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日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

泣いて笑って恭教さん

2025-02-28 16:32:19 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2025年2月23日(日)
泣いて笑って恭教さん―その1
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
Ж
 「泣いて笑って恭教さん」という題で、谷口恭教さんという人のお話をしたいと思います。谷口恭教さんは熊本の人です。先祖は肥後藩の藩士でした。そう知って彼を見ると、いかにもサムライといった風貌で、しかも身長は175センチ。一見おそろしそうですが、話をすると笑顔が素敵な人でした。ところで私は最初話の題を「米国への復讐を誓った男」にしていました。彼の人生には途中そういうことがあったからです。しかしそのことが彼の人生にとって大きな意味を持つことになったのは事実なのです。

 ところで、谷口恭教さんは、熊本のルーテル系の九州学院中学で40年間も英語の先生を務めました。それと、彼は身体障害者で、小児麻痺の後遺症と闘いつつの人生を歩んだ人でもありました。なお彼は、谷口先生と呼ばれるよりも恭教さんと呼ばれることを喜びました。だから私たちも彼のことを恭教さんと呼びたいと思います。
 さて恭教さんは昭和6年生まれです。上に姉や兄たちがいる6人きょうだいの末っ子でした。しかし父親は彼の6歳の時に亡くなり、以後母が女手ひとつで子育てをしました。でも恭教さんは、母親の辛そうな顔は一度も見たことがありませんでした。
 彼女は、恭教さんがいじめられて帰ってくると、黙って頭を抱いてくれました。その胸の汗の臭いは生涯忘れたことがありませんでした。気がすむまで抱いてもらうと、いじめもけろりと忘れ、また友達のところに帰ってゆきました。
 なお、彼の発病は三歳の時でした。その時の熱が、左腕と右足に機能障害を残したのでした。それからの家族は、東にいい医者がいると聞けば飛んで行き、西に霊験あらたかなお寺があれば祈祷してもらいに行き、とうとう彼を四国巡礼にまで連れてゆきました。けれども小さい彼は家族の苦しみを知らず毎日外で遊びほうけました。彼には自分に障害があるという意識がありませんでした。兄弟たちも弟をとことんかばい、家に障害の兄弟がいることを少しも恥と思いませんでした。

 ところが、彼が小学校5年生の時戦争が始まりました。すると、兄たちは軍隊に召集され家を出て行きました。それからも恭教さんは順調に中学に進学し、大した不自由もなく暮らしました。というのも中学は九州学院でキリスト教なので、軍事教練や防空演習もいたってのんびりだったからです。
 しかし、中学3年の夏になると事態が一変しました。7月1日の夜、熊本に空襲があったからです。空から焼夷弾が降ってきて、家族は急いで家を飛び出し、一時散り散りになりました。夜が明けて恭教少年の目に飛び込んだのは、地面に横たわる死体でした。それは彼の母親でした。焼夷弾が脇腹に直撃の即死でした。彼の目の前は一瞬真っ白になりました。しかし悲しみの感情はありませんでした。彼は道具を使って地面に穴を掘り、母親を埋めました。その作業は中学生の腕でどのくらいかかったことか。彼はその後兄たちに母を埋めた場所を教えませんでした。教えたのはそれから何十年もたったのちでした。
その日以降、彼は空襲警報が鳴っても防空壕に入りませんでした。生きていて何の意味があるのかと思ったからです。母亡きあとの家族の世話は姉がしました。彼女はもう結婚していて娘がいました。ところがその娘も空襲で命を奪われたのでした。しかし彼女はそのことを表には一度も出さず、気丈で明るい面しか見せませんでした。

なお当時の恭教少年にとって最も衝撃だったのは、母が死んですぐ戦争が終わったことでした。こんなに早く終わるのでは、お母さんの死は無意味になるではないかと思ったからです。さてそうこうしていると、兵隊に行っていた兄たちが順に帰ってきました。そして最初に戻った次兄はすぐ「お母さんは?」と聞きました。すると姉は無言で白木の位牌を指さしました。すると彼は「これは何ごつか」と叫んで絶句しました。すると恭教さんの目からも、今まで抑えていた涙がどっとあふれ出ました。そして、泣いてうめいているうち彼の心には蒼白いものが立ち昇ってきました。それはアメリカへの復讐の誓いでした。
ところで彼の体は、母の死を境に、自分の手足で立ち上がるのが不可能になりました。にもかかわらずその彼に、心が立ち上がる力を与えたのは憎しみでした。いつかアメリカに渡り、母を襲った飛行機の操縦士を見つけ出して殺す。まさに復讐の鬼ですが、その計画を綿密に練り上げることが生きがいとなったからです。恭教さんはその時の自分をこう書いています。「人間は、愛するか憎むか、そのどちらかで生きていける。私は憎むことで、アメリカを憎むことで生きることができていた」
人間は、人は愛するか憎むかのどちらかであるというのは、イエスの考えに通じるものがあると思われます。なお彼はその20年後にアメリカに渡りました。そのときのことを彼はこう書いています。「その日のサンフランシスコの空は、心憎いまで青く澄んでいた……」。そこは復讐のために訪れるべきの場所でした。しかし、その後の彼を変えたものがあったのでした。それは何だったか。次回そこを見てゆきます。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 3月2日 主の変容主日
説教題:泣いて笑って恭教さん その2
説教者:白髭義牧師

※4月より執筆者が白髭義から大和友子に交代します。

2月9日

2025-02-13 13:38:51 | 日記
イザヤ書6:1~8 コリント115:1~11 ルカ5:1~11
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二日市教会主日礼拝説教 2025年2月9日(日)
ある宣教師―その4
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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 1926年にアメリカで生まれ、神学校で学んでルーテル教会の牧師になったアンドリュー・エリスさんは、宣教師になって終戦直後の日本にきました。そして26歳だった昭和27年に、熊本担当の任命を受け大江の町の宣教師館に住み始めました。ところがその翌年の白川水害に会い、そのことが地元住民との絆を深めることになりました。
 さて、エリス先生は、任務だった農村伝道と並んで、ルーテル教会が運営する九州学院中・高の英語教師も始めました。前任教師のマージョリー・ミラー先生が東京女子大の英語教師になったためでした。なおミラー先生はご成婚間もない美智子妃殿下の英語教師にもなりました。その時は宮内庁からお迎えの車が来たそうです。
 ところで、エリス先生は熊本到着の時は独身でしたが、そのあと結婚しました。相手の人の名は正枝さんで、大江ルーテル教会の青年会員でした。二人は結婚後7年間に5回も引っ越しをしました。熊本にいた宣教師たちの異動と転居が相次ぎ、そのため空き家になった宣教師館に住むように言われたからでした。けれども、水前寺という町に引っ越してからは、38年間じっと動かないで、三人の子どもたちをじっくり育てることが出来たのでした。

さて、出来事は、長男が中学、長女と次女が小学校の時に起きました。大洋デパートの火災のことです。ある日、先生が家で仕事をしていると奥さんから電話がありました。受話器を取ると彼女は「今、大洋デパートが火事です。私、今、そこです」と言いました。先生が驚いてクルマで迎えに行くからと言うと、彼女は「いいえ大丈夫です。タクシーで帰ります」と言ったのでした。
先生はそのあと二階に上がり、窓から町の中心部を見ると、ものすごい黒煙が上がっていました。テレビをつけると、大洋デパートが火災で燃えている実況をやっていました。タクシーで帰ってきた正枝さんは、煙の臭いでいっぱいでした。しばらくすると、何も知らない子どもたちが学校から次々と帰ってきました。
火災が発生したのは1973年の11月29日13時15分頃でした。出火場所は従業員専用階段で、ふだんから物置がわりに使われていました。その2階と3階の中間に積まれていた段ボールから出火したのですが、たばこの火か放火かは不明でした。正枝さんは、出火直前まではデパートの中の4階にいて、8階の売り場に移動した直後に出火したのでした。火は階段から3階寝具売り場に入ってきて、3人の従業員が消火に当たりましたが、消火器から薬剤が出ませんでした。すると熱気が布団類に引火し、燃え広がりました。なお、火災情報の館内放送の役目があって電話交換室へ連絡が入りましたが、係員は上司と社長への連絡に気を取られ右往左往する内に、交換室にも黒煙が入ってきました。また、4階から上の階への火災の通報はなされないままで、煙が侵入してきて人々は気がつくありさまでした。しかし正枝さんや一緒にいた人たちは、8階からすぐ上の屋上に逃げ、工事中の隣のビルの作業員が差し伸べた長い板の上をつたい歩きして、命からがら脱出出来たのでした。

この火災で死んだのは104人でした。デパートの火災で最も有名なのは昭和7年の東京・日本橋白木屋の火事ですが、その時の死者は14人でした。また大洋デパート火災の前年には大阪・千日前デパートの火災が起きていて、死者は118人でしたが、この建物は、キャバレーや飲食店、各種小売店で構成される雑居ビルだったので、正式のデパート火災には扱われていません。
従って、大洋デパートの火災は日本で最も悲惨な火災として今も覚えられています。ところで、この火災をめぐって遺族が、損害賠償の訴訟を起こしました。火事の翌年の1974年でしたが、翌翌年の76年に和解が成立しました。このような事件の裁判は普通非常に時間がかかるのですが、異例のスピードでした。和解を勧告した糟谷忠雄裁判長は、NHKの連続テレビ小説「虎に翼」の主人公のモデルとなった三淵嘉子裁判官と家庭裁判所の時の同僚でした。こうして和解が成立し、遺族への支払いが完了したのちに、大洋デパートは倒産したのでした。

ところで、火事の直後正枝さんの二人の叔母が訪ねて来て言いました。「あなたがたはクリスチャンだから救われたのですね」。二人はこれに対してお礼を言いましたが、内心は唖然としていました。神が災害から守ってくれるというのは本当の信仰ではないと思ったからでした。
エリス先生は、こう書いています。「神やキリストが危険や災害から守るというのは、キリスト教の信仰ではありません。どんな目にあうとしても、私たちには永遠の命があるからです。それがあるのですから、私たちは神さまにまかせるのです。死んでも終わりではありません。その先にキリストの復活の勝利があるからです。」


次週 2月16日 顕現後第6主日
説教題:ある宣教師 その5
説教者:白髭義牧師

2月2日

2025-02-04 12:39:39 | 日記
エレミヤ書1:4~10 コリント113:1~13 ルカ4:21~30
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二日市教会主日礼拝説教 2025年2月2日(日)
ある宣教師―その3
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。
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「ある宣教師」、本日は三回目になります。さて、1926年(大正15年)のアメリカ生まれのアンドリュー・エリスさんは大学卒業後神学校に行き牧師になりました。彼はすでに日本伝道を志していたので、ルーテル教会の本部は、彼を日本で農村伝道をする宣教師に任命しました。こうして、彼は終戦直後の日本に来て、任地の熊本にやってきました。そしてメイドイン・アメリカの大きなクルマで巡回する仕事を始めたのでした。なお、彼が住む家は熊本市内の大江という土地にありました。その家は二階建ての宣教師館で、二軒のうちの一つに単身者の彼が住むことになりました。彼がそこに入居したのは1952(昭和27)年で、その時26歳でした。
ところが、次の年の4月、阿蘇の根子岳が大噴火を起こし、516万トンと言われる灰を降らせました。それから二カ月後、停滞中の梅雨前線が活発化し、九州に平年の5倍の雨を降らせました。中でも、6月26日の雨がものすごく、阿蘇に積もった火山灰を巻き込んだ水が土石流となり、一気に熊本市を目がけて流れ始めました。そして、その濁流がことに白川に大量に流入したため、のちに白川大水害と呼ばれる被害をもたらしたのでした。

なお、この豪雨は九州全域に及んだので、公式には西日本水害と呼ばれています。福岡県の被害も甚大で、筑後川、遠賀川が大氾濫を起こし、その流域での死者・行方不明者は259名に達したと言われています。
しかし熊本の被害はそれを上回りました。熊本県の死者・行方不明者は563名、流出家屋は2585棟だったと記録されています。そしてその中でも、白川大水害は際立っていました。さらに、白川流域の大江地区が最大の被害を出しました。ここは大江小学校があるので大江校区とも呼ばれます。この大江地区での死者は200名に達したのでした。そしてこの大江地区にエリス先生は住んでいたのでした。
ところで、九州で9番目に大きい白川の流域の中で、大江地区の被害が突出したのはなぜなのか。大江地区を流れる白川には水前寺清子ゆかりの子飼橋という橋があります。その橋が急にトラブルを起こしたのでした。というのも、上流からやってくる流木が橋桁にかかり始めてついに満杯となり、ダムのように水を堰き止めたので、行き場を失った水が堤防を壊して町になだれこんだからでした。

当時小学3年生だった田尻康博さんという人の証言があります。「朝からの激しい雨で授業は早めに終わり家に帰った。夕方5時頃、土間に水が流れ込んできたので、母親と手をつないで外に飛び出した。近くの大江小学校に避難しようとしたが、水が腰のあたりまで迫ってきて、手が離れ急流に呑み込まれたが、必死に泳いで電柱に引っかかりたすかった。泣き叫ぶ母親と再会しそのまま途方にくれていると、すぐそばの産婦人科のドアが開いて中に入れてくれたので助かりました」。
さてこの日にエリス先生も、別の場所で水害に直面していました。そこも他と同じく大水になっていました。しかし夜の10時のラジオのニュースが「熊本の水はもう峠を越えた」と放送したので、これ以上にはならないと思いました。ところが、その直後の10時20分か30分頃のこと、グワーッというまるで特急列車の通過音のような音が聞こえました。その音がした時が、子飼橋の流木が土手を突き破った瞬間なのでした。するとすぐ「助けてくれー」という声がするので外を見るとひとりの少年がエリス先生に向かって助けを呼んでいました。先生はとっさに事態を理解し、外に出ると近所をまわり住民に宣教師館への避難を呼びかけました。当時の家屋は殆ど平屋でした。皆はすぐ逃げてきて二階に上がり、およそ70人が夜を過ごしました。

次の日、夜明け前の4時ごろから水が引き始め、6時には完全に引きました。けれども、それは終わりではありませんでした。なぜならどこの家も泥水だらけ、しかも当時はどこも畳敷きだったからでした。なおこの泥は阿蘇の火山灰が混じっていました。火山灰は水を含むとさらに粘るのでした。
エリス先生は宣教師館の泥を除去して、一階、二階の全部を地元の人たちのための避難所にしました。さらに、当時は無人だった隣りの宣教師館も解放しました。皆はそこに泊まり、先生自身は、友人の家に泊まりに行きました。
さて、道路は流されてきた畳や捨てられた畳で一杯で、押し寄せてきた泥に覆われていました。だから、復旧はおそらく半年はかかると言われていました。ところが、エリス先生が驚いたのは、大江地区は一カ月半でそれが片付いたことでした。また新しい畳も次々と運び込まれ、間もなく住民は自分の家に帰って寝ることが出来ました。
エリス先生はこう書いています。「最も感動したのは、みなさんの努力ですね。その時の態度です。あわてませんでした。つい数年前までの戦争中の体験もありましたから、それに戦時中の配給制度がまだ残っていましたから、近所の皆さんは九州学院の寮の前に並んで、配給の缶詰とかお茶をもらい、パニックになりませんでした。」なお、九州学院は大江地区にあったルーテル教会の学校です。

しかし、新しい生活になっても、熊本市内は火山灰にずっと悩まされ続けました。町はいつもほこりがいっぱいで、特に真夏の7、8月は目の前が何も見えなくなるくらいの火山灰の煙がもうもうとするのでした。
ところで、エリス先生にとってこの洪水は生涯忘れられない思い出となりました。なぜなら、何よりも地域の人々が先生を外国人扱いしなくなったからでした。先生はその1年前に日本に来て、大江に住み始めたばかりでしたから、子どもたちとはすぐ仲良くなりましたが、大人たちとは親しくはなっていませんでした。ところが、水害が終わってみると、自分はもうストレンジャー(見知らぬ旅人)ではなくなっていたのでした。まるで家族みたいになり、その後長いお付き合いになった人たちも出来たのでした。
エリス先生は自分の書いた本で、マタイ福音書の25章の35節の「旅をしていた時に宿を貸した」という言葉を取り上げ、その言葉どおりに自分は宿を貸したと書いています。しかしそれはたまたま広い二階の宣教師館があったからにすぎないと言うのでした。むしろ、その時まだよそものにすぎなかった自分が、洪水のために安心して落ち着ける「宿」を与えられた体験だった……。この貴重な体験が、彼のその後の人生の熊本を第二のふるさとにしてくれたのでした。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)

次週 2月9日 顕現後第5主日
説教題:ある宣教師 その④
説教者:白髭義牧師