日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

6月25日説教 イエスの平和の教え

2023-06-29 12:41:42 | 日記
「イエスの平和の教え」
マタイ10:34~39

 「平和ではなく、剣を」という教え

今日のみ言葉ほど私たちを不安にさせる言葉はありません。山の上で「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と説教されたイエス様の教えこそが本当の教えだと考えているからです。
クリスマスには、イエス様の誕生を高らかに賛美した天使たちの歌声を耳にします。「地には平和」(ルカ2:14)と。イエス様が「平和の君」(讃美歌30番)としてこの地上に生まれてくださったことを感謝し、十字架の前夜には、イエス様を捕まえようとやって来た男の片耳を剣で切り落とした者に、「剣を納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と諫められたことを私たちは知っています。剣ではなく、平和を愛される方がイエス様であることを誰もが疑わないはずです。
しかし今日は違いました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(10:34)と言われたのです。私たちが知っている教えとは随分と異なる教えであることに戸惑ってしまいます。今日の教えをどう聞けば良いのか、相応しい答えが見い出せないように思えるのです。
もし今日の教えこそがイエス様の本心であるとすれば、もう1年半になるウクライナでの戦争は「剣がもたらした戦争である」と言える最たるものですから、この戦争はイエス様の教えの通りだということになりかねません。もしそうなら、今日のイエス様の教えはこの世に起こっていることと何も変わらないように思えるです。
でもやはりイエス様の教えは、私たちの生きているこの世の出来事とは違うのではないか、そう思いたいのです。いや、「思いたい」という願望ではなく、事実違うのではないか、それを今日皆さんとしっかりと受け取って行きたいと思うのです。

 「引き裂く」という言葉
そこでまず、今日のみ言葉のひとつに目を向けたいのです。35節の言葉です。「わたしは敵対させるために来たからである」と言われました。「わたしは敵対させるために来た」と言われるのですから、剣をもたらすことには目的があったことが分かります。「敵対させる」ためです。人はその父に、娘は母に、嫁はしゅうとめに「敵対させるために」剣をもたらすのです。
この「敵対させる」という言葉ですが、少し説明を加えたいと思います。とても注意を要する言葉だからです。「敵対させる」と言うと、きっと皆さんは「喧嘩する」とか「仲たがいする」という意味に受け取っていらっしゃると思います。普通はそれでよいのですが、でもこの言葉の元々の意味は少し違うのです。「二分する(二つに分けるということ)」とか「引き裂く」という意味を持っている言葉です。ですからある人は「わたしは人をその父から、娘を母から、嫁をしゅうとめから引き裂くために来たからだ」(10:35)と訳しています。
「引き裂く」と言うからには、そこに密着した状況があるのです。ぴったりとくっついているから引き裂く、あるいは引き離すと、こういう時に使う言葉です。例えば「家族は一心同体である」と言うことがありますが、それは好意的な意味を持つはずです。でも何事もそうですが、麗しい言葉にもある影が潜んでいるものです。美しく、麗しい言葉であるがゆえに、逆にその影が見えなくなっている。
その良い例が、この福音書では20章20節以下に書いてある出来事です。弟子の二人にヤコブとヨハネがいます。先週の福音書はイエス様が12人の弟子を選ばれたというところでしたが、そこに「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」という名前が出て来ましたが、そのヤコブとヨハネの母親が愛する息子二人を連れてイエス様のところにやって来たという話です。「イエス様が王座に着かれる際には、息子二人を両隣りに座らせてください」と取り入ったのです。皆さまもよくご存じの話です。他の十人はそれを聞いて腹を立てたと書いてあります。
でもこれはよくある話です。「家族は一心同体である」、そこから生じた陰の部分です。これはまだ可愛げのある話ですが、でもそれが高じると悲惨なことになりことが起こります。犯罪に発展することも珍しいことではなりません。家族愛が過ぎるのです。

  キリストの教えが
どうしてそういうことが起こるのでしょうか。家族の間が近すぎるからです。密着し過ぎて、そこには何者も入る隙間がないからです。誰かが、何を言っても耳に入らないということになるのです。いや、そういう人生の訓戒で済めば、それはそれで済むのです。
でもイエス様が言われていることは、もっと重要な意味があるように思うのです。あまりにも家族の間で密着し過ぎて、何ものも入る隙間がないのであれば、そこにイエス・キリストという貴い方が入る隙間さえなくなるのです。これが大きな問題なのです。イエス様の教え、聖書のみ言葉が染み入る隙間がない、と言ってもいい。家族の中に、イエス・キリストが入る隙間が全くないほどに、家族の中が一心同体であるとすれば、それは決して麗しい言葉として片付けてはいけないのです。

  十戒の教え
教会に「十の戒め」があります。モーセの十戒です。私の教会の教会学校では毎週十戒を唱えるのですが、そこでいつも心に刻むことがあります。十戒のひとつは「あなたの父と母を敬いなさい」という言葉です。今日の37節にあった「わたしよりも父や花を愛する者は、わたしにふさわしくない」という教えと真逆の教えです。ここだけ読むと、今日の教えと十戒の戒めとは互いに逆のことを言っているように思えます。
でもそれは間違いです。十戒は大きく二つに分けることができるのですが、最初に神様と私たち人間の関係が述べられます。縦の関係です。その次に人間同士のことが語られます。汝の父と母を敬え、殺してはならない、盗んではならないということが続きますが、これは横の関係です。
十字架と同じです。最近、私たちルーテル教会でも「十字を切る」ということが行われるようになりました。「父と子と聖霊のみ名によって」という時に十字を切るのです。それには順番がある。まず縦に切る、そして次に横に切る、そういう切り方です。まず神様と私たちの関係、縦の関係がある。天の神とこの地上で生きている私たちです。まず神様との関係がしっかりしていなければなりません。人間同士の横の関係を語る前に、先に、縦の関係がしっかりしなければならない。人間同士の関係にあまりにも密着した関係があるならば、そこに楔を打ち込むかのように神様との関係が語られるのです。
そのことをイエス様は「わたしよりも父や母を愛する者は」と言われたのです。「父や母を愛する」ことが悪いのではない。「わたしことよりも先に」、いや「わたしのことをさておいて」家族の中のことに思いを注ぎ、愛を注ごうとするときに、好ましくないことが起こってしまうのです。

 キリストは家のかしら
話が変わりますが、東久留米に自由学園というキリスト主義の学校があります。そこで手掛けた様々な手芸品や製作物が池袋にある明日館(みょうにちかん)というところで販売されています。F.L.ライトというとても有名なアメリカの建築家が設計した建物としても知られていますが、そこで壁掛けが販売されています。それにはこういう意味の言葉が彫刻されています。

「キリストはこの家のかしら 全ての食事の見えない賓客 全ての会話の無言の聞き手」(英文:Christ is the Head of this House,The Unseen Guest at every Meal,
The Silent Listener to every Conversation.)

私はこの言葉をとても気に入っているのですが、これは聖書の言葉ではありません。しかし今日のイエス様の教えをとても相応しく表現した言葉、詞であるように感じるのです。「この家」という言葉ですが、これは今日の家族のことと読めるのです。「人をその父、娘を母に、嫁をしゅうとめに」と言われるのですから、家族のことです。その家族は、例えば「一心同体である」と言われることがあり、またそれは模範的な家族の表現でしょう。しかしその家族のそれぞれの間は密着していて、もうそこに何者も入る隙間さえないようになってしまっているということでもあったのです。
ところが今例として挙げた自由学園の壁掛けには、「キリストはこの家、この家族の、父と子、母と娘、嫁としゅうとめのかしらだ」と刻まれているのです。これは家族の中にキリストが入り込んでいるという意味ではないでしょうか。しかも家族の、その家の片隅に添え物のように、時々登場するというものではない。頭(かしら)なのです。食事の時も、団らんのときも、いやたとえ一人でいるときであっても、そのかしらはキリストだと言っている。そう言える家族には、今日の最初に戻るなら「キリストが入る隙間」があるのです。

  キリストのために失うこと
今日の剣の話は、家族だけが問題になっているように見えますが、そうではありません。イエス・キリストという方がかしらとして立たれる隙間や余地のないということは、いつでも、どんなところでも起こり得るのです。教会も「家族」と呼ばれることがあります。ですから教会の信徒同士の関係においても言えることなのです。
み言葉が宿る隙間を作るのです。イエス様がかしらとして立ってくださるところを作りだすのです。そこにイエス様の平和がきっと宿るのです。そこから私たちにとって「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」という道が開かれて行くに違いなのです。
二日市教会の皆さんの上に、信徒の交わりの上に、キリストの平和が宿りますようにお祈りいたします。 アーメン (日本ルーテル神学校校長立山忠浩)

次回7月2日(日)
『あなた方の父なしに』 樂満大樹神学生
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6月18日説教・メルヘンと信仰

2023-06-20 09:48:45 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年6月18(日)
聖霊降臨後第2主日
ホセア5:15~6:6、ロマ4;13~25、マタイ9:9~13,18~26

メルヘンと信仰

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
これまで私たちはグリム童話のことを考えてきましたが、今回でそれはおわりにしたいと思います。そこで今回はまとめの意味で「メルヘンと信仰」のテーマで、キリスト教の立場から改めて考えてみたいと思います。
そこで最初に、ある男の人のメルヘン体験というのを見てゆきたいと思います。その人は、精神科の医者ですが、その子ども時代は、母親の優しさに包まれての幼児期があり、さらにそれが終わった時期から、父親が息子に昔話を話してくれるようになりました。日本の昔話でしたが、同じ話を何度聞いても聞き飽きることがありませんでした。
やがて、その体験の延長線上のように、今度はグリム童話の世界にいざなわれました。決定的だったのは、小学三年生の時グリム童話の全集を買ってもらったことでした。少年はたちまちその魅力のとりこになりました。ファンタジーの中の怪力ハンスに自分がなりきったり、時には白雪姫やいばら姫にあわい恋心を抱いたりと、弱虫で軟弱な少年だったのに、至福の時が過ごせました。
ところが、それほどお世話になったのに、成人するとメルヘンからもグリム童話からも離れてしまい、そんな世界があったことすら完全に忘れてしまいました。
そして、良く歳月が経ち、少年は四十代になり、鬱(うつ)になりました。ちょうどその時、あのグリムとメルヘンの世界が、心に急浮上してきたのでした。以来、それは彼をとらえて離さなくなったので、彼はとうとうグリム童話の研究者の一人になったのでした。
この話は放蕩息子を思い出させるものがあります。聖のイエスのたとえ話ですが、高齢にさしかかりはじめた頃、何十年ぶりに教会に来るようになった人の口から、自分は放蕩息子であるという言葉を聞くことは、珍しいことではありません。あるいは、教会には来なくても、同じような思いを抱く体験をする人も少なくないのではと思います。
つまり、それほど、放蕩息子は見事なお話であって、イエスのストーリー・テラーとしての力量を覚えさせてくれます。私たちだって、その世界にグイと引き込まれてしまうからです。
イエスが語っている世界で、主人公は不安や絶望に遭遇しながら、最後には幸せになりますから、それはもうメルヘンです。でもキリスト教会には、そういう言い方、考えに賛成しない人がけっこういるものです。
イギリスにグレアム・グリーンという作家がいました。代表作は『権力と栄光』で、映画『第三の男』の原作者としてもしられています。又彼は、カトリックの作家としても知られていますが、生まれ育った家庭はプロテスタントでした。しかも厳格なプロテスタントで、父は妻に、子どもたちにグリムなど童話の読み聞かせをすることを固く禁じていました。成人したのちに、カトリックに改宗したのですが、彼はそのような父親の信仰のことをこう書いていました。「父の厳格なプロテスタント信仰にとって、メルヘンと神の言葉は火と水のように両立しなかった」。
なお、彼の父親だけでなく、まじめで厳格なプロテスタントの人ほど、メルヘンには否定的でした。なぜなら、メルヘンはキリスト教の純粋な信仰を食べてしまう邪悪なオオカミなのだから・・・。
これは、裏返して言えば、彼らはメルヘンの影響力を知り尽くしていたということです。教会が子どもたちにしてあげるお話よりも、メルヘンやグリム童話のほうがはるかに魅力的だったからです。そのことを認識したうえでそれをキリスト教の味方にしてしまう作戦を巧みに取ったのはカトリックでした。しかし、グレアム・グリーンの時のプロテスタントは敵対心を抱きつづけたのでした。
その時期からもう百年はたっています。今のプロテスタントは昔のままではないはずです。けれども、過去の敵対心に取って代わって今は無関心であるというのなら、それは解決とは言えないはずです
ところで、放蕩息子的体験をしたあの精神科の医師は、「グリムは心の診察室」であると言っています。思えばイエスも、相手の心を診るお医者さんでした。イエスの考えと生き方に賛同する人は、そこから解決の糸をたどってゆけばよいのではないかと思うのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次週6月25日は、日本ルーテル神学校 校長 立山忠浩先生
         説教題「イエスの平和の教え」


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6月18日説教・メルヘンと信仰

2023-06-20 09:42:36 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年6月18(日)
聖霊降臨後第2主日
ホセア5:15~6:6、ロマ4;13~25、マタイ9:9~13,18~26

メルヘンと信仰

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
これまで私たちはグリム童話のことを考えてきましたが、今回でそれはおわりにしたいと思います。そこで今回はまとめの意味で「メルヘンと信仰」のテーマで、キリスト教の立場から改めて考えてみたいと思います。
そこで最初に、ある男の人のメルヘン体験というのを見てゆきたいと思います。その人は、精神科の医者ですが、その子ども時代は、母親の優しさに包まれての幼児期があり、さらにそれが終わった時期から、父親が息子に昔話を話してくれるようになりました。日本の昔話でしたが、同じ話を何度聞いても聞き飽きることがありませんでした。
やがて、その体験の延長線上のように、今度はグリム童話の世界にいざなわれました。決定的だったのは、小学三年生の時グリム童話の全集を買ってもらったことでした。少年はたちまちその魅力のとりこになりました。ファンタジーの中の怪力ハンスに自分がなりきったり、時には白雪姫やいばら姫にあわい恋心を抱いたりと、弱虫で軟弱な少年だったのに、至福の時が過ごせました。
ところが、それほどお世話になったのに、成人するとメルヘンからもグリム童話からも離れてしまい、そんな世界があったことすら完全に忘れてしまいました。
そして、良く歳月が経ち、少年は四十代になり、鬱(うつ)になりました。ちょうどその時、あのグリムとメルヘンの世界が、心に急浮上してきたのでした。以来、それは彼をとらえて離さなくなったので、彼はとうとうグリム童話の研究者の一人になったのでした。
この話は放蕩息子を思い出させるものがあります。聖のイエスのたとえ話ですが、高齢にさしかかりはじめた頃、何十年ぶりに教会に来るようになった人の口から、自分は放蕩息子であるという言葉を聞くことは、珍しいことではありません。あるいは、教会には来なくても、同じような思いを抱く体験をする人も少なくないのではと思います。
つまり、それほど、放蕩息子は見事なお話であって、イエスのストーリー・テラーとしての力量を覚えさせてくれます。私たちだって、その世界にグイと引き込まれてしまうからです。
イエスが語っている世界で、主人公は不安や絶望に遭遇しながら、最後には幸せになりますから、それはもうメルヘンです。でもキリスト教会には、そういう言い方、考えに賛成しない人がけっこういるものです。
イギリスにグレアム・グリーンという作家がいました。代表作は『権力と栄光』で、映画『第三の男』の原作者としてもしられています。又彼は、カトリックの作家としても知られていますが、生まれ育った家庭はプロテスタントでした。しかも厳格なプロテスタントで、父は妻に、子どもたちにグリムなど童話の読み聞かせをすることを固く禁じていました。成人したのちに、カトリックに改宗したのですが、彼はそのような父親の信仰のことをこう書いていました。「父の厳格なプロテスタント信仰にとって、メルヘンと神の言葉は火と水のように両立しなかった」。
なお、彼の父親だけでなく、まじめで厳格なプロテスタントの人ほど、メルヘンには否定的でした。なぜなら、メルヘンはキリスト教の純粋な信仰を食べてしまう邪悪なオオカミなのだから・・・。
これは、裏返して言えば、彼らはメルヘンの影響力を知り尽くしていたということです。教会が子どもたちにしてあげるお話よりも、メルヘンやグリム童話のほうがはるかに魅力的だったからです。そのことを認識したうえでそれをキリスト教の味方にしてしまう作戦を巧みに取ったのはカトリックでした。しかし、グレアム・グリーンの時のプロテスタントは敵対心を抱きつづけたのでした。
その時期からもう百年はたっています。今のプロテスタントは昔のままではないはずです。けれども、過去の敵対心に取って代わって今は無関心であるというのなら、それは解決とは言えないはずです
ところで、放蕩息子的体験をしたあの精神科の医師は、「グリムは心の診察室」であると言っています。思えばイエスも、相手の心を診るお医者さんでした。イエスの考えと生き方に賛同する人は、そこから解決の糸をたどってゆけばよいのではないかと思うのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)


次週6月25日は、日本ルーテル神学校


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6月4日説教・眠り姫的生き方

2023-06-17 15:18:27 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年6月4日(日)
三位一体(聖霊降臨後第1)主日
創世記1:1~2:4a、Ⅱコリ13;11~13、マタイ28:16~20

眠り姫的生き方

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日は三位一体という日曜日です。神を、父・子・聖霊と考えるのが三位一体の教理ですが、一言では説明しきれない複雑な内容です。けれども、父・子・聖霊という三つの頂点がある三角形のようなものだという説明はよくされてきました。それからもうひとの説明として、その上に父子聖霊という三つのポイントがある円のようなものだというのもあります。三角形の説明は西欧のカトリック圏で、円での説明は東欧つまりギリシア・ロシア・ウクライナ等の正教と呼ばれているキリスト教圏です。同じキリスト教なのに、三位一体の説明の仕方が違うというのは、とても興味深いことではあります。

さて、私たちは今グリム童話について考えています。そこで本日は『眠り姫』を取り上げます。ただ、この話は、『いばら姫』とか『のばら姫』という題もあります。岩波文庫のグリム童話集では『野ばら姫』で、福音館文庫は『いばら姫』というようにです。
しかし、私たちが本日「眠り姫」という題を選びたいのは、このお話のテーマはどう考えても眠りであると思えるからです。くわしくはまたあとで考えます。ところで、あと『眠れる森の美女』という題もあると思うのですが、それはディズニー映画の題です。とても素敵なアニメなので、影響力も大です。映画も活字もそれぞれ楽しめばよいのですが、ひとつだけ、両者の違いにこだわらざるをえないことがあります。そのことも後で考えたいと思います。
それではまず、話の内容に入ってゆきます。最初は、お城で開かれる大宴会の場面です。王様に女の子が生まれたことをお祝いするためですが、大勢の人に招待状が出されました。そころが、それをもらえなかった占い女が、祝福でなく呪いをその子に投げかけました。その子は15歳になると、糸巻きの棒に指を突かれて死ぬであろう。しかし、もう一人の占い女が、その呪いをやわらげ、その子は死ぬのではない、眠るだけだと預言しました。
さて、その子もやがて15歳になりました。映画も原作も預言どおり、彼女は糸巻き棒に刺されて死にますが、あとの預言の通り、彼女は死なないで眠りました。しかし、ここから映画と原作の食い違いが目立ってきます。なぜなら、眠り姫が眠る時間は、映画ではわずか数日間なのに、原作は百年間だったからです。ところで、映画の眠り姫はすぐ目が覚めて、森の中に隠れて、楽しく暮らすことになります。しかし、原作の姫は百年の眠りですから、映画とかみ合うはずがありません。
なお、メルヘンのヒーローの代表といえば白馬の王子様でしょう。そのように、ディズニー映画にはそういう王子が登場します。彼は、姫を救うために巨大な竜と戦いそれをやっつけます。そしてめでたく結婚しました。けれども、グリムの『眠り姫』の王子様はまったく違っていました。なぜなら彼は、悪や怪物と戦うことは一度もせず、とても簡単にお城に入りこめたからです。こう書かれています。「そこで王子は、もっと奥へ進んでゆきました。そしてとうとう、あの塔のところに来て、あの戸をあけると、いばら姫が眠っていました」。そして王子が姫にキスをしました。すると、姫はばっちり目をあけて、眠りからさめ、とてもなつかしそうに王子をみつめました」。
なお、「なつかしそうに」は余計な言葉です。なぜなら、二人が会うのはこの時が初めてだからです。それよりも重大なことは、眠っていたお城の人間たちも全員いっしょに目を覚ましたことです。なぜなら、この日こそが預言が言っていた眠りの終了日だったからです。ということは、王子のキスがあろうがなかろうが、姫もこの時点で目覚めるさだめになっていたのでした。
要するに、王子様は、あの白馬の王子ではなかったのでした。この童話ではヒーローは不在なのです。そこで考えたいことは、それでは眠り姫はいわゆるヒロインだったかどうかです。白雪姫やシンデレラのように。しかり、グリムの原作を読む限りでは、姫は、危機や大困難に見舞われてはいません。たしかに、塔の上では糸つむぎの棒に触れて倒れますが、それはあくまで彼女の不注意、好奇心のなせるわざでした。それに話全体を読んでも、ヒロインっぽいかっこいいことは何もしていません。つまり、この話は、ヒーローもヒロインも見当たらない。さて、そういう要素が皆無となると、行動には一度も見せていません。さてそうなると、この話の見せどころはどこにあるのでしょうか。
ところで、話しは変りますが、大塚和子さんという人が書いた『こどものこころ』という本があります。大塚さんは、キリスト教保育の道一筋に歩いてきたその道の大ベテランですが、こう書いていました。「人間の行為の中で、もっとも美しい行為は祈りです」。さらに、こうも書いていました。「人間にとって、いちばん重要な能力は、祈る能力です」。様々なことで心を乱され、思い煩うことの多い世の中であればこそ、子どもたちは未来に向けて、希望をもって祈っているのだと、彼女は言うのでした。
なお、私が通っている松崎保育園の子どもたちは、一日に何度もお祈りをします。祈りながら、その姿勢を整え、その心がまえが、作られてゆくのです。お祈りは沈黙の時。幼い子どもには超特別な時間です。なお、この園の子どもたちは、祈ることを「おねむする」と言います。彼ら、彼女らにとっては、祈りも眠りも同じようなものです。「寝て待つ」という言葉がありますが、こうして子どもたちは、待つということを学んでいるのです。
さて、眠り姫も「待ちの人」でした。彼女は、努力をしない、頑張らない。なんにもしない眠り姫。でも、それでよかったのです。だから、私たちも、彼女にならってそれでよいのです。はた目にはただぼうっとしているように見えるかもしれないけど、それでいて祈っている。そういうのが、信仰の極意なのであります。
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6月11日説教

2023-06-17 12:26:37 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年6月11(日)
聖霊降臨後第2主日
ホセア5:15~6:6、ロマ4;13~25、マタイ9:9~13,18~26
マリアの子
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日の福音は、マタイによる福音書9章の9節から13節と18節から26節でしたが、18節以下の「指導者の娘とイエスの服に触れる女」がより重要です。この話でイエスは、12年間出血が止まらない女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と彼女を高く評価する言葉を投げかけました。ところがこの福音書は、彼の言葉を一層目立たせる演出をもしています。8章23節以下の「嵐を静める」のことですが、イエスは、嵐におびえる弟子たちに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」という言葉を投げかけたからです。よく考えると、女はイエスの弟子ではありません。ところがイエスは弟子以上に評価しているのでした。聖書を深く読むということの一例であります。

さてこれまで、グリム童話の話を取り上げてきました。なお、グリムの日本語訳は、岩波文庫の『グリム童話集全5巻』と福音館文庫の『グリムの昔話全3巻』があります。福音館のは、岩波の全267話から101話を選び、素敵な挿絵と全部フリガナ付きの少年少女を読者に想定した造りになっています。
なお岩波の全267話は、ドイツ語原本からの翻訳なので信頼性があると思います。ただ、267ともなれば、全部を読んだという人は限られるかも知れません。それに、白雪姫や赤ずきんや眠り姫だって、原本に全部目を通したという人も多くはないかも知れません。それはともかく本日は、まだ読んでないかも知れないお話の中から、「マリアの子」というのを取り上げてみたいと思います。これは、キリスト教と関りがある人なら、読んでみたいと思うかも知れないからです。なお、これは岩波文庫でも福音館文庫でも読むことが出来ます。
貧しいきこりの子である女の子がいました。その日に食べるパンさえ事欠いていると、聖母マリアが現れ、その子を預かり天国に連れてゆきます。女の子は14歳までは天国で、金色の服で天使たちと遊びます。ある日聖母マリアは旅に出かける際少女に部屋の鍵をことづけます。すると少女は、禁じられていた扉まで開けてしまう。その部屋は三位一体の神が座っていました。あわてて閉めますが、それを聖母に言わなかったので、口をきけなくされ深い森に追放されました。
すると森に狩りにきた王様に発見され、お城に連れて行かれ、口は利けないままでお妃になります。やがて男の子を産むと、その夜聖母マリアが来て、以前犯した罪を認めるよう迫られるが、かたくなに拒否したので、聖母は子どもを連れ去ります。このあと二度子どもを産みますが、二度とも罪を認めず子どもは連れ去られ、お城の人間たちはお妃が子を食べたと確信し、それを認めたくなかった王様も最後は火あぶりの刑に同意しました。しかし、高く積まれた薪の上でお妃は、今まで拒んでいたことを告白したいと心の中で思った。すると、聖母が子どもを連れて現れ、「告白するか」と問いただしたので妃は「はい」と答えた。すると処刑は中止となり、子どもも返してもらえ、口も利けるようになって、あとは幸せに暮らしたのでした。
以上が「マリアの子」というお話でした。でも、聞いて違和感を抱いた人もいたかもと思います。一つは、女の子が異常なくらいに強情だったこと、もう一つは聖母の冷たさです。聖母はむしろ、どんな罪人にも慈愛深く接し、その罪を非難せずむしろ包み込むような存在のはずだからです。
ところで話は変わりますが、グリム兄弟が生まれたのは、兄が1785年で、弟が1786年です。弟誕生の5年後モーツアルトが死んでいます。大人になって兄弟は民衆の間で語り継がれていた昔話を収集し、それを今のグリム童話集にして1857年に出版しました。フランス革命勃発の直前でした。価値観もめまぐるしく変わる激変の時代に生まれたのがグリム童話なのでした。
なお、この話で分かるのは、当時のキリスト教が子どもたちにどんな教えをしていたかです。聖母マリアは悔い改めない人間を火あぶりにするお方であるという物騒な教えは、我が国の閻魔大王を思わせるものがあります。グリム童話は、女の子は厳しくしつけるべきという社会の声を反映して、聖母マリアにその役割を負わせていたのでした。
ところで、童話を読む際大切なことは、それをどう解釈するかです。たとえば「マリアの子」のようなブラックな話でも、それを楽しんでしまえればもう子どもの勝ちなのです。子どもは大人よりも反発力が強烈で、地獄でさえ天国に作り替えかねないからです。
そこでマリアの子ですが、あのしぶとさ、強情さにはちゃんと理由があったと考えるのです。なぜなら、彼女は聖母に代表されるキリスト教に徹底抗戦する女だったと考えてみる。彼女は女の子なのでいつも不当な扱いを受けている。しかし男の子はそうではない。だったら自分はとことん反抗してやる。そう思っていた、しぶとくて強情な女の子だったと解釈するのも自由なのです。
なお、今の子どもたちだって、格差、女性の低い地位、大人の男性の横柄さに敏感なはずです。だから、その分反発力もすごいはずなのです。
ところで、多くの人は、童話やメルヘンはもう卒業していると思っているかも知れません。とはいえ、子どもはいつも不安や恐怖にさらされているという現実、そしてメルヘンの世界に遊んで不安や恐怖を和らげているという事実。それを知るなら、他人事とは思えなくなるかも知れません。
そして、そのような心の世界こそ、キリスト教が真剣に受け止めたいと考えていることを思うなら、私たちもまた他人事ではなくなるのではないか。なお、そういうことを一番理解していたのはイエスではなかったかと、思って見たいのであります。

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