日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

6月23日

2024-06-25 14:51:32 | 日記
ヨブ38:1~11、コリントⅡ6:1~13、ルカ10:30~37
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月23日(日)
「イエスのたとえ話 善いサマリア人②」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 イエスのたとえ話。本日は「善いサマリア人」の2回目です。今回は、このたとえの前半の、祭司とレビ人さらに旅の男のことを考えたいと思います。
 なお、たとえ話全体で最も重要なのはサマリア人ですが、祭司やレビ人もかなり重要と言えるかもしれません。サマリア人は助けた人間なのですが、助けなかった人間というのも心に引っかかる存在だからです。
 さて、半殺し状態で道に横たわる旅人のところには3人の人間が相次いで近づいてきました。一番目は祭司、二番目はレビ人、三番目はサマリア人でした。ところで、あとを読めばわかるように、旅人は死んでいませんでした。ただ、瀕死の重傷のため、身動きも出来ず、口も利けないのでした。横たわったままですが、見ることは出来、近づいてくるのがどういう人間か、判別することは出来たのでした。

 ところで当時の人の相手の正体を知る方法は、服を見ることでした。もちろん祭司は目立つ装束なので一目瞭然でした。祭司に従属するレビ人たちも、それなりに宗教色のある服装をしていました。またサマリア人は民族的に別人だったので、彼らの着る民族衣装で判別できました。
しかし、その意味で考えると本日半殺しにあって横になっているユダヤ人は特別でした。なぜなら彼も、一目でユダヤ人だと分かる衣服をまとっていたのに、追いはぎに襲われ、その衣服ははぎ取られ、素っ裸だったからです。これでは、ユダヤ人なのか、シリア人なのか、エジプト人なのか、皆目見当がつきません。それに旅人は口もきけないので、自分を説明することが出来ません。身元が全く不明な人間に、祭司とレビ人は順番に出会ったのでした。

こう書かれています。「祭司は彼を見た」。レビ人も同じです。しかしどちらも、見るには見たが道の向こう側を通っていったのでした。つまり見て見ぬふりです。
ところで、このことは、旅人の目を通せばこうなります。最初、道に横たわっていた旅人の目は祭司の服をとらえました。それは、ユダヤ人なら誰もが知る最高位の聖職者がまとう衣装でした。そこで旅人は「ああ、これで大丈夫。助かった」と思った。なぜなら、瀕死の人間を見殺しにして通り過ぎる祭司の話なんか、聞いたことがなかったからでした。
けれども、この祭司は瀕死の重傷の男を見て、もう死んでいると判断したのかもしれません。場所は山の中でふもとまでまだかなり距離がありました。祭司でなくても、死体をふもとまでかついでゆくのは誰でも不可能に近いことでした。けれども、この話には隠された事実があったのでした。それは、祭司の身分の人はロバを持っていたことです。つまり、ロバに乗って自分の家とエルサレム神殿の間を往復していたのでした。だったら、道に横たるのが死体であっても、それをロバに乗せて運ぶのは可能でした。しかし、祭司はそれをしなかったのでした。

けれども、死んでいるか死んでいないかは、体に触れないと分からないことでした。実は、サマリア人もそれをしたのですが、祭司たちも、近寄って体に触れれば確認できたはずなのでした。しかし、祭司とレビ人はそれをしなかったのでした。
ただ祭司がそれをしなかったのは、「やむを得ない理由があったから」と考える人もいます。それによると、神殿で聖なるお務めをする祭司は、汚れていてはならないからでした。特に死体に触れたあとなら、神殿の祭壇や器具に汚れが及ぶので宗教祭儀全体が台無しになると思われていました。しかし、本当に死んでいるかどうかは分かりません。しかし、死んでいる場合を思うと、用心のため接触しない、近寄らないのは仕方のないことだと言うのでした。

しかし、ここで聖書を注意深く読んでおきたいのは、この時祭司は「道を下って」くる途中だったと書かれていることです。反対に、道を上ってゆけば一番上に神殿がありますから、この祭司は神殿でのお務めが終了して戻って来る途中だったのでした。なお、祭司のお務めは輪番制だったので、この祭司はこのあとは当分神殿に出向いて行く必要はありませんでした。
ということは、彼の目の前に横たわっている男が、仮に死んでいて、その体を祭司が触ったとしても、それは神殿には何も影響を及ぼすはずがないのでした。祭司たちも、ふもとに戻ればお百姓さんになるので、今死体に触ってもどうということはないはずでした。
しかし、それにもかかわらず、祭司もレビ人も見て見ぬふりをしてそそくさと通り過ぎたのでした。どうしてそんなに急いでいたのか。実は、こう思っていたからでした。旅人を襲った追いはぎはまだそのあたりに身を潜めているのではないか。危険だらけの山の中だ。早く出てゆかないと自分もヤバいかも……。彼らだけでなく、同じ立場に立たされたら誰でも考えることではありました。
さて、祭司とレビ人は行ってしまったが、まだ緊迫感が漂う中を、何も知らない第三の男がやってきた。サマリア人のことですが、この話は次回考えたいと思います。イエスのたとえ話の面白さに、今少し触れていただければと思う次第です。

ここで彼が死んでいると思っていた旅人に触れても、神殿には影響はないのでした。死んでいようが、生きていようが、何も畏れる必要がない祭司は、しかし見て見ぬふりをして通り過ぎたのでした。そしてレビ人もそれに追随した。ユダヤ人にとって一番の希望の星である二人の聖職者の接近に胸を高鳴らせた結果どん底に落とされた旅人は、思い直して近づいてくる三番目の通行人に望みを託した。ところがそれは、顔も見たくないとユダヤ人が思う最悪の人間だった。
こうして、たとえ話にはサマリア人が登場いたします。次回も「善いサマリア人」のたとえ話を続けますが、イエスの話の巧みさ、深さをさらに味わいたいものであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次週 6月30日 聖霊降臨後第6主日
説教題:善いサマリア人③
説教者:白髭義 牧師
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6月16日

2024-06-20 16:08:37 | 日記
エゼキエル17:22~24、コリントⅡ5:6~10,14~17、ルカ10:25~37
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月16日(日)
「イエスのたとえ話―その1
善いサマリア人①」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 今週から、イエスの色々なたとえ話を取り上げながら、そこにあるメッセージを考えてゆきたいと思います。そこでまず取り上げるのは、ルカ福音書10章の「善いサマリア人」です。なお、このたとえ話は2回以上に分けて考えます。
ところで、今読んだのは、ルカ10章の25節から29節までで、たとえ話の直前まででした、けれども、この箇所で、イエスがなぜたとえ話を話したのか?の理由が分かります。ある律法の専門家がイエスに、どうすれば永遠の命を自分のものに出来るかと質問したからでした。

なお、律法学者は並の人と違って、聖書を知り尽くしている学者でした。とうぜん永遠の命も知っているので、この質問はあくまでイエスを試すためでした。しかしそれを見抜いたイエスから「その答は聖書にはどう書かれているか」と逆質問されたので、律法学者は、神を愛し、隣人を愛せよと書かれていますと返事をしたのでした。するとイエスは、「正しい答だ。それを実行しなさい」と言った。さて、律法学者はここでやめておけばよかったのに、むきになって「では、わたしの隣人とはだれか」と食い下がった。これが彼にとって命取りになるのでした。

ところで話は変わりますが、本日お配りした可愛い絵があるプリントはこどもさんびかのコピーです。この楽譜の上にある大きな字の「ウリエイウッソン」が歌の題なのです。これはごらんのように韓国語の歌ですが、「ウリエイウッソン」の意味は「わたしの隣人はだれですか」です。なお、プリントの半分は歌の歌詞になっていますが、韓国語のハングル文字の歌詞と日本語の歌詞(翻訳)が並んでいます。
なお、これは二日市教会でも使っている『こともさんびか』という歌集に載っているものです。日本語のこどもさんびかに外国語が印刷されるのは珍しいのですが、今の時代の反映かも知れません。なお、ハングル文字の発音の仕方は五線譜の間を見ればわかります。そこに記されるカタカナが発音の仕方だからです。
そこを少しだけ朗読します。「ウリエイウッソン」。すなわち「となりびとはだれでしょう」。この言葉で始まるこの歌は、「わたしの隣人とは誰ですか」と言った律法学者と肩を並べ合っています。子どもさんびかはそれに続いて、「みんなともにさがそうよ」と声をかけあいながらうたい出すのですが、とにかくこの歌は、「善いサマリア人」の歌なのです。子どもたちはこのあと、「弱く貧しいお友だち、病んで苦しむ人たちもとなりびと」と展開してゆくからです。もしこの場にイエスがいたら「正しい答だ。それを実行しなさい」と言ってもらえることでしょう。そこで子どもたちはさらに踏み込んで、「みんなともに考えよう。つらいことも共にして、小さいことも信じあう」。そんな隣人になりましょう。と歌いあげてゆくのです。

 ところで、ハングルと日本語が併記のこのこどもさんびかですが、最初は在日大韓基督教会の教会学校の韓国語こどもさんびかに載っていました。ところがそのあと、日本のキリスト教も日本の子どもたちのさんびかにも載せることにしたのでした。けれども外国の歌を日本に紹介する時は、たとえば「もろびとこぞりて」や「きよしこのよる」はその日本語訳は載せましたが、原語まで載せることはしたことがありませんでした。ところが、「となりびとはだれでしょう」は韓国語の原語までも紹介したのでした。しかも子どもたちに、です。
 これはすばらしい試みでした。なぜなら、朝鮮半島の民族と日本人の間にはずっと不幸な歴史があって、特に心ある日本人はそれを負の遺産として受け継いできているからです。しかし、このように両国間の言葉の壁をたくみに乗り越えて、わだかまりさえも乗り越えてイエスの教えを分かち合えたら、これからの新しい世代への相互理解の橋渡しの一助となりうるのではないかと思うのであります。

 ところで話はあの律法学者に戻ります。彼もまた、子どもたちと同じように、「わたしの隣人とはだれですか」と言いました。けれどもそれを言ったのは、天においては神への、地においては隣人への愛ですと、イエスの前で明言した直後でした。そしてその瞬間、イエスは律法学者の本音を見抜いたのでした。
 さて、「では、私の隣人とは誰ですか」は、イエスに対する開き直りでした。なぜなら彼は、イエスの愛の教えにかねがね警戒心を抱いていたからでした。なぜなら、イエスは愛に関しては無防備で、敵も味方もない、どのような人をも区別しない、差別を心から嫌っていると見ていたからです。
 それに対して、律法学者は愛つまり人間関係には厳格な線引きが重要と考える人間でした。つまり、その線の内側の人間を徹底的に愛することが正しい隣人愛であると考えていたからです。ということは、線の外側の人間との区別も厳格に守らないと、けじめがつかなくなるという考えでした。
 だから彼がイエスに「私の隣人とは誰ですか」と聞いたのは、この人間は隣人、この人間は非隣人のような仕分け・色分けをしないと気が済まなかったからなのです。しかしこれは、子どもたちの「ウリエイウッソン」とは根本的に違っていました。そしてイエスは、律法学者の問題点を念頭に「善いサマリア人」のたとえを語ったのでした。次回引き続きこのことを考えたいと思います(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)

次週 6月23日 聖霊降臨後第第5主日
説教題:イエスのたとえ話 善いサマリア人②
説教者:白髭義 牧師
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6月9日

2024-06-13 12:10:18 | 日記
「創世記3:8~15、コリントⅡ4:13~5:1、マタイ25:1~13
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月9日(日)

「イエスと女性たち―その7」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
これまで「イエスと女性たち」という題で考えてきましたが、本日が最終回になります。今回は、イエスと女性たちと言っても、これまでとは違った角度から検討してみたいと思います。取り上げるのはマタイ福音書25章の「十人のおとめ」です。
なお、「十人の乙女」は西欧の画家たちがとても好んで、作品にしてきました。そのひとつですが、英国のロンドン・テート・ギャラリーという美術館に、ウィリアム・ブレイクという人が書いた十人の乙女の絵があります。なお、ブレイクがその絵につけた題は『貞淑な乙女たち』ですが、この題は考える価値がありそうです。ところで、ブレイクは美術愛好家には有名な画家とは言えないかも知れません。世界人名事典によると、ウィリアム・ブレイクは「生涯狂人扱いにされて」いたのだそうで、それでも「大胆な自由思想と神秘的な宗教思想が渾然一体化している数々の不滅の傑作を残した」と書かれています。なお、彼は詩人としても知られています。

さて、ブレイクのその絵ですが、左側に立っている五人の賢い乙女がいます。スラリとしたいわゆる美人たちですが、表情に温かみは感じられません。それに目も、泣き崩れる友人たちには向けられておらず、遠いかなたを見ている感じです。
ところが、右側の五人の愚かな乙女ですが、激しく嘆き悲しみ取り乱しています。ただ、顔の表情は観る者に親近感のようなものを抱かせる描き方になっているのです。なお、ブレイクの絵のことはあとでまた考えます。

ところで、イエスのたとえ話、「十人の乙女」はこんな内容でした。……あるところに、これから婚宴を開く家があった。家の息子が結婚したからだが、これから彼は花嫁を家に連れてくるために、彼女をその実家に迎えに行こうとしていた。
さて、当時の慣わしだったが、花嫁は花婿の実家まで花嫁行列をすることになっていて、その行列には彼女の友人たちが付き添うことになっていた。なお、これらのことは全て日没後に行われたので、友人たちは夜間照明用のランタン(角灯)を持参していた。あとは花婿の到着を待つのみだったが、その到着がひどく遅れていたため、十人は全員眠りこけてしまった。
ところが、真夜中に、花婿到着を知らせの声がした。彼女たちは飛び起き、出迎えに行こうとしたが、十人の内の五人の愚かな乙女は、ランタン用の油の予備を忘れたことに気がつき、五人の賢い乙女に、油を分けてほしいと頼んだが、断られた。彼女たちもぎりぎりしか持っていなかったからである。
そうしているうちに行列は動き出し、賢い五人の娘たちはその列に連なった。しかし愚かな娘たちは、油を分けてくれる人をさがしていたため、婚宴の家に来た時はもう始まっていた。
さて、このあとですが、戸が彼女たちの目の前で閉ざされ、家から彼女たちに対する拒絶の声がしてきた―と書かれています。しかし、そこは本来のイエスのたとえ話にはなかったと考えてかまいません。なぜなら、必死の思いで油を入手し、息も切れ切れに走ってやってきた彼女たちが非情にも拒絶されるという話の終わり方は、イエスの流儀にはまったく合わないからです。

それから、まだ問題があります。なぜなら、当時の中東地域の家屋は、本日の新郎の家も含めて、外部から遮断される仕切り、つまり塀も垣根もなかったからです。だからわが国の武家屋敷のような門も入口もなくて、地元の人間は自由に出入りが出来たからです。それに、この夜はまた特別めでたい婚礼の晩ですから、遅かろうが何だろうが、やって来る人間は誰でも大歓迎を受けるのでした。だから、彼女たちが拒絶されるなんて、まったくありえないことだったからです。

そういうことなので、本日の話の最後にある主人の拒絶は、あとでキリスト教関係者が終末に来るキリストの言葉として理解すればよいのです。婚宴を心の底から楽しんでいた人たちのことを思えば、それはなおさらなのです。
ところで、聖書学者の山口里子はこう書いていました。「乙女とは適齢期の若い女性を指す言葉だった。女性は12歳で結婚可能と考えられていた。このたとえ話の乙女たちは、12歳か13歳ぐらいの女性が想定されていたことだろう。なお、彼女たちにとって、友人の結婚式は自分を共同体の人々にアピールできる絶好のチャンスだった。美しいだけではダメで、大事な行事での役目を卒なく果たせていることを見てもらえる機会なので、誰もが真剣だった」。
つまり、イエスはそういう女の子たちをたとえ話の主人公にしていたのでした。そして、そういうたとえ話を聞いていたのは、同じ年頃の子どもたちがいる親の世代だったので、彼ら・彼女らも興味深く聞いていました。だから、悲惨な目に遭う娘たちの話などイエスがしたなんて、とうてい考えられないのであります。

ところでここで、ブレイクに戻ります。彼の絵の女性たちは12~Ⅰ3歳にしてはあまりにも大人すぎます。それは大目に見るとして、ブレイクはきれいだけどツンとしている賢い乙女たちと、支離滅裂で大騒ぎをしている愚かな乙女たちを描き分けているのですが、絵の題を『貞淑な乙女たち』にしたのでした。つまり、十人は誰もが貞淑な乙女なのでした。貞淑なのかどうかはよくわかりませんが、彼は聖書、あるいはイエスに逆らって、人を賢いとか愚かとかに分け隔てするやり方に異を唱えていたのかもしれないのであります。

ところで、このたとえ話が、大人にとってはどんなメッセージだったかも考える必要があります。そのポイントは、花婿の到着がひどく遅れたことにあるのです。なぜなら、そのために十人全員が、例外なく眠りこけたからです。そして、イエスはそのことは責めていません。そのこと自体は失敗かも知れないが、失敗は誰の人生にも付き物だからです。むしろ、長い時間眠りこけてはいたけれども予備の油が確保されていたか、されていなかったか。あなたはそのどちらに属する人間だろうか。これがイエスの問いかけなのでした。
つまり、愚かな乙女たちも、長く眠れたくらい時間がたっぷりあったのですから、その時間を活用して油を手に入れてくることは、少しもむつかしいことではなかったはずだ。それが問題点なのでした。
ところで、イエスがたとえ話で言うその「油」とは何だったのか。それは自分自身の問題として、各自考えるようにとイエスは教えていたのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 6月16日 聖霊降臨後第4主日
説教題:イエスのたとえ話 その1
説教者:白髭義 牧師
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6月2日

2024-06-04 11:27:09 | 日記
申命記5:12~15、コリントⅡ4:5~12、ルカ18:1~8
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月2日(日)

「イエスと女性たち―その6」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
さて、本日は「イエスと女性たち」の6回目ですが、ルカ18章の「やもめと裁判官のたとえ」を取り上げます。これはイエスのたとえ話ですが、深刻な社会問題が背景にあったことがあとで明らかになります。
たとえ話はこう始まっていました。「ある町に、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた」。それだけでもとんでもない裁判官ですが、もう少し見てゆきます。
さてイエスの時代には、裁判所という建物はありませんでした。町で何か裁判の必要が生じたら、広場にその場が設けられ、町の有力者が居並ぶ前で裁判が行われました。けれども、これだけは法律に精通している人間が必要ですから、裁判官の任務が果たせる人材もあらかじめ決まっていました。

 ところで、旧約聖書では不正な裁判がよく問題になります。裁判は本来公正であるべきでしたが、なかなかそうはならないみたいでした というのも、裁判は利害関係上の争いが取り扱われるからで、しかもどの町にも金持ちがいて、貧乏人がいました。強い人が弱い人と争えば、弱い人が裁判で勝つことは難しかったからです。
どういうことかというと、世間では賄賂が幅を利かせていたからです。だから、お金がたくさんある人は、前もって裁判官にお金を握らせ、自分に有利な裁判になるよう画策したからです。でも貧しい人はお金自体がありませんから、大半が泣き寝入りする。それがフツーという現実になっていたのでした。
だから、預言者イザヤはこう言ったのでした。「善を行うことを学び、搾取する者を懲らしめ、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ(1:17)」。これは、裁判官向けの言葉でした。つまり、賄賂を渡せない人の身になって裁け・・・。
ところで、本日の裁判官がいかなる人物だったかは一目瞭然です。なぜなら、やもめがひんぱんに彼の所に通ってきたからです。裏返せば、彼女はこの裁判官に賄賂を渡していなかった、否渡せなかったのでした。渡せば何度も来る必要はなかったからです。渡せないやもめは間違いなくどん底生活をしている女性でした。そして、イエスはそのような女性たちにふだん関心を寄せていたのでした。

ところで、彼女と対照的な人物がいました。それは彼女が裁判官に「相手を裁いてください」と要求したその「相手」でした。つまり、彼女はこの「相手」と裁判で争おうとしていたのでした。ということは、その相手とは、裁判官に賄賂を渡せる人、あるいはすでに渡している人なのでした。
ところで当時は、夫に先立たれた女性が非常に多く、社会問題になっていました。なお、やもめが多い理由の一つとして考えられることは、夫と妻の年齢の大きな開きがありました。たとえば、イエスの母マリアの夫のヨセフは、彼女には父親みたいな年齢だったと言われています。現に彼は、イエスの子ども時代に死んでいます。だから、マリアはやもめになって子育てをしたのでした。

さてマリアのことはさておくとして、やもめでも、男の子を産んでいればラッキーでした。なぜなら、その子は成人して亡き父の遺産を何らかの形で相続する権利を認められていたからです。それと、母子は夫の実家に留まる権利もありました。
ところが、男の子を残せなかった女性は、夫の死後はすぐ家から出るか、追い出されるかしました。そしてその先には二つの道がありました。一つは、自分の生家に戻って、再婚話が来るのを待つことでした。それは社会的にも推奨された方法でした。しかし、残りの一つは、もう丸裸で生きることでした。なぜなら、生家では両親も死んでいて、身内も彼女を拒否したからで、ひとりぼっちだったからです。
けれども当時の法律は、そのような気の毒な女性を救済する措置を定めていました。つまり、彼女は夫の実家から夫の遺産相続分の名目でと何がしかの支払いを受けることが出来るという定めがあったからです。やもめが餓死するようなことがあってはならないという法の精神がそこには働いていました。ところが、実際には経済的ピンチにあるやもめたちは後を絶たないのでした。

というのも、支払いを拒んでいる元夫の実家が非常に多かったからです。実家がそれを平気で出来た理由は、相手が女だったからでした。この実家を代表していたのは親族でした。もちろん男たちです。それに対して彼女には、守ってくれる男性も裁判で弁護に立ってくれる男性もいなかったのでした。
つまり彼女が「相手を裁いてください」と叫んだのは、いつまで待っても支払われる気配がないので、裁判に訴えるために裁判官のところに通っていたのでした。しかし彼は、賄賂も持ってこれないやもめは虫けら同然と見ていたのでした。ところが、そのような彼に変化が生じた。というのも彼は、「あのやもめはうるさくてかなわないから、裁判をしてやろう」と心に決めたからです。
たとえ話自体はここで終わっていました。彼女にとっては良い結果でしたが、しかしイエスは、この男は今後も「神を畏れず、人を人とも思わない」裁判官であり続けるのだという現実を見据えていたのでした。
ところで、イエスはこのたとえ話をするのは、いかなる現実にあっても、気をおとさずに絶えず祈るべきことを教えるためだと言っています。たしかに。裁判官や親族たちは、彼女がこれからも気を落とすタネであり続けるのでしょうが、それでしょげかえって泣き崩れるタイプの女性としてはたとえ話は語らなかったのでした。それは、イエスの周りに集まってきた女性たちが、やはりそのようなタイプに生まれ変わっていたからだと考えて、間違いなさそうなのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭 義)

次週 6月9日 聖霊降臨後第3主日
説教題:イエスと女性たち ―その8
説教者:白髭義 牧師
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