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日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

3月16日

2025-03-19 14:03:32 | 日記
創世記15:1~12、17~18 フィリピの信徒への手紙3:17~4:1 ルカ13:31~35
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二日市教会主日礼拝説教 2025年3月16日(日)
泣いて笑って恭教(やすのり)さん―最終回
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 「泣いて笑って恭教さん」の最終回です。谷口恭教さんは、1931年に熊本市で生まれ、3歳の時に小児麻痺にかかり、その後遺症で一生苦しめられました。しかし母や兄姉たちに守られ、わんぱくぶりも発揮しながら育ちました。ところが戦争中、焼夷弾に直撃された母の無残な死を目の前にして復讐の鬼となりましたが、終戦後一人の素敵な宣教師との出会いで愛と赦しの福音に触れ、洗礼に導かれました。
その後彼は母校である九州学院に就職。英語の教師として43年間奉職しました。本日は、その教師時代の出来事を二つ紹介したいと思います。

さて一つは、彼が高2を担当していた時の話です。彼はSくんの家を訪ねました。父親との仲がうまくいっていないと聞いたからです。家に一歩入って驚きました。6畳ほどの部屋がたった一つ、小さな台所があるだけだったからです。近くの工場で働いている父親を母親が呼びに行きましたが、帰ってきた彼からはお酒の匂いがぷんぷんしていました。そのまま眠りだした夫を見ながら彼女は言いました。「先生、聞いてください。息子はこぎゃんおやじはいらんというて、いつも喧嘩です。この前は、おやじば殺すというて、首ば締めかかりました。私がやっと止めたら、息子は毛布をかぶって泣いとりました。息子は優しか子です。この前のクリスマスには、私に手拭ば一本買ってくれました。かまどの灰のかからんごつ頭にかぶれと言うてですな」。
そこで恭教さんはSくんに噛んで含めるように言いました。「君、明日から当分の間、学校に来なくていいよ。働け。そしてその金でお父さんのために酒を買え」。さてSくんは、次の日から働いてお父さんに酒を買いました。それを渡しながらお父さんに「父ちゃん、きつかったいね。ま、一杯飲みなっせ」と声をかけたのでした。この言葉は父親の心をやわらげ、酒量が少しずつ減ってゆきました。間もなくSくんは再び学校に来始めました。恭教さんはクリスマスのたびにこの親子を思い出すのでした。
さて、もう一つは中学生のA君とその家族の話です。恭教さんのクラスで盗難事件が起き、犯人がAくんと分かりました。そこで恭教さんは親を学校に呼び出しました。ところが来たのは母親だけでした。恭教先生は言いました。「ご両親そろってとお願いしたはずです」。母親は言いました。「主人が『お前だけ行ってこい。この俺がどの顔下げて行けるか』と言うものですから」。恭教さんは言い返しました。「するとお母さんには下げてゆける顔があるんですか」。母親は、わあっと泣きながら言いました。「みんな私が悪いのです。主人が言うように、子供の成績が悪いのは私のせいなのです。主人に対しては何も言えません」。
 恭教さんは烈火のごとく怒りました。「子どもというのは、勉強ができないから盗みに走ることは断じてありません。責任の半分はご主人にもあります。あなたはご主人から責められるたびにAくんをうとましく思いませんでしたか」。「はい、この子がいるばかりに私は責められます。この子を嫌いになりかけています」。「それで分かりました。彼は、もうお母さんから愛されてないと思っているのです。彼はいま出口のない闇の中にいます。」

このあとは恭教さんと母親の真剣勝負となりました。彼は言いました。「さあ、家に帰ってご主人に立ち向かってください。今まで口答え一つなさらなかったでしょ?」。「はい、主人は怖い人です」。すかさず恭教さんは言った。「お母さん、死ぬまでに一回くらい喧嘩をしたいと思いませんか?」するとお母さんは笑い出したのでした。「思います。何回でも百回でもやりたいです」。「じゃあ、今日から始めてください。ただし、Sくんをかばう立場でやってくださいね。それを見たら彼は自分がいかに母親から愛されているかを知るでしょう」。
 さて、この日以降、Sくんはみるみる明るくなってゆきました。彼女からはその後何の報告があったわけでもありません。けれども恭教さんは想像することが出来ました。ふだん何一つ反発しない妻が反旗を翻した。夫はびっくり仰天だったことだろう。それと同時に夫は、彼女の新しい魅力を発見したに違いないのだ。そして、母親が顔色を変えて必死に夫に抗議するのをSくんは目撃し、この人は本気でボクを守ろうとしている。そのような人がいる限り自分の人生は安心だと思えるようになったはずだ……そのように想像することが出来たのでした。

 恭教さんは書いています。「人は自分が守られていると分かったとき、心が穏やかになる。そんな時、人は人に対してとてつもなく優しくなる」。
 なお私が恭教さんと会ったのは彼の定年退職後の時でした。そして、その優しさと厳しさにおけるスケールの大きさに圧倒されたのでした。なお、あとで知ったことですが、彼は聖書に徹して生きる信仰者でありました。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

※このブログを開いて読んでくださりありがとうございました。本日をもって白髭の執筆は終了です。4月からは大和友子牧師が担当です。


泣いて笑って恭教さん その3

2025-03-14 17:04:12 | 日記
申命記26:1~11 ローマの信徒への手紙10:8b~13 ルカ4:1~13
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二日市教会主日礼拝説教 2025年3月9日(日)
泣いて笑って恭教(やすのり)さん―その3
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
  「泣いて笑って恭教さん」の三回目です。恭教さんは熊本市内の(ルーテル教会系)九州学院中学校の英語教師を43年務めました。その在職中に特に力を入れたことは、全国中学校英語弁論大会に生徒たちを出場させることでした。これは英語のスピーチ力を全国の中学生が競い合うもので、地方予選を合格して全国大会出場が決まった生徒に付き添って上京することが度々ありました。その意味では場慣れもしていた全国大会でしたが、第23回大会はその中でも特に意義深いものとなったのでした。

 さて、23回全国大会に出場した中学生の名は田尻美幸(みゆき)くんと言いました。彼は小学校一年の時、練炭こたつで居眠りして一酸化中毒になり、右足に骨まで焼ける火傷を負いました。美幸くんはこの時の体験を英語でスピーチしたのでした。スピーチの題は「マイ・ファザー・ヒット・ミー(お父さんが僕を殴った)」でした。スピーチの原稿は(英語で)こう書かれていました。「注射の連続でわたしの腕は固くなり、針を刺す場所もなかなか見つからなくなりました。すごい痛みが、注射や輸血のたびに待っています。痛さのあまり輸血はいやだと泣き叫ぶわたしをお父さんは涙ながらに殴りつけ言いました。『お前がいやがる輸血はお母さんの血なんだぞ』。
このあとこう書かれていました。「あの時殴られてよかった。殴られなければ生きていなかったかも知れない。生きていてよかったとしみじみ思います」……。全国大会決勝の日の朝のホテルで教師の恭教さんは、美幸くんに語りかけました。「美幸、お前よく決勝まで残れたなあ。やっとこさで東京の晴れの舞台に立てる。それにしてもお前は生きててよかったなあ。足が短くたってもいいではないか。膝がなくったってもいいではないか。お前は歩けるもの。もう賞はいらない。ただ、お父さんお母さん、今日までありがとうと、こころをこめて伝えよう」。そのあと、美幸くんは決勝大会で、心の底から感謝の言葉を述べ、それが聴衆の胸を打ち、優勝となったのでした。

 ところで、美幸くんが身体障害者なら、付き添いの教師、恭教さんも身体障害者でした。3歳の時に小児麻痺にかかり、左手、右足が不自由だったからです。同じ障害者同士で東京に乗り込み、優勝をなしとげたことの喜びがひとしおであったのは言うまでもないことでした。しかし、恭教さんにとって、この33回全国中学校英語弁論大会が生涯忘れえないものとなったのは、優勝の美酒に酔いしれたからではありませんでした。そうではなく、この大会で上京した教師と生徒の、二人の関係が大逆転するという事態が生じたからでした。
 さてそれは、二人がホテルに宿泊した日の夜おきました。夕食のあとお風呂でしたが、風呂は部屋から離れたところにありました。そこで美幸くんは「先に行きます」と言うと、身につけているものを次々と脱ぎ始めました。そしてズボンを脱ごうとして、「先生、ボクの膝を見せてあげましょうか」と言いました。そこで恭教さんは何気なく「ウン」と返事をしてからあっと驚いたのでした。
 なぜなら、美幸くんは巻き付けてあった包帯をクルクルと外していったのですが、そこには膝がなかったからです。つまり皿と呼ばれる丸い骨がなく、見えたのは一直線の細い骨だったからです。恭教さんは言葉を失いました。けれども美幸少年は、片方だけでスッと立つと、ぴょんぴょん跳ねながら、お風呂に行ってしまったのでした。その後ろ姿はまことに自然に見え、恭教さんは打ちのめされる思いがしたのでした。
 なぜなら、恭教さんだって手と足が細い障害者だったからです。けれども恭教さんは、その最も弱い部分を人目にさらす勇気は自分にはないと思いました。ところが、美幸くんは、少しも隠そうとはしなかったのでした。「美幸のほうが、スケールがでかい!」と思った。先生が生徒から人生を学んだ瞬間でした。

彼は書いています。「教師は常に生徒に教えようとする。しかし、教師の方が教わることが多いのである。」また、こうも書いていました。「神さまは、私たちが不安に陥った時、かならず誰かを派遣して、私たちに生き方を示されます。田尻美幸くんは、ない膝を私に見せることで、弱さをさらけ出すことの強さを教えてくれました」。
 なお、恭教さんは本を書くにあたって、かつての中学時代の教え子、田尻美幸氏に、これを本に書いても差し支えないかといううかがいをたてました。なぜなら、障害の程度をくわしく書くことは、本人のプライバシーに触れることなので、特に本人の名前を出すのはよくないかもと思われたからです。ところが、本人の返事は「ボクはかまいませんよ」でした。なぜなら「もう隠すものは何もないので」と言うのでした。それを聞いて恭教さんは「また、一本取られた!」と思ったのでした。
 大人は子どもから学ぶ。強い人は弱い人から学ぶ。それは聖書にも書かれている真理です。だから私たちは、弱さに徹したキリストの十字架から多くを学ぶのであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 3月16日 四旬節第2主日
説教題:アブラハム、アブラハム
説教者:白髭義牧師
 ※白髭牧師の説教は16日で終わり、4月から大和友子牧師の説教です。
 尚、4月からの礼拝は土曜日10時半からとなります。