ヨブ38:1~11、コリントⅡ6:1~13、ルカ10:30~37
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月23日(日)
「イエスのたとえ話 善いサマリア人②」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。本日は「善いサマリア人」の2回目です。今回は、このたとえの前半の、祭司とレビ人さらに旅の男のことを考えたいと思います。
なお、たとえ話全体で最も重要なのはサマリア人ですが、祭司やレビ人もかなり重要と言えるかもしれません。サマリア人は助けた人間なのですが、助けなかった人間というのも心に引っかかる存在だからです。
さて、半殺し状態で道に横たわる旅人のところには3人の人間が相次いで近づいてきました。一番目は祭司、二番目はレビ人、三番目はサマリア人でした。ところで、あとを読めばわかるように、旅人は死んでいませんでした。ただ、瀕死の重傷のため、身動きも出来ず、口も利けないのでした。横たわったままですが、見ることは出来、近づいてくるのがどういう人間か、判別することは出来たのでした。
ところで当時の人の相手の正体を知る方法は、服を見ることでした。もちろん祭司は目立つ装束なので一目瞭然でした。祭司に従属するレビ人たちも、それなりに宗教色のある服装をしていました。またサマリア人は民族的に別人だったので、彼らの着る民族衣装で判別できました。
しかし、その意味で考えると本日半殺しにあって横になっているユダヤ人は特別でした。なぜなら彼も、一目でユダヤ人だと分かる衣服をまとっていたのに、追いはぎに襲われ、その衣服ははぎ取られ、素っ裸だったからです。これでは、ユダヤ人なのか、シリア人なのか、エジプト人なのか、皆目見当がつきません。それに旅人は口もきけないので、自分を説明することが出来ません。身元が全く不明な人間に、祭司とレビ人は順番に出会ったのでした。
こう書かれています。「祭司は彼を見た」。レビ人も同じです。しかしどちらも、見るには見たが道の向こう側を通っていったのでした。つまり見て見ぬふりです。
ところで、このことは、旅人の目を通せばこうなります。最初、道に横たわっていた旅人の目は祭司の服をとらえました。それは、ユダヤ人なら誰もが知る最高位の聖職者がまとう衣装でした。そこで旅人は「ああ、これで大丈夫。助かった」と思った。なぜなら、瀕死の人間を見殺しにして通り過ぎる祭司の話なんか、聞いたことがなかったからでした。
けれども、この祭司は瀕死の重傷の男を見て、もう死んでいると判断したのかもしれません。場所は山の中でふもとまでまだかなり距離がありました。祭司でなくても、死体をふもとまでかついでゆくのは誰でも不可能に近いことでした。けれども、この話には隠された事実があったのでした。それは、祭司の身分の人はロバを持っていたことです。つまり、ロバに乗って自分の家とエルサレム神殿の間を往復していたのでした。だったら、道に横たるのが死体であっても、それをロバに乗せて運ぶのは可能でした。しかし、祭司はそれをしなかったのでした。
けれども、死んでいるか死んでいないかは、体に触れないと分からないことでした。実は、サマリア人もそれをしたのですが、祭司たちも、近寄って体に触れれば確認できたはずなのでした。しかし、祭司とレビ人はそれをしなかったのでした。
ただ祭司がそれをしなかったのは、「やむを得ない理由があったから」と考える人もいます。それによると、神殿で聖なるお務めをする祭司は、汚れていてはならないからでした。特に死体に触れたあとなら、神殿の祭壇や器具に汚れが及ぶので宗教祭儀全体が台無しになると思われていました。しかし、本当に死んでいるかどうかは分かりません。しかし、死んでいる場合を思うと、用心のため接触しない、近寄らないのは仕方のないことだと言うのでした。
しかし、ここで聖書を注意深く読んでおきたいのは、この時祭司は「道を下って」くる途中だったと書かれていることです。反対に、道を上ってゆけば一番上に神殿がありますから、この祭司は神殿でのお務めが終了して戻って来る途中だったのでした。なお、祭司のお務めは輪番制だったので、この祭司はこのあとは当分神殿に出向いて行く必要はありませんでした。
ということは、彼の目の前に横たわっている男が、仮に死んでいて、その体を祭司が触ったとしても、それは神殿には何も影響を及ぼすはずがないのでした。祭司たちも、ふもとに戻ればお百姓さんになるので、今死体に触ってもどうということはないはずでした。
しかし、それにもかかわらず、祭司もレビ人も見て見ぬふりをしてそそくさと通り過ぎたのでした。どうしてそんなに急いでいたのか。実は、こう思っていたからでした。旅人を襲った追いはぎはまだそのあたりに身を潜めているのではないか。危険だらけの山の中だ。早く出てゆかないと自分もヤバいかも……。彼らだけでなく、同じ立場に立たされたら誰でも考えることではありました。
さて、祭司とレビ人は行ってしまったが、まだ緊迫感が漂う中を、何も知らない第三の男がやってきた。サマリア人のことですが、この話は次回考えたいと思います。イエスのたとえ話の面白さに、今少し触れていただければと思う次第です。
ここで彼が死んでいると思っていた旅人に触れても、神殿には影響はないのでした。死んでいようが、生きていようが、何も畏れる必要がない祭司は、しかし見て見ぬふりをして通り過ぎたのでした。そしてレビ人もそれに追随した。ユダヤ人にとって一番の希望の星である二人の聖職者の接近に胸を高鳴らせた結果どん底に落とされた旅人は、思い直して近づいてくる三番目の通行人に望みを託した。ところがそれは、顔も見たくないとユダヤ人が思う最悪の人間だった。
こうして、たとえ話にはサマリア人が登場いたします。次回も「善いサマリア人」のたとえ話を続けますが、イエスの話の巧みさ、深さをさらに味わいたいものであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 6月30日 聖霊降臨後第6主日
説教題:善いサマリア人③
説教者:白髭義 牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年6月23日(日)
「イエスのたとえ話 善いサマリア人②」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。本日は「善いサマリア人」の2回目です。今回は、このたとえの前半の、祭司とレビ人さらに旅の男のことを考えたいと思います。
なお、たとえ話全体で最も重要なのはサマリア人ですが、祭司やレビ人もかなり重要と言えるかもしれません。サマリア人は助けた人間なのですが、助けなかった人間というのも心に引っかかる存在だからです。
さて、半殺し状態で道に横たわる旅人のところには3人の人間が相次いで近づいてきました。一番目は祭司、二番目はレビ人、三番目はサマリア人でした。ところで、あとを読めばわかるように、旅人は死んでいませんでした。ただ、瀕死の重傷のため、身動きも出来ず、口も利けないのでした。横たわったままですが、見ることは出来、近づいてくるのがどういう人間か、判別することは出来たのでした。
ところで当時の人の相手の正体を知る方法は、服を見ることでした。もちろん祭司は目立つ装束なので一目瞭然でした。祭司に従属するレビ人たちも、それなりに宗教色のある服装をしていました。またサマリア人は民族的に別人だったので、彼らの着る民族衣装で判別できました。
しかし、その意味で考えると本日半殺しにあって横になっているユダヤ人は特別でした。なぜなら彼も、一目でユダヤ人だと分かる衣服をまとっていたのに、追いはぎに襲われ、その衣服ははぎ取られ、素っ裸だったからです。これでは、ユダヤ人なのか、シリア人なのか、エジプト人なのか、皆目見当がつきません。それに旅人は口もきけないので、自分を説明することが出来ません。身元が全く不明な人間に、祭司とレビ人は順番に出会ったのでした。
こう書かれています。「祭司は彼を見た」。レビ人も同じです。しかしどちらも、見るには見たが道の向こう側を通っていったのでした。つまり見て見ぬふりです。
ところで、このことは、旅人の目を通せばこうなります。最初、道に横たわっていた旅人の目は祭司の服をとらえました。それは、ユダヤ人なら誰もが知る最高位の聖職者がまとう衣装でした。そこで旅人は「ああ、これで大丈夫。助かった」と思った。なぜなら、瀕死の人間を見殺しにして通り過ぎる祭司の話なんか、聞いたことがなかったからでした。
けれども、この祭司は瀕死の重傷の男を見て、もう死んでいると判断したのかもしれません。場所は山の中でふもとまでまだかなり距離がありました。祭司でなくても、死体をふもとまでかついでゆくのは誰でも不可能に近いことでした。けれども、この話には隠された事実があったのでした。それは、祭司の身分の人はロバを持っていたことです。つまり、ロバに乗って自分の家とエルサレム神殿の間を往復していたのでした。だったら、道に横たるのが死体であっても、それをロバに乗せて運ぶのは可能でした。しかし、祭司はそれをしなかったのでした。
けれども、死んでいるか死んでいないかは、体に触れないと分からないことでした。実は、サマリア人もそれをしたのですが、祭司たちも、近寄って体に触れれば確認できたはずなのでした。しかし、祭司とレビ人はそれをしなかったのでした。
ただ祭司がそれをしなかったのは、「やむを得ない理由があったから」と考える人もいます。それによると、神殿で聖なるお務めをする祭司は、汚れていてはならないからでした。特に死体に触れたあとなら、神殿の祭壇や器具に汚れが及ぶので宗教祭儀全体が台無しになると思われていました。しかし、本当に死んでいるかどうかは分かりません。しかし、死んでいる場合を思うと、用心のため接触しない、近寄らないのは仕方のないことだと言うのでした。
しかし、ここで聖書を注意深く読んでおきたいのは、この時祭司は「道を下って」くる途中だったと書かれていることです。反対に、道を上ってゆけば一番上に神殿がありますから、この祭司は神殿でのお務めが終了して戻って来る途中だったのでした。なお、祭司のお務めは輪番制だったので、この祭司はこのあとは当分神殿に出向いて行く必要はありませんでした。
ということは、彼の目の前に横たわっている男が、仮に死んでいて、その体を祭司が触ったとしても、それは神殿には何も影響を及ぼすはずがないのでした。祭司たちも、ふもとに戻ればお百姓さんになるので、今死体に触ってもどうということはないはずでした。
しかし、それにもかかわらず、祭司もレビ人も見て見ぬふりをしてそそくさと通り過ぎたのでした。どうしてそんなに急いでいたのか。実は、こう思っていたからでした。旅人を襲った追いはぎはまだそのあたりに身を潜めているのではないか。危険だらけの山の中だ。早く出てゆかないと自分もヤバいかも……。彼らだけでなく、同じ立場に立たされたら誰でも考えることではありました。
さて、祭司とレビ人は行ってしまったが、まだ緊迫感が漂う中を、何も知らない第三の男がやってきた。サマリア人のことですが、この話は次回考えたいと思います。イエスのたとえ話の面白さに、今少し触れていただければと思う次第です。
ここで彼が死んでいると思っていた旅人に触れても、神殿には影響はないのでした。死んでいようが、生きていようが、何も畏れる必要がない祭司は、しかし見て見ぬふりをして通り過ぎたのでした。そしてレビ人もそれに追随した。ユダヤ人にとって一番の希望の星である二人の聖職者の接近に胸を高鳴らせた結果どん底に落とされた旅人は、思い直して近づいてくる三番目の通行人に望みを託した。ところがそれは、顔も見たくないとユダヤ人が思う最悪の人間だった。
こうして、たとえ話にはサマリア人が登場いたします。次回も「善いサマリア人」のたとえ話を続けますが、イエスの話の巧みさ、深さをさらに味わいたいものであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 6月30日 聖霊降臨後第6主日
説教題:善いサマリア人③
説教者:白髭義 牧師