二日市教会主日礼拝説教 2025年2月23日(日)
泣いて笑って恭教さん―その1
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
「泣いて笑って恭教さん」という題で、谷口恭教さんという人のお話をしたいと思います。谷口恭教さんは熊本の人です。先祖は肥後藩の藩士でした。そう知って彼を見ると、いかにもサムライといった風貌で、しかも身長は175センチ。一見おそろしそうですが、話をすると笑顔が素敵な人でした。ところで私は最初話の題を「米国への復讐を誓った男」にしていました。彼の人生には途中そういうことがあったからです。しかしそのことが彼の人生にとって大きな意味を持つことになったのは事実なのです。
ところで、谷口恭教さんは、熊本のルーテル系の九州学院中学で40年間も英語の先生を務めました。それと、彼は身体障害者で、小児麻痺の後遺症と闘いつつの人生を歩んだ人でもありました。なお彼は、谷口先生と呼ばれるよりも恭教さんと呼ばれることを喜びました。だから私たちも彼のことを恭教さんと呼びたいと思います。
さて恭教さんは昭和6年生まれです。上に姉や兄たちがいる6人きょうだいの末っ子でした。しかし父親は彼の6歳の時に亡くなり、以後母が女手ひとつで子育てをしました。でも恭教さんは、母親の辛そうな顔は一度も見たことがありませんでした。
彼女は、恭教さんがいじめられて帰ってくると、黙って頭を抱いてくれました。その胸の汗の臭いは生涯忘れたことがありませんでした。気がすむまで抱いてもらうと、いじめもけろりと忘れ、また友達のところに帰ってゆきました。
なお、彼の発病は三歳の時でした。その時の熱が、左腕と右足に機能障害を残したのでした。それからの家族は、東にいい医者がいると聞けば飛んで行き、西に霊験あらたかなお寺があれば祈祷してもらいに行き、とうとう彼を四国巡礼にまで連れてゆきました。けれども小さい彼は家族の苦しみを知らず毎日外で遊びほうけました。彼には自分に障害があるという意識がありませんでした。兄弟たちも弟をとことんかばい、家に障害の兄弟がいることを少しも恥と思いませんでした。
ところが、彼が小学校5年生の時戦争が始まりました。すると、兄たちは軍隊に召集され家を出て行きました。それからも恭教さんは順調に中学に進学し、大した不自由もなく暮らしました。というのも中学は九州学院でキリスト教なので、軍事教練や防空演習もいたってのんびりだったからです。
しかし、中学3年の夏になると事態が一変しました。7月1日の夜、熊本に空襲があったからです。空から焼夷弾が降ってきて、家族は急いで家を飛び出し、一時散り散りになりました。夜が明けて恭教少年の目に飛び込んだのは、地面に横たわる死体でした。それは彼の母親でした。焼夷弾が脇腹に直撃の即死でした。彼の目の前は一瞬真っ白になりました。しかし悲しみの感情はありませんでした。彼は道具を使って地面に穴を掘り、母親を埋めました。その作業は中学生の腕でどのくらいかかったことか。彼はその後兄たちに母を埋めた場所を教えませんでした。教えたのはそれから何十年もたったのちでした。
その日以降、彼は空襲警報が鳴っても防空壕に入りませんでした。生きていて何の意味があるのかと思ったからです。母亡きあとの家族の世話は姉がしました。彼女はもう結婚していて娘がいました。ところがその娘も空襲で命を奪われたのでした。しかし彼女はそのことを表には一度も出さず、気丈で明るい面しか見せませんでした。
なお当時の恭教少年にとって最も衝撃だったのは、母が死んですぐ戦争が終わったことでした。こんなに早く終わるのでは、お母さんの死は無意味になるではないかと思ったからです。さてそうこうしていると、兵隊に行っていた兄たちが順に帰ってきました。そして最初に戻った次兄はすぐ「お母さんは?」と聞きました。すると姉は無言で白木の位牌を指さしました。すると彼は「これは何ごつか」と叫んで絶句しました。すると恭教さんの目からも、今まで抑えていた涙がどっとあふれ出ました。そして、泣いてうめいているうち彼の心には蒼白いものが立ち昇ってきました。それはアメリカへの復讐の誓いでした。
ところで彼の体は、母の死を境に、自分の手足で立ち上がるのが不可能になりました。にもかかわらずその彼に、心が立ち上がる力を与えたのは憎しみでした。いつかアメリカに渡り、母を襲った飛行機の操縦士を見つけ出して殺す。まさに復讐の鬼ですが、その計画を綿密に練り上げることが生きがいとなったからです。恭教さんはその時の自分をこう書いています。「人間は、愛するか憎むか、そのどちらかで生きていける。私は憎むことで、アメリカを憎むことで生きることができていた」
人間は、人は愛するか憎むかのどちらかであるというのは、イエスの考えに通じるものがあると思われます。なお彼はその20年後にアメリカに渡りました。そのときのことを彼はこう書いています。「その日のサンフランシスコの空は、心憎いまで青く澄んでいた……」。そこは復讐のために訪れるべきの場所でした。しかし、その後の彼を変えたものがあったのでした。それは何だったか。次回そこを見てゆきます。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 3月2日 主の変容主日
説教題:泣いて笑って恭教さん その2
説教者:白髭義牧師
※4月より執筆者が白髭義から大和友子に交代します。
泣いて笑って恭教さん―その1
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
「泣いて笑って恭教さん」という題で、谷口恭教さんという人のお話をしたいと思います。谷口恭教さんは熊本の人です。先祖は肥後藩の藩士でした。そう知って彼を見ると、いかにもサムライといった風貌で、しかも身長は175センチ。一見おそろしそうですが、話をすると笑顔が素敵な人でした。ところで私は最初話の題を「米国への復讐を誓った男」にしていました。彼の人生には途中そういうことがあったからです。しかしそのことが彼の人生にとって大きな意味を持つことになったのは事実なのです。
ところで、谷口恭教さんは、熊本のルーテル系の九州学院中学で40年間も英語の先生を務めました。それと、彼は身体障害者で、小児麻痺の後遺症と闘いつつの人生を歩んだ人でもありました。なお彼は、谷口先生と呼ばれるよりも恭教さんと呼ばれることを喜びました。だから私たちも彼のことを恭教さんと呼びたいと思います。
さて恭教さんは昭和6年生まれです。上に姉や兄たちがいる6人きょうだいの末っ子でした。しかし父親は彼の6歳の時に亡くなり、以後母が女手ひとつで子育てをしました。でも恭教さんは、母親の辛そうな顔は一度も見たことがありませんでした。
彼女は、恭教さんがいじめられて帰ってくると、黙って頭を抱いてくれました。その胸の汗の臭いは生涯忘れたことがありませんでした。気がすむまで抱いてもらうと、いじめもけろりと忘れ、また友達のところに帰ってゆきました。
なお、彼の発病は三歳の時でした。その時の熱が、左腕と右足に機能障害を残したのでした。それからの家族は、東にいい医者がいると聞けば飛んで行き、西に霊験あらたかなお寺があれば祈祷してもらいに行き、とうとう彼を四国巡礼にまで連れてゆきました。けれども小さい彼は家族の苦しみを知らず毎日外で遊びほうけました。彼には自分に障害があるという意識がありませんでした。兄弟たちも弟をとことんかばい、家に障害の兄弟がいることを少しも恥と思いませんでした。
ところが、彼が小学校5年生の時戦争が始まりました。すると、兄たちは軍隊に召集され家を出て行きました。それからも恭教さんは順調に中学に進学し、大した不自由もなく暮らしました。というのも中学は九州学院でキリスト教なので、軍事教練や防空演習もいたってのんびりだったからです。
しかし、中学3年の夏になると事態が一変しました。7月1日の夜、熊本に空襲があったからです。空から焼夷弾が降ってきて、家族は急いで家を飛び出し、一時散り散りになりました。夜が明けて恭教少年の目に飛び込んだのは、地面に横たわる死体でした。それは彼の母親でした。焼夷弾が脇腹に直撃の即死でした。彼の目の前は一瞬真っ白になりました。しかし悲しみの感情はありませんでした。彼は道具を使って地面に穴を掘り、母親を埋めました。その作業は中学生の腕でどのくらいかかったことか。彼はその後兄たちに母を埋めた場所を教えませんでした。教えたのはそれから何十年もたったのちでした。
その日以降、彼は空襲警報が鳴っても防空壕に入りませんでした。生きていて何の意味があるのかと思ったからです。母亡きあとの家族の世話は姉がしました。彼女はもう結婚していて娘がいました。ところがその娘も空襲で命を奪われたのでした。しかし彼女はそのことを表には一度も出さず、気丈で明るい面しか見せませんでした。
なお当時の恭教少年にとって最も衝撃だったのは、母が死んですぐ戦争が終わったことでした。こんなに早く終わるのでは、お母さんの死は無意味になるではないかと思ったからです。さてそうこうしていると、兵隊に行っていた兄たちが順に帰ってきました。そして最初に戻った次兄はすぐ「お母さんは?」と聞きました。すると姉は無言で白木の位牌を指さしました。すると彼は「これは何ごつか」と叫んで絶句しました。すると恭教さんの目からも、今まで抑えていた涙がどっとあふれ出ました。そして、泣いてうめいているうち彼の心には蒼白いものが立ち昇ってきました。それはアメリカへの復讐の誓いでした。
ところで彼の体は、母の死を境に、自分の手足で立ち上がるのが不可能になりました。にもかかわらずその彼に、心が立ち上がる力を与えたのは憎しみでした。いつかアメリカに渡り、母を襲った飛行機の操縦士を見つけ出して殺す。まさに復讐の鬼ですが、その計画を綿密に練り上げることが生きがいとなったからです。恭教さんはその時の自分をこう書いています。「人間は、愛するか憎むか、そのどちらかで生きていける。私は憎むことで、アメリカを憎むことで生きることができていた」
人間は、人は愛するか憎むかのどちらかであるというのは、イエスの考えに通じるものがあると思われます。なお彼はその20年後にアメリカに渡りました。そのときのことを彼はこう書いています。「その日のサンフランシスコの空は、心憎いまで青く澄んでいた……」。そこは復讐のために訪れるべきの場所でした。しかし、その後の彼を変えたものがあったのでした。それは何だったか。次回そこを見てゆきます。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
次週 3月2日 主の変容主日
説教題:泣いて笑って恭教さん その2
説教者:白髭義牧師
※4月より執筆者が白髭義から大和友子に交代します。