エレミヤ11:18~20、ヤコブ3:13~4:3、7~8a、マタイ18:12~14、ルカ15:1~7
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二日市教会主日礼拝説教 2024年9月22日(日)
「 ちいさいひつじが 」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。本日は、ルカ福音書15章の「見失った羊のたとえ」を取り上げたいと思います。
ところで、キリスト教の幼稚園や保育園で子どもたちがよく歌っている歌に「ちいさいひつじが」というのがあります。この歌は今の「見失った羊」を題材としていますが、こんな歌詞です。「小さい羊が家を離れ、ある日遠くへあそびに行き、花さく野はらのおもしろさに、かえる道さえわすれました。けれどもやがて夜になると、あたりは暗くさびしくなり、家がこいしく羊は今、声もかなしく鳴いています」。
話は変わりますが、夏目漱石の『三四郎』には、ストレイ・シープという言葉が何度も出てきます。ストレイという英語は「迷った」の意味で、ストレイシープは迷える羊ですが、漱石は間違いなく聖書からそれを取っています。小説の舞台は明治の都会・東京ですが、急速に近代化が進む中でついてゆけず、自分を見失いがちな若者たちを漱石はストレイ・シープと呼ぶのでした。
けれども、漱石のストレイ・シープは今のルカ福音書からとられたものではありません。そうではなく、マタイからとられているからです。新約聖書の35頁、マタイ18章10節以下のことでそこは「迷い出た羊」になっているからです。つまり聖書には、羊の話が二つあるのです。
そう考えると、子どもたちが歌う「ちいさいひつじが」も迷い出た羊、漱石の羊も迷い出た羊ですから、両方ともマタイからとなるのですが、本日私たちが考えるのはルカの羊のほうです。しかし、その前にマタイをもう少し見ておきます。先ほども考えましたが、マタイの羊は独自に自由行動を取った羊です。その結果「ストレイ」しますが、それは自己責任です。でも最後は救出されるので、結果はルカと同じなのですが、マタイのは罪を犯した人間のたとえと思わせるものがあります。
その点ルカはというと、羊の行動のことは何も言われていません。書かれていることは、「羊飼いが一匹を見失った」だけだったからです。自己責任が問われると言う意味なら羊飼いのほうで、羊の責任が問われる話にはなっていません。
そういうことよりも、羊の習性が問われるかも知れません。というのも、どんな動物にも自己防衛本能がありますが、それの本能がどんな事態にもパーフェクトに機能するかというと、それぞれウィークポイントはあるものです。それは羊についても言えることで、羊のウィークポイントは、クルマで言うとバックが下手ということにあります。
というのも羊が飼われていた聖書の土地は、岩だらけの場所で、岩と岩の間の狭い箇所に体が入ってしまうと、その体をそのままバックさせるのが至難の業で、要するにあとずさりという行動が上手でないのが羊だからです。
だから羊飼いにとって、見失った羊を発見する際のチェックポイントも、そのような場所に絞って岩に挟まって身動きならない羊を見つけることでした。もしそれを見落とせば、その羊はその場所でついに命を落とすのでした。これは言いかえると、(ルカの)羊は何キロもどんどん先に行くのではなく、羊飼いが大声で呼べば聞こえる範囲内で動けなくなっているのでした。ところで、こどもたちは歌います。「とうとうやさしい羊かいは、まいごの羊をみつけました」
以上、ルカの羊はマタイと違って思ったほど自由奔放ではなかったということです。マタイの羊は自分の行動の責任が厳しく問われても仕方ないのですが、ルカの羊は、ついうっかり狭い所にはまり込んだと見なしたいのであります。
ところで、以上はイエスのたとえ話です。その話は表面上はやさしい羊飼いが迷子の羊を見つけて帰ってきた、めでたしめでたしとなっていますが、本当の意味でのめでたしだったかは、考えてみる必要があるかも知れません。
というのも、羊飼いには羊が百匹いたのですが、その中の一匹が行方不明になり、ついには見つけて連れ帰りました。しかし、連れ帰った所は、仲間の99匹がいる所ではありませんでした。なぜならその羊を自宅に連れ帰ったからです。なぜか? そこは、考える必要があると思われるのです。
ところでたとえ話は、羊飼いが人々を集めて羊が見つかった祝いのパーティーを開くというところで終わっています。しかし、そう言われている箇所で気になることは、その一匹の羊が「悔い改める一人の罪人(7節)」と言われたことです。これはよく考えてみれば、イエスが本当に言った言葉ではありません。
なぜなら、この(ルカの)羊は、自分のおかした罪を悔い改めたりはしていないからです。だから、「悔い改めた」というのは、イエスよりずっとのちの人間が、自分の解釈でそう書き加えた言葉なのです。
なお、あともうひとつ、同じ7節には「悔い改める必要のない99人」という言葉が出てきます。これはどう考えても薄気味悪い言葉で、偽善や独善のにおいがぷんぷんしてたまらないこの言葉も明らかに、イエスの言葉ではありえないのです。
いずれにしても、ルカの羊が行方不明になったのは偶発的なアクシデントなのに、それを悔い改めるべき罪の行動と見なしているここは、あまりにも強引な言い方と思わざるをえません。それよりも私たちは、羊飼いがこの一匹を元の仲間のいる所に返さなかったことに注目したいのです。なぜなら、百匹の羊たちの間には確執があって、そこに戻されることは、この羊の本意ではなかったと思われるからです。だから、羊が本当の居場所(羊飼いの家)に連れ帰ってもらえたことこそが「めでたしめでたし」であったと思いたいのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 9月29日 聖霊降臨後第19主日
説教題: ラザロと富める人
説教者:白髭義 牧師
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二日市教会主日礼拝説教 2024年9月22日(日)
「 ちいさいひつじが 」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
イエスのたとえ話。本日は、ルカ福音書15章の「見失った羊のたとえ」を取り上げたいと思います。
ところで、キリスト教の幼稚園や保育園で子どもたちがよく歌っている歌に「ちいさいひつじが」というのがあります。この歌は今の「見失った羊」を題材としていますが、こんな歌詞です。「小さい羊が家を離れ、ある日遠くへあそびに行き、花さく野はらのおもしろさに、かえる道さえわすれました。けれどもやがて夜になると、あたりは暗くさびしくなり、家がこいしく羊は今、声もかなしく鳴いています」。
話は変わりますが、夏目漱石の『三四郎』には、ストレイ・シープという言葉が何度も出てきます。ストレイという英語は「迷った」の意味で、ストレイシープは迷える羊ですが、漱石は間違いなく聖書からそれを取っています。小説の舞台は明治の都会・東京ですが、急速に近代化が進む中でついてゆけず、自分を見失いがちな若者たちを漱石はストレイ・シープと呼ぶのでした。
けれども、漱石のストレイ・シープは今のルカ福音書からとられたものではありません。そうではなく、マタイからとられているからです。新約聖書の35頁、マタイ18章10節以下のことでそこは「迷い出た羊」になっているからです。つまり聖書には、羊の話が二つあるのです。
そう考えると、子どもたちが歌う「ちいさいひつじが」も迷い出た羊、漱石の羊も迷い出た羊ですから、両方ともマタイからとなるのですが、本日私たちが考えるのはルカの羊のほうです。しかし、その前にマタイをもう少し見ておきます。先ほども考えましたが、マタイの羊は独自に自由行動を取った羊です。その結果「ストレイ」しますが、それは自己責任です。でも最後は救出されるので、結果はルカと同じなのですが、マタイのは罪を犯した人間のたとえと思わせるものがあります。
その点ルカはというと、羊の行動のことは何も言われていません。書かれていることは、「羊飼いが一匹を見失った」だけだったからです。自己責任が問われると言う意味なら羊飼いのほうで、羊の責任が問われる話にはなっていません。
そういうことよりも、羊の習性が問われるかも知れません。というのも、どんな動物にも自己防衛本能がありますが、それの本能がどんな事態にもパーフェクトに機能するかというと、それぞれウィークポイントはあるものです。それは羊についても言えることで、羊のウィークポイントは、クルマで言うとバックが下手ということにあります。
というのも羊が飼われていた聖書の土地は、岩だらけの場所で、岩と岩の間の狭い箇所に体が入ってしまうと、その体をそのままバックさせるのが至難の業で、要するにあとずさりという行動が上手でないのが羊だからです。
だから羊飼いにとって、見失った羊を発見する際のチェックポイントも、そのような場所に絞って岩に挟まって身動きならない羊を見つけることでした。もしそれを見落とせば、その羊はその場所でついに命を落とすのでした。これは言いかえると、(ルカの)羊は何キロもどんどん先に行くのではなく、羊飼いが大声で呼べば聞こえる範囲内で動けなくなっているのでした。ところで、こどもたちは歌います。「とうとうやさしい羊かいは、まいごの羊をみつけました」
以上、ルカの羊はマタイと違って思ったほど自由奔放ではなかったということです。マタイの羊は自分の行動の責任が厳しく問われても仕方ないのですが、ルカの羊は、ついうっかり狭い所にはまり込んだと見なしたいのであります。
ところで、以上はイエスのたとえ話です。その話は表面上はやさしい羊飼いが迷子の羊を見つけて帰ってきた、めでたしめでたしとなっていますが、本当の意味でのめでたしだったかは、考えてみる必要があるかも知れません。
というのも、羊飼いには羊が百匹いたのですが、その中の一匹が行方不明になり、ついには見つけて連れ帰りました。しかし、連れ帰った所は、仲間の99匹がいる所ではありませんでした。なぜならその羊を自宅に連れ帰ったからです。なぜか? そこは、考える必要があると思われるのです。
ところでたとえ話は、羊飼いが人々を集めて羊が見つかった祝いのパーティーを開くというところで終わっています。しかし、そう言われている箇所で気になることは、その一匹の羊が「悔い改める一人の罪人(7節)」と言われたことです。これはよく考えてみれば、イエスが本当に言った言葉ではありません。
なぜなら、この(ルカの)羊は、自分のおかした罪を悔い改めたりはしていないからです。だから、「悔い改めた」というのは、イエスよりずっとのちの人間が、自分の解釈でそう書き加えた言葉なのです。
なお、あともうひとつ、同じ7節には「悔い改める必要のない99人」という言葉が出てきます。これはどう考えても薄気味悪い言葉で、偽善や独善のにおいがぷんぷんしてたまらないこの言葉も明らかに、イエスの言葉ではありえないのです。
いずれにしても、ルカの羊が行方不明になったのは偶発的なアクシデントなのに、それを悔い改めるべき罪の行動と見なしているここは、あまりにも強引な言い方と思わざるをえません。それよりも私たちは、羊飼いがこの一匹を元の仲間のいる所に返さなかったことに注目したいのです。なぜなら、百匹の羊たちの間には確執があって、そこに戻されることは、この羊の本意ではなかったと思われるからです。だから、羊が本当の居場所(羊飼いの家)に連れ帰ってもらえたことこそが「めでたしめでたし」であったと思いたいのであります。
(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 9月29日 聖霊降臨後第19主日
説教題: ラザロと富める人
説教者:白髭義 牧師