用語としてスウェーデン語を押し付けていることに対する反発が、フィンランド語運動という形で行われていました。そして、それは、子どもたちに、歌を母国語のフィンランド語で歌わせるために、それにふさわしい合唱曲を書いてほしいと、シベリウスら音楽家たちに依頼をしたのでした。そして、そういう依頼は、どんな忙しい人でも引き受けたのでした。
ところで『喜びはむねに』は、当時の子どもたちが歌ったのと、今私たちが歌ったのとでは、歌詞がかなり違っています。(※今の歌詞は「喜びはむねに、満ちあふれる。あまりに大きいこの恵みよ……」讃美歌21、271番)。なぜなら、子どもたちが歌った昔の歌詞は、「私は富も名声もいらない」という言葉から始まっていたからです。そしてさらに「この国に必要なのは、平和な家庭。優しき人々の集い、慰めと希望と信仰の集い」が続いていました。ロシア軍の侵攻のうわさは、大人以上に子どもたちはおびえたと思われます。その子どもたちが、「戦争はいやだ」との思いを示す歌が、シベリウスの美しい曲で歌われた時、不安はぬぐいさられたことでしょう。
そのように、歌ったのは勇ましい曲ではありませんでした。むしろ人に慰めを与え、静かに語りかける曲でした。この曲の系譜にはあの『トウネラの白鳥』があるかもしれない。むしろもっと身近な例としては、少女時代のソべリさんが弾いていたピアノ曲があるのかもしれません。
『喜びはむねに』が、どのようなときに、どのような人たちによって歌われたのかを知ることは、決して無駄にはならないと思うのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次回2024年1月7日 主の洗礼
説教題:光あれ!
説教者:白髭義牧師
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