日本福音ルーテル二日市教会 筑紫野市湯町2-12-5 電話092-922-2491 主日礼拝 毎日曜日10時半から

ルーテル教会は、16世紀の宗教改革者マルチン・ルターの流れを汲むプロテスタントのキリスト教会です。

2024年1月7日

2024-01-10 15:54:25 | 日記
二日市教会主日礼拝説教 2024年1月7日(日)
主の洗礼
創世記1:1~5,使徒言行録19:1~7,マルコ1:4~11
「光あれ!」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆さま一人ひとりの上にありますように。アーメン。

新年あけましておめでとうございます。これからの一年もよい年でありますようにお祈り申し上げます。

さて、2024年はじめに与えられたみことばは創世記1章の言葉でした。すなわち、「光あれ!」。私たちは今、自分をとりまく時代の、暗さ生きづらさという空気を感じていると思います。だからこそ、世の中全体に対して正しい道を照らしてくれる光への憧れも強いのだと思われます。「光あれ」を心に刻みつつ、新しい歩みを始めたいと思うものであります。
ところで、私たちは、この「光あれ」にもう少々こだわってみたいと思います。なぜなら、聖書のこの言葉は、スウィッチひとつで部屋がパッと明るくする光と同じではなく、じんわりと徐々に明るくしてゆく光のことだと思えるからです。

5節に「夕べがあり、朝があった。第1の日である」と書かれているからです。つまり、24時間サイクルの1日における光のことが言われていたのでした。人工的な、あるいは観念的な光ではなく、大自然における光が「光あれ」の光だったと考えたいのです。そしてここで注意したいことは、「夕べがあり、朝があった」という順序のことです。それは1日のことでしたが、1日は夕べつまり夜から始まるのだという考えがあるからです。この考えは、人々の価値観、人生観に影響を及ぼしていたのではと思われます。

ところで、「夕べがあり、朝があった」ですから、朝は突然現れる何かではなく、また夕べも突然消えてしまう何かでもありません。暗闇と光はゆっくり接近しあって、バトンタッチが行われてゆきます。まだうすぼんやりしていますが、光が駈け出そうとしているのです。四方の空にはまだ星が見えていますが、やがて赤みを帯び、元気な太陽が顔を出す。これらの全部が「光あれ」なのです。

ところで、NHKの大河ドラマ『光る君へ』でヒロインの紫式部役を演じる吉高由里子さんは、インタビューにこう答えていました。ドラマは「女の人が表に立つ、光がさすような内容です」。なお、このドラマの制作統括をする内田ゆきチーフ・プロデューサーはこう語っていました。紫式部について調べるうちに、平安の貴族社会では女性が男性と対等に付き合い、政治に大きな役割を果たしていたことがわかってきました。
吉高さんの言う「光がさす内容」の「光がさす」は、内田さんの「わかった」と結びつくのかもしれません。奥山景布子(おくやまきょうこ)という文芸批評家は書いていました。「源氏物語は、世界的な名作だが、読み通すにはハードルが高い。長大さのみならず、千年以上前の物語だということも。日本が舞台といっても、生活様式も違えば価値観も違う」。ところが紫式部には既存の価値観にとらわれない誇り高さと強い意志があった。奥山さんはそう考えるのでした。ところで、「読み通すにはハードルが高い、生活様式も価値観も違う」はもうひとつ、聖書もそうかも知れません。

 なぜなら、源氏物語が書かれたのは平安時代ですが、旧約聖書が書かれたのはエジプトでピラミッドが次ぎ次ぎと建てられていた時期だったからです。まさに、二千数百年も大昔に、日本とは生活様式も価値観も違う土地で書かれたという意味ではハードルが高い文書だからです。しかし今の人たちは、ピラミッドを作った人間の頭脳はどうなっていたのかを知りたがっているほどで、旧約聖書も、日本の縄文時代に書かれた文書なのに、現代世界の一番深い問題点に鋭く切り込んでくれるので、古いとか新しいの次元を超えたものを感じさせてくれるのであります。
ところで、旧約聖書の創世記の最初の部分は天地創造物語と呼ばれています。神が一週間のうちの六日間、天地創造の仕事をしたからですが、ここには大事なキーワードがちりばめられています。4節です。「神は光を見て、良しとされた」の「良しとされた」がキーワードだからです。さてこの「良しとされた」は英語のビューティフルにあたります。このあとも神は自分が創ったものを観ながら、ビューティフルと声を上げてゆきます。
さてそのように、三日目、四日目、五日目と続き、ついに天地創造の最後の日になりました。その日神は人間を創造しました。そう1章の27節に書かれています。すなわち「男と女に創造された」。神はこの時もビューティフルと叫ぶのですが、それが書かれる31節は「それは極めて良かった」となっています。人間もビューティフルであったが、超ビューティフルだったというのです。なおビューティフルは色々な解釈があるでしょうが、どんなビューティフルであろうが神は気に入った。だから今も気に入ってくれるのです。もちろん反論はあるでしょうが、その反論をも包み込むのが聖書の神なのです。
しかし、このあと、創世記はどろどろした人間関係の物語に入ってゆきます。しかし、どんなにどろどろしていようが、最後は神の「光あれ」で夜明けが訪れるであろう。これが、創世記の、そして聖書の読み方なのであります。
このことを覚えながら、今がどんな時でも、かならず訪れる朝があることを信じながら、今年も元気で歩み始めたいものであります。(日本福音ルーテル二日市教会牧師:白髭義)
             

次回1月14日 顕現後第2主日
説教題:エバをどう考えるか
説教者:白髭 義牧師




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