日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

3月17日

2024-03-22 15:04:10 | 日記
創世記12:1~4、ヘブライ5:5~10、ヨハネ12:20~33
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二日市教会主日礼拝説教 2024年3月17日(日)

「アブラハム的な人生 その1」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 
 前回までは、創世記の最初の部分のことを考えました。エデンの園、蛇の誘惑、人類史最初の兄弟殺し、ノアの洪水、バベルの塔などでしたが、これらは全部神話でした。しかし、神話は決して馬鹿に出来ないもので、なぜなら物事の本質を鋭く指摘してくれるのが神話だからです。

 それはともかく、前回で創世記の神話を終えて、本日からは歴史編が始まるのです。そしてその最初に出てくるのがアブラハム(アブラム)であります。
ところで、歴史編は有名な人物がたくさんです。奴隷にされエジプトに売られたヨセフ、民を率いて紅海を渡ったモーセ、巨大なゴリアテを石ころ倒した少年ダビデ、異国の女王の訪問を受けたソロモン大王等などです。
ところが、アブラハムはこれらの人物ほどはパッとしません。かなり地味な感じのする人間だからです。子どもたちにはしばしば聖書のヒーロー・ヒロインの話をするのですが、彼の話はあまりしません。子ども心をとらえる要素に乏しいからです。
そんなアブラハムですが、最近事情が変わってきました。『アブラハム、アブラハム』という歌が登場したからです。生まれたのはオランダでした。オランダの教会の人は旧約聖書が好きです。子どもたちにも旧約の話を色々するのですが、あるとき、アブラハムの歌がないことに気づいた女性がいて、自分で創作した歌『アブラハム、アブラハム』が大人にも人気となり、日本にも伝えられたのでした。

さて、日本語になった『アブラハム、アブラハム』は、『こどもさんびか』と『讃美歌21』の両方に載っています。いずれにせよ、アブラハムの歌は日本でも初めてで、その意味で画期的でした。その歌詞と楽譜のプリントを用意したので、曲を聞いてみましょう。
ところで、この歌詞の背景にあるのは、アブラハムの旅の人生です。その旅については、今読んだ創世記12章にも出ていました。彼はメソポタミアのカルディアにあるウルという先祖代々の土地から家族を伴い旅たちました。そして、チグリス、ユーフラテス河の上流にあたるハランに移住して短期間滞在し、その後さらに前進し、カナンという土地にまでやって来ましたが、今度はさらにそこからナイル川のあるエジプトに移住をし、そこで滞在した後再度カナンの地に移動しました。移動、移住を繰り返す生き方をしていたのでした。
それではなぜ、移動、移住を繰り返したかというと、アブラハム一族は羊を飼うことを生計としていたからです。羊の食糧は草ですが、一定の場所の草はすぐ食べつくすので、次の牧草地を求めて移動する、環境や条件が良ければその土地に滞在しますが、やがてまた新しい草原に移動する、その生活スタイルがアブラハム的生き方だったのでした。しかし、それには、数多くの困難や危険が伴います。それでも旅をせざるを得ないアブラハムには、神の祝福こそが生きる力の源なのでした。
なおプリントの歌詞と曲は子ども向けの本でも大人用の本でも、まったく同じです。歌詞は神のことばと、人々の言葉に分かれます。最初に、人々の合唱が始まります。「アブラハム、アブラハム、生まれた故郷を離れて、アブラハム、アブラハム、父の家を離れて」。合唱は三度繰り返されます。
合唱のあと、神の言葉の独唱が来ます。「わたしが示した土地に行きなさい。わたしの民の父となるだろう」。このあと続く二度の独唱の言葉はこうです。二番目は、「わたしはあなたを祝福して導く、大人も子供もすべての人を」で、三番目が「導かれるまま、しめされた道を、嘆かず進み、ためらわず行け」です。この三番目で、旅たつ人は背中を押されて歩き出す・・・。
独唱と独唱の間に合唱が入り、三番目の独唱のあと最後の合唱となります。なおこういうスタイルは、大げさに言えば聖書ミュージカルです。なお聖書ミュージカルなら、毎年全国の教会幼稚園・保育園でクリスマスに上演されています。クリスマス劇または聖劇と呼ばれ、子どもたちが、マリアやヨセフ、天使ガブリエルとか羊飼いたち、三人の博士をそれぞれ役割分担しながら、神の子イエスの誕生の喜びを、元気よく歌うミュージカルです。

 ところで、このプリントの歌には、アブラハム自身が歌う歌詞はありません。創世記を見ても、アブラハムの言葉はありません。それで思い出すのは、降誕劇におけるヨセフです。マリアには色々セリフがあり歌もたっぷりですが、ヨセフは終始無言だからです。つまりこの点はヨセフもアブラハムも同じで、ただひたすら黙々と神に従うのみという感じなのです。
 話は変わりますが、アブラハムから始まる旧約聖書の歴史編は大変なページ数になるのですが、その膨大な量の歴史を一言で見事に言い表した言葉があります。320頁の申命記26章5節です。すなわち、「わたしの先祖は滅びゆく一(いち)アラム人でした」。自分たちの先祖は滅びても不思議ではなかったくらい弱小な部族だったと言っているのです。そのような零細な、微細な集団を神があえてお選びになられた・・・。これは旧約の民の信仰告白です。

 ところで、新約の民である私たち、今も同じ言葉の上に、自分たちの信仰告白を打ち立てなければならないではないか。旧約も新約も同じ聖書の民であるからです。このことを、あらためて思いたいのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 3月24日 四旬節第6主日
説教題:アブラハム的な人生 その2
説教者:白髭義 牧師
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バベルの塔を考える

2024-03-15 16:49:59 | 日記
 創世記11:1~9、エフェソ2:1~10、ヨハネ3:14~21
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二日市教会主日礼拝説教 2024年3月10日(日)

「バベルの塔」を考える
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 旧約聖書の創世記の学びを続けてきました。前回はノアの洪水の6章から9章までを見ました。それに続いて11章のバベルの塔の話を考えたいと思います。
 さて、この話は大変有名です。かつていくつかあった古代文明は巨大な都市によって支えられ、都市の中心には必ず高い塔が建てられましたが、その中でも有名なのがバビロンの塔です。しかしこの塔は東京スカイツリーや福岡タワーとは意味合いが違っていました。なぜなら、それは神を祀る神殿でもあって、いまの創世記9章4節でも、バベルの塔の目的は「天まで届く」ことだと言われているからです。バベルの塔は宗教的な建築物だった。しかし、神はそれに対して拒否反応を示した、そういう話だったのです。
 ところで、絵が好きな人でなくても、ブリューゲルという画家の『バベルの塔』はテレビなどで見ていると思います。その絵の塔はまさに建設中の塔で、その工事現場で働く労働者たちがきめ細かく描かれています。もちろん今のような重機はありませんから、肉体労働に全面的に依存していたバベルの塔でした。
 さて、この絵を通して考えたいことは、これらの労働者についてです。なおそれを考えるヒントが絵の下の左側に出ています。そこには、王冠をかぶる馬上の王と、それにつき従う感じの者たちがいるからです。つまり、王侯貴族たちが現場と距離を置いて視察しているのです。工事が進行中の塔ですが、いちばん上はもう崩れかけてただ今崩壊中。いくら造ってもダメになっていくのがバベルの塔であるとブリューゲルは言うのでした。
 さて、その最上部を雲がかかっています、いかに塔が高いかを誇示するみたいですが、その雲の上には神がいて、人間がしていることを見下ろしていました。たしかに、バベルの塔は権力者にとって力が誇示できる最大のチャンスでした。彼等のせりふも記されています。「さあ、天まで届く塔のある町を建てて有名になろう」。数千年も前の話なのですが、今とそれほど変わりないかも知れません。高さを誇る建築物なら、世界中の都会で建てられているからです。考えてみれば「有名になろう」という言葉自体は、そこにすむ住民たちのささやかな願望であるかもしれません。しかし本日の物語は、そのレベルの問題ではないのでした。
 さて、本日の物語でいちばん問題になっていたのは言葉でした。言葉つまり言語が違うともう意思疎通ができない。それは今も、日本語と英語のように、現実的な悩みになります。もし、日本人とアメリカ人の言葉が同じであれば、トラブルももめごとも起きないであろう。だから人々は英会話をせっせと勉強するのかもしれませんが、では言葉がまったく同じな日本人同士の間では、トラブルももめごとも一切ないのかというと、そうではないはずです。
つまり、自分が日本人で相手が言葉が異なる外国人だとすぐトラブルが発生するという考えは間違いだからです。今の物語では、最後に神が人間を世界中に散らし、そのため外国語だらけになりましたが、人間が同じ言葉で意思疎通ができるというのは、ほんとうは神も喜ぶことなのです。
つまり、トラブルやもめごとの原因は、日本語対外国語みたいのことにあるのではないから、本日の話で神が問題視していたのは、もっと別のことだったと思うべきなのであります。
さて、それを考える上で、ブリューゲルの『バベルの塔』は役に立つかも知れません。なお、この絵で描かれている人間たちは、大きく言って二種類あります。一つは、工事現場で労働している人間と、もうひとつはそれを遠くから眺めている人間です。もちろん、あとのほうは全員上流階級の人間です。なお、バビロンの塔は今から三千年も四千年も前の話です。古代バビロニア帝国の巨大な工事現場で働いていた労働者たちは、実は奴隷でした。権力者たちの政策によれば、奴隷は絶対死なせてはならない、最低限のぎりぎりの食事は与え続けて生かしておくべきだというものでした。「生かさず殺さず」が奴隷でした。
 ところで、11章3節には人々が口にした言葉が記されていました。すなわち、「れんがを作り、よく焼こう。」とか「天まで届く塔を建て、有名になろう。そしてここから散らされないようにしよう」。この言葉は工事現場の奴隷たちの台詞ではありませんでした。工事現場か距離を置いて眺めている上流階級と権力者たちの言葉だったからです。れんがを作るのも、塔を建てるのも、きれいな服を着た彼等ではありませんでした。
 つまり、6節に書かれている神の言葉、つまり「彼らは皆一つの言葉を話している」の「彼ら」に奴隷たちは入っていないのでした。神が観察していたのは、高貴な身分の者たち、富や権力を独占している者たちだったからです。つまり、「一つの言葉を話して」いたのは、この上流階級の人間で、「一つの言葉を話して」いた、すなわち彼らの間でしか通用しない会話をしていたのでした。
 ところで、「バベルの塔」は創世記1章から続く長い話の最終回の話です。「天地創造」、「カインとアベル」、「ノアの洪水」などがありましたが、全体に共通しているテーマは人間の罪でした。聖書はこのあと残りが、旧約・新約でまだまだいっぱいある感じですが。それも含めて聖書のテーマはやはり人間の罪なのです。従って、バベルの塔を最終回と呼ぶのは、それなりの理由があるとかんがえなければなりません。
 なぜなら、「バベルの塔」で神が問題にしたのは、上流階級と権力者たちの罪だったからです。そして、彼らの本当の罪は、奴隷の人間たちを生かさず殺さずにしておき、底的に搾り上げつくしたということで、その体制を維持してゆくために彼らは同じ言葉で話していた、強固な団結をしていたことでした。この物語は、神が彼らの鉄の団結を打ち砕いたという、奴隷たちにとっては福音となるような話だったのでした。
 なお、聖書で覚えておきたいのは、この奴隷たちの目線が大切にされてゆくということです。従って、その目線をイエスも受け継いだことは、福音書を読めば伝わってくるのです。彼が、権力集団と対立しながら、人々に神の国を教えたこと、にもかかわらず逮捕され十字架にかけられたことも、奴隷の目線を最後まで貫いた結果だったと理解してみたいのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週3月17日 四旬節第5主日
説教題:アブラハム的な人生 その1
説教者:白髭義牧師
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3月3日

2024-03-05 14:52:38 | 日記
創世記8:21~22,9:12~15、1コリント1:18~25ヨハネ2:13~22
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二日市教会主日礼拝説教 2024年3月3日(日)
四旬節第3主日
「ノアの洪水―その2」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 学校で勉強する世界の古代文明にはエジプト文明とメソポタミア文明があります。この二つは、聖書と深い関係があるのですが、今考えたいのはメソポタミア文明です。メソポタミアとは二つの大きな河の間にある地域という意味で、ティグリス河とユーフラテス河を指しますが、その地域は水の恵みが豊かな土地でした。けれどもまた、その水が大洪水を引き起こすこともありました。
 さて、メソポタミア地域で最も強い国を築いたのはバビロニア帝国でした。この帝国は、最高度に発達した文明を生みましたが、有名なのは、世界最古の六法全書である『ハンムラビ法典』と、世界最古の文学作品である『ギルガメシュ叙事詩』です。これらの文書は楔形で刻まれた文字で粘土板に記されましたが、今から150年前くらい前に考古学者たちが発掘して世界中に知られることになりました。そして、『ギルガメッシュ叙事詩』のほうは、大洪水の話があることで、聖書の学者たちの多大な注目を浴びました。

 さて、この叙事詩は、アーサー王伝説に匹敵すると言われ、ギルガメシュという主人公が死の恐怖にかられて永遠の命を求め旅をするという話になっています。そして、旅の途中である人物に出会い、その人からかつて体験したという大洪水の話を聞きました。その話は、旧約聖書のノアの洪水を知っている人にとっては、とてもよく似た話なのでした。
 たとえば、ギルガメッシュの洪水でも箱舟が作られていました。ただ、その箱舟は、長さが60メートルで、幅も60メートル、高さも60メートルでした。けれども、ノアが作った箱舟は(創世記6章15節)、長さが三百アンマ、幅が五十アンマ、高さが三十アンマなのでした。このアンマは、お手元の新共同訳聖書の巻末付録の表「度量衡および通貨」にあります。それをもとに換算すると、35メートル、幅22メートル、高さ13メートルです。つまり、両者の寸法には、かなりの違いがあるのです。
 けれども、違いがあるのは当たり前で、たとえば箱舟に乗った人数や動物たちの数とかで大きさも決まるからです。(なお、ギルガメッシュの箱舟は7階建て、ノアは3階建てだった)。又は造船技術その他の違いも考慮するなら違って当然だからです。むしろ興味深いことは、どちらの箱舟の寸法も、空想上のバカバカしい数字にはなっていないことです。ギルガメッシュにしても、ノアにしても、人々の大洪水の記憶が、いかにリアルだったかを物語っているのでした。なお洪水伝説は同じ中近東には各地にまだあるので、聖書のノアの洪水も、そのような広い視野でとらえることが大事ではないかと思うのであります。
 ところで、様々な洪水伝説を調べるなら、類似点とともに相違点も色々見えてきます。そこで、旧約聖書の創世記の大洪水だけに見られる独自性は何かを調べるなら、いくつかのことが挙げられるのです。そして相違点のうちで、他の洪水物語に出てくる神々と聖書の神の違いはかなり際立っているのです。そのことがよく示されるのが、今読んだ創世記8章21節と22節なのであります。

 その前に思い出したいことは、なぜ洪水が起きたのかですが、それは地上の人間の悪に心を痛めた神の決断だったからです。この時の神の心を聖書は「心を痛めた」(6:6)と書いています。そして、そのあとが本日の8章、洪水後の話になるのですが、神の言葉はまず「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」です。ここを読んで「聖書の神は甘い」と思う人がいるかも知れませんが、神はすぐに「人が心に思うことは幼いときから悪い」とも言っています。つまり神はあくまで人間の罪を見ていたのでした。つまり、洪水後でも人間の罪深さは少しも変わっていなかったのです。ところが、変わったのは神だった。今までは、罪は厳罰に対処するのが神だったが、もうそれはしないと「心を変えた」からです。つまり、人間というものはどこまでも、どこまでも悪いという認識を、洪水のあとで持つようになったのでした。

 ところで、聖書の洪水物語は、一見めでたしで終わります。そう思わせてくれるのは9章の「祝福と契約」です。ここで神は、「滅ぼさない」という意思表明の虹を立て、証人としてその場にノア一人を招いています。このままだと、ノアは人類史上のヒーローになるところでした。
ところが、そうならなかったのは、そのあとの9章に「ノアと息子たち」の話があるからです。二つの話があります。ノアは酒を飲みすぎ泥酔し、服をまとわず裸身をさらけだして寝ていた。そこに、三人息子の一人がやってきて倫理道徳上決して息子がしてはならないことを父親に対してした。そのような話です。
事の発端は(アルコール飲料の)ぶどう酒にありました。ノアは箱舟を出ると農夫になり、ブドウ栽培を始め、大々的なブドウ園経営者になりました。古代社会ではぶどうは富の象徴でした。あの悲惨な洪水が去ると、社会は豊かになり、人々の心もたるんでいったのでした。この「ノアと息子たち」は、豊かさの中で人々が手に入れた自由から、とんでもないことが生まれたという話でした。
さて、創世記によると、アダムとエバ以来、罪を繰り返した人間への神の怒りも頂点に達し、一度絶滅を図りますが、それでも箱舟という「生き延びの道」を用意したのが神でした。ところで話は飛びますが、新約の世界になっても、人間の罪は相変わらずでした。だから、ノアの洪水に出てきた神は、新約でも同じ神なのでした。人間がどんなに罪にまみれても、今も心を痛め、生き延びる道を用意してくれる神がいる。その神こそが、イエスが「わたしの父」と呼んでいた神だったということを、改めて覚えたいのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次回3月10日 四旬節第4主日
説教題:『バベルの塔』を考える
説教者:白髭義牧師

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