創世記ダニエル7:1~3,15~18、Ⅰコリ8:1~13、マルコ1:21~28
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二日市教会主日礼拝説教 2024年1月28日(日)
顕現後第4主日
「エバが人類にもたらしたもの」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
旧約聖書の創世記の学びを続けています。ことに創世記の最初の部分の天地創造の物語から、神による人間の創造ということに焦点を当てて考えてまいりました。
ところで、聖書に出てくる最初の人間はアダムとエバですが、アダムは土の塵で形作られ鼻に命の息を吹き込まれて造られました。一方エバは、アダムのあばら骨を取って造られたと書かれています。しかし、創世記にはもう一つの話があって、そこでは人間は、男も女もまったく同じように平等な存在として造られたと書かれているのです。
そういう意味では、創世記には人間の創造の話が二つあることになるのですが、それが書かれたあと時代がたってゆくと、人々はその二つの内、女が男のあばら骨で造られたという話を好むようになったのでした。もっとも、人々といっても聖職者や聖書の学者のことで、もちろん全員男性でした。
なお、創世記にはあばら骨の話だけでなく、男をそそのかし禁じられた木の実を食べさせた女の話もありますから、エバという女は、誘惑し転落した女たちの代表のようにも語られるようになりました。そして、それに輪をかけたのが聖母マリアの話でした。マリアも最初は田舎の女でしたが、キリスト教の歴史の中で語られるにつれて、イメージがどんどんふくらんでゆきました。語られる彼女の従順さに較べると、エバは不従順そのものの女となりました。その結果彼女は、わがままで非合理的、感情的でエロティック、理性でなく感情で生きる人間になってゆきました。
なお、このイメージはエバ一人だけで終わらず、色々な女性たちにも適用されるようになりました。しかも、キリスト教の教会までが、女性の誹謗中傷のお先棒をかつぐ際に利用し、ついには魔女狩りとなったことは、現代人がよく知るところです。ただこれは、あくまで中世の話ですが、中世という時代はものすごく長かったために、中世以後現代にまで、そのイメージの残存が人々の心に影響を及ぼすようになったのでした。
ここで私たちは、再び創世記の物語に立ち返り、エバのことを考えてみたいと思います。話はまだ人間が男と女に分かれる以前のことです。神は人間にこう言いました。「あなたは園の木のあらゆる実を食べてよい。ただ善と悪を知る木からは取って食べてはならない」。大変興味深いことに、それが人間への第一声でした。すなわち、人間が聞いた最初の神の言葉なのですが、神の言葉と聞いただけでありがたがる人もいるでしょうが、一番最初の神の言葉は食関連だったのでした。
ただし、その神の言葉には気になることがありました。それは、エデンの園の木の実はどれも食べてよいのですが、善悪の知識の木になる実は食べてはならないという点でした。なぜなら、「それを食べたら死ぬ」のだから。
ただしそれには問題がありました。なぜなら、すぐわかるように食べても二人は死ななかったからです。おや、神は嘘つきだったのか。けれども聖書はその種の議論は相手にしません。なぜなら、聖書で死が問題とされるのはいつも肉体の死ではないからです。というのも、聖書が投げかける死の問題は、人間関係の断絶のことだからです。たとえそれが気の毒な死に方であっても、人間関係が断絶していなければ深刻とは考えていません。だから、神が言った「それを食べたら死ぬ」は、人間関係が修復不可能なほどになるという意味なのでした。なお聖書は、人間関係の断絶を語る時は必ず神との関係の断絶をも語ります。たとえば、禁じられた木の実をめぐって男と女がバトルを始めると、神の足音が聞こえてきますが、それを聞くと二人は大急ぎで隠れたという話がそうなのです。なお聖書は、二人がしたような責任のなすりあいを罪の始まりととらえているようであります。
さてこのあと、禁止令を破った蛇と二人に「判決」を下します。最初は蛇でした。神は蛇を呪いました。二番目は女でした。ところが神は、女には呪いの言葉を投げかけていません。神が彼女に言った「判決」は、出産の際苦しむということだけでした。そのため多くの人は、生みの苦しみこそ神の裁きだと考えてきました。でも繰り返しますが、神は蛇は呪ったのに女は呪わなかったのです。呪ってもいないのに罰するなんて、それはありえない。このあとエデンからの追放で神の裁きや罰が色々出てはきますが、そういうのと出産の苦しみは結びついていません。エデンからの追放後人は、家族や社会の人間関係で死ぬような思いを数々させられるようになるのですが、それでも出産の話で神の呪いが出てくることはないのです。むしろあるのは祝福のみだからです。
ところで、エバが誹謗中傷を受けるきっかけとなったのは、善悪の知識の木の実を食べ、男にも食べさせたことでした。しかし神は、それを食べたら死ぬと言ったのに、二人は死ぬどころかピンピンしていました。むしろ罪のなすりあいに夢中になったほどでした。(それでも二人は死とは無関係だったのか)。あと、もうひとつ、「それを食べたら神のようになる」とも言われました。もちろん食べても神にはなりませんでした。(しかし二人は各自が、裁きの神のように相手を告発しまくった)。
最後に注目したいことは、木の実を食べた二人が裸であることに気がつき、いちじくの葉で腰を覆ったことです。これは人類史上重大なことを意味するからです。なぜなら人間はこの時点から衣服を造る技術を身につけ始めたからです。人類の服飾史を眺めると、人は羊の毛や麻を紡ぐようになり、布を織り、衣服を作ってゆきますが、それは女たちにゆだねられた仕事になりました。そのため女性たちは多大の知識を習得し、きめ細かに知恵を働かせて、服飾という独自の文明を築き上げてゆきました。そうかんがえると、エバはその文明の扉を開いたヒロインだったのでした。
なお、善悪の知識については、都市文明の功罪を問うバベルの塔の話の時に改めて考えます。いずれにしても、本日のエバを、世界の人口の半分を占める女性たちの服飾という分野の観点からとらえることは、現代的な感覚からすれば何の問題もないと思われるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週2月4日 顕現後第5主日
説教題: エデンの東で
説教者: 白髭義牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年1月28日(日)
顕現後第4主日
「エバが人類にもたらしたもの」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
旧約聖書の創世記の学びを続けています。ことに創世記の最初の部分の天地創造の物語から、神による人間の創造ということに焦点を当てて考えてまいりました。
ところで、聖書に出てくる最初の人間はアダムとエバですが、アダムは土の塵で形作られ鼻に命の息を吹き込まれて造られました。一方エバは、アダムのあばら骨を取って造られたと書かれています。しかし、創世記にはもう一つの話があって、そこでは人間は、男も女もまったく同じように平等な存在として造られたと書かれているのです。
そういう意味では、創世記には人間の創造の話が二つあることになるのですが、それが書かれたあと時代がたってゆくと、人々はその二つの内、女が男のあばら骨で造られたという話を好むようになったのでした。もっとも、人々といっても聖職者や聖書の学者のことで、もちろん全員男性でした。
なお、創世記にはあばら骨の話だけでなく、男をそそのかし禁じられた木の実を食べさせた女の話もありますから、エバという女は、誘惑し転落した女たちの代表のようにも語られるようになりました。そして、それに輪をかけたのが聖母マリアの話でした。マリアも最初は田舎の女でしたが、キリスト教の歴史の中で語られるにつれて、イメージがどんどんふくらんでゆきました。語られる彼女の従順さに較べると、エバは不従順そのものの女となりました。その結果彼女は、わがままで非合理的、感情的でエロティック、理性でなく感情で生きる人間になってゆきました。
なお、このイメージはエバ一人だけで終わらず、色々な女性たちにも適用されるようになりました。しかも、キリスト教の教会までが、女性の誹謗中傷のお先棒をかつぐ際に利用し、ついには魔女狩りとなったことは、現代人がよく知るところです。ただこれは、あくまで中世の話ですが、中世という時代はものすごく長かったために、中世以後現代にまで、そのイメージの残存が人々の心に影響を及ぼすようになったのでした。
ここで私たちは、再び創世記の物語に立ち返り、エバのことを考えてみたいと思います。話はまだ人間が男と女に分かれる以前のことです。神は人間にこう言いました。「あなたは園の木のあらゆる実を食べてよい。ただ善と悪を知る木からは取って食べてはならない」。大変興味深いことに、それが人間への第一声でした。すなわち、人間が聞いた最初の神の言葉なのですが、神の言葉と聞いただけでありがたがる人もいるでしょうが、一番最初の神の言葉は食関連だったのでした。
ただし、その神の言葉には気になることがありました。それは、エデンの園の木の実はどれも食べてよいのですが、善悪の知識の木になる実は食べてはならないという点でした。なぜなら、「それを食べたら死ぬ」のだから。
ただしそれには問題がありました。なぜなら、すぐわかるように食べても二人は死ななかったからです。おや、神は嘘つきだったのか。けれども聖書はその種の議論は相手にしません。なぜなら、聖書で死が問題とされるのはいつも肉体の死ではないからです。というのも、聖書が投げかける死の問題は、人間関係の断絶のことだからです。たとえそれが気の毒な死に方であっても、人間関係が断絶していなければ深刻とは考えていません。だから、神が言った「それを食べたら死ぬ」は、人間関係が修復不可能なほどになるという意味なのでした。なお聖書は、人間関係の断絶を語る時は必ず神との関係の断絶をも語ります。たとえば、禁じられた木の実をめぐって男と女がバトルを始めると、神の足音が聞こえてきますが、それを聞くと二人は大急ぎで隠れたという話がそうなのです。なお聖書は、二人がしたような責任のなすりあいを罪の始まりととらえているようであります。
さてこのあと、禁止令を破った蛇と二人に「判決」を下します。最初は蛇でした。神は蛇を呪いました。二番目は女でした。ところが神は、女には呪いの言葉を投げかけていません。神が彼女に言った「判決」は、出産の際苦しむということだけでした。そのため多くの人は、生みの苦しみこそ神の裁きだと考えてきました。でも繰り返しますが、神は蛇は呪ったのに女は呪わなかったのです。呪ってもいないのに罰するなんて、それはありえない。このあとエデンからの追放で神の裁きや罰が色々出てはきますが、そういうのと出産の苦しみは結びついていません。エデンからの追放後人は、家族や社会の人間関係で死ぬような思いを数々させられるようになるのですが、それでも出産の話で神の呪いが出てくることはないのです。むしろあるのは祝福のみだからです。
ところで、エバが誹謗中傷を受けるきっかけとなったのは、善悪の知識の木の実を食べ、男にも食べさせたことでした。しかし神は、それを食べたら死ぬと言ったのに、二人は死ぬどころかピンピンしていました。むしろ罪のなすりあいに夢中になったほどでした。(それでも二人は死とは無関係だったのか)。あと、もうひとつ、「それを食べたら神のようになる」とも言われました。もちろん食べても神にはなりませんでした。(しかし二人は各自が、裁きの神のように相手を告発しまくった)。
最後に注目したいことは、木の実を食べた二人が裸であることに気がつき、いちじくの葉で腰を覆ったことです。これは人類史上重大なことを意味するからです。なぜなら人間はこの時点から衣服を造る技術を身につけ始めたからです。人類の服飾史を眺めると、人は羊の毛や麻を紡ぐようになり、布を織り、衣服を作ってゆきますが、それは女たちにゆだねられた仕事になりました。そのため女性たちは多大の知識を習得し、きめ細かに知恵を働かせて、服飾という独自の文明を築き上げてゆきました。そうかんがえると、エバはその文明の扉を開いたヒロインだったのでした。
なお、善悪の知識については、都市文明の功罪を問うバベルの塔の話の時に改めて考えます。いずれにしても、本日のエバを、世界の人口の半分を占める女性たちの服飾という分野の観点からとらえることは、現代的な感覚からすれば何の問題もないと思われるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週2月4日 顕現後第5主日
説教題: エデンの東で
説教者: 白髭義牧師