「イエスの平和の教え」
マタイ10:34~39
「平和ではなく、剣を」という教え
今日のみ言葉ほど私たちを不安にさせる言葉はありません。山の上で「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と説教されたイエス様の教えこそが本当の教えだと考えているからです。
クリスマスには、イエス様の誕生を高らかに賛美した天使たちの歌声を耳にします。「地には平和」(ルカ2:14)と。イエス様が「平和の君」(讃美歌30番)としてこの地上に生まれてくださったことを感謝し、十字架の前夜には、イエス様を捕まえようとやって来た男の片耳を剣で切り落とした者に、「剣を納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と諫められたことを私たちは知っています。剣ではなく、平和を愛される方がイエス様であることを誰もが疑わないはずです。
しかし今日は違いました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(10:34)と言われたのです。私たちが知っている教えとは随分と異なる教えであることに戸惑ってしまいます。今日の教えをどう聞けば良いのか、相応しい答えが見い出せないように思えるのです。
もし今日の教えこそがイエス様の本心であるとすれば、もう1年半になるウクライナでの戦争は「剣がもたらした戦争である」と言える最たるものですから、この戦争はイエス様の教えの通りだということになりかねません。もしそうなら、今日のイエス様の教えはこの世に起こっていることと何も変わらないように思えるです。
でもやはりイエス様の教えは、私たちの生きているこの世の出来事とは違うのではないか、そう思いたいのです。いや、「思いたい」という願望ではなく、事実違うのではないか、それを今日皆さんとしっかりと受け取って行きたいと思うのです。
「引き裂く」という言葉
そこでまず、今日のみ言葉のひとつに目を向けたいのです。35節の言葉です。「わたしは敵対させるために来たからである」と言われました。「わたしは敵対させるために来た」と言われるのですから、剣をもたらすことには目的があったことが分かります。「敵対させる」ためです。人はその父に、娘は母に、嫁はしゅうとめに「敵対させるために」剣をもたらすのです。
この「敵対させる」という言葉ですが、少し説明を加えたいと思います。とても注意を要する言葉だからです。「敵対させる」と言うと、きっと皆さんは「喧嘩する」とか「仲たがいする」という意味に受け取っていらっしゃると思います。普通はそれでよいのですが、でもこの言葉の元々の意味は少し違うのです。「二分する(二つに分けるということ)」とか「引き裂く」という意味を持っている言葉です。ですからある人は「わたしは人をその父から、娘を母から、嫁をしゅうとめから引き裂くために来たからだ」(10:35)と訳しています。
「引き裂く」と言うからには、そこに密着した状況があるのです。ぴったりとくっついているから引き裂く、あるいは引き離すと、こういう時に使う言葉です。例えば「家族は一心同体である」と言うことがありますが、それは好意的な意味を持つはずです。でも何事もそうですが、麗しい言葉にもある影が潜んでいるものです。美しく、麗しい言葉であるがゆえに、逆にその影が見えなくなっている。
その良い例が、この福音書では20章20節以下に書いてある出来事です。弟子の二人にヤコブとヨハネがいます。先週の福音書はイエス様が12人の弟子を選ばれたというところでしたが、そこに「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」という名前が出て来ましたが、そのヤコブとヨハネの母親が愛する息子二人を連れてイエス様のところにやって来たという話です。「イエス様が王座に着かれる際には、息子二人を両隣りに座らせてください」と取り入ったのです。皆さまもよくご存じの話です。他の十人はそれを聞いて腹を立てたと書いてあります。
でもこれはよくある話です。「家族は一心同体である」、そこから生じた陰の部分です。これはまだ可愛げのある話ですが、でもそれが高じると悲惨なことになりことが起こります。犯罪に発展することも珍しいことではなりません。家族愛が過ぎるのです。
キリストの教えが
どうしてそういうことが起こるのでしょうか。家族の間が近すぎるからです。密着し過ぎて、そこには何者も入る隙間がないからです。誰かが、何を言っても耳に入らないということになるのです。いや、そういう人生の訓戒で済めば、それはそれで済むのです。
でもイエス様が言われていることは、もっと重要な意味があるように思うのです。あまりにも家族の間で密着し過ぎて、何ものも入る隙間がないのであれば、そこにイエス・キリストという貴い方が入る隙間さえなくなるのです。これが大きな問題なのです。イエス様の教え、聖書のみ言葉が染み入る隙間がない、と言ってもいい。家族の中に、イエス・キリストが入る隙間が全くないほどに、家族の中が一心同体であるとすれば、それは決して麗しい言葉として片付けてはいけないのです。
十戒の教え
教会に「十の戒め」があります。モーセの十戒です。私の教会の教会学校では毎週十戒を唱えるのですが、そこでいつも心に刻むことがあります。十戒のひとつは「あなたの父と母を敬いなさい」という言葉です。今日の37節にあった「わたしよりも父や花を愛する者は、わたしにふさわしくない」という教えと真逆の教えです。ここだけ読むと、今日の教えと十戒の戒めとは互いに逆のことを言っているように思えます。
でもそれは間違いです。十戒は大きく二つに分けることができるのですが、最初に神様と私たち人間の関係が述べられます。縦の関係です。その次に人間同士のことが語られます。汝の父と母を敬え、殺してはならない、盗んではならないということが続きますが、これは横の関係です。
十字架と同じです。最近、私たちルーテル教会でも「十字を切る」ということが行われるようになりました。「父と子と聖霊のみ名によって」という時に十字を切るのです。それには順番がある。まず縦に切る、そして次に横に切る、そういう切り方です。まず神様と私たちの関係、縦の関係がある。天の神とこの地上で生きている私たちです。まず神様との関係がしっかりしていなければなりません。人間同士の横の関係を語る前に、先に、縦の関係がしっかりしなければならない。人間同士の関係にあまりにも密着した関係があるならば、そこに楔を打ち込むかのように神様との関係が語られるのです。
そのことをイエス様は「わたしよりも父や母を愛する者は」と言われたのです。「父や母を愛する」ことが悪いのではない。「わたしことよりも先に」、いや「わたしのことをさておいて」家族の中のことに思いを注ぎ、愛を注ごうとするときに、好ましくないことが起こってしまうのです。
キリストは家のかしら
話が変わりますが、東久留米に自由学園というキリスト主義の学校があります。そこで手掛けた様々な手芸品や製作物が池袋にある明日館(みょうにちかん)というところで販売されています。F.L.ライトというとても有名なアメリカの建築家が設計した建物としても知られていますが、そこで壁掛けが販売されています。それにはこういう意味の言葉が彫刻されています。
「キリストはこの家のかしら 全ての食事の見えない賓客 全ての会話の無言の聞き手」(英文:Christ is the Head of this House,The Unseen Guest at every Meal,
The Silent Listener to every Conversation.)
私はこの言葉をとても気に入っているのですが、これは聖書の言葉ではありません。しかし今日のイエス様の教えをとても相応しく表現した言葉、詞であるように感じるのです。「この家」という言葉ですが、これは今日の家族のことと読めるのです。「人をその父、娘を母に、嫁をしゅうとめに」と言われるのですから、家族のことです。その家族は、例えば「一心同体である」と言われることがあり、またそれは模範的な家族の表現でしょう。しかしその家族のそれぞれの間は密着していて、もうそこに何者も入る隙間さえないようになってしまっているということでもあったのです。
ところが今例として挙げた自由学園の壁掛けには、「キリストはこの家、この家族の、父と子、母と娘、嫁としゅうとめのかしらだ」と刻まれているのです。これは家族の中にキリストが入り込んでいるという意味ではないでしょうか。しかも家族の、その家の片隅に添え物のように、時々登場するというものではない。頭(かしら)なのです。食事の時も、団らんのときも、いやたとえ一人でいるときであっても、そのかしらはキリストだと言っている。そう言える家族には、今日の最初に戻るなら「キリストが入る隙間」があるのです。
キリストのために失うこと
今日の剣の話は、家族だけが問題になっているように見えますが、そうではありません。イエス・キリストという方がかしらとして立たれる隙間や余地のないということは、いつでも、どんなところでも起こり得るのです。教会も「家族」と呼ばれることがあります。ですから教会の信徒同士の関係においても言えることなのです。
み言葉が宿る隙間を作るのです。イエス様がかしらとして立ってくださるところを作りだすのです。そこにイエス様の平和がきっと宿るのです。そこから私たちにとって「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」という道が開かれて行くに違いなのです。
二日市教会の皆さんの上に、信徒の交わりの上に、キリストの平和が宿りますようにお祈りいたします。 アーメン (日本ルーテル神学校校長立山忠浩)
次回7月2日(日)
『あなた方の父なしに』 樂満大樹神学生
マタイ10:34~39
「平和ではなく、剣を」という教え
今日のみ言葉ほど私たちを不安にさせる言葉はありません。山の上で「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)と説教されたイエス様の教えこそが本当の教えだと考えているからです。
クリスマスには、イエス様の誕生を高らかに賛美した天使たちの歌声を耳にします。「地には平和」(ルカ2:14)と。イエス様が「平和の君」(讃美歌30番)としてこの地上に生まれてくださったことを感謝し、十字架の前夜には、イエス様を捕まえようとやって来た男の片耳を剣で切り落とした者に、「剣を納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と諫められたことを私たちは知っています。剣ではなく、平和を愛される方がイエス様であることを誰もが疑わないはずです。
しかし今日は違いました。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」(10:34)と言われたのです。私たちが知っている教えとは随分と異なる教えであることに戸惑ってしまいます。今日の教えをどう聞けば良いのか、相応しい答えが見い出せないように思えるのです。
もし今日の教えこそがイエス様の本心であるとすれば、もう1年半になるウクライナでの戦争は「剣がもたらした戦争である」と言える最たるものですから、この戦争はイエス様の教えの通りだということになりかねません。もしそうなら、今日のイエス様の教えはこの世に起こっていることと何も変わらないように思えるです。
でもやはりイエス様の教えは、私たちの生きているこの世の出来事とは違うのではないか、そう思いたいのです。いや、「思いたい」という願望ではなく、事実違うのではないか、それを今日皆さんとしっかりと受け取って行きたいと思うのです。
「引き裂く」という言葉
そこでまず、今日のみ言葉のひとつに目を向けたいのです。35節の言葉です。「わたしは敵対させるために来たからである」と言われました。「わたしは敵対させるために来た」と言われるのですから、剣をもたらすことには目的があったことが分かります。「敵対させる」ためです。人はその父に、娘は母に、嫁はしゅうとめに「敵対させるために」剣をもたらすのです。
この「敵対させる」という言葉ですが、少し説明を加えたいと思います。とても注意を要する言葉だからです。「敵対させる」と言うと、きっと皆さんは「喧嘩する」とか「仲たがいする」という意味に受け取っていらっしゃると思います。普通はそれでよいのですが、でもこの言葉の元々の意味は少し違うのです。「二分する(二つに分けるということ)」とか「引き裂く」という意味を持っている言葉です。ですからある人は「わたしは人をその父から、娘を母から、嫁をしゅうとめから引き裂くために来たからだ」(10:35)と訳しています。
「引き裂く」と言うからには、そこに密着した状況があるのです。ぴったりとくっついているから引き裂く、あるいは引き離すと、こういう時に使う言葉です。例えば「家族は一心同体である」と言うことがありますが、それは好意的な意味を持つはずです。でも何事もそうですが、麗しい言葉にもある影が潜んでいるものです。美しく、麗しい言葉であるがゆえに、逆にその影が見えなくなっている。
その良い例が、この福音書では20章20節以下に書いてある出来事です。弟子の二人にヤコブとヨハネがいます。先週の福音書はイエス様が12人の弟子を選ばれたというところでしたが、そこに「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」という名前が出て来ましたが、そのヤコブとヨハネの母親が愛する息子二人を連れてイエス様のところにやって来たという話です。「イエス様が王座に着かれる際には、息子二人を両隣りに座らせてください」と取り入ったのです。皆さまもよくご存じの話です。他の十人はそれを聞いて腹を立てたと書いてあります。
でもこれはよくある話です。「家族は一心同体である」、そこから生じた陰の部分です。これはまだ可愛げのある話ですが、でもそれが高じると悲惨なことになりことが起こります。犯罪に発展することも珍しいことではなりません。家族愛が過ぎるのです。
キリストの教えが
どうしてそういうことが起こるのでしょうか。家族の間が近すぎるからです。密着し過ぎて、そこには何者も入る隙間がないからです。誰かが、何を言っても耳に入らないということになるのです。いや、そういう人生の訓戒で済めば、それはそれで済むのです。
でもイエス様が言われていることは、もっと重要な意味があるように思うのです。あまりにも家族の間で密着し過ぎて、何ものも入る隙間がないのであれば、そこにイエス・キリストという貴い方が入る隙間さえなくなるのです。これが大きな問題なのです。イエス様の教え、聖書のみ言葉が染み入る隙間がない、と言ってもいい。家族の中に、イエス・キリストが入る隙間が全くないほどに、家族の中が一心同体であるとすれば、それは決して麗しい言葉として片付けてはいけないのです。
十戒の教え
教会に「十の戒め」があります。モーセの十戒です。私の教会の教会学校では毎週十戒を唱えるのですが、そこでいつも心に刻むことがあります。十戒のひとつは「あなたの父と母を敬いなさい」という言葉です。今日の37節にあった「わたしよりも父や花を愛する者は、わたしにふさわしくない」という教えと真逆の教えです。ここだけ読むと、今日の教えと十戒の戒めとは互いに逆のことを言っているように思えます。
でもそれは間違いです。十戒は大きく二つに分けることができるのですが、最初に神様と私たち人間の関係が述べられます。縦の関係です。その次に人間同士のことが語られます。汝の父と母を敬え、殺してはならない、盗んではならないということが続きますが、これは横の関係です。
十字架と同じです。最近、私たちルーテル教会でも「十字を切る」ということが行われるようになりました。「父と子と聖霊のみ名によって」という時に十字を切るのです。それには順番がある。まず縦に切る、そして次に横に切る、そういう切り方です。まず神様と私たちの関係、縦の関係がある。天の神とこの地上で生きている私たちです。まず神様との関係がしっかりしていなければなりません。人間同士の横の関係を語る前に、先に、縦の関係がしっかりしなければならない。人間同士の関係にあまりにも密着した関係があるならば、そこに楔を打ち込むかのように神様との関係が語られるのです。
そのことをイエス様は「わたしよりも父や母を愛する者は」と言われたのです。「父や母を愛する」ことが悪いのではない。「わたしことよりも先に」、いや「わたしのことをさておいて」家族の中のことに思いを注ぎ、愛を注ごうとするときに、好ましくないことが起こってしまうのです。
キリストは家のかしら
話が変わりますが、東久留米に自由学園というキリスト主義の学校があります。そこで手掛けた様々な手芸品や製作物が池袋にある明日館(みょうにちかん)というところで販売されています。F.L.ライトというとても有名なアメリカの建築家が設計した建物としても知られていますが、そこで壁掛けが販売されています。それにはこういう意味の言葉が彫刻されています。
「キリストはこの家のかしら 全ての食事の見えない賓客 全ての会話の無言の聞き手」(英文:Christ is the Head of this House,The Unseen Guest at every Meal,
The Silent Listener to every Conversation.)
私はこの言葉をとても気に入っているのですが、これは聖書の言葉ではありません。しかし今日のイエス様の教えをとても相応しく表現した言葉、詞であるように感じるのです。「この家」という言葉ですが、これは今日の家族のことと読めるのです。「人をその父、娘を母に、嫁をしゅうとめに」と言われるのですから、家族のことです。その家族は、例えば「一心同体である」と言われることがあり、またそれは模範的な家族の表現でしょう。しかしその家族のそれぞれの間は密着していて、もうそこに何者も入る隙間さえないようになってしまっているということでもあったのです。
ところが今例として挙げた自由学園の壁掛けには、「キリストはこの家、この家族の、父と子、母と娘、嫁としゅうとめのかしらだ」と刻まれているのです。これは家族の中にキリストが入り込んでいるという意味ではないでしょうか。しかも家族の、その家の片隅に添え物のように、時々登場するというものではない。頭(かしら)なのです。食事の時も、団らんのときも、いやたとえ一人でいるときであっても、そのかしらはキリストだと言っている。そう言える家族には、今日の最初に戻るなら「キリストが入る隙間」があるのです。
キリストのために失うこと
今日の剣の話は、家族だけが問題になっているように見えますが、そうではありません。イエス・キリストという方がかしらとして立たれる隙間や余地のないということは、いつでも、どんなところでも起こり得るのです。教会も「家族」と呼ばれることがあります。ですから教会の信徒同士の関係においても言えることなのです。
み言葉が宿る隙間を作るのです。イエス様がかしらとして立ってくださるところを作りだすのです。そこにイエス様の平和がきっと宿るのです。そこから私たちにとって「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」という道が開かれて行くに違いなのです。
二日市教会の皆さんの上に、信徒の交わりの上に、キリストの平和が宿りますようにお祈りいたします。 アーメン (日本ルーテル神学校校長立山忠浩)
次回7月2日(日)
『あなた方の父なしに』 樂満大樹神学生