日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

罪について

2024-08-31 14:53:24 | ブログ
聖霊降臨後第14主日
エレミヤ15:15~21,ロマ12;3~21、マタイ16:21~28

主の祈り/罪について
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがた一堂にありますように。

 さて、わたしたちは、これまで主の祈りについて考えてきましたが、もう少し続けたいと思います。そこで本日は「我らの罪を赦したまえ」を取り上げます。考えたいことは「罪とは何か」です。それは言うまでもないことかも知れませんが、イエスがどう考えていたかなのです。

 ところで、昨6月の17日、ルーテル神学校の鈴木浩先生が亡くなりました。神学者としての先生の業績はよく知られていますが、それとは別に、私には忘れられない話があります。先生は、日本ルーテル神学校を卒業したのち、再度アメリカの神学校に入学しました。その神学校で学んでいた時のことです。アメリカでも卒業論文は書かなければなりません。あるクラスメイトが質問しました。「ミスター・鈴木。あなたの論文のテーマは何ですか」。ミスター・鈴木は答えました。「わたしは罪について書きたいと思います」。それを聞いたクラスの全員が笑いました。「ミスター・鈴木、そのテーマは古い。時代遅れだよ」。
 なお、鈴木先生から聞いた話はここまででした。しかし私は興味深い話だと思っていました。なぜなら、鈴木先生がアメリカで学んでいたのも神学校ですから、クラスメイトは神学生で、やがて牧師にという人たちばかりです。しかし、そういう神学生たちが、罪をテーマに書こうとしていた彼のことを笑ったのです。しかしそれは、彼らがちゃらんぽらんな神学生だったからではなく、何か理由があると思ったのでした。

ところで、アメリカには、ウィリアム・ウィリモンという人がいます。牧師であり神学者である彼は『主の祈り』という題の本を書きました。その本で彼は、主の祈りの主語が二人称複数なのに注意をうながしました。たとえば、「われらの日ごとに糧」は「私の日ごとの糧」ではなく「われらの糧」である。「われらの罪」も「私の罪」ではなく「われらの罪」である。そこも大事なポイントだと言うのでした。
またこうも書いています。「わたしたちは罪を、個人の失敗みたいに、自分一人の事柄として理解しがちである。しかし主の祈りは、「私の罪」ではなく「われらの罪」と言う。つまり主の祈りが問題にするのは、共同で犯している罪なのである」。

さらに次のような実例で説明しています。「アメリカは、奴隷制度という実に深い傷を負い続けている国です。人種問題はいまだ未解決です。なぜなら、過去はもう変えることはできないし、その解決として白人たちが選べるのは、それを忘れてしまうことだけだからです。今までの差別があまりにも過ちに満ちていたため、もう正しいほうに向きを変えることが不可能になったほどの事態に直面している。私たちはいったい何ができると言うのでしょうか」。
ウィリモン牧師のこの考えは、罪の問題を決してあいまいにしないという姿勢の表れです。ここが、鈴木先生のクラスメイトとの大きな違いですが、ただ彼らもおそらく、子どもの時から教会で、罪についての教えは学んできたはずで、決して自分は罪びとではないと考えていなかったはずです。あえて考えるなら、ウィリモンほど突き詰めて考えてはいなかった、あるいは自分の罪はそんなに重大ではないと考えていたかな だと思うのです。

話は変わりますが、一昨日、1日は関東大震災が発生した日でした。1914年生まれの私の母は、当時9歳で、大阪の小学校に通っていました。当番だったのでしょう、授業後の教室の黒板をふき取り、その黒板にチョークを一本一本ずつ立てかけていた途中でした。そのチョークがいっせいに倒れてしまったのでした。あとで知ったのは、その日の午前11時58分に東京で起きた大地震の影響でした。
ところで、この地震発生の時に、在日の朝鮮人並びに中国人が虐殺されるという事件が起きました。地震が各地に火事を引き起こしたため、社会主義者か朝鮮人による放火のためというデマが飛びかい、そのため武装した民間人が自警団を結成し、朝鮮人たちを見つけ次第殺害しました。逆された者の数は、官庁の記録でさえ482人、歴史学者たちの調査では6644人と報告されています。
当時日本は朝鮮を日韓併合によって統治下に置いたため、朝鮮の民衆の反抗が激しく、当局は日本にいる朝鮮人にも警戒の目を光らせていました。日本の人たちも、朝鮮人はいつ暴動を起こすか分からないという恐怖心を抱いていました。なお、その中に中国人も含まれていたのです。だから、朝鮮人・中国人への差別意識が根強く、残虐な行為にもかかわらず、メディアは非難の声を上げませんでした。

それから百年。先週の9月1日の前後には、東京の文京区や千代田区で、朝鮮人・中国人大虐殺・キリスト者追悼集会というのがいくつか開かれました。けれども、集会の企画者にしても、参加者にしても、大震災発生の時には誰も生まれていなかったのでした。しかし、当時のキリスト教はその事件にほおかむりをしていました。朝鮮人をかくまったり、殺されそうなところを命がけで守ったキリスト者はいましたが、組織としてのキリスト教は沈黙を守り続けました。だから、百年後のキリスト者たちは、そのことと自分は無関係と思えなかったので、「我らの罪を赦したまえ」を祈る行動に出たのでした。

最後になりますが、主の祈りの原文は、マタイ6章9節以下にあります。同じ主の祈りなのですが、私たちがふだん唱えている主の祈りとは、一点だけ違いがあります。それは私たちが口にする「罪」が、マタイ福音書では「負い目」となっていることです。実はマタイのほうがイエスの教えた祈りの言葉に忠実なのです。
つまりイエスの本来の主の祈りは、「我らの負い目を赦したまえ」だったのでした。ウィリモン牧師によれば白人アメリカ人には黒人に対する多大な「負い目」があるのでした。だから、「我らの負い目を赦したまえ」と祈るべきである。これに近い思いが、大震災後百年のキリスト者にも生まれていたのだと思われるのです。
わたしたちは、「われらの罪を赦したまえ」と祈る時、まず自分個人の罪を思います。しかし、そこで終わらず、「われらの罪」という意味の広がりにも、心を向けたいと思うのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

※当日、白髭牧師入院中のため昨年の同じ主日のものを代議員さんに代読していただきました。
次週 9月1日 聖霊降臨後第15主日
説教題:種を蒔く人
説教者:白髭義 牧師
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イエスは永遠の命に至るパン

2024-08-31 14:44:08 | 日記
2024年8月18日(箴 9:1-6、エフェソ 5:15-20、ヨハ 6:51-58)
聖霊降臨後第13主日

「イエスは永遠の命に至るパン」

本日与えられた福音書の箇所は、先々週の主日(つまり、今月の第1日曜日)から福音書の日課として取り上げられている、ヨハネ福音書6章12節以降の記事の続きに当たる箇所です。これらの記事に貫徹しているテーマは、「イエスさまは、ご自身を信じる人が永遠の命に至るためのパンである。イエスさまというパンをいただく人は、永遠の命に至る」ということです。
旧約聖書の出エジプト記にも記されているとおり、モーセによって導かれてエジプトを脱出したユダヤの人々は、モーセに対して「このような荒野を歩き続けて、私たちは飢え死にしそうだ」と不満を訴えます。それを聞いた神さまは人々に対して“天からのパン”として毎朝マンナという食べ物を与えて、人々の空腹を満たしました。
イエスさまは、このマンナを食べて人々の空腹を満たした出来事を引き合いに出しながら、ヨハネ福音書の5章34節で「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と語られます。さらに、48節から50節にかけて「わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは(つまり、イエスさまは)、天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない」というイエスさまのみ言葉が記されています。
このように、エジプトから脱出したユダヤ人の先祖たちは飢え死にしないようにマナを食べてその時々の自らの空腹を満たしてきたが、イエスさまは人々のその時々の必要を満たすのではない、人々が永遠の命を受けるために、ご自身がパンとして人々のうちに留まるよう、天の父なる神さまから地上に遣わされたのだ、と語られます。

さて、本日の日課の箇所には、それまでの箇所には出てこなかった「肉」そして「血」という言葉が出てきます。パン以上に、食事としての現実性・リアリティが与えられるような言葉です。イエスさまは、51節で「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言われ、54節では「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と語られています。
本日の日課を読みますと、クリスチャンの人々(言い換えますと、洗礼を受けている人々)は、「肉を食べる」そして「血を飲む」という表現を聞きますと、聖餐式のことをすぐに思い浮かべられるのではないか、と思います。
主日礼拝の中で聖餐式が行われる場合、牧師はまず設定として、パンを取って「これは、あなたがたのために与える私のからだである」と言われ、ぶどうジュース又はぶどう酒を取って「これは、罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流す、私の血における新しい契約である」と言われます。これによって、クリスチャンは聖餐式においてイエスさまのからだとしてのパンを、そして、イエスさまの血としてのぶどう酒・ジュースをいただきます。そして、最後に配餐後の祝福として「私たちの主イエス・キリストのからだとその貴い血とは、あなたがたを永遠の命に至らせてくださいます」との祝福を受けます。
このように、聖餐式はイエスさまが最後の晩餐の中で言われたように、罪の赦しのための聖礼典として、言い換えますと、私たちがイエスさまにおいて永遠の命に至ることを神さまから目に見える形で祝福されるために、すべての教会で行われます。

本日の日課ではありませんが、旧約聖書の申命記12章23節には次のように記されています、「(主が与えられた牛や羊を屠るときに、)その血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである。」つまり、当時のユダヤ人が守っていた律法では、血を飲むことは律法に反することでした。
この律法があったために、イエスさまの話を聴いていたユダヤ人たちは、イエスさまの「わたしの血を飲む者は」という言葉に「律法に反するではないか」という強烈な拒否感を覚えたに違いありません。52節には、ユダヤ人たちが「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と互いに激しく議論した、と記されています。ユダヤ人たちはイエスさまが言われた「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」という言葉を聞いて、イエスさまご自身の(筋肉や脂肪等といった)身体の肉を食べることと受け取ってしまって、本当にそんなことができるのかと議論を始めたわけです。

このように、ユダヤ人たちにはイエスさまのたとえの表現が理解できず、彼らはイエスさまの言葉につまずいてしまいます。58節に「先祖が食べたのに死んでしまったようなもの(つまり、マンナ)とは違う」というイエスさまの言葉がありますが、ユダヤ人たちは、自分たちの先祖がエジプトを脱出して歩んでいる荒れ野の中でマンナという神さまからの恵みをいただいて空腹を満たしたという、目に見える物質的な意味での捉え方しかできません。目に見えるパンに心を奪われてしまっていた彼らに対して、永遠の命を受けるために本当に必要で大切なことは何か、ということをイエスさまは語られているのです。つまり、イエスさまのみ言葉がたとえた真意とその場にいたユダヤ人たちの理解との間には、大きなギャップがありました。

しかし、それでもイエスさまは“ご自身を受け入れる”ということを、「信じる」という言葉ではなく、「食べる」あるいは「飲む」という言葉で表現されました。飲食(つまり食事)は誰にとっても日常的なことであり、喜びを与えられ、特に複数の人たちで食事をするときはその喜びを分かち合う時です。イエスさまは、私たち一人ひとりの罪を赦し、永遠の命を与えてくださるために、十字架にかかられました。その血はイエスさまの十字架での犠牲を象徴していますが、「食べる」そして「飲む」行為自体は日常生活の中で覚える喜びであるはずです。

イエスさまはご自身を“命のパン”にたとえられました。そして、普段の食事と同じように、ご自身の「肉」を食べ「血」を飲む人々の内に留まることによって、十字架にかかられたイエスさまを救い主として信じて受け入れ、ご自身と一体となって永遠の命を得る、そしてそれが大いなる喜びである、と言われます。この「肉」や「血」とは、イエスさまのみ言葉そして命、つまりイエスさまの存在すべてをたとえて言われた言葉です。
聖書の表現になぞらえて言えば、私たちがイエスさまの「肉」を食べ「血」を飲むことは、イエスさまが私たちの罪の赦しのために十字架につけられた、という事実を私たちが受け入れ、私たちがイエスさまを救い主キリストとして受け入れることを指しています。これによって、イエスさまは、私たちが永遠の命を得て、同時に私たちの内にご自身がいてくださって一体となり、地上だけでは終わらない、ご自身と共に歩む永遠の命を与えられるのだ、と語られます。
このイエスさまの言葉に励まされて、私たちは新しい毎日をイエスさまと共に歩んでいきたいと思います。(信徒説教者:田村圭太)

次週 8月25日 聖霊降臨後第14主日
説教題:罪のゆるし
説教者:代読(白髭牧師コロナの為)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月11日

2024-08-13 08:50:47 | 日記
列王記上19:4~8、エフェ4:25~5:2、ルカ16:1~8
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
二日市教会主日礼拝説教 2024年8月11日(日)
「不正な管理人」
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人おひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話、本日はルカ16章の「不正な管理人」を取り上げます。なおこれは、ある管理人が、主人をあざむき不正を働いたのに、主人が彼をほめたという話なので、戸惑う人が少なくありません。けれどもこれもイエスのたとえ話なので、私たちへのチャレンジとして受け止めながら考えたいと思います。

 話はこうでした。一人の金持ちがいた。そこに密告者が来て、管理人があなたの財産を浪費していると告げた。つまり管理人とは、主人の財産の管理をする人間だったのでした。さて主人には、彼から借金をしていた人が何人もいました。しかも、その金額も莫大でした。ある人は油(オリーブ油)百パトスの借り。主人の土地を借りてオリーブを栽培し、主人に上納する約束でした。
なお、パトスというのは液体の容量の単位で、今ならリットルです。女性が井戸で水汲みをしてその水を入れた水がめの一杯分が1パトスです。油百パトスも水がめ百杯分のオリーブ油になります。ところで、百パトスの油を得るためには何本のオリーブの樹が必要だったか。ある学者は150本だと言っています。
ただし、主人が欲しいのは油でなくお金でした。油は業者が買い取りに来たので、お金になりそれが主人に納められました。業者が油を売りさばくので、オリーブ栽培者は栽培に専念することが出来ました。この経済の循環が回転するなら問題はありませんでした。ところが、管理人の不正を密告する者が出てきたのでした。

だから、主人は管理人を呼びつけました。なお主人は、管理人が住む場所からはかなり離れた都会に住んでいたので、そこに行って帰って来るためにはかなりの時間が必要でした。それはともかく、主人はやってきた管理人に言いました。「お前のことで悪い話を聞いた。すぐ会計の帳簿を提出せよ。今後管理は任せられない」。すなわち解雇通告でした。なお、帳簿は管理人が保管していたので、彼はいったん自分の事務所に帰り、帳簿をたずさえて再び主人のもとに出頭する必要がありました。ということは、主人が実際帳簿に目を通すまでにはまだ時間があったのです。管理人はこの時間を最大限に活用しようとして知恵をめぐらせました。ところで、こんな管理人に下されるのは厳しい処罰に決まっていました。最低限そういう人間は牢屋にぶちこまれたからです。ところが、この主人がしたのは解雇通告のみでした。この情け深さ! 管理人はそのような主人の性質をよく知っていたのでした。

さて事務所に戻ると管理人は、主人に借りのある人を順番に呼び出しました。その人たちの中には小麦を百コロス借りている人もいました。なお、百コロスの小麦を収穫するには東京ドーム31個分の畑が必要だとある学者が書いていました。それはともかく管理人は、まず「油百パトス」の人に証文を見せて、記されている百パトスを50パトスに書き直すよう指示しました。また「小麦百コロス」の人も百を80に書き換えるよう言います。つまり、彼らの借金を大幅に減額してやったのでした。だから借財人たちは身も心も軽くなって家に帰って行ったのでした。
しかし、このような操作が通用するのは、主人が帳簿を見るまででした。その帳簿には、油百が50に、小麦百も80に書き換えられていたからです。自分が帳簿上受け取れることになっている金額がばっさり減額されていた。普通なら誰でも激怒する場面でしたが、彼は「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」のでした。
ところで、この帳簿の改ざんはよく考え抜かれていました。なぜなら、当時の社会にも物価の公定価格のようなものがあったからです。つまり、オリーブの人も、小麦の人も、その価格分だけしか支払わなくても、主人は損はしないようになっていたのでした。管理人は、借財人たちにその価格分は支払うように、しかしそれ以外は払わなくてよいという意味の帳簿の改ざんをしていたのでした。
ところで、それ以外の分とは利息のことでした。利息は高利で、借財人には大変な負担でした。管理人はそれを減額、あからさまに言うとチャラにしたのでした。ところで管理人はいつものように、それを主人の命令であると言いながら行ったので、借財人たちは泣いて喜び、ご主人さまの慈悲深さをたたえ、そのことを世間に言い触らしながら、盛大な祝宴を始めました。まさにその時間に、主人は帳簿を開いたのでした。当然、改ざんが明らかになります。主人が世間のご主人と同じ人間だったら、管理人のやったことを全て破棄したことでしょう。しかし、彼は「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」のである。それはなぜか? ここに私たちが学べる何かがあるようです。
さてそのポイントの一つは主人です。主人は懐が広く、極悪な管理人を厳罰にせず最後まで突き放していません。もう一つは管理人です。悪を重ねている最中も、主人の憐み深さを見失ってはいません。これらからイエスは、「本物の信仰とは?」の問いを私たちに発していると思われるのであります。

次週 8月18日 聖霊降臨後第12主日
説教者:田村圭太 信徒説教者
説教題:イエスは永遠の命に至るパン
※白髭牧師は夏休みです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

8月4日

2024-08-09 12:05:38 | 日記
出エジプト16: 2~4 9~15、エフェ4:1~16、マタイ6:28~34
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
二日市教会主日礼拝説教 2024年8月4日(日)
閑話休題
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人おひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
【前置】先週のはじめに眼瞼下垂の手術をしまして、そのあと順調に回復が進んだのですが、細かい字が読みづらいという状態が長引いて、説教の準備に支障が続いています。これも今週予定の抜糸でだんだん良くなるのではと思いながら、本日は週報にも書いたように「閑話休題」、つまり徒然なるままの話とさせていただくことにしました。

 ところで、これも週報ですが、本日は?「平和の主日」となっています。これは、広島・長崎の原爆投下、15日の終戦記念などいくつかの要素を含んでおり、特定の日というよりは8月全体を「平和の祈り月間」と受け止める考えがあるということだと思います。なお、九州教区から「平和の祈り」の言葉が届くことになっていますが、まだ来ていませんので、到着次第礼拝でも取り上げたいと思います。
 ところで「閑話休題」の話ですが、最近私は、テレビを観ていて、あることがひらめきました。観ていたのはNHKEテレ日曜日のクラッシック音楽館という番組で、その日はメンデルスゾーン特集でした。指揮は、最近N響に就任したイタリア人のファビオ・ルイージで、演奏されたのに「交響曲第5番宗教改革」がありました。これを聴いてあることがひらめいたのですが、それはルイージの作品解説に触れたからでした。なお、メンデルスゾーンの第5交響曲ですが、これは本当は5番ではないとルイージは言っていました。

 なお、メンデルスゾーンは生涯5つの交響曲を書いています。まず第1番と第2番があって、次の第3は有名な『スコットランド』です。その次の4番も大変有名な『イタリア』で、そのあと第5番『宗教改革』となっています。ところが、ルイージによると、第5は本当は第2になるはずだったのでした。というのも、今もそうかも知れませんが、当時は作曲家が五線譜に書いた時点の順番ではなく、それが出版社で印刷され出版された時点が作曲年度になるよう定められていたからです。メンデルスゾーンは交響曲第1番を書きそれは出版されましたが、その次に書いた「宗教改革」という交響曲の楽譜は出版社には渡さず、書斎で寝かしたままでした。そして、そして別の交響曲を書いて出版社に渡したので、それが交響曲第2番になりました。すると次の交響曲も完成する、それは第3番『スコットランド』となり、さらに第4交響曲『イタリア』も完成してゆきましたが、交響曲「宗教改革」は眠ったままだった。やがて作曲者は死に、20年後に『交響曲第5番・宗教改革』という楽譜が出版され、世の人が知るところとなった。ルイージの解説によると、メンデルスゾーンはこの曲が公になることを望んでなかったのでした。

 さて、ルイージの話によると、メンデルスゾーンは楽譜に何度か手を入れましたが、ことごとく不満でした。また、彼の仲間たちもこの交響曲をあまり評価しませんでした。しかし、それから二百年もたった今、指揮者ルイージは「この交響曲は正統派の流れにあり、とても美しく興味深い」と語っていました。この二百年間、この第5番、宗教改革は、不当に低く評価され、その考えが今も欧米に残っているのかも知れません。ルイージはだからこそ、日本のクラッシックファンにこの作品の真価を知ってもらいたくて、N響に演奏させたのかもしれません。ただ、この第5番「宗教改革」はテレビで放送されるのは多分初めてで、また演奏会でもが耳にすることがなかった交響曲かもしれません。
 けれども同じ日本人でも、親近感を抱く人間もいるかも知れないのです。それは、日本のプロテスタント教会の人間のことで、明治期からずっとルターの「神はわがやぐら」を歌い続けてきたからです。しかも、最後の第4楽章で、この讃美歌が高らかに全楽器で演奏されるのですから、たまったものではありません。

 ところでルイージは、このシンフォニーは宗教曲であると断言しました。宗教曲と聞いて尻込みする人もいるかもしれないけれど、バッハの音楽は宗教曲、フォーレの「レクイム」も宗教曲、シューベルトの「アヴェ・マリア」も宗教曲で、日本人はもう楽しんでいます。メンデルスゾーンの宗教曲と聞いても驚く必要はないことでしょう。けれどもそれよりも大切なポイントがこの交響曲にはあるのです。
それは、埋もれていたバッハ音楽を陽の目に当たらせ、それの驚くべき価値を世に知らしめたのがメンデルスゾーンだったことです。そういうことが出来るのは、バッハを知り尽くした人間だけでした。そして、そのバッハはルターの宗教改革の考えから多くを学んでおり、メンデルスゾーンもルターを深く尊敬していました。ルターとバッハとメンデススゾーンの三者はこうして固いきずなで結ばれているのでした。そのメンデルスゾーンが自分の交響曲に「宗教改革」という題を付けたことの意義を、私たちはよく理解したいのであります。

ところで、この曲を聴いてひらめいたことは、これを今年の10月27日の宗教改革主日の礼拝で演奏してみようということでした。なお私は知らなかったのですが、今は大作曲家の作品はスマフォで全部聴けるのだそうで、早速メンデルスゾーンの第5番を入力してみるとすぐ演奏が始まりました。つまり、今は小学生でもそれが出来るということで、大変驚かされた次第であります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 8月11日 聖霊降臨後第12主日
説教題:不正な管理人
説教者:白髭義 牧師

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月28日

2024-08-01 16:13:22 | 日記
列王記下4:42~44、エフェ3:14~21、ルカ14:15~24
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
二日市教会主日礼拝説教 2024年7月28日(日)
「イエスのたとえ話 大宴会」 
☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧☧
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さまお一人おひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。本日はルカ14章の「大宴会のたとえ」をごいっしょに考えてみたいと思います。
ところで、これを考える前に、鉄道のことを考えたいと思います。それは、鉄道模型や、子どものプラレールに欠かせないレールのポイントのことです。走ってきた汽車が、その先はA方向かB方向かを選ばなければならない分岐点に必ずあるのがポイントだからです。先日のフランス高速鉄道事件でも、犯人はポイントの破壊をねらっていたようで、そのようにポイントは鉄道の生命線に等しい存在なのです。
なお、AかBのどちらか選ぶのも、列車の運転手ではなくポイントという機械です。ポイントは、昔は転轍機と呼ばれていて、その場所に鉄道員が行き転轍機のかなり大きなレバーを前方か後方にぐいと倒しますと、レールがちゃんと音を立てて右か左に動いて、レールを正しい進行方向に向けて調整しました。今では全部電気仕掛けになって、転轍機は姿を消しました。
ただしポイントという機能は今でも大事です。それが故障した時に汽車が猛スピードで走って来て、正しい方向に進めなかったために大事故になったこともありました。本日のたとえ話も、このポイントを思わせるものが出てくるのです。
ところで、このたとえ話には、奇妙なことが書かれていました。なぜなら、宴会の主催する主人が、宴会に招待したい人を選んで早めに案内状を送り、当時の出欠の確認まで取っていたというのに、当日になって家の僕を行かせて、宴会の準備が整いましたからどうぞお越しくださいと言わせたところ、誰もがそれを断ったという話になっていたからです。

たしかに奇妙な話ですが、それでは彼らがなぜ断ったのかが大事になります。ところで、僕が彼らから聞いた理由は、一見もっともなことでした。たとえば最初の人の理由は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません」で、二番目の人は「牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べているところ」だったからです。当時のことをほとんど知らない私たちなら、「それは大変、欠席も仕方ないよね」となるのかもしれませんが、このたとえ話をイエスからじかに聞いていた人たちには、とんでもないあきれた理由でしかありませんでした。
というのも、たとえば「畑を買った」人ですが、私たちは簡単に「畑を買う」と言いますが、当時はそれが人生の一大事だったからです。緑が豊かな日本ならいざ知らず、聖書の舞台の中東は耕作可能な土地が限られていたので、畑の売買もめったに行われず、手に入れたいと思ったら、何年もかけて現地を視察し、本当に耕作に適しているかチェックし、石橋をたたいて渡った末に売買契約をして支払いをしました。しかしこの人は、買った土地を今初めて見に行くと言ったものだから、イエスのこのたとえ話を聞いていた人たちは、何と間抜け!なとも思いますが、待てよこの男は大嘘をついて宴会への招待を足蹴にしたのではと思ったのでした。
さて二番目の「牛を買った」男の言い訳もあやしいものでした。彼は牛を10頭も買った。今からその牛を見に行くというのですが、牛10頭とは相当な資産家がすることでしたが、それにしても、自分はそのため大金を払ってしまったところだから、今ただちにその牛たちを点検に行かねばならない。この言い訳にも、何かうさんくさい匂いがただよっていました。
というのも、牛を持つ目的は耕作のためで、耕作に適しているかどうかは、体つきや皮膚の状態、また性質など数多くのチェック項目があったからです。お金を払ったあとで傷を見つけてもあとのまつり。買う前に時間をかけるのが常識だったのに、この男はそれをしていない。イエスの話を聞いていた人たちは、この男も愚かというよりは意図的に宴会を台無しにしてやろうという魂胆があったにちがいないと思ってしまうのでした。
なお、三番目の人間の「妻を迎えたばかり」云々は、当時の感覚では、男がけっして人々の前で口走ってはならない、卑猥で露骨なセリフでした。これを、せっかく宴会に招待してくれた主人にあてつけがましく口にすることは、主人をとんでもなく侮辱したことにほかなりませんでした。彼はこんなことをしてまで、宴会の主人の顔に泥を塗ったのでした。

さて、宴会に客を招待するにあたって、家の主人がいちばん考えることは、最も親しくお付き合いをしている人たちを招いたいということでした。気心が知れていて、楽しい会話が楽しめる者たちこそ、食事を共にするにふさわしいと考えるからです。なおこの主人の場合は、その人たちは裕福で上流階級の人間でしたが、そういうことよりも主人が大事に考えたことは、ベストフレンドを招待することでした。こうして選び抜いた招待客の誰もが断ってきたのである。ありえない、絶対にあってならないことが起きたのでした。

さて、ここで重要なキーワードが現れます。それは「主人の怒り」でした。「すると、家の主人は怒った」と書かれています。当然すぎるくらい当然だった。けれども、主人のこの怒りには、先があるのでした。
というのも、彼はここでポイントのレバーをぐいと引いたからです。すると、直進してきた怒りの汽車が、仕返しとか復讐という方面ではないもう一つの方面に向かうレールの上を走り始めたのでした。(結論を先取りしてしまいますが、このことにイエスが考える愛の神の本質が現れているのです)。
さて、どんなレールだったかというと、彼は僕に、誰でもいいから通りにいる人を家に連れて来るように命じたからでした。自分はこれから、見知らぬ人たちと食事を共にしたいのだと言ったのでした。それには、貧しい人も、体の不自由な人も、目の見えない人も、足の不自由な人もいるのだが、そういう人も誰一人排除してはならない。こうして家は客人でいっぱいになりました。めでたし、めでたし。

ところでこのたとえ話は、現実にはありえないようなことの積み重ねでした。それでも、社会的に親密な関係にある人たちが、大宴会への招待を目前にして、とんでもないことを口走り始めたことは、神の国の宴会に招待されているにもかかわらず、それに応じようとしない人間のかたくなな心の現実が描写されていたと言えるかも知れません。
しかし、それ以上に大事なことは、天国の宴会に招かれることは夢にも思ったことがない人たちが、実はそれに招かれているという神の国の現実を、イエスは語っていたのかも知れません。ところが、その人たちが招待に応じて行ってみても、優先的に招待されていたはずの人たちの姿が見当たらなかったという、もうひとつの現実をも、イエスは示唆していたと思われるのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 8月4日 聖霊降臨後第11主日
説教題:二人の家造り大工
説教者:白髭義 牧師

≪暑中お見舞い申し上げます≫
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする