2024 7/7 聖霊降臨後第7主日説教 二日市教会 池谷考史
日課:エゼキエル 2: 1~ 5 2コリント 12: 2~10 マルコ 6: 1~13
説教題:「神の恵みを携えて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さんの上にありますように。
今お読みした福音書は、イエスさまと弟子たちの宣教を伝える話でした。
言うまでもないことですが、イエスさまは人を救うために、命を捨ててまで仕えた方でした。そういう人は普通、周囲から感謝されたり、褒めたたえられるものではないでしょうか。現代でも、マザーテレサのように、見知らぬ人のために身を惜しまず働く人がおりますし、他にも命も惜しまず人に尽くす人の話を聞くことがあります。こういう人たちは多くの人から「あの人は立派だ」と称賛されて、好意的に受け入れられるものですが、イエス様は必ずしもそうではなかったようです。
今日の聖書は、イエスさまは故郷のナザレの人々からは受け入れられなかったことを伝えています。ナザレの人々にとって、イエスさまは大工のヨセフの息子として幼いころから成長を見てきたのですから、ひとりの人間でした。そんなイエスさまがまるで神さまからの権威を持つ者のように、会堂で知恵に満ちた言葉を語り、癒しなどの奇跡を行ったことなどを見聞きしたナザレの人たちは称賛するどころか、なぜ大工のヨセフの息子が、あんなことができるのか、理解が追いつかず戸惑ったのです。当然、イエスさまに神さまの愛や、救いの力を見ることはできなかったのです。
福音書は、イエスさまはナザレの人々の前で、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけだったこと、そして、人々の不信仰に驚いたことを伝えています。
そのように、福音書は、イエスさまですら宣教は常にうまくいくことばかりではなかったことを伝えているのです。
だからと言ってイエスさまは宣教をやめられません。神さまの救いを待っている人はたくさんいるのです。ですから、ナザレを離れ、宣教の場を付近の村へと移します。ここでイエスさまはご自身もそこを巡り歩いて宣教しつつ、12人の弟子たちを、二人ずつ組にして、宣教に遣されています。
ここで目を引くのは、弟子たちが持っていくことが許された持ち物のことです。こう書かれています。「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして、「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」(7-9節)。
何とも心もとない持ち物です。でもイエスさまは、宣教にはたくさんの物は不要だとか、清貧が必要だ、などという意味でおっしゃったのではないでしょう。
確かに、弟子たちはほとんど何も持たずに宣教に赴きましたが、わたしたちがここで、目を向けたいことは、むしろ彼らが持っているもの、持たされたものです。彼らには、宣教にあたって持たされた大切なものがあります。それは、汚れた霊に対する権能でした。
この汚れた霊に対する権能ということについて、すぐ前に、イエス様がこの権能を用いて、汚れた霊に苦しむ人からそれを追い出し救った、という話が出てきます。
現代人のわたしたちには汚れた霊(これは悪霊とも言います cf.マルコ5:18)を理解することは難しいかもしれませんが、当時の人にとってそれは罪や死の力のように、人間を苦しめる恐ろしい力として現実的なものでした。この汚れた霊は例えば、不治の病など目に見える形で人を苦しめました。
しかも悪いことに、この霊に取りつかれたと見做された人は、神さまに見捨てられた人と考えられたので、周囲から助けの手を差し伸べられるどころか、誰からも親しい交わりすら拒まれたのです。二重の苦しみを課されることになったのです。この人々を救うため、イエスさまは汚れた霊を追い出したのでした。イエスさまは人間としての力や知恵でなく、神さまからの力によって、人々に救いを現す宣教を行ったのです。
話を戻しましょう。ここで、イエスさまが弟子たち汚れた霊に対する権能を授けたということは、彼らを、「人間の力による宣教」ではなく、「神さまの力による宣教」に送り出したということなのです。
宣教は神さまのなさる業ですから、宣教の為に必要なものは、たくさんの持ち物でもなければ、弟子たちの能力や資質ですらないのです。そういう人間的なものではなく、神さまの働きと力のみによるのです。
宣教は神さまの働きによって成し遂げられて行くものです。弟子たちを通して、神さまが働かれるのです。わたしたちの宣教もそうでしょう。
わたしたちのなす業は小さいかもしれません。人目を引かないかもしれません。でも、問題はそこではないのです。その小さなことに神さまが働かれることを信じて、それを為すだけです。
弟子たちは二人ずつ、救いを待つ人のところへ遣わされていったのですが、それは楽な働きではなかったでしょう。宣教はとても難しいことです。行った先には、いろんな人がおります。彼らを喜んで受け入れない人もいます。イエスさまですらナザレでは受け入れられなかったのです。
ですから、イエスさまはあらかじめ言うのです。
「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(11節)。
足の裏の埃を払い落としなさい、とは、絶縁を意味する行為ですが、これは、裁きは神のものとして、弟子たちは救いを待つ人たちのところへ向かうという指示です。
イエスさまと弟子たちが宣教のために人々のところへ赴いたという話です。
こうした話を読むと、時代こそ違いますが、私たちのことと重ね合わせて考えるのではないかと思います。わたしたちもイエスさまの弟子の一人として、世に遣わされているからです。
わたしたちは、イエスさまの弟子のように村々を巡り歩いて宣教することはないのですが、いわば、教会からそれぞれの場所へ遣わされていって、日常生活でたくさんの人々とまじわりを持っています。それは、神さまの愛を分かち合う一人として、遣わされていると言えるのでしょう。
当時の弟子たちは、物もお金も、ほとんど何も持つことなく、ただイエスさまから授けられた汚れた霊に対する権能だけをもって遣わされたのでした。それは宣教が神さまの為される業だからで、その意味で、たくさんの物を必要としないのです。
わたしたちは宣教に役立つ何を持っているでしょうか?何かを持っていると思い当たる人も、誇れるものは何も持っていないと思う人もいるかもしれません。しかし、何も持っていなくても、神さまの働きを信じて、わたしたちが出会う人に、神さまからいただいた愛の片鱗を、自分の言葉や行いを通して届けることができるなら、それは私たちの宣教なのだと思います。そんな一人として、それぞれの場所にかえっていきたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、みなさんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
次週 7月14日 聖霊降臨後第8主日
説教題:善きサマリア人④
説教者:白髭義 牧師
※7日は白髭牧師入院中のため、池谷牧師の説教を代読しました。
日課:エゼキエル 2: 1~ 5 2コリント 12: 2~10 マルコ 6: 1~13
説教題:「神の恵みを携えて」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さんの上にありますように。
今お読みした福音書は、イエスさまと弟子たちの宣教を伝える話でした。
言うまでもないことですが、イエスさまは人を救うために、命を捨ててまで仕えた方でした。そういう人は普通、周囲から感謝されたり、褒めたたえられるものではないでしょうか。現代でも、マザーテレサのように、見知らぬ人のために身を惜しまず働く人がおりますし、他にも命も惜しまず人に尽くす人の話を聞くことがあります。こういう人たちは多くの人から「あの人は立派だ」と称賛されて、好意的に受け入れられるものですが、イエス様は必ずしもそうではなかったようです。
今日の聖書は、イエスさまは故郷のナザレの人々からは受け入れられなかったことを伝えています。ナザレの人々にとって、イエスさまは大工のヨセフの息子として幼いころから成長を見てきたのですから、ひとりの人間でした。そんなイエスさまがまるで神さまからの権威を持つ者のように、会堂で知恵に満ちた言葉を語り、癒しなどの奇跡を行ったことなどを見聞きしたナザレの人たちは称賛するどころか、なぜ大工のヨセフの息子が、あんなことができるのか、理解が追いつかず戸惑ったのです。当然、イエスさまに神さまの愛や、救いの力を見ることはできなかったのです。
福音書は、イエスさまはナザレの人々の前で、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけだったこと、そして、人々の不信仰に驚いたことを伝えています。
そのように、福音書は、イエスさまですら宣教は常にうまくいくことばかりではなかったことを伝えているのです。
だからと言ってイエスさまは宣教をやめられません。神さまの救いを待っている人はたくさんいるのです。ですから、ナザレを離れ、宣教の場を付近の村へと移します。ここでイエスさまはご自身もそこを巡り歩いて宣教しつつ、12人の弟子たちを、二人ずつ組にして、宣教に遣されています。
ここで目を引くのは、弟子たちが持っていくことが許された持ち物のことです。こう書かれています。「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物を履くように、そして、「下着は二枚着てはならない」と命じられた。」(7-9節)。
何とも心もとない持ち物です。でもイエスさまは、宣教にはたくさんの物は不要だとか、清貧が必要だ、などという意味でおっしゃったのではないでしょう。
確かに、弟子たちはほとんど何も持たずに宣教に赴きましたが、わたしたちがここで、目を向けたいことは、むしろ彼らが持っているもの、持たされたものです。彼らには、宣教にあたって持たされた大切なものがあります。それは、汚れた霊に対する権能でした。
この汚れた霊に対する権能ということについて、すぐ前に、イエス様がこの権能を用いて、汚れた霊に苦しむ人からそれを追い出し救った、という話が出てきます。
現代人のわたしたちには汚れた霊(これは悪霊とも言います cf.マルコ5:18)を理解することは難しいかもしれませんが、当時の人にとってそれは罪や死の力のように、人間を苦しめる恐ろしい力として現実的なものでした。この汚れた霊は例えば、不治の病など目に見える形で人を苦しめました。
しかも悪いことに、この霊に取りつかれたと見做された人は、神さまに見捨てられた人と考えられたので、周囲から助けの手を差し伸べられるどころか、誰からも親しい交わりすら拒まれたのです。二重の苦しみを課されることになったのです。この人々を救うため、イエスさまは汚れた霊を追い出したのでした。イエスさまは人間としての力や知恵でなく、神さまからの力によって、人々に救いを現す宣教を行ったのです。
話を戻しましょう。ここで、イエスさまが弟子たち汚れた霊に対する権能を授けたということは、彼らを、「人間の力による宣教」ではなく、「神さまの力による宣教」に送り出したということなのです。
宣教は神さまのなさる業ですから、宣教の為に必要なものは、たくさんの持ち物でもなければ、弟子たちの能力や資質ですらないのです。そういう人間的なものではなく、神さまの働きと力のみによるのです。
宣教は神さまの働きによって成し遂げられて行くものです。弟子たちを通して、神さまが働かれるのです。わたしたちの宣教もそうでしょう。
わたしたちのなす業は小さいかもしれません。人目を引かないかもしれません。でも、問題はそこではないのです。その小さなことに神さまが働かれることを信じて、それを為すだけです。
弟子たちは二人ずつ、救いを待つ人のところへ遣わされていったのですが、それは楽な働きではなかったでしょう。宣教はとても難しいことです。行った先には、いろんな人がおります。彼らを喜んで受け入れない人もいます。イエスさまですらナザレでは受け入れられなかったのです。
ですから、イエスさまはあらかじめ言うのです。
「あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」(11節)。
足の裏の埃を払い落としなさい、とは、絶縁を意味する行為ですが、これは、裁きは神のものとして、弟子たちは救いを待つ人たちのところへ向かうという指示です。
イエスさまと弟子たちが宣教のために人々のところへ赴いたという話です。
こうした話を読むと、時代こそ違いますが、私たちのことと重ね合わせて考えるのではないかと思います。わたしたちもイエスさまの弟子の一人として、世に遣わされているからです。
わたしたちは、イエスさまの弟子のように村々を巡り歩いて宣教することはないのですが、いわば、教会からそれぞれの場所へ遣わされていって、日常生活でたくさんの人々とまじわりを持っています。それは、神さまの愛を分かち合う一人として、遣わされていると言えるのでしょう。
当時の弟子たちは、物もお金も、ほとんど何も持つことなく、ただイエスさまから授けられた汚れた霊に対する権能だけをもって遣わされたのでした。それは宣教が神さまの為される業だからで、その意味で、たくさんの物を必要としないのです。
わたしたちは宣教に役立つ何を持っているでしょうか?何かを持っていると思い当たる人も、誇れるものは何も持っていないと思う人もいるかもしれません。しかし、何も持っていなくても、神さまの働きを信じて、わたしたちが出会う人に、神さまからいただいた愛の片鱗を、自分の言葉や行いを通して届けることができるなら、それは私たちの宣教なのだと思います。そんな一人として、それぞれの場所にかえっていきたいと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、みなさんの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。
次週 7月14日 聖霊降臨後第8主日
説教題:善きサマリア人④
説教者:白髭義 牧師
※7日は白髭牧師入院中のため、池谷牧師の説教を代読しました。