日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

7月23日

2023-07-27 10:18:07 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年7月23日(日)
聖霊降臨後第8主日
イザヤ44:6~8、ロマ8;12~25、マタイ13:24~30,36~43
「主の祈り/③キングダム・オブ・ゴッド」
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現在私たちは、主の祈りのことを考えています。そこで本日は「御国を来たらせたまえ」です。ところで、御国っていったい何でしょうか。
そこで、英語の聖書を見ると、御国の英語はキングダムとなっていました。キングダムなら意味は王国です。なお、御国は「あなたの国」、つまり「御国を来たらせたまえ」は「あなたのキングダムを来させてください」です。
ところで、旧約聖書の中身はキングダムつまり王国の歴史です。ダビデ王が基礎を作り、ソロモンが仕上げをしたのがイスラエル王国ですが、やがて歴代の王が神に背くようになり、ついにキングダムは滅亡してしまいます。
ところで、旧約時代に生きた人たちにはキングダムは現に存在するものでした。しかし王国滅亡で旧約時代が終わると、次は新約時代です。しかし、すでに王国はありません。イエスが生きていたこの時代のユダヤはローマ帝国の植民地になっていたからです。
このローマ帝国は世界最大のキングダムでした。しかしイエスやユダヤ人のためのキングダムではありませんでした。ローマは、自分たちを搾取し踏みにじるためにしか存在しなかったからです。だから、人々の心には、自分たちのためのキングダムが実現するようにという願望が根強くありました。でも、その実現のためには、実現させる人物の登場が必要でした。つまりメシアです。イエスの時代はメシア待望の空気に満ち満ちていました。
けれども、メシアの登場は、ローマとの戦争を意味していました。ところで、これはイエスの後の時代の話ですが、メシアが出現したのでした。その名はバル・コクバ。ちょうどその頃ローマは、エルサレムを自分たち好みの都市に改造しようと、ユダヤ人が怒るようなことを計画していました。それを知ったバル・コクバは同志を糾合して反乱を起こしたのでした。そして、ユダヤの独立を宣言すると、それはたちまち全ユダヤ人の知るところとなりました。
なお、この反乱の計画は非常に綿密に練られていました。それと、当時人民から絶大な人気を集めていたユダヤ教最高指導者ラビ・アキバがその墨付きを与えたために、反乱軍は破竹の勢いで進軍を始めました。そのため、長くローマの支配下にあったユダヤの土地は次々と奪還され、ついにコクバの軍はエルサレムに入城し支配権を確立したのでした。
しかし、最初はバル・コクバ軍に押されっぱなしだったローマ軍も、軍勢を立て直し、反撃を開始しました。そうなると、世界最強の軍隊は、バル・コクバが統治するユダヤの地を次々と奪回され、とうとうエルサレムをも陥落させました。こうして反乱は終結し、バル・コクバとラビ・アキバは処刑されました。この反乱では58万のユダヤ人が命を落としたと言われています。
なお、この反乱は第二次ユダヤ戦争とよばれています。つまり第一次反乱もあったのでした。それは、ペトロが死んでから少したった時期のことでした。歴史の本では、この第一次のほうが大きく取り扱われています。
このように、人の心にあるキングダム待望は、政治と軍事を行使しなければ実現しないものでした。ところで、ローマへの反感がいよいよ高まりを見せていた時期に、「神のキングダムは接近している」と説教をしたのでした。福音書によるとイエスはその説教を各地でしています。だから、聞いた人が「近づいているのなら自分も立ち上がらねば」と思ったとしても不思議はないのでした。つまり、そう思わせかねない教えをしていた、そして主の祈りでも、御国、すなわちキングダムを来たらせたまえという祈りを教えていたのでした。
ところで、そういう言い方ですと、神の国は、近い将来か遠い将来かは分からないが、とにかくまだ来ていないのでした。ところが、これがイエスの教えのややこしさというか、他方で彼は、もう来ているとも教えていたのでした。
こういう彼の言葉があります。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところにきている」。これはマタイ12章ですが、ルカ11章にもこんなのがあります。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。
ところで、両者の共通点は、悪霊を追い出すという言葉です。つまりイエスは、自分が悪霊払いをする時は神の国は来ていると言っていたのでした。ところで、悪霊払いをわかりやすく言うと、それは心を病む者の癒しです。当時は、精神障害はサタンの仕業と考えられていました。ということは、イエスはそのサタンと戦わなければならなかったのでした。ところで荒野の誘惑の話にあるように、サタンには自分のキングダムがあります。一方イエスにもキングダム・オブ・ゴッドがあり、両者の戦いがあるが、イエスの中で神の力が強く働き勝利する。神の力が働いたのは、神の国がもう来ている証拠なのでした。
ところで、イエス自身の説明によると、彼のたとえ話は神の国のたとえでした。たとえば「からし種のたとえ」がそうです。神の国はあまりにも小さな存在である。何とも頼りないたとえでした。
でも、神の国が大空を覆うほどのスケールだったら、人はもう何もできないはずです。ただ指をくわえるしかありません。けれども、イエスの言うとおり、神の国がからし種ほどのサイズなら話は違ってくるはずです。それなら、自分もそれを大切にし育てることが出来ると思えるからです。
しかしながら、人々が待望していたキングダム・オブ・ゴッドはそんな小さなものではありませんでした。このため、多くの人がイエスに失望したと福音書には書かれているのです。
従って、あとは選択の問題になります。主の祈りの「御国を来たらせたまえ」を祈る者にとってのキングダム・オブ・ゴッドは、「狭き門」かも知れないからです。しかしイエスは「そこから入れ」と命じているからです。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次回7月30日 聖霊降臨後第9主日
マタイによる福音書13:31~33,44~52
説教題 主の祈り④神の意思とは
※聖餐式があります。
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7月16日

2023-07-20 10:17:25 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年7月16日(日)
聖霊降臨後第7主日
イザヤ55:10~13、ロマ8;1~11、マタイ13:1~9,18~23
「主の祈り/②栄光は神のみ」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
先週から私たちは主の祈りのことを考え始めています。前回は「天にましますわれらの父よ」でした。今回はつぎの「願わくはみ名をあがめさせたまえ」を考えます。
ところで、これだけ短い祈りなのに、けっこう難しい祈りだと思われています。というのも、ふつう私たちはこんな感じの祈りはしないからです。でもキリスト教の幼稚園や保育園では子どもにこれを唱えさせる園もあり、日曜学校とか教会学校は必ずこれを児童たちと祈ってきました。けれども教える側の大人たちがその意味がよくわかっていたのか?というと疑問なのです。
こういうやっかいな「み名をあがめさせたまえ」ですが、とりあえず言葉の意味を考えたいと思います。まず「願わくは」。これは問題ないと思います。次は「み名」。英語の主の祈りでは「ユア・ネーム」つまり「あなたの名前」です。要するに、神にも名前があるのでした。
でもそのことは、驚くにはあたりません。なぜなら、出エジプト記3章にそう書かれているからです。エジプトの奴隷だった民を解放せよと命じた神にモーセは言いました。エジプト人は私に「お前たちの神の名前は何か」と聞くはずです。今のうちにあなたの名前を教えてください。そこで神はモーセに自分の名前を明らかにした。そう書かれているからです。
大昔はどの民族にも固有の神がいて名前もありました。ところが、ずっとのちにユダヤ教・キリスト教・イスラム教三大宗教になりますが、神は同じ神でした。だから、イスラム教徒がキリスト教徒に「お前の神は何と言うのか」と聞くようなことなどなかったのです。そのうち人々は神の名をいちいち気にしなくなってゆきます。ということは、イエスがあえて「み名をあがめさせたまえ」と言ったのは、何か特別な意味があったのでした。
ところで、話は変わりますが、私は60歳で牧師になりました。ということはその前に神学校で勉強をしたということです。そしてこの神学校時代に大きな出会いを経験しました。それはマタイ福音書との出会いでした。それ以前の私は、マタイ福音書のことが何もわかっていなかったからです。
なお、それまでの私は若い時からずっとマルコ福音書ファンでした。それと、豊富なたとえ話があるルカ福音書も好きでしたし、難しいことがたくさん書かれているのに、女性の話になると非常に生き生きしてくるヨハネ福音書も魅力でした。ところがマタイ福音書となると、高校生の時から好きでないのでした。
もちろんそれは、私の不勉強と偏見のためでしたが、神学校で勉強するうちに、これはすごい福音書だと気がつくようになったのでした。いちばん印象的だったのは山上の説教でした。いろいろ学んでゆくうちに、こういうことを考えるようになりました。山上の説教は阿蘇の山にたとえることが出来る。山上の説教はマタイ5章から7章だが、外輪山の全体を山上の説教ととらえてみました。なお、阿蘇は中央に中岳や根子岳などがありますが、それらをまとめて主の祈りだと考えてみました。
さらに、イエスの教えが記されるのが山上の説教ですが。それらは全部主の祈りと直結すると考えました。というのも、山上の説教には「腹を立てるな」や「復讐するな」や「敵を愛せよ」など実行が不可能そうな教えがずらりと並んでいるからです。そのため多くの人がつまずいて、聖書から離れて行ったことも事実です。しかし、実行不可能だからこそ主の祈りがあるのだ。マタイは、それを考えさせてくれる福音書なのだ。そういうこともわかるようになってきました。
またこうも考えてみました。山上の説教の教えに直面して、「私は絶対許せない・愛せない」という重荷を背負いこんだ人が、主の祈りを祈るように招かれているのだ・・・というようにです。
それでは、「み名をあがめさせたまえ」はどう考えたらよいのだろうか。おそらく、私たちの日常的な愛や憎しみ、怒りや復讐と同じ次元で考えてもあまり意味がないのではないか。つまり「み名をあがめさせたまえ」はもっと根源的な事柄、だから世界をひっくり返しかねないほどの事柄を取り扱っているのではないかと考えてみました。
というのも、イエスはこの祈りで、神以外の何者もあがめられてはならないという考えを示しているからです。神以外の誰かが神のごとくにあがめられることを聖書は偶像崇拝と言います。そして偶像は英語ではアイドルです。芸能人とかスポーツ選手の誰かの名前がいくらあがめられても、聖書はそれを偶像崇拝とは言いません。
ところが同じ人気者でも、アドルフ・ヒットラーなら別でした。記録映画を観ると当時の民衆は彼の名前をあがめ熱狂的な叫び声を上げています。ところがその裏側で進行していたおぞましくも悲劇的な出来事こそ、神以外の者が神のごとくあがめられたことの結果でした。
そのことは、イエスの時代も同じでした。民衆はローマ皇帝を熱狂的にあがめ皇帝を神と呼びました。これに対抗してイエスは「願わくはみ名をあがめさせたまえ」、つまり神ではない者が神とあがめられることが決してありませんようにと祈ったのでした。
そう思ってみると、「願わくはみ名をあがめさせたまえ」は、同じ阿蘇でもその地底で真っ赤に燃えているマグマにひとしいのかも知れません。私たちは、主の祈りのそういう側面も見落とさないようにしたいと思うのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師 白髭義)

次回6月23日 聖霊降臨後第8主日 マタイ13:24~30,36~43
説教題 「主の祈り③キングダム・オブ・ゴット」
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7月9日

2023-07-12 10:50:25 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年7月9日(日)
聖霊降臨後第6主日
ゼカリヤ9:9~12、ロマ7;15~25a、マタイ11:16~19,25~30
「主の祈り/①親密な神」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
先々週から先週にかけて、のどの腫瘍を取る手術で日赤病院に入院していました。手術は無事でしたが、要検査のことが出てきて、点滴に拘束されたベッド生活となりました。ある日寝たままテレビをつけると、BSでナイチンゲールの生涯というドキュメンタリードラマをやっていました。ナレーターが冒頭でナイチンゲールの人生と仕事を根底から支えていたものは信仰だった言いました。しかしそれはドラマの主題ではなかったのですが、ドラマ全体を観終わった時にそのナレーターの言葉が思い出されました。それにしても、ナイチンゲールと深い縁がある病院で、彼女を考えることになったのは、まさに奇遇でありました。

ところで、私たちは今回から、イエスが弟子たちに教えた主の祈りについて考えたいと思います。そこでまず、自分にとっての主の祈りということを、次の話で考えてみたいと思います。
熊本にヤスさんという女性がいました。昔は毎週教会に来ていたのですが、高齢となり体が不自由になりました。ご自宅にうかがった時はいつも一緒に主の祈りを祈りました。そのうち入院となり、今度は枕元で主の祈りを唱える日々となりました。もうすでに言葉がよく聞き取れませんでしたが、主の祈りの時だけはよく聞こえました。けれども、ヤスさんはやがて亡くなりました。主の祈りは最後の最後まで唱えていました。ところが、死んだ彼女の葬式は仏教式でした。
後日私はこう考えるようになりました。ヤスさんご本人は、自分の葬儀はキリスト教でと望んでおられたが、きっとそれはかなえられないのだろうと思っていたヤスさんは、自分の葬儀を自分の流儀で実行しようとしていた。死後は白装束で主の祈りというお題目を唱えながら、自分は父なる神さまのもとに近づいてゆこう。彼女の病床での主の祈りがとても印象的だったのは、そういう彼女の決意が込められていたのではないか。そう考えたのでした。
ところで、参考のために申し上げますと、主の祈りの全部は、私たちが礼拝で使っている礼拝式文の11頁に載っています。そこを開くと(イ)と(ロ)の二つがありますが、私たちの教会は(イ)を唱えています。
さてそこを見ると、主の祈りは「天にましますわれらの父よ」から始まっています。主の祈りもお祈りですから、誰に向かって祈っているかがはっきりしてないと祈ることはできません。主の祈りも、それは「天にましますわれらの父」であると言っています。これは今の礼拝式文の(イ)がそうなのですが、同じ主の祈りでも(ロ)は大変簡潔でただ「天の父よ」となっています。
ところが、20世紀になって大論争が起きたのでした。それは、キリスト教が二千年間も神を父と呼んできたことをめぐる論争でした。教会の一部の女性たちが「私は神を父と呼びたくない」と言い出したからです。彼女たちにとっては、たとえ神であろうと父と呼べばそれは男性になってしまうからでした。
実は、当時の世界はフェミニズム運動というのが盛んで、キリスト教もその影響を受けていたのでした。いわゆる女性解放運動のことで、男性によって支配されてきたが女性を束縛から解き放つための動きでした。
ところで、神を父ではなく母と呼ぶようにすれば問題の解決になるのかという論争もありました。主の祈りだったら「天にましますわれらの母よ」となるところでしたが、そういうことをしてもあまり問題の解決にはならないと多くの人が気づくようになりました。
それはともかく、キリスト教は二千年ものあいだ神を父と呼んできたので、その弊害は明らかでした。なぜなら、神は神学的には人間の父とはまったく別ものだと神学者が説明しても、一般庶民は神を文字通りに天にいる偉大なる男性と思い込んできた長い歴史があるからです。そしてその考えに慣れ切った人間の男たちが神の名のもとに女性をさげすみ排除してきたことは否定できないからでした。
なお、フェミニズムは最近ジェンダーと呼び方が変わりましたが、女性たちが提起した問題は今も論争が続いています。ただ、そのおかげという言い方は変かもしれませんが、それまで神をぼんやり父と呼んでいた人たちも考えるようになりました。ただこの論争には、「母なる神」という呼び方はどうだろうというような、私たちがさっと答えられないような問題提起もありますから、今は深入りいたしません。
ところで、さきほど読んだマタイ11章では、イエスは「天地の主である父よ。あなたはこれらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と祈っていました。幼子には神が見えているが、知恵ある大人には見えないのだというのでした。
ところで、詩人の八木重吉はこんな詩を書いています。
「さて、あかんぼうは なぜにあんあんあんあん なくんだろうか。ほんとにうるせいよ。あんあんあんあん あんあんあんあん。うるさかないよ うるさかないよ よんでいるんだよ かみさまをよんでいるんだよ。みんなもよびな あんなにしつこくよびな」
もしかしたら、主の祈りも、知恵ある者には隠されているかもしれないのであります。(日本福音ルーテル二日市教会・牧師 白髭 義)


次回7月16日 聖霊降臨後第7主日
マタイによる福音書 13章1~9,18~23
説教題:「 主の祈り②栄光は神のみ 」
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7月9日

2023-07-12 10:50:25 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年7月9日(日)
聖霊降臨後第6主日
ゼカリヤ9:9~12、ロマ7;15~25a、マタイ11:16~19,25~30
                       
                           「主の祈り/①親密な神」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
先々週から先週にかけて、のどの腫瘍を取る手術で日赤病院に入院していました。手術は無事でしたが、要検査のことが出てきて、点滴に拘束されたベッド生活となりました。ある日寝たままテレビをつけると、BSでナイチンゲールの生涯というドキュメンタリードラマをやっていました。ナレーターが冒頭でナイチンゲールの人生と仕事を根底から支えていたものは信仰だった言いました。しかしそれはドラマの主題ではなかったのですが、ドラマ全体を観終わった時にそのナレーターの言葉が思い出されました。それにしても、ナイチンゲールと深い縁がある病院で、彼女を考えることになったのは、まさに奇遇でありました。

ところで、私たちは今回から、イエスが弟子たちに教えた主の祈りについて考えたいと思います。そこでまず、自分にとっての主の祈りということを、次の話で考えてみたいと思います。
熊本にヤスさんという女性がいました。昔は毎週教会に来ていたのですが、高齢となり体が不自由になりました。ご自宅にうかがった時はいつも一緒に主の祈りを祈りました。そのうち入院となり、今度は枕元で主の祈りを唱える日々となりました。もうすでに言葉がよく聞き取れませんでしたが、主の祈りの時だけはよく聞こえました。けれども、ヤスさんはやがて亡くなりました。主の祈りは最後の最後まで唱えていました。ところが、死んだ彼女の葬式は仏教式でした。
後日私はこう考えるようになりました。ヤスさんご本人は、自分の葬儀はキリスト教でと望んでおられたが、きっとそれはかなえられないのだろうと思っていたヤスさんは、自分の葬儀を自分の流儀で実行しようとしていた。死後は白装束で主の祈りというお題目を唱えながら、自分は父なる神さまのもとに近づいてゆこう。彼女の病床での主の祈りがとても印象的だったのは、そういう彼女の決意が込められていたのではないか。そう考えたのでした。
ところで、参考のために申し上げますと、主の祈りの全部は、私たちが礼拝で使っている礼拝式文の11頁に載っています。そこを開くと(イ)と(ロ)の二つがありますが、私たちの教会は(イ)を唱えています。
さてそこを見ると、主の祈りは「天にましますわれらの父よ」から始まっています。主の祈りもお祈りですから、誰に向かって祈っているかがはっきりしてないと祈ることはできません。主の祈りも、それは「天にましますわれらの父」であると言っています。これは今の礼拝式文の(イ)がそうなのですが、同じ主の祈りでも(ロ)は大変簡潔でただ「天の父よ」となっています。
ところが、20世紀になって大論争が起きたのでした。それは、キリスト教が二千年間も神を父と呼んできたことをめぐる論争でした。教会の一部の女性たちが「私は神を父と呼びたくない」と言い出したからです。彼女たちにとっては、たとえ神であろうと父と呼べばそれは男性になってしまうからでした。
実は、当時の世界はフェミニズム運動というのが盛んで、キリスト教もその影響を受けていたのでした。いわゆる女性解放運動のことで、男性によって支配されてきたが女性を束縛から解き放つための動きでした。
ところで、神を父ではなく母と呼ぶようにすれば問題の解決になるのかという論争もありました。主の祈りだったら「天にましますわれらの母よ」となるところでしたが、そういうことをしてもあまり問題の解決にはならないと多くの人が気づくようになりました。
それはともかく、キリスト教は二千年ものあいだ神を父と呼んできたので、その弊害は明らかでした。なぜなら、神は神学的には人間の父とはまったく別ものだと神学者が説明しても、一般庶民は神を文字通りに天にいる偉大なる男性と思い込んできた長い歴史があるからです。そしてその考えに慣れ切った人間の男たちが神の名のもとに女性をさげすみ排除してきたことは否定できないからでした。
なお、フェミニズムは最近ジェンダーと呼び方が変わりましたが、女性たちが提起した問題は今も論争が続いています。ただ、そのおかげという言い方は変かもしれませんが、それまで神をぼんやり父と呼んでいた人たちも考えるようになりました。ただこの論争には、「母なる神」という呼び方はどうだろうというような、私たちがさっと答えられないような問題提起もありますから、今は深入りいたしません。
ところで、さきほど読んだマタイ11章では、イエスは「天地の主である父よ。あなたはこれらのことを知恵ある者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」と祈っていました。幼子には神が見えているが、知恵ある大人には見えないのだというのでした。
ところで、詩人の八木重吉はこんな詩を書いています。
「さて、あかんぼうは なぜにあんあんあんあん なくんだろうか。ほんとにうるせいよ。あんあんあんあん あんあんあんあん。うるさかないよ うるさかないよ よんでいるんだよ かみさまをよんでいるんだよ。みんなもよびな あんなにしつこくよびな」
もしかしたら、主の祈りも、知恵ある者には隠されているかもしれないのであります。(日本福音ルーテル二日市教会・牧師 白髭 義)


次回7月16日 聖霊降臨後第7主日
マタイによる福音書 13章1~9,18~23
説教題:「 主の祈り②栄光は神のみ 」
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7月2日説教 あなた方の父なしに

2023-07-02 12:37:17 | 日記
2023.7.2 「あなた方の父なしに」  樂満大樹

マタイ 10:26-31(10:24-39)

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」


 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが 皆さま おひとり おひとりにありますように。アーメン。

 おはようございます。今朝も、共に聖書の み言葉に訊けること、感謝いたします。
今朝は、マタイによる福音書 10章26節から31節までを扱います。一度拝読したいと思います。マタイによる福音書 10章26節から31節まで、です。
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
この箇所に共に訊き、共に訊ねていきたいと思います。

 その前に、まずは私のことについて少しお話ししたいと思います。私は現在28歳で、昨年、勤めていた一般の仕事を辞めて、今は西南学院大学の大学院で研究をしています。研究している分野は「新約学」と言われる新約聖書についての研究です。そして今はこの二日市教会と同じ日本福音ルーテル教会の、八代教会というところへ通っています。母方の家系がキリスト教、父方の家系が仏教の信者でしたが、小さい頃は母と一緒に教会へ行っていました。しかし、ある時まったく教会へ通わなくなり、完全に神さまから離れてしまった時期が続きました。
 小学校3年生の頃に、父方の祖父母と同居することになりましたが祖父がとても厳しい人で、怒鳴られたり、時には手を出されることもあり、そのころから心がボロボロでした。家に居場所が、心の居場所が全くなくなっていたのです。そして小学校5年生の頃から学校にも馴染めなくなり、教室へも通えなくなり、私の心は完全に壊れ、息ができる場所がこの世界にはないように感じていました。もちろんこの頃には教会には通っていなくて、神さまの存在も否定していました。「もし本当に神がいるのなら、僕は、少しは幸せなはずなのに。もし本当に、本当に神がいるのなら、僕はこんなに辛い思いをしなくてもいいはずなのに…」。全く、私にとって神さまの存在は見えないものとなっていたのです。
 ある時、この世界で生きることをやめようとしました。中学校2年生の頃でした。しかしながら、その後の記憶は、今は全くないのです。ただ、たったひとつだけ事実なのは、その後も私は生きていたということです。ほんの少し希望を持って生きていたということです。本当なら、ここで、その生きる希望を持った、「ドラマチック」な体験を語れたら良いのですが、それが全く今は分からないのです。ただ、本当に事実なのは、私がその後、中学校3年生から教室へ通い、高校受験をし、偏差値は低かったものの高校へ通い、西南学院大学の神学部を受験するに至ったということです。そしてその時の高校時代の学力ではなかなかに難しかった神学部に、多くの方々に助けられながら一般入試で合格でき、大学で新約学に出会い、今また西南で新約聖書を研究しているということです。そしてまた、高校生の時に再び教会へ通えるようになり、大学2年生の時に洗礼を受け、今に至るということです。『使徒言行録』の9章でパウロの「ドラマチック」な回心の様子が描かれていますが、「実際にパウロ自身は自らの手紙ではそのような『ドラマチック』な回心物語は語っていない。しかしながら「何か」が起こって、キリストを信じる者たちを迫害していた状況がガラッと変えられて、パウロ自身がキリストを信じる者へとなった」、そのような経験に近いのかもしれません。「ドラマチック」な「すごい」ことは起きていないけれど、「何か」が私にも起きたのだと思います。まるでずっと神さまが共にいて、一緒に苦しい時を過ごし、そして一番 神さまを必要とした時に、神さまの力が働かれたような気もします。もしかすると、神さまは私のことを見捨てずに、ずっと一緒にいてくださったのかもしれません。

 では、今朝の箇所に戻りたいと思います。特に、10章29節に注目したいと思います。もう一度読みます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。ここではとても安いお金で売られているスズメのことが言われています。聖書を読む限り、私たち人間よりも小さい存在価値として考えられているようなスズメ。そのスズメ一羽でさえ、あなた方の父、すなわち神さまのお許しがなければ、空から地へと落ちることがない、と。しかし、実はこの箇所が書かれた元々のギリシア語で読むと、以下のようになります。「だがその一羽〔のスズメ〕でさえ、あなた方の父なし(・・・)には、地へと落ちない」、そのようになります。すなわち、「人間よりも小さい存在として考えられているようなスズメ」でさえ、地へと落ちる時も、「神が共に、一緒にいてくださる」、「一緒に地へと落ちてくださる」、そう言っているのだと思います。そう考えた時に、もしかすると、私がどん底に落ちた時でさえも、すなわち神さまを否定していた私が、もう二度と這い上がれないような深い闇の底へと落ちた時でさえも、神さまはずっと、ずっと私と共にいてくださったのかもしれません。だからこそ、私は今日、2023年7月2日を生きているのかもしれません。
 この世界では様々なことが起きています。本当にいろいろな問題が生きている社会の中で、私たちは生き、様々な苦しみを感じていると思います。また、皆さまおひとりお一人の置かれた状況の中で、おひとりお一人が辛く、苦しい思いもされているかもしれません。誰にも言えない、そんな辛い状況の中にいらっしゃる方もいるかもしれません。「神はどこにいるのか? いるのなら何をしているのか? 私のことを神は見捨てたのか?」、そのような想いを感じていらっしゃる方もいると思います。ですが、今朝の聖書箇所は言います。「あなたは、あなたの神なし(・・・)には、どん底へと落ちることはない。たとえどん底に落ちたとしても、あなたと共に神はいて、あなたと共にいる神こそが一緒にどん底へと落ちてくださる」。従って「あなた」は独りではない、ということです。決して「あなた」は独りではない。あなたの神さまが共にいて、共に、つらい「いま」を過ごしてくださる、そういうことなのです。見えないけれども、必ず存在する神さまが「あなた」と共に、ずっといてくださるのです。どうか、そのことを感じつつ、これからの1週間を、共に、この世界へと派遣されながら生きていけましたら幸いに思います。

祈り(祈ります)
 主イエス・キリストの父なる神さま。今朝も私たちを起こしてくださり、生かしてくださりありがとうございます。そして過ぎた1週間を守ってくださり、ありがとうございました。今朝も聖書の言葉に、共に訊けたこと、感謝いたします。どうか、私たちがどん底へと行く時も、これまでと変わらずに一緒にいて、一緒にどん底へと落ちてください。そしてそのどん底から共に這い上がり、またこの世界を一緒に歩んでください。今朝ここへと来られなかったすべての人とも、あなたが共にいてください。もちろん、白髭先生と檀さんとも一緒にいて、先生が一日でも早く回復できますように。
 すべてを感謝いたします。この祈りを、主イエス・キリストの名によって、あなたに祈ります。アーメン。

(人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、皆さま おひとり おひとりの心 と思いとを、キリスト・イエスにあって守られますように。アーメン。)    樂満大樹


次週7月9日(日)10時半より
聖霊降臨後第6主日・マタイによる福音書11:16~9,25~30
「主の祈り①親密な神】白髭義牧師
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