創世記12:1~4、ヘブライ5:5~10、ヨハネ12:20~33
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二日市教会主日礼拝説教 2024年3月17日(日)
「アブラハム的な人生 その1」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
前回までは、創世記の最初の部分のことを考えました。エデンの園、蛇の誘惑、人類史最初の兄弟殺し、ノアの洪水、バベルの塔などでしたが、これらは全部神話でした。しかし、神話は決して馬鹿に出来ないもので、なぜなら物事の本質を鋭く指摘してくれるのが神話だからです。
それはともかく、前回で創世記の神話を終えて、本日からは歴史編が始まるのです。そしてその最初に出てくるのがアブラハム(アブラム)であります。
ところで、歴史編は有名な人物がたくさんです。奴隷にされエジプトに売られたヨセフ、民を率いて紅海を渡ったモーセ、巨大なゴリアテを石ころ倒した少年ダビデ、異国の女王の訪問を受けたソロモン大王等などです。
ところが、アブラハムはこれらの人物ほどはパッとしません。かなり地味な感じのする人間だからです。子どもたちにはしばしば聖書のヒーロー・ヒロインの話をするのですが、彼の話はあまりしません。子ども心をとらえる要素に乏しいからです。
そんなアブラハムですが、最近事情が変わってきました。『アブラハム、アブラハム』という歌が登場したからです。生まれたのはオランダでした。オランダの教会の人は旧約聖書が好きです。子どもたちにも旧約の話を色々するのですが、あるとき、アブラハムの歌がないことに気づいた女性がいて、自分で創作した歌『アブラハム、アブラハム』が大人にも人気となり、日本にも伝えられたのでした。
さて、日本語になった『アブラハム、アブラハム』は、『こどもさんびか』と『讃美歌21』の両方に載っています。いずれにせよ、アブラハムの歌は日本でも初めてで、その意味で画期的でした。その歌詞と楽譜のプリントを用意したので、曲を聞いてみましょう。
ところで、この歌詞の背景にあるのは、アブラハムの旅の人生です。その旅については、今読んだ創世記12章にも出ていました。彼はメソポタミアのカルディアにあるウルという先祖代々の土地から家族を伴い旅たちました。そして、チグリス、ユーフラテス河の上流にあたるハランに移住して短期間滞在し、その後さらに前進し、カナンという土地にまでやって来ましたが、今度はさらにそこからナイル川のあるエジプトに移住をし、そこで滞在した後再度カナンの地に移動しました。移動、移住を繰り返す生き方をしていたのでした。
それではなぜ、移動、移住を繰り返したかというと、アブラハム一族は羊を飼うことを生計としていたからです。羊の食糧は草ですが、一定の場所の草はすぐ食べつくすので、次の牧草地を求めて移動する、環境や条件が良ければその土地に滞在しますが、やがてまた新しい草原に移動する、その生活スタイルがアブラハム的生き方だったのでした。しかし、それには、数多くの困難や危険が伴います。それでも旅をせざるを得ないアブラハムには、神の祝福こそが生きる力の源なのでした。
なおプリントの歌詞と曲は子ども向けの本でも大人用の本でも、まったく同じです。歌詞は神のことばと、人々の言葉に分かれます。最初に、人々の合唱が始まります。「アブラハム、アブラハム、生まれた故郷を離れて、アブラハム、アブラハム、父の家を離れて」。合唱は三度繰り返されます。
合唱のあと、神の言葉の独唱が来ます。「わたしが示した土地に行きなさい。わたしの民の父となるだろう」。このあと続く二度の独唱の言葉はこうです。二番目は、「わたしはあなたを祝福して導く、大人も子供もすべての人を」で、三番目が「導かれるまま、しめされた道を、嘆かず進み、ためらわず行け」です。この三番目で、旅たつ人は背中を押されて歩き出す・・・。
独唱と独唱の間に合唱が入り、三番目の独唱のあと最後の合唱となります。なおこういうスタイルは、大げさに言えば聖書ミュージカルです。なお聖書ミュージカルなら、毎年全国の教会幼稚園・保育園でクリスマスに上演されています。クリスマス劇または聖劇と呼ばれ、子どもたちが、マリアやヨセフ、天使ガブリエルとか羊飼いたち、三人の博士をそれぞれ役割分担しながら、神の子イエスの誕生の喜びを、元気よく歌うミュージカルです。
ところで、このプリントの歌には、アブラハム自身が歌う歌詞はありません。創世記を見ても、アブラハムの言葉はありません。それで思い出すのは、降誕劇におけるヨセフです。マリアには色々セリフがあり歌もたっぷりですが、ヨセフは終始無言だからです。つまりこの点はヨセフもアブラハムも同じで、ただひたすら黙々と神に従うのみという感じなのです。
話は変わりますが、アブラハムから始まる旧約聖書の歴史編は大変なページ数になるのですが、その膨大な量の歴史を一言で見事に言い表した言葉があります。320頁の申命記26章5節です。すなわち、「わたしの先祖は滅びゆく一(いち)アラム人でした」。自分たちの先祖は滅びても不思議ではなかったくらい弱小な部族だったと言っているのです。そのような零細な、微細な集団を神があえてお選びになられた・・・。これは旧約の民の信仰告白です。
ところで、新約の民である私たち、今も同じ言葉の上に、自分たちの信仰告白を打ち立てなければならないではないか。旧約も新約も同じ聖書の民であるからです。このことを、あらためて思いたいのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 3月24日 四旬節第6主日
説教題:アブラハム的な人生 その2
説教者:白髭義 牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年3月17日(日)
「アブラハム的な人生 その1」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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前回までは、創世記の最初の部分のことを考えました。エデンの園、蛇の誘惑、人類史最初の兄弟殺し、ノアの洪水、バベルの塔などでしたが、これらは全部神話でした。しかし、神話は決して馬鹿に出来ないもので、なぜなら物事の本質を鋭く指摘してくれるのが神話だからです。
それはともかく、前回で創世記の神話を終えて、本日からは歴史編が始まるのです。そしてその最初に出てくるのがアブラハム(アブラム)であります。
ところで、歴史編は有名な人物がたくさんです。奴隷にされエジプトに売られたヨセフ、民を率いて紅海を渡ったモーセ、巨大なゴリアテを石ころ倒した少年ダビデ、異国の女王の訪問を受けたソロモン大王等などです。
ところが、アブラハムはこれらの人物ほどはパッとしません。かなり地味な感じのする人間だからです。子どもたちにはしばしば聖書のヒーロー・ヒロインの話をするのですが、彼の話はあまりしません。子ども心をとらえる要素に乏しいからです。
そんなアブラハムですが、最近事情が変わってきました。『アブラハム、アブラハム』という歌が登場したからです。生まれたのはオランダでした。オランダの教会の人は旧約聖書が好きです。子どもたちにも旧約の話を色々するのですが、あるとき、アブラハムの歌がないことに気づいた女性がいて、自分で創作した歌『アブラハム、アブラハム』が大人にも人気となり、日本にも伝えられたのでした。
さて、日本語になった『アブラハム、アブラハム』は、『こどもさんびか』と『讃美歌21』の両方に載っています。いずれにせよ、アブラハムの歌は日本でも初めてで、その意味で画期的でした。その歌詞と楽譜のプリントを用意したので、曲を聞いてみましょう。
ところで、この歌詞の背景にあるのは、アブラハムの旅の人生です。その旅については、今読んだ創世記12章にも出ていました。彼はメソポタミアのカルディアにあるウルという先祖代々の土地から家族を伴い旅たちました。そして、チグリス、ユーフラテス河の上流にあたるハランに移住して短期間滞在し、その後さらに前進し、カナンという土地にまでやって来ましたが、今度はさらにそこからナイル川のあるエジプトに移住をし、そこで滞在した後再度カナンの地に移動しました。移動、移住を繰り返す生き方をしていたのでした。
それではなぜ、移動、移住を繰り返したかというと、アブラハム一族は羊を飼うことを生計としていたからです。羊の食糧は草ですが、一定の場所の草はすぐ食べつくすので、次の牧草地を求めて移動する、環境や条件が良ければその土地に滞在しますが、やがてまた新しい草原に移動する、その生活スタイルがアブラハム的生き方だったのでした。しかし、それには、数多くの困難や危険が伴います。それでも旅をせざるを得ないアブラハムには、神の祝福こそが生きる力の源なのでした。
なおプリントの歌詞と曲は子ども向けの本でも大人用の本でも、まったく同じです。歌詞は神のことばと、人々の言葉に分かれます。最初に、人々の合唱が始まります。「アブラハム、アブラハム、生まれた故郷を離れて、アブラハム、アブラハム、父の家を離れて」。合唱は三度繰り返されます。
合唱のあと、神の言葉の独唱が来ます。「わたしが示した土地に行きなさい。わたしの民の父となるだろう」。このあと続く二度の独唱の言葉はこうです。二番目は、「わたしはあなたを祝福して導く、大人も子供もすべての人を」で、三番目が「導かれるまま、しめされた道を、嘆かず進み、ためらわず行け」です。この三番目で、旅たつ人は背中を押されて歩き出す・・・。
独唱と独唱の間に合唱が入り、三番目の独唱のあと最後の合唱となります。なおこういうスタイルは、大げさに言えば聖書ミュージカルです。なお聖書ミュージカルなら、毎年全国の教会幼稚園・保育園でクリスマスに上演されています。クリスマス劇または聖劇と呼ばれ、子どもたちが、マリアやヨセフ、天使ガブリエルとか羊飼いたち、三人の博士をそれぞれ役割分担しながら、神の子イエスの誕生の喜びを、元気よく歌うミュージカルです。
ところで、このプリントの歌には、アブラハム自身が歌う歌詞はありません。創世記を見ても、アブラハムの言葉はありません。それで思い出すのは、降誕劇におけるヨセフです。マリアには色々セリフがあり歌もたっぷりですが、ヨセフは終始無言だからです。つまりこの点はヨセフもアブラハムも同じで、ただひたすら黙々と神に従うのみという感じなのです。
話は変わりますが、アブラハムから始まる旧約聖書の歴史編は大変なページ数になるのですが、その膨大な量の歴史を一言で見事に言い表した言葉があります。320頁の申命記26章5節です。すなわち、「わたしの先祖は滅びゆく一(いち)アラム人でした」。自分たちの先祖は滅びても不思議ではなかったくらい弱小な部族だったと言っているのです。そのような零細な、微細な集団を神があえてお選びになられた・・・。これは旧約の民の信仰告白です。
ところで、新約の民である私たち、今も同じ言葉の上に、自分たちの信仰告白を打ち立てなければならないではないか。旧約も新約も同じ聖書の民であるからです。このことを、あらためて思いたいのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 3月24日 四旬節第6主日
説教題:アブラハム的な人生 その2
説教者:白髭義 牧師