日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

5月28日

2023-05-31 12:21:35 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年5月28日(日)
聖霊降臨(ペンテコステ)
使徒2:1~21、Ⅰコリ12:3b~13、ヨハネ20:19~23
「ペンテコステとシンデレラ」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日は、聖霊降臨あるいはペンテコステというキリスト教の祝祭日にあたります。ただこれは、わかりやすく言うと教会の創立記念日のようなもので、クリスマスのような子どもが喜ぶ行事もありません。ところが、広島県のある教会は、子どもたちにペンテコステを感じさせようと凧揚げ大会をいたしました。凧あげなら風の力ですから、ぺちゃんこのビニールの凧も、風を受けたら大きく膨らんで舞い上がります。ペンテコステもそんな感じで、この日お弟子さんたちは、聖霊をいっぱい受けたので、世界中に元気に出かけて行った。そういう話をしたら、子どもたちは納得したようだったと書かれていました。

ところで、本日は話の題を「ペンテコステとシンデレラ」にしました。つまり、シンデレラの話を通してペンテコステを考えてみようということなのです。ところで、シンデレラはグリム童話ですが、その話ならよく知っているという人も、多くはディズニーのアニメ映画、あるいは絵本から知っているのかもしれません。しかし本日は、原作で考えてみたいと思います。
ところで、原作の日本語訳を見ると、題はシンデレラではなく「灰かぶり」になっています。シンデレラという言葉にも灰かぶりという意味があるのですが、フランス語を解さない人はそこまでは分かりません。しかし、灰かぶというのは非常に大事だから翻訳はそうしたのだと思われます。
ということで、いつもはシンデレラと呼ばれる女の子を、私たちは灰かぶりと呼ぶことにします。さて、原作本では、話はこう始まっています。
むかし、ある金持ちの男の奥さんが病気になりました。そうして、自分の最期がもう近いと感じると、奥さんは、たったひとりの娘をベッドのそばに呼びよせて、こう話しました。「わたしのかわいい子、いつまでも神さまを深く信じて、すなおな心でいるのですよ。そうすれば、神さまがいつも助けてくださるわ。わたしも、天の上からおまえをながめて、見守っていますよ」。
そう言い残して母親は死に、入れ替わるように継母とその二人の娘がやってきました。そのため女の子は、屋根裏の部屋さえ許されないで、炉端の灰の中にもぐって寝るしかありませんでした。だから、その子の名前も灰かぶりとなるのでした。
ところで、古代社会で灰は、死の象徴でした。だから、灰かぶりと呼ばれた彼女は、死んだも同然でした。しかしまた、灰をかぶることは、生まれかわりの準備の意味もありました。ただ、灰かぶりがそうなるには、紆余曲折が必要でした。
ところでこの話は、彼女のもう一つの面を明らかにします。というのも、彼女は死んだ母親のお墓に木を植えたからです。するとその木は大きく育ったので、彼女がその木の下で泣いて祈っていると、白い小鳥がやってきて、彼女の望んでいたものを投げ落としました。思い出されるのは、死の間際の母親がこう言っていたことです。「神さまがいつも助けてくださるわ。わたしも、天から見守っていますよ」。つまり、母の約束が実行されたのでした。言い換えるなら、灰かぶりは、天の意志との交信を始めたのでした。そのため、たとえ彼女が灰にまみれて汚いなりをしていても、心の中は、やさしい母のイメージで満たされることになったのでした。
けれども、事はそう単純ではありませんでした。なぜなら灰かぶりは、美しい娘にならないと生まれ変われなかったからです。そのとおりで、彼女は変化を始めたのでした。きっかけとなったのはお城の舞踏会でした。自分には招待状がない灰かぶりは、継母に連れて行ってとせがみ始めます。ところが、返事はノーでした。何度でもダメなので、自分から行く以外にないと考え、墓の木の下に行き、「やさしい木よ、からだをゆすりゆすぶって、金や銀を投げとくれ」と呼びかけました。すると、誰も見たことがないきらびやかなドレスと、金と銀の靴が投げ落とされ、それを身につけて急ぎお城に出かけました。なお、このあとの舞踏会の場面は省略します。
しかし原作は。映画や絵本にはないすごいことが書かれていました。なぜなら王子の手を振り切り帰宅するのですが、捜索の目をゴマ化そうとトリ小屋に隠れたからです。そこに父親が現れ、斧で小屋を叩き割ったのでした。
ショッキングな話ですが、ある児童文学者はこう書いていました。「大変意味深い。なぜなら、父親による切断は、母の世界への娘の執着を絶つことであり、母と娘の心理的葛藤に終止符を打つことだからである」。でも、これを裏返すなら、執着と葛藤さえ取り除けば、あとの残りは全部大丈夫なのです。つまり残りとは「母が見守ってくれている」という信頼の部分です。児童文学者も、それだけはいつまでも大切にしようと言っていたのでした。
トリ小屋事件の意味することは、灰かぶりはもう女の子ではないということでした。というのも、王子と結婚してお妃になるのですから、もう甘えは許されません。それに、お妃は国民の母ですから、国民から寄りかかられる存在であらねばなりません。でも、そういう場合でもだいじなことは、お妃が備える母性というのは、幼時から育ってきた信頼感、つまり「母が見守ってくれている」という思いに根差していることが大切なのでした。
ところで、聖霊降臨は、冷え切った心が暖められる出来事でした。その心はいつも冷えやすいので、聖霊の働きもいつも必要なのです。それは、母が木と白い鳥を介して娘に投げ与えた素敵なドレスのようなもので、それが聖霊についての教えなら、子どもたちは真っ先に理解してくれるのです。そう思うと、聖霊のことをあれこれ難しく考える必要はなくなるのです。



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5月21日

2023-05-28 13:04:57 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年5月21日(日)
復活節第7主日
使徒1:6~14、Ⅰペトロ4:12~14、ヨハネ17:1~11
「皇帝の新しい着物」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
本日は、「主の昇天の日」とも呼ばれる日曜日です。今の聖書にもあったように、イエスは復活の40日後に天に昇りました。それが本日なのですが、とりたてての祝祭日扱いはされてきませんでした。そうは言っても、今読んだ個所には、きわめて重大なことが記されていました。それは、二人の天使が語った言葉の中ですが、天に昇って行ったキリストは、かならずまた地上においでになると言われたことです。再臨のことですが、キリスト再臨は、クリスマス、イースター、と並んでキリスト教信仰の3つの大きな柱の一つとされています。本日は、そのことだけ再確認したいと思うのであります。

ところで、私たちは今のキリストの復活が自分の人生で持つ意味というのを考えるイースターを過ごしています。さて、そこで役立つのがメルヘンです。メルヘンは子ども相手の話と思っていると、人生の深みにも触れていることが分かってくるからです。生まれかわりもメルヘンが得意のテーマであります。
さて、本日考えたいのは『はだかの王様』です。アンデルセン童話で、正式の題は『皇帝の新しい着物』ですが、『はだかの王様』がポピュラーであります。ところで、この話がグリム童話と違うのは主人公が大人ということです。
さて『はだかの王様』は多くの大人も惹きつけてきました。たとえば、王様はなぜあんなに新しい着物を着たがるのだろう。それは一種の強迫観念ではなかったか。とすれば、現代人にも無関係ではなさそうだ…というように、です。
さて私たちはここで、登場人物の一人である大臣にスポットライトを当ててみます。ところで、この大臣は、誰もが知る正直者の老人でした。話はこうです。ある時、外国から2人の人がやってきて、自分たちは目に見えない着物を織れると吹聴します。私たちが織る着物は、今の役目に向いていない人間と、愚か者だけの目には見えないが。あとの人は見えるというのでした。
噂を聞いた王様は、2人を呼び寄せ、多額の前金を払って、新しい着物を注文しました。すると2人は、すぐ作業にとりかかりました。そこで王様は、自分が最も信用していた大臣に様子を見に行かせました。「あれなら、いちばんよくわかるだろう。あれは、知恵もあるし、また、あれくらい、役目に向いている者は、ほかにないからのう」と思いながら。
さて、おっかなびっくり作業場にやってきた大臣は、大きく目を見開いてつぶやきます。「おや、わしには何も見えないぞ」。大臣は自分自身に絶望してしまいます。しかし、たとえ口が裂けても、見えないとは言えませんでした。大臣が「わしはおろかなのか」と自問自答していると、ペテン師が言いました。「ところで、いかがでしょうか」。すると大臣は言いました。「おお、すばらしい。なんとも申し分がない」。また眼鏡をしっかりかけなおして、「この柄も、この色もわしは気にいったぞ。陛下にもそう申し上げよう」。
『はだかの王様』は、いちばん信用されていた人間がある日嘘をついたというお話であります。
さて、大臣に続いて家来たちも見にゆき、異口同音に「すばらしい、もうしぶんない」と言いました。そこで王様は、パレードを企画して、その着物を着て行進することになりました。沿道の人たちも『これは、これは、王様の新しい着物は、まったく申し分がない』ほめそやしました。ところがその時一人の小さな子どもが、「だけど、なんにも着ていないよ」と言ったのでした。
さて、『はだかの王様』は、情報伝達の問題点を指摘しているということがいえます。というのも大臣は、都合の良くない情報、つまり「自分には何も見えない」という情報を王様に伝えないようにして、自分にとって都合の良い情報、つまり「自分には美しい着物がしっかり見えている」という加工された情報だけを王様の耳にいれたからです。
なぜ大臣がそういう情報操作をしたのかというと、自分には見えないという正しい情報を口にすれば、たちどころに自分が愚か者であることが人々に知られると思ったからでした。そのため、大臣が王様に伝えたのは偽りの情報、偽情報でした。しかし、このあとこのニセ情報だけが、お城の中を独り歩きし、ついには外に出て、国中に正しい情報として広められ、ついにパレードの日になったのでした。
しかし、そのニセ情報を人々が心の底から信じていたかというと、それは疑わしいのでした。なぜなら、子どもの一言はただちに群衆の間でさざ波の波紋のように輪を描いて広がり、子どもの叫びは王様の心の中にも忍び込み、群衆がささやきあっていることが本当のように思われてきたからです。しかし、時すでに、遅しでした。
さて問題は、ニセ情報をなぜ誰も止められなかったのかです。話にはこう書かれています。「この織物は、他人の目には見えていると、誰もが信じていた」。ところが自分の目には見えてないのです。それを口にすべきだという考えもありますが、それは多数意見に反する。自分は少数の人間にはなりたくない。そういう気持ちが働くのでした。
ところで、人は誰も、世間の人たちからどう見られるかを気にしながら生きています。しかし心の底では、自分自身に対して正直で素直に生きたいと願っているのです。そしてメルヘンは、そのためにいちばん大切なのは子どもの目を持つことだよとささやきかけているのであります。その証拠に、「王様は何にも着ていないよ」の一声で人々は我に返ったのでした。『はだかの王様』は、私たちに安っぽい慰めを与える話ではありません。むしろ、メルヘンは、私たちを縛りつける頑固な価値観から私たちを解き放ちます。その意味で、聖書に限りなく近い関係にあるのがメルヘンなのであります。

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5月14日

2023-05-17 13:19:29 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年5月14日(日)
復活節第6主日
使徒17:22~31、Ⅰペトロ3:13~22、ヨハネ14:15~21
「グリム童話の幸福論」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
今月のきょう第二日曜は母の日です。母の日とカーネーションは切っても切れない関係にあります。百数十年前のアメリカの話ですが、亡き母の追悼会を教会で守った5月のある日曜日、その娘が来会者のため用意したのがカーネーションでした。それは非常に小さい教会でしたが、なぜかそのことがアメリカ中に知られることになり、5月即母の日即カーネーションの図式が一気に定着しました。考えてみれば不思議な話ですが、もしウラがあるとしたら5月はカトリック教会にとっては「マリアの月」だということです。もちろんプロテスタントは無関係ですが、ずっとマリア崇拝が禁じられてきたプロテスタントの善男善女の心の奥底には聖母へのあこがれが眠っていたかも知れず、それに火がついたのが母の日だったと考えることが出来るかも知れません。この類の議論は、もっとオープンでよいのではと思うのであります。

ところで、私たちはイースターのお祝いの今の時期、グリム童話を考えています。なぜならキリストの復活の「死んでいたがよみがえった」は、グリムでも通奏低音のように鳴り響いているからです。
ところで、グリム童話の主人公で、惨めな最期を迎える人間は一人もいません。最初は、貧しく気の毒な境遇でも、のちにかならずお姫様や王様になるからで、グリムはいつもハッピーエンドというのは約束事なのです。
ただ、全部がそうかというと例外もあります。ふつう主人公の人生は右肩上がりですが、右肩下がりの人生もなくはないからです。でもそう聞いた大人は、「そう、人生、山あり、谷あり。どん底人生もあるからね」と教えるのかもしれないのですが、幼い子どもたちにそれを言うのは早すぎると思います。
それに、話が右肩下がりで、主人公がヒーローになれなくても、子どもたちは喜んで読んできました。それはなぜか。そこを考えてみたいと思うのです。そこで本日は『幸運なハンス』の話を取り上げたいと思います。
さて、主人公のハンスは七年間忠実に働いたご褒美として、ご主人さまから一抱えもある大きな金の塊をもらいました。ハンスは、それを布にくるみ肩からさげて故郷の母親のもとへと出発します。ところが、歩く途中でこの金塊は自分には負担すぎると感じ始めます。すると、馬に乗った人がやってきたので、頼んで金塊をその馬を交換してもらいます。「さあ、これで歩かずにすむぞ」。ところが馬はハンスを背中から振り落とします。悲鳴を上げていると牛を連れた人が来たので、ハンスは自分の馬を牛と交換してもらいます。この時ハンスは「しめた」と思いました。馬はミルクやチーズやバターを生まないのに牛はそうではないからです。ところでハンスは喉が渇いたので、牛の乳を搾ろうとすると、牛は彼を思い切り蹴飛ばしました。「うんうん」うなっているハンスのそばに今度は子豚を連れた人が来たので、牛と小豚と換えてもらいました。ハンスは考えました。「牛肉は脂っけが少なすぎる気がする。それにひきかえ子豚は格別だし、ソーセージまで出来る」。しばらく歩くとガチョウを抱えた人に会ったので、子豚をガチョウと交換しました。そして考えた。「やっぱりおいらは得をしている。第一にうまい焼肉だ。それからポタポタたれるような脂がたっぷりある。これがあればガチョウの脂入りのパンが三月分もできる。しまいにきれいな羽がある。この羽をおいらの枕に詰めてもらえばぐっすり眠れる。おっかさん、さぞかしよろこぶだろうな」。
さてハンスが次に会ったのは腹黒い刃物研ぎで、その人から言葉巧みに何の価値もない大きいだけの石とガチョウを交換させられます。その石を抱えてよろよろ歩いていると、泉があったのでそれを飲もうとした瞬間石は泉に落ちました。するとハンスは目に涙を浮かべ、神さまに感謝して言います。「俺みたいに幸せな人間はこの世にはいないぞ」。こうして身も心も軽くなったハンスは、お母さんがいる家に帰ってゆきました。
ところで、大人の目からすると、ハンスは明らかに救いようのない愚か者です。しかし、グリム童話は、ハンスのように最後まで愚か者という話はめずらしいほうです。最初は愚か者でも、あとで王様になってめでたし、めでたし。まあ、この話の主人公は旅の途中で様々なことに遭遇します。その場合普通のヒーローはそれを克服しつつとうとう頂上に達するものなのに、このハンスに限ってはヒーローの道は絶望的でした。
しかし、よくよく考えてみると、ハンスは、幸運を求めて必死に頑張ったわけではありませんでした。彼は、最初から最後までどうしようもない愚か者だからです。まして、ハンスの物々交換の動機は、相手への思いやりからなどではなく、自分の快楽の追及のためでした。なぜなら彼は、飲み食い以外のことには関心がなく、人生の現実問題と取り組もうという気概もない。そういうハンスが、最後は無一文。「当然だろう」の声が聞こえそうです。
でもハンスは言うのでした。「俺みたいに幸せな人間はこの世にはいないぞ」。他人が何と言おうと、彼は幸福でした。この底抜けの幸福感はどこから来るのか。……イエスは教えました。「子どものように神の国を受け入れるのでなければ、決してそこに入ることはできない」。そうか、ハンスのようになれなければ入れないのだ。ハンスは食いしん坊ではあったが、欲にとらわれてはいませんでした。ということは。欲にとりつかれた人間は神の国に入れないのである。……あまりにもわかりやすい教えではないでしょうか。


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5月7日

2023-05-11 13:19:58 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年5月7日(日)
復活節第5主日
使徒7:55~60、Ⅰペトロ2:2~10、ヨハネ14:1~14
「白雪姫のこびとたち」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
さて、今の時期、教会は復活節なので、この間の主題は「死んでよみがえる」です。しかしそれが、あなた自身のテーマでもあると言われたらどうすればよいでしょうか。こんな時お勧めしたいのはグリム童話です。なぜなら、この童話には死んで生き返った話が満載だからです。さて、そう思いながら、本日取り上げたいのは白雪姫です。なぜなら、彼女も毒入りリンゴを食べて死んだからです。けれども彼女も見事に生き返ったのでした。
ところで、この白雪姫を大学の授業の教材にした先生がいました。その授業では、最初にアニメの『白雪姫』を教室で見せました。なお、この先生は女性で、学生も全員女性でした。つまり大学は女子大で、学者の先生の専攻はジェンダー学でした。こう聞くといかにも難しそうですが、白雪姫の映画をまず観ましょうと言われれば、緊張もほぐれそうです。
ところで、この映画が作られたのが1936年だと知った学生たちは、そんな古い映画なんてと思うかもしれません。でも先生は観終わった彼女たちに感想文を書かせました。すると、一人の学生はこう書いていました。
「明るい場面、表現も音も軽快だった。なによりも歌が多くてとても楽しかった。踊りの場面も白雪姫がきれいだった。スカートをもってくるくるまわるところは女の子のあこがれ。また、(こびとたちの)汚い家を掃除してあげようという気持ちも女性ならではだと思った。王子様と出会いその方は必ず迎えに来てくれる、どうかまた会えますようにという恋心が初々しく感じられた。最後に迎えにきてくれた王子様は運命の人だったのかな」。なお、この学生は5歳の時からプリンセスにあこがれるようになったそうです。
ところで、ジェンダー学という学問は、美しさと従順さがあれば王子さまが来てくれ、幸福な結婚ができるのだと子ども時代に刷り込まれた女性が、大人になってもその幼児性から脱っせない時、自立できるように手助けをする学問であるという説明も出来るそうです。そういう学びをする学生は、やがて映画に対する批判の心も芽生えます。こんな感想文も提出されました。
「私はこの映画を観て、美しさへの執着心、夢の実現を信じ続けること、また女性に対してこびとたちが抱く気持ちなどに注目した。一方、継母の女王の場合、自分の美が一番でないと我慢できないのに対して、白雪姫は自分の美しさを誇らなかった。だから、安らかに暮らすことが出来たのだ。なお、この映画で問題点だと思ったのは、白雪姫自身が家事は当然と思っていたことだ。それと、小人たちが、女というのはきれい好きで家事がこなせる生き物だと決めつけていたことである。また、白雪姫が小人の家に置いてもらえるのは、彼女が家事をしてくれるからだという考えもおかしい」と書いていました。
あるいは、こんなのもありました。「私はファンタジーの裏に隠された社会的メッセージを感じた。第一は障害者の存在である。七人のこびとは老人でしかも身長が低い。これは障害者だからで、白雪姫は健常者だ。映画は、両者が差別の壁を取り払い共に生きるようにと言っていたのだ」。
ところで、ここまでがディズニーの映画を観たという前提での話でした。でも、グリム童話の原作はどうなっていたのでしょうか。なぜなら、原作は映画とかなり違っているからです。というのも、白雪姫が忍び込み見わたした室内は、清潔感にあふれていたからです。お皿やフォークも整然と並べられています。むしろ、散らかしたのは白雪姫のほうでした。なぜなら、出来上がっていた美味しそうなお料理を、腹ペコだったため手あたり次第に食べ散らかし、食前酒のワインまで飲み干し、パジャマにも着替えないでベッドに倒れ込んで寝てしまったからです。
なお、小人たちは毎日、朝早く出かけて、日が暮れてから帰宅するのですが、家では食事がいつでも食べられるように出来上がっていたのでした。だから、彼らが白雪姫に、この家にいつまでもいていいと言ったのは、食事作りをあてにしたからではありませんでした。そうではなく、彼女の気の毒な身の上を案じ、再び森をさまようことの危険を熟知していたからこそ、そう勧めただけでした。なお彼らが家事を頼んだ時、白雪姫は「喜んでそうするわ」と言いましたが、もし一日中何もすることなく家にいることになったら、それは死ぬほど退屈になるに決まっているからで、別に彼らが彼女に家事を押し付けたということでは全然なかったのでした。
ところで、この小人たちは、山で鉱石を掘り、その鉱石から金属を抽出し、それを素材として人間社会に必要なものを作るのを仕事にしていました。しかし、自分たちの存在は隠し、森で静かに暮らしていたのでした。しかし、例の女子大生の一人は書いていました。「七人のこびとたちが出てくると、気持ちがやすらぐというか、平和な気持ちになれる」。一緒にいるだけで心が安らぐ存在だったのは、白雪姫も同じだったことでしょう。
なお、物語の最後にある白雪姫と王子さまの結婚式の場面には彼らは姿を見せません。暗い森にいる時だけ共にいるのが彼らの役割なのでした。つまり、人の心の奥深い所が彼らの居場所なのでした。
けれども、人の心の奥深い所こそ、危険がうごめく場所です。そんな場所であっても、人生はなお信頼にあたいするのだと、小人たちは声をかけてくれるのでした。そして、そのこととキリスト教信仰はどこか似かよっている。このように、グリム童話は、子どもたちの抱える暗さという現実に一条の光を当ててくれるのでした。だから、グリムは子どもたちに支持されてきました。しかし、そういうことを、子どもという時期だけに限定してしまうのは、いかにももったいないという気がしてならないのであります。
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神の家か父の家か

2023-05-02 12:26:32 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2023年4月30日(日)
復活節第4主日
使徒2:42~47、Ⅰペトロ2:19~25、ヨハネ10:1~10
お菓子の家か父の家か

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。

Ж
 本日の福音はヨハネ10章で、「良い羊飼い」というイエスの教えでした。ところで、私の友人に聖地の写真を専門とする写真家がいました。ある日彼はその聖地で、羊たちを飼う羊飼いを見つけたので、接近してシャッターを押そうとしました。するとその羊飼いがものすごい剣幕で手にしていた杖を振り上げながら走ってきたので、驚いて逃げ出しました。あとでその写真家はこう言うのでした。「たしかに乱暴な羊飼いだが、あんなふうにして外敵や野獣から羊を守るのが羊飼いなら、イエスの教えていた良き羊飼いというのも、意外とあんな感じだったのかもしれないね」。
ところで、本日は復活節第4主日で、キリストの復活を考える日曜日です。ただそれだけ言われても、何を考えていいかわからない。神学書という難しい本を読めばわかるのだろうが、それをこなせるのはごく少数である。つまり、キリストの復活と自分自身の毎日を結び付けて言葉にするというのは、決して簡単なことではないのです。そんな時にお勧めしたいのがグリム童話です。なぜなら、それは死んで生き返るというテーマで満ちているからです。
それではその中から、「ヘンゼルとグレーテル」という話を取り上げてみたいと思います。このお話は主人公がお兄ちゃんのヘンゼルと妹のグレーテルです。なお、かなり長いストーリーなので、今回は後半を重点的に見てゆきます。それは、悪い魔法使いのおばあさんをやっつけたあと、森を出て自分たちの家に帰ってゆくという話であります。
ところでヘンゼルとグレーテルの見どころは、子どもたちの成長にあります。しかし二人の成長は一律ではありません。ヘンゼルはやはりお兄ちゃんらしく、妹をリードします。この話の両親は子どもを森に捨てるのですが、兄は沈着冷静に判断し自力で家に帰りつく手段を講じます。ところが二度目に捨てられた時は、簡単なことで判断を狂わせ、家に帰るのに失敗しました。最初の成功で慢心していたのかもしれません。
ところで、グレーテルはというと、ただただ泣くだけでした。森の中でもそうだったし、魔法使いの家の中でもそうでした。ところが、その最中でも彼女の中では自分も気がつかない変化が進行していたのでした。それが明らかになったのは、兄のヘンゼルがパン焼きかまどで焼かれる日でした。なぜなら、言葉たくみに魔女をかまどの火の目の前にまでおびき寄せ、「えいっ」と火の中に押し込み出られないようにしたからです。魔女は断末魔の叫びを上げつつ死んでゆきました。すなわち、彼女はもう無自覚な時期から、決断力のある人間へと変貌を着実にとげていて、これで証明されたのでした。さて、グレーテルは大急ぎでヘンゼルの所へゆき叫びます。「お兄ちゃん、助かったのよ。魔女のおばあさん死んじゃった」。
さて、ここまですれば、あとは家に帰るだけ。のはずだったが、道が来たときとは違っていました。来た時はなかった大きな川が眼前に立ちはだかったからです。同じことの繰り返しに思えても、昔の自分はもう繰り返せないのでした。それだけでなく、出現した新しい事態を、道をクリアーするには、今まで問われたことがなかった新しい知恵が要求されるのでした。
というのも、その川には橋もなかったし、漕いで渡れる舟もなかったからです。あるのは水に浮かんでいる一羽のカモだけ。ヘンゼルはたちまちしょげかえりました。しかしグレーテルは言いました。「でもあそこに、白いカモが泳いでいる。あれに頼んだら、むこうにわたしてくれるわよ」。ヘンゼルが絶望という反応を示した現実に、グレーテルは新しい光を当てたのでした。
さて妹の言葉で元気づいたヘンゼルは、それでは二人いっしょにカモの背中に乗って行こうと言います。けれども妹は「ダメよ」と言いました。わたしたちはもう重すぎると言うのでした。彼女はカモに言います。「カモさん、私たちをひとりずつわたしてちょうだい」。そして彼女は、お兄ちゃんを先にカモに乗せたのでした。このため彼女は、カモが向こう岸に行ってまた帰って来るまでの、限りなく長い時間一人きりになったのでした。
彼女はもうめそめそする女の子ではありませんでした。それに、じっと待つことが大事な成長になりました。なぜなら、自分の人生は自分だけの人生だから、今後は一人で歩まなければならないという理解に達していたからです。
ところで、この物語で非常に興味深いことは、最初と最後に「お父さんの家」という言葉が出てくることです。言葉はまったく同じですが、内容はまったく違っているからです。物語の最初のお父さんの家は、子どもを捨てることに執着する母親が同居する家だったのに、物語の最後のお父さんの家については、「あのおかみさんは、もう死んでしまった」と書かれているからです。最初の家は子どもたちにとって不安に満ちた家だったから、本当の意味でのお父さんの家ではなかったのです。ところが、あとの家では心配事がなく、みんな楽しく暮らせたからでした。
さて、このお父さんの家は聖書にも出てきます。ヨハネ福音書の14章なのですが、2節を見るとイエスは「私の父の家」という言い方をしているからです。わたしの父の家、父の家すなわち神の家とは、イエスもそこにみんなと一緒に住む家であると、イエス自身が言っているのです。
ところで、メルヘンと聖書はまったく別物だという人もいますが、よく読んでみれば、大事なことに関しては意外と一致点があるものです。そしてその一致点を心にとめ聖書を読めば、聖書自体がより豊かになる可能性があるのです。なぜなら、聖書もメルヘンも中心的テーマは信頼だからです。それに、子どもたちは、大人以上に信頼が大事と考えています。だとすれば、私たちもそういう考えを共にするのがよいと思えるからです。
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