【星月夜】フィンセント・ファン・ゴッホ
今回も、軽く本文長いので、前文は短めにと思います(^^;)
次回がまあ、事件の犯人などがわかる解決編っていうことになるんですけど、こちらも本文が長いので、2回に分けることになると思うんですよね
犯人が判明するくらいのところまで、文章がなんとか入るといいな~とは思うんですけど、もし変なところでブチッ☆と切れることになったとしたらごめんなさいwwと思いますm(_ _)m
というのも、文字制限についてばかりは、わたしにもどうにも出来ないことなので
そんで、あとは翼の救急救命医を辞めた理由、殺しの夜に実際何があったかの描写、翼&要のその後……といった感じで、たぶん残り5回くらいで終わるかな~なんて思います(^^;)
それではまた~!!
カルテット。-20-
<南沢湖クリスタルパレス>に滞在して六日目、五日目に引き続いてこの日もまた、翼と要はふたりの刑事の訪れによって朝の快適なひと時を邪魔されていた。
もっとも、朝のといってもすでに陽は正午を過ぎており、ふたりはまたしても音楽祭の午前のプログラムを聞き逃していたのだが。
「我々も捜査がてら聞きにいったんですが、ラインハルト・ヘルトヴィッヒによる感動的な弔辞が流暢な日本語で述べられると――楽団員たちは涙ぐみ、客席からもすすり泣く声が上がりました。クラシックなどまるでわからぬ私でも、まったくこう、鳥肌の立つような気迫みなぎるいい演奏だったと思いますよ」
きのうと同じく浴衣を着乱し、髪もぼさぼさの男ふたりに向かって、赤城警部はそんなふうにまずは話しはじめた。実をいうと彼はその前にアファナシエフ・ギレンスキーと通訳を介して話をしており、ひとつのある重要な事実を掴んでいたのである。
「そっか。こうなるとますますラインハルト・ヘルトヴィッヒが怪しいって感じがするな。ま、なんとなくだけど」
白河刑事はきのうと同じく窓辺に陣取り、まるで湖の方角に犯人がいるとでもいうようにそちらを凝視していたが、翼の今の発言により、同じ視線を彼のほうに定め直していた。
「ようするに、我々が今日お伺いしたのは、まずは火かき棒のこと、それからおふたりがこの件についてどの程度のことを知っているのかをお訊ねするためでした。首藤朱鷺子の死については、警察の不手際と詰られても仕方ありません。今日は朝一番にそちらへ鑑識の人間を向かわせましたが、ホテル内というのは掃除したあとでも前に宿泊した人間の潜在指紋といったものが結構残ってまして……首藤朱鷺子の遺品等も調べてはみましたが、それほど有力な証拠品といったものは今のところ上がってないというのが現状です。そこで、隣の部屋の水上ゆう子さんにもお話を聞いてみましたが、結論としてはまあ、彼女のような人が自殺することだけはありえないということに落ち着きました。そこでおふたりにお聞きしたいのですが――実際にあなた方は彼女の死について、どの程度のことを把握しておられるのでしょうか?」
「まあ、べつにそう大したことは」
要はティーバッグで入れた煎茶を、ふたりの刑事に茶受けとともに差しだしながら言った。翼といえば、自分の携帯を片手でいじりながら「あ、やっぱり」などと呟いている。サイレントマナーモードにしていたのでまったく気づかなかったが、水上ゆう子の電話番号が上から数えて五件、着信記録に並んでいた。
「というより、きのうも申し上げたとおり、僕はこの件には最初からさして興味はなかったんです。でもこいつが」と言って、隣の翼のことを要は見やる。「首藤朱鷺子はどうも他殺っぽいっていうようなことを言いだしたんですよ。そしたら本当に偶然、彼女の隣室の女性が突き飛ばす犯人の<手>を見たという証言をして……どうもこれはおかしいぞということで、彼女がこれまで出版した本をダウンロードして読んでみたりだとか、まあそんなことをする過程で、少しばかりわかることがあったというくらいですね」
要がバトンタッチでもするように、親友にある種の視線を投げたため、翼は携帯でゲームを開始するのを止めていた。
「実を言うと俺たちはね、刑事さん。これもまたほんの偶然から、隣の奥さんが誰かに脅されていると思しき電話を通りすがりに聞いちまったんですよ。それもこのホテルに到着した五日前――ようするに、音楽祭の初日に。で、西園寺夫人が実際に誰と話してたのかっていうのはわからないまでも、俺たちはこういう仮説を立ててみることにしたわけだ。今から約五~六年前、西園寺圭の息子が麻薬で捕まったことに端を発したスキャンダルは、おそらく首藤朱鷺子が週刊誌にリークしたものだったんだろう。そんで、このことについては要の奴があとから、東京オーケストラのコンマスと副コンマスにも確認をとって確かにそうだったことがわかっている。となると、彼女はお金に困るか何かして、また性懲りもなく西園寺夫人あたりをゆすって金銭を得ようとしてたんじゃないかって説がかなり有力になってくる。あるいは彼女は、見栄とプライドで飾り立てられたクラシック音楽の著名人を脅すことは金になると味をしめていて、そういうリストを作ってたんじゃないかっていう気もするな。なんにしてもとりあえず、俺と要は初日に聞いた西園寺夫人の電話のことを思いだし、首藤朱鷺子が彼女のことを脅していたと仮定してみた。でも彼女のように気位の高い女が果たして、直接殺しに手を染めるものだろうか?そこで俺たちはこう思ったわけ――彼女にはどうも愛人と思しき男がいるらしい。じゃあそいつを使って邪魔な女を片付けたと考えられはしないだろうかって。でもこんなのは全部、素人探偵の妄想の域をでない迷推理みたいなもんだよ。だって、具体的な証拠が何もないわけだから」
「その、赤城警部」と、かなり論理的にスッキリとまとめられた翼の話の途中で、要が口を挟む。「首藤朱鷺子の部屋からは、ノートパソコンや携帯電話といったものは出てこなかったんですか?もし西園寺圭の携帯と彼女の携帯内にある電話帳を比較して――重なった人間がいたとすれば、何かあるように思うんですが。それと、彼女は仮にもフリーランスのジャーナリストですからね。PC内にあるデータを調べれば、必ず何か事件に繋がる証拠が得られそうに思うんですが、どうでしょうか?」
「ふうむ」と、ここで赤城警部は腕組みをして唸った。今警察にとってもっとも重要なのは、なんといってもマスコミが騒ぎ立てている<世界的名指揮者、西園寺圭殺害事件>の犯人を挙げるということである。だが、首藤朱鷺子殺しと西園寺圭殺しの犯人が同一人物であるとした場合――意外にも、こちらの事件を先に洗ったほうが、もしや最短距離で犯人に辿り着くのではないか、という気がしてきた。
「残念ながら時司さん、首藤朱鷺子の部屋からは携帯もパソコンも見つかりませんでした。おそらく犯人がそこに、自分にとって都合の悪いデータがあるとあらかじめわかっていたがために……彼女をベランダから突き落としたのち、持ち去ったものと思われます」
「でも、携帯電話についてはさ、電話会社に問い合わせればわかるだろ?そのデータと西園寺圭の携帯内の電話帳なんかを比較すれば――なんかわかんじゃねえの?」
きのうからテーブルの上に食べ散らかしてある、ミッシーまんじゅうの残りを手にとって、それにぱくつきながら翼が言った。
「そちらのほうは目下、私の部下たちが調べている最中のことでして……ところで、こちらに御宿泊の最中、隣の西園寺夫人の部屋に不審な人物の出入りなどはありませんでしたかな?」
「ルカ・ドナウティ・ミサワ」
ソファの背もたれに、見るからに退屈そうな表情で腕をもたせかけ、翼が鋭く切り出す。
「あの奥さんにはたぶん、他にも愛人って奴がいるのかもしんない。でも俺が見かけたのはこのルカって奴だけだな。西園寺圭の出現を気にしてたようなところを見ても、たぶん愛人なのかなって思うけど……まあ、確信はないよ。一度ちらっと見たってだけだし。そこらへんは刑事さんたちで調べとくんなはれって感じ」
ルカ・ドナウティ・ミサワという名前に、自分が今どれほどドキリとしたか――このいけ好かない感じの若造は、一体わかっていて言っているのだろうかと、赤城警部は焦燥感に近い感情すら味わった。それは窓辺で茶をすする白河刑事も同じだったらしく、彼もまた厳しい目つきで自称外科医という男のことを見返している。
「なんにしても、次の件に少し移りたいと思います。そちらの暖炉の脇にある火かき棒ですが、これを証拠品として預からせていただいても構いませんかな?ホテルのほうへは、すでに許可を取ってありますので」
「そういうことでしたら、どうぞ」と、要が浴衣の袖の下に手を入れ、腕組みしながら言った。「まあ、僕たち一般人に――というか、僕なんて特に西園寺さんの殺害犯である可能性すらあるわけだから、捜査情報を洩らすなんてとても出来ないと思いますが、もし良ければ教えてください。西園寺夫人のハイヒールの跡というのは、現場から見つかったりしたんでしょうか?」
赤城警部は白い手袋をはめた手で、火かき棒を一度手に持ち、それをあらゆる角度からためつすがめつしたのち、同じく白い手袋をはめた自分の部下に、赤銅色の火かき棒を手渡していた。その時に、赤城警部がはっきり自分の反応を見ていたと気づき、要は重い溜息を着く。
「どうやら、僕の容疑というのはすっかり晴れたというわけではなさそうですね」
「いえ、実際大したものだと思いますよ、あなた方おふたりは。首藤朱鷺子が他殺かもしれないとすぐ見抜いたこともそうなら、普通の刑事でもしないようなことをなさいました。つまり、彼女がこれまで生きてきた証しともいえる、首藤朱鷺子の著作物に目を通そうとしたことなどがそれです。結論から言うとですな、時司さん。現時点であなたは100%白というわけではない。ですが我々は、あなた以上にもっと疑っている人物が他にいるのですよ。たとえば、この部屋の隣室にいる奥さん。我々はこちらをお訪ねする以前に、事情聴取がてら彼女の部屋から火かき棒を頂いてきたのです――それも、今私の部下の白河が手にしているのとは別の、形と色が若干異なるものをね」
「ということは、まさか……」
「そのまさかです。といっても我々も、このことには大して期待していたわけではなかった。それというのも、私が今と同じようにいかにも思わせぶりで意味ありげな態度をとっても、あの冷たい奥さんは眉ひとつ動かしもしなかったので。そしてこうおっしゃいましたよ。『そんな役にも立たない棒が、一体なんだって言うんですの、刑事さん』とね。だが、その役にも立たない棒を我々が持ち帰り、ルミノール試薬をかけて見たところ――血の痕がはっきりと確認できたんですよ。今、鑑識のほうでそれが西園寺氏のそれと同じものかどうか、調査しているところです。そこで、ですな。我々はようやく強力な物証である凶器を見つけたらしいのに、実はその後少しばかり混乱したのです。西園寺圭のバンガローからはあの奥さんの靴跡と思しきものは見当たらなかった。とはいえ、隣の奥さんの部屋には靴箱がクローゼットに山程あることを考えれば……彼女がその日履いていたのとは別の靴を我々に提出したということは十分考えられうる。しかしながら、自分の夫を殺した凶器をあんな身近に置いておくものですかね?しかも、『それが一体どうしたのだ』という態度で、我々が火かき棒を持って部屋を出ていっても、疎ましい馬鹿でも見るような目で見送っただけなんですからな。そこで我々はこう考えました。誰かが西園寺紗江子に夫殺しの罪を被せようとしているのではないか、と。こうなるとなんといっても怪しくなってくるのは、ラインハルト・ヘルトヴィッヒですよ。何しろ奴さん、きのう我々が音楽ホールへ行ってみると、『そういうことなら失礼する』と言って逃げるようにサッと消えてしまったんですから。で、そのあとどうしていたのかと今朝方コンサートがはじまる前に聞いてみたところ、『紗江子の部屋にいた』とおっしゃる。彼は西園寺紗江子の愛人らしいのですが、彼女の部屋にも火かき棒と思しきものがあったのを思いだし、凶器をすり替えたのではないかと我々は考えました。まあこの場合は、彼女に罪をなすりつけようとしたというより――むしろ、西園寺紗江子があの日の晩、夫の丸太小屋へは行っていないとわかっているがために、彼女が捕まることはないと確信しての行動ということになりますな」
「でもそれだと、少しおかしくないですか?そもそも何故犯人はそんなまだるっこしいことをしたのか……確かに、凶器の始末には困ったでしょうが、でもそれだって、夜の内に湖へ捨てるなどすれば良かったんじゃないですか?」
「いや、要。おまえも言ってたろ。蛾の大群が半端なくいて、蛾を踏まないことには道を歩けないほどだったって……つまり、俺が思うには犯人は出来ることなら湖にでも凶器をすぐに捨てたかっただろうよ。でも蛾の大群に阻まれるあまり、たとえば仮に楽器ケースにでも入れて、こっそり部屋へ持って帰るしかなかったんじゃないか?でもそんなものが自分の手元にあれば、近いうちに警察が令状を手にして捜索に来るかもわからず……犯人の奴は苦しまぎれにそんなことをしたんじゃないだろうか」
「そのとおりです。我々もまったく似たことを考えました。となると、そんなことをした人間は一体誰なのか、というより――<そんなことが出来たのは一体誰なのか>という話になります。あの奥さんは音楽祭へは出かけていかず、一日の半分以上は部屋で過ごしていることが多いと聞きました。となると、彼女の目を盗んで火かき棒を取り替えられるのは、かなり親しい間柄の人間ということになりますね、当然。そこで我々はまず、第一容疑者としてラインハルト・ヘルトヴィッヒにターゲットを絞ることにしました。まずは奴さんを署までしょっぴいていき、繊細な音楽家の精神に揺さぶりをかけようというわけですな。しかしながらヘルトヴィッヒはドイツ国籍を持つ外国人ですから……事は慎重に行わなければならない。ちなみに彼は指紋やDNAの提出をはっきりと拒絶しました。それもまた我々が彼をあやしいと考える理由のひとつなんですが――もうひとつ、出来れば決め手が欲しいと思っているのですよ。そこでおふたりに何か、いい知恵をお貸しいただければと思いまして」
赤城警部の話を聞いている途中で、翼と要は自分たち一般人にここまで捜査情報を洩らしていいのか、と感じてはいた。だが、今の警部の結論を聞き、不思議そうに互いの顔を見合わせる。
「その前にひとつ聞きたいんだけど、西園寺圭の丸太小屋を盗聴してたっていうのは結局誰だったんだろうな?俺がこう聞くのはさ、世界的指揮者西園寺圭の弔辞を読み上げて最初にタクトを取ったのはラインハルト・ヘルトヴィッヒだったんだろ?じゃあ、彼が師である男の室内を盗聴し、自分が彼の後継者として<南沢湖音楽フェスティバル>の監督に就任できるかどうか探ってたっていうことか?しかしながらその結果、甚だ残念なことにその権利は自分の弟弟子の手に渡ることになったと知った彼は、自分の音楽の師匠を殺害するに至った……そんな筋書きってことなのかな」
「いえ、盗聴器を仕掛けたのが誰なのかはまだわかりません。西園寺氏が毎年お使いになるあのバンガローは、他の時期には当然希望のあった方に貸している場所ですし、となると、何かそうした種類の変態が、カップルのあえぎ声を聞くために仕掛けたですとか、色々考えられますもので、我々はあまりそこに固執するつもりはないのです。あくまでも広い捜査範囲の内の一隅を担う情報といったところですな」
「刑事さんに真顔であえぎ声とか言われると、むしろなんか奇妙なおかしみがこみあげてくるな。そういや要、赤城警部にはあの日の夜、駐車場で西園寺紗江子を見かけたと言ってあるんだろ?」
要はといえば、「言ったような、言わないような」という顔をして、小首を傾げるのみである。
「聞いてませんよ、時司さん」赤城警部は赤ら顔に、さらに若干朱を足したような顔をして、身を乗りだしている。「西園寺さんと会ったあの日の夜、本当にあなたは駐車場で西園寺夫人をお見かけしたんですか?」
「ええ、まあ。西園寺さんと二、三十分くらい話したのち――大体十一時くらいですかね。大量の蛾を踏みつけて歩いたもので、靴の裏に蛾の羽の名残りがたくさんこびりついていたんですよ。それをコンクリートブロックにこすりつけて落としていると、ふと視線を感じて振り返ったんです。そしたら、黒のジャガーの運転席に座る西園寺夫人の姿が見えました。『一体何をしてるんだろう』と不思議にはなりましたが、そう深く考えることもなく、ホテルまで戻ってきたんですよ。でもあとにしてみたら、彼女こそが盗聴電波を聞いていた張本人という気がしてきて」
「そうそう。話の筋としてはさ、一番ありえそうなのがそのラインだよなって話を俺らはしてた。何話してんのかまではわかんないまでも、西園寺圭と西園寺紗江子が何か言い争ってると思しき声を、俺たちは寝室で聞いたりしてたわけ。夫婦喧嘩の末期症状みたいな雰囲気を感じはしたけど、何分なんのことでそんなに言い争ってるのかまではわかんない。でも夫婦関係が険悪だっていうことは、十分に感じ取れたっていうかさ。そんでもって、あの夫婦っていうのは片方がホテルのスイート、もう一方がキャンプ場のバンガローっていうふうに、仮にそれが短期間でも一緒にはいられない仲なわけだ。でも奥方のほうは「それでも絶対離婚なんてしなくてよ。おほほ」って感じで夫に執着してて……となると、旦那が夜に何してるのかっていうのが、彼女はすごく気になってたんだと思う。もし愛人に会ってるんだとしたら許せない――自分も愛人がいるくせにとか、そういうことは一旦置いておいて、あの奥さんにはあの奥さんなりの、あの奥さんにしか理解できないある種の理論があるわけだ。そこで夜な夜な夫の様子を盗聴し、たぶん知りたくもないことを知っちまったんじゃないだろうか。つまり、要が川原美音のことである提言をしにいくと、西園寺圭は簡潔にいえば、彼女とのことを真剣に考えている、妻とは必ず離婚して美音と一緒になるつもりだとはっきり語った。たぶんこの時奥さんは、自分の夫が本気なのだと悟ったはずだと思う。で、もし彼女が犯人だとしたら……ここで次の行動に移ったことになると思うんだよな。『夫のことはもう殺すしかない』みたいに。けど、あの奥さんと旦那の体格を比べてみると、拳銃でも持ってこないことには、殺すのは難しいんじゃないかって気がする。そこで愛人、ラインハルトの登場ってことになったんだろうか。今聞いた赤城警部の話も考えあわせると」
「なるほど」
赤城警部はこの時点で、見た目場末のホストといった感じの男に対し、心の内で侮蔑的な眼差しを投げるのをやめた。それは窓辺の白河刑事も同じだったらしく、自分の上司に向け、何度か頷きの合図を送っているほどであった。
「実をいうとですな、我々はもうひとつの有力な情報を得てもいるのですよ。ヘルトヴィッヒ氏が西園寺圭の弔辞文を読み上げ、そのまま指揮台の上に立つことをあなたはどうお思いですかと、いわばライバルといっていい立場のロシア人指揮者アファナシエフ・ギレンスキーに聞いてみることにしたのです。彼は西園寺氏の訃報を聞くと同時に部屋へ閉じこもり、まるでかたつむりのようにそこから出てこなかったと周囲の方々にはお聞きしました。ちなみに彼は、<みずうみの宿、胡蝶>に宿泊しているのですが、このホテルというのは実はキャンプ場に一番近い場所に位置する、隠れ家的宿なのです。ギレンスキー氏は、毎日ここから朝、歩いて十分くらいかけて西園寺さんのいる丸太小屋へいき、その日一日のプログラムについて、話し合ったりするそうで……まあ、弟子というか彼の場合半分付き人のような役割も果たしていたらしいですが。西園寺さんが殺された日の朝も、彼は師とロシア語で色々なことを話していたそうです。と、そこへ何故か切羽詰った顔をしたピアニストのルカ・ドナウティ・ミサワがやって来たという。ギレンスキー氏はロシア語・ドイツ語・イタリア語、それに英語と日本語を話せるそうなんですが、唯一日本語に関しては、イントネーションがおかしかったり文法を間違ったりするとギルトヴィッヒが陰険にそれを直してくるため、彼の前では絶対に使わないとのことでしたな。なんにしても、ルカ・ドナウティが先生とふたりきりで大切な話があるというので、ギレンスキーは席を外すことにしたそうです。ただ、彼はギレンスキーがロシア語と英語くらいしか話せないと誤解していたらしく、日本語ですぐにこう言いはじめたんだそうですよ――『僕は実をいうとあなたの息子なんです』と」
「ええっ!?」
翼と要は、驚きのあまり互いに顔を見合わせた。
「もちろん、その後西園寺圭とルカ・ドナウティとの間でどんな会話がなされたのかはギレンスキー氏にもわからなかったそうです。ただ、ふたりがバンガローを出る時に『他言は無用だ』と一言いわれたきりだそうですが……西園寺さんは特に気難しく眉根を寄せるでもなく、むしろ嬉しそうな印象ですらあったとのことでした。まあ、このこととこの日の夜に起きた事件との間に、一体どんな関連性があるのかは、我々にもまだはっきりとはわかりません。ただ、今結城さんがおっしゃったように、もしこのこともなんらかの形で誰かが盗聴していたらどうなるのか……なんにしても我々はまず、ラインハルトのことを取調室まで引いていくつもりですが、ここでもう一度先ほどの話に立ち戻りますと、何かこうもう一手、決め手となることはないかと思いまして」
「そういうことなら」と、要が少し考え深そうにしたあとで、顎に指を置いたまま提案した。「この部屋で、現場の再現をするというのはどうですか?最初は、隣の空いているスイートでと考えたんですが、間取り的にはやはり、この部屋のほうが西園寺さんの丸太小屋を再現しやすいと思ったものですから。下に敷いてあるゴブラン織りのラグを外して、ラタンのソファと安楽椅子も片付け、ホテルの別の部屋から黒い革の似たような家具を持ってくるんです。壁にはゴッホのひまわりを掛け、当然凶器となる火かき棒は、キャンプ場から同じものを借りてきて置けばいい。ラインハルト・ヘルトヴィッヒが犯人なら、これだけでもかなり動揺するはずです。そこで、あの日の朝に起きたことから順に、関係のある人間全員を呼んで再現してもらうんですよ。もちろん当然僕も協力します。何しろ、僕が飲まなかったワインに犯人は口をつけている……あら不思議といったことを話す過程でも、よほど心臓の血管が太い人間でもない限り、手のひらに汗をかきはじめるに違いありませんよ。それともうひとつの利点は、犯人が自分の犯行を隠すために無口になったり饒舌になったりする姿を見ることにより、それがかなりいい判断材料を与えてくれるということです。刑事さんは、今までひとりひとり個別にお話をお聞きになっていたのでしょうが、そうした人たちが一同に会することで、一種の連鎖反応が起きることも期待できると思います。特に、あの奥さんは自分に都合の悪いことや、体面を傷つけられるという時には、かなりヒステリックな本性を表すかもしれませんし……そうした過程で何か新たに<わかること>があるかもしれません」
「ですが、指紋もDNAの提出も拒んでいるようなヘルトヴィッヒが、そんな誘いに乗るものでしょうか?」
ここで白河刑事が、どこか興奮したように一同の会話の中に初めて加わった。
「たぶん、そんなに難しくないと思いますよ。この過程をクリアすれば、あなたの容疑は晴れる可能性が高いとか、うまく言いくるめればいいんじゃないでしょうか。なんだったらあの奥さんに、そう愛人に言ってもらうよう誘導するとか……警察はまだ凶器がなんなのかを発表してませんし、火かき棒のことについては彼女は本当に何も知らないのかもしれません。また、彼女が愛人と共謀してないのであれば、西園寺夫人は喜んでこの捜査に協力してくれるんじゃないでしょうか?」
「ふううむ」
相手がもしある程度社会的地位のある外国人でなかったとしたら、すぐにでも取調室で締め上げてやるところだが、なんといっても事は「任意の同行」という問題である。ヘルトヴィッヒは音楽祭が終わるまではそんなことには応じられないと、間違いなく言うだろう。だとすれば、ここから車で一時間以上ある本部へ連行する前に、相手がうっかり口を滑らせ、供述と矛盾することを吐いてくれるというのが、確かに理想的ではある。
「なんにしても、確かにそれは有効な手段ではありますな。そして、もしやるとするなら今夜がいい。何故といって明日は華々しいオペラとともにフィナーレという夜ですからな。湖でも花火が上がるそうですし、そんな日の夜に殺人事件の再現劇など誰もやりたがらないでしょうから」
「それに、明日の夜やったんじゃ結局、本星がそのままドイツに逃亡しちまう可能性もあるし」
事態の推移がなんと面白くなってきたことか、などと思いつつ、翼はどこか不敵にニヤリと笑っている。
「では、我々はまず西園寺夫人とラインハルト・ヘルトヴィッヒの了解を得るため、彼らを順に説得してきます。今日の夜音楽祭が終わるのは、大体九時半頃でしょうから、十時か十時半をメドにはじめるというのはどうでしょう?他に、ギレンスキー氏とルカ・ドナウティ・ミサワも呼ぼうと思っています。何故といって、結局のところあの丸太小屋からは彼らの指紋や髪の毛など、DNA情報が出てきておかしくないからなんですよ。あの日の朝、運ばれてきた食事を七時ごろ食べた西園寺氏は、八時ごろに<みずうみの宿、胡蝶>に一っ風呂浴びにいったんですな。そこで顔馴染みのキャンプ場の清掃員に彼は出会い、彼女から『先生、お風呂へ入りにいくんでしたら、その間にお掃除を済ませて構いませんか?』と言われ、『まあ、そんなに几帳面にしなくても、適当でいい』といったように返事されたそうです。この掃除のおばさんはですな、朝からいい男と会話出来たことが嬉しくて、いつも以上に気合を入れてバンガローの掃除を行ったとのことでした。窓もガラスクリーナーでピッカピカに磨いておいたから、その内側からもし指紋が出たとしたら、それがきっと犯人のものに違いないと、親切にも我々に教えてくれましたよ。なんにしても、風呂に入って西園寺圭が九時前に戻ってくると、掃除のほうはすでに終わっていたということです。そしてそこへ、師を追いかけるような形でアファナシエフ・ギレンスキーがやって来、ふたりが色々その日のプログラムについて打ち合わせていると、ルカ・ドナウティ・ミサワがやって来たといった寸法ですな」
「ハイハイ、ていあーん!!」
ここで翼が、その場に似つかわしくなく、幼稚園児のように左手を上げて言った。
「ついでに、西園寺圭の息子の翔くんも呼んじゃおうぜ。なんでって、一刻も早く誰が父親を殺したのか知りたいだろうし……うん、うまくいえないけど、大事だと思うんだよな、そこらへん。それに、あの息子は自分の母親のどこを突けば彼女がもっとも痛がるかを知ってるから、面白い展開になるかもしれない。まあ、もしかしたら思った以上の修羅場ってことになるかもしれないけど、そういう感情の連鎖的なもんからも、何か新情報が得られるんじゃないかって気がする」
「そうですな。そもそも、彼のことは我々も呼ぶつもりではおったのですよ。言い忘れていましたが、朝西園寺さんのバンガローで打ち合わせするのは、その日にもよりますが、大体ギレンスキー氏と西園寺さん、それに西園寺氏の息子さんの三人であることが多いそうです。ただあの日は翔さんが珍しく寝坊したとかで、朝の打ち合わせには遅れてきたとか。ゆえに、ルカ・ドナウティが中で父親と話している最中に彼はやって来、その後室内で彼も少しお父さんと話をされたそうですから、まあ、この三人のDNAは部屋から出てきて当然ということになりますな」
「でも、足跡についてはそれじゃ説明つかないんじゃないか?あそこから一体何種類の靴跡が出てきたのかはわかんないけど、その中で蛾の鱗粉つきのものがくっきりはっきり残ってたら――この三人の中に犯人がいるっていう可能性も生じるよな?」
「それもまた、実は少し難しいのですよ」
安楽椅子の腕木のところに肘をつきながら、赤城警部は重い溜息を着いた。
「何故といってギレンスキーは、先生と一緒の車に乗って、<みずうみの宿、胡蝶>へ戻ってきてるのですよ。あの蛾の大群の中を通り抜け、まあ彼の弁によると先生と互いに笑いながら、ようやくのことで西園寺氏の丸太小屋へ辿り着き――彼はこの時、コーヒーでも一杯飲んでからホテルへ戻ったらどうかと言われ、飲み物は辞退したものの、スーツの内側にひそむ蛾をほろい、退治してから、自分のホテルへ戻ったそうです。つまり、彼にもその日履いていた靴を提出してもらいましたが、ギレンスキー自身が白い足跡を確かに自分はその時残していったと証言してるんですよ。だからまあ、何が動機かは別としても、彼が一度ホテルへ戻り、また蛾の大群の中を抜けて師を殺害しにやって来た場合……足跡を証拠とするのは難しいかもしれんのです」
「でも、僕の靴の跡とギレンスキー、西園寺翔、ルカ・ドナウティの靴跡を除いていった場合、残る靴跡はあと何種類……みたいに、すでにその部分の鑑定結果は出ているのではありませんか?」
「まあ、靴跡といっても、あのように狭い室内でのことですから、人間が通る道っていうのは当然同じところを無意識のうちにも繰り返し踏んでるもんですよ。そしてあんまり重なりあったところは、判別が難しい部分もあり、そう考えた場合にも我々は、ラインハルトが今現在所有している靴を、証拠品としてよだれが出るほど欲しいと思っています」
「そっか。じゃあまあ、そういうことなら証拠隠滅をはかられる前に……って考えるのが当然だわな」
このあと四人は、夜の十時半~十一時をメドに殺害現場の再現劇を行うということで、それぞれがその準備に追われるということになった。赤城警部と白河刑事は、西園寺紗江子や西園寺翔、アファナシエフ・ギレンスキー、ラインハルト・ヘルトヴィッヒらに、音楽祭が終了後、二十階の2002号室へ集まってもらえるかどうかと打診し、また翼と要はホテルの従業員とともに絨毯を片付けたり、レザーソファを配置したり、より現場の雰囲気と似せるための工夫を凝らしたりした。
そしてその間も時々、赤城警部と携帯で連絡を取り合い、苦労してヘルトヴィッヒの了承を取りつけたことや、西園寺紗江子がむしろこの再現劇に非常に乗り気であったことを翼と要は教えてもらったというわけである。
南沢湖音楽フェスティバル、六日目――この日の夕方、早めに軽い食事を済ませると、要と翼はアファナシエフ・ギレンスキーが指揮するムソルグスキーの『展覧会の絵』を聴きにいった。西園寺圭のムソルグスキー狂いは、氏を彩る有名なエピソードのひとつではあったものの、この曲はロシアものがあまり得意でないヘルトヴィッヒから、ギレンスキーが譲り受けた曲であった。
彼は指揮台に立ち、観客席に向かって一礼すると、「私が西園寺先生に見出されたのもこの曲であり、公演が終わったあと、私の解釈が斬新でなかなか面白いと褒めてくれ、そのことがきっかけで私は彼の弟子入りをすることになったのです」と、拙い日本語によってギレンスキーは告げた。
「またその時に、西園寺先生の魅力的な人柄に触れ、この人にどこまでもついていきたい、いつかこの人のように指揮できる人間になりたい、そうした強い熱意が生まれたのです。もちろん、先生は魅力的であると同時に、とても厳しい方でもありました。ここにいる楽団員の方々はみな、そのことをよく知り抜いている人たちばかりでしょう。確かに先生は癇癪持ちではありましたが、その怒り方というのはこう、その時にパッと弾ける、スパークするだけで、あとには残らない怒り方でした。人の中には時々いるでしょう。昔あった嫌なことをいつまでもネチネチと覚えていて、機会を捉えてグサリと刺してくるような、私の女房のような女性が」
ここで、客席から少しばかり笑いが起こる。
「なんにしても、西園寺先生はとても魅力的な方でした。あの人に見つめられると、言うとおりにしないわけにはいかないと、大抵の人が思うくらいのカリスマ性があったのです。その人が、そんなに素晴らしい人がこんな亡くなり方をするだなんて……」
ここでギレンスキーは少しばかり涙ぐみ、燕尾服のポケットからハンカチを取りだしていた。
「すみません。私は先生から貴重な教えを受けた、最後の愛弟子として、先生と出会うことの出来たこの曲を、天国へ向かってお捧げしたいと思います。それでは、お聞きください」
翼は要と中二階の片隅で並んで座りながら――『第二曲:古城』あたりで、睡魔に抗しきれず早々に眠ってしまった。万雷の拍手が巻き起こったその音で、翼はハッと目を覚ましたのだが、クラシック音楽の公演では珍しく、立ち上がっている客が多数いるのを見て驚いた。
「細かいところまでとても神経のいき届いた、すごくいい演奏だったと思うよ」といったようなことを要が言うのを聞いて、翼としては帰り道で少しばかり不思議になってしまう。
「まあなんにしても、美音ちゃんがヴァイオリンをとってくれて良かったとは思うけど……でもさ、要。昼間あったヘルトヴィッヒの公演のほうは物凄かった、泣いている客さえいたって聞いたけど、そんなの変じゃないか?だって、クラシックの曲ってのは、色んな人間が色んな解釈によって何千回となく演奏してきてるわけだろ?なのに今回に限っては、特別中の特別な出来栄えだなんて――日頃から同じようには出来ないもんなのかね?」
「まあ、<いい演奏>の定義っていうのは、昨今とても難しくなってるんじゃないかと僕は思うよ。たとえばさ、そこそこ並の演奏だったとしても、とても心が傷ついてる時に聴いたら、ひどく胸に沁みいったりするものだろ?それと同じでね、観客の側も今、西園寺圭の死に対して、神経過敏に感じやすくなってるせいもあるにしても――それ以上に楽団員たちひとりひとりが、いつも以上の底力をだした、それが一丸となってホールいっぱいに満ち溢れたっていったほうがいいのかもしれないね」
「ふむ。なんにしても、俺にとっての本日のメインディッシュはこれからってとこだからな。座席でぐっすり眠った御陰で、今では目がばっちり冴え渡っちまったぜ。ラインハルト・ヘルトヴィッヒの奴、このまま逃げたりしなきゃいいけど」
白樺林の頭上を、星月夜が今にも降り注いできそうな空を見上げて、翼は隣の親友とともに意気揚々とホテルへ引き上げていった。これから、一体どんな人間ドラマを傍観者の立ち位置で見せてもらうことが出来るのか――翼も要も、長く伝統のある素晴らしいオペラなど見るより、そのことが楽しみで仕方なかったのである。
>>続く……。
今回も、軽く本文長いので、前文は短めにと思います(^^;)
次回がまあ、事件の犯人などがわかる解決編っていうことになるんですけど、こちらも本文が長いので、2回に分けることになると思うんですよね
犯人が判明するくらいのところまで、文章がなんとか入るといいな~とは思うんですけど、もし変なところでブチッ☆と切れることになったとしたらごめんなさいwwと思いますm(_ _)m
というのも、文字制限についてばかりは、わたしにもどうにも出来ないことなので
そんで、あとは翼の救急救命医を辞めた理由、殺しの夜に実際何があったかの描写、翼&要のその後……といった感じで、たぶん残り5回くらいで終わるかな~なんて思います(^^;)
それではまた~!!
カルテット。-20-
<南沢湖クリスタルパレス>に滞在して六日目、五日目に引き続いてこの日もまた、翼と要はふたりの刑事の訪れによって朝の快適なひと時を邪魔されていた。
もっとも、朝のといってもすでに陽は正午を過ぎており、ふたりはまたしても音楽祭の午前のプログラムを聞き逃していたのだが。
「我々も捜査がてら聞きにいったんですが、ラインハルト・ヘルトヴィッヒによる感動的な弔辞が流暢な日本語で述べられると――楽団員たちは涙ぐみ、客席からもすすり泣く声が上がりました。クラシックなどまるでわからぬ私でも、まったくこう、鳥肌の立つような気迫みなぎるいい演奏だったと思いますよ」
きのうと同じく浴衣を着乱し、髪もぼさぼさの男ふたりに向かって、赤城警部はそんなふうにまずは話しはじめた。実をいうと彼はその前にアファナシエフ・ギレンスキーと通訳を介して話をしており、ひとつのある重要な事実を掴んでいたのである。
「そっか。こうなるとますますラインハルト・ヘルトヴィッヒが怪しいって感じがするな。ま、なんとなくだけど」
白河刑事はきのうと同じく窓辺に陣取り、まるで湖の方角に犯人がいるとでもいうようにそちらを凝視していたが、翼の今の発言により、同じ視線を彼のほうに定め直していた。
「ようするに、我々が今日お伺いしたのは、まずは火かき棒のこと、それからおふたりがこの件についてどの程度のことを知っているのかをお訊ねするためでした。首藤朱鷺子の死については、警察の不手際と詰られても仕方ありません。今日は朝一番にそちらへ鑑識の人間を向かわせましたが、ホテル内というのは掃除したあとでも前に宿泊した人間の潜在指紋といったものが結構残ってまして……首藤朱鷺子の遺品等も調べてはみましたが、それほど有力な証拠品といったものは今のところ上がってないというのが現状です。そこで、隣の部屋の水上ゆう子さんにもお話を聞いてみましたが、結論としてはまあ、彼女のような人が自殺することだけはありえないということに落ち着きました。そこでおふたりにお聞きしたいのですが――実際にあなた方は彼女の死について、どの程度のことを把握しておられるのでしょうか?」
「まあ、べつにそう大したことは」
要はティーバッグで入れた煎茶を、ふたりの刑事に茶受けとともに差しだしながら言った。翼といえば、自分の携帯を片手でいじりながら「あ、やっぱり」などと呟いている。サイレントマナーモードにしていたのでまったく気づかなかったが、水上ゆう子の電話番号が上から数えて五件、着信記録に並んでいた。
「というより、きのうも申し上げたとおり、僕はこの件には最初からさして興味はなかったんです。でもこいつが」と言って、隣の翼のことを要は見やる。「首藤朱鷺子はどうも他殺っぽいっていうようなことを言いだしたんですよ。そしたら本当に偶然、彼女の隣室の女性が突き飛ばす犯人の<手>を見たという証言をして……どうもこれはおかしいぞということで、彼女がこれまで出版した本をダウンロードして読んでみたりだとか、まあそんなことをする過程で、少しばかりわかることがあったというくらいですね」
要がバトンタッチでもするように、親友にある種の視線を投げたため、翼は携帯でゲームを開始するのを止めていた。
「実を言うと俺たちはね、刑事さん。これもまたほんの偶然から、隣の奥さんが誰かに脅されていると思しき電話を通りすがりに聞いちまったんですよ。それもこのホテルに到着した五日前――ようするに、音楽祭の初日に。で、西園寺夫人が実際に誰と話してたのかっていうのはわからないまでも、俺たちはこういう仮説を立ててみることにしたわけだ。今から約五~六年前、西園寺圭の息子が麻薬で捕まったことに端を発したスキャンダルは、おそらく首藤朱鷺子が週刊誌にリークしたものだったんだろう。そんで、このことについては要の奴があとから、東京オーケストラのコンマスと副コンマスにも確認をとって確かにそうだったことがわかっている。となると、彼女はお金に困るか何かして、また性懲りもなく西園寺夫人あたりをゆすって金銭を得ようとしてたんじゃないかって説がかなり有力になってくる。あるいは彼女は、見栄とプライドで飾り立てられたクラシック音楽の著名人を脅すことは金になると味をしめていて、そういうリストを作ってたんじゃないかっていう気もするな。なんにしてもとりあえず、俺と要は初日に聞いた西園寺夫人の電話のことを思いだし、首藤朱鷺子が彼女のことを脅していたと仮定してみた。でも彼女のように気位の高い女が果たして、直接殺しに手を染めるものだろうか?そこで俺たちはこう思ったわけ――彼女にはどうも愛人と思しき男がいるらしい。じゃあそいつを使って邪魔な女を片付けたと考えられはしないだろうかって。でもこんなのは全部、素人探偵の妄想の域をでない迷推理みたいなもんだよ。だって、具体的な証拠が何もないわけだから」
「その、赤城警部」と、かなり論理的にスッキリとまとめられた翼の話の途中で、要が口を挟む。「首藤朱鷺子の部屋からは、ノートパソコンや携帯電話といったものは出てこなかったんですか?もし西園寺圭の携帯と彼女の携帯内にある電話帳を比較して――重なった人間がいたとすれば、何かあるように思うんですが。それと、彼女は仮にもフリーランスのジャーナリストですからね。PC内にあるデータを調べれば、必ず何か事件に繋がる証拠が得られそうに思うんですが、どうでしょうか?」
「ふうむ」と、ここで赤城警部は腕組みをして唸った。今警察にとってもっとも重要なのは、なんといってもマスコミが騒ぎ立てている<世界的名指揮者、西園寺圭殺害事件>の犯人を挙げるということである。だが、首藤朱鷺子殺しと西園寺圭殺しの犯人が同一人物であるとした場合――意外にも、こちらの事件を先に洗ったほうが、もしや最短距離で犯人に辿り着くのではないか、という気がしてきた。
「残念ながら時司さん、首藤朱鷺子の部屋からは携帯もパソコンも見つかりませんでした。おそらく犯人がそこに、自分にとって都合の悪いデータがあるとあらかじめわかっていたがために……彼女をベランダから突き落としたのち、持ち去ったものと思われます」
「でも、携帯電話についてはさ、電話会社に問い合わせればわかるだろ?そのデータと西園寺圭の携帯内の電話帳なんかを比較すれば――なんかわかんじゃねえの?」
きのうからテーブルの上に食べ散らかしてある、ミッシーまんじゅうの残りを手にとって、それにぱくつきながら翼が言った。
「そちらのほうは目下、私の部下たちが調べている最中のことでして……ところで、こちらに御宿泊の最中、隣の西園寺夫人の部屋に不審な人物の出入りなどはありませんでしたかな?」
「ルカ・ドナウティ・ミサワ」
ソファの背もたれに、見るからに退屈そうな表情で腕をもたせかけ、翼が鋭く切り出す。
「あの奥さんにはたぶん、他にも愛人って奴がいるのかもしんない。でも俺が見かけたのはこのルカって奴だけだな。西園寺圭の出現を気にしてたようなところを見ても、たぶん愛人なのかなって思うけど……まあ、確信はないよ。一度ちらっと見たってだけだし。そこらへんは刑事さんたちで調べとくんなはれって感じ」
ルカ・ドナウティ・ミサワという名前に、自分が今どれほどドキリとしたか――このいけ好かない感じの若造は、一体わかっていて言っているのだろうかと、赤城警部は焦燥感に近い感情すら味わった。それは窓辺で茶をすする白河刑事も同じだったらしく、彼もまた厳しい目つきで自称外科医という男のことを見返している。
「なんにしても、次の件に少し移りたいと思います。そちらの暖炉の脇にある火かき棒ですが、これを証拠品として預からせていただいても構いませんかな?ホテルのほうへは、すでに許可を取ってありますので」
「そういうことでしたら、どうぞ」と、要が浴衣の袖の下に手を入れ、腕組みしながら言った。「まあ、僕たち一般人に――というか、僕なんて特に西園寺さんの殺害犯である可能性すらあるわけだから、捜査情報を洩らすなんてとても出来ないと思いますが、もし良ければ教えてください。西園寺夫人のハイヒールの跡というのは、現場から見つかったりしたんでしょうか?」
赤城警部は白い手袋をはめた手で、火かき棒を一度手に持ち、それをあらゆる角度からためつすがめつしたのち、同じく白い手袋をはめた自分の部下に、赤銅色の火かき棒を手渡していた。その時に、赤城警部がはっきり自分の反応を見ていたと気づき、要は重い溜息を着く。
「どうやら、僕の容疑というのはすっかり晴れたというわけではなさそうですね」
「いえ、実際大したものだと思いますよ、あなた方おふたりは。首藤朱鷺子が他殺かもしれないとすぐ見抜いたこともそうなら、普通の刑事でもしないようなことをなさいました。つまり、彼女がこれまで生きてきた証しともいえる、首藤朱鷺子の著作物に目を通そうとしたことなどがそれです。結論から言うとですな、時司さん。現時点であなたは100%白というわけではない。ですが我々は、あなた以上にもっと疑っている人物が他にいるのですよ。たとえば、この部屋の隣室にいる奥さん。我々はこちらをお訪ねする以前に、事情聴取がてら彼女の部屋から火かき棒を頂いてきたのです――それも、今私の部下の白河が手にしているのとは別の、形と色が若干異なるものをね」
「ということは、まさか……」
「そのまさかです。といっても我々も、このことには大して期待していたわけではなかった。それというのも、私が今と同じようにいかにも思わせぶりで意味ありげな態度をとっても、あの冷たい奥さんは眉ひとつ動かしもしなかったので。そしてこうおっしゃいましたよ。『そんな役にも立たない棒が、一体なんだって言うんですの、刑事さん』とね。だが、その役にも立たない棒を我々が持ち帰り、ルミノール試薬をかけて見たところ――血の痕がはっきりと確認できたんですよ。今、鑑識のほうでそれが西園寺氏のそれと同じものかどうか、調査しているところです。そこで、ですな。我々はようやく強力な物証である凶器を見つけたらしいのに、実はその後少しばかり混乱したのです。西園寺圭のバンガローからはあの奥さんの靴跡と思しきものは見当たらなかった。とはいえ、隣の奥さんの部屋には靴箱がクローゼットに山程あることを考えれば……彼女がその日履いていたのとは別の靴を我々に提出したということは十分考えられうる。しかしながら、自分の夫を殺した凶器をあんな身近に置いておくものですかね?しかも、『それが一体どうしたのだ』という態度で、我々が火かき棒を持って部屋を出ていっても、疎ましい馬鹿でも見るような目で見送っただけなんですからな。そこで我々はこう考えました。誰かが西園寺紗江子に夫殺しの罪を被せようとしているのではないか、と。こうなるとなんといっても怪しくなってくるのは、ラインハルト・ヘルトヴィッヒですよ。何しろ奴さん、きのう我々が音楽ホールへ行ってみると、『そういうことなら失礼する』と言って逃げるようにサッと消えてしまったんですから。で、そのあとどうしていたのかと今朝方コンサートがはじまる前に聞いてみたところ、『紗江子の部屋にいた』とおっしゃる。彼は西園寺紗江子の愛人らしいのですが、彼女の部屋にも火かき棒と思しきものがあったのを思いだし、凶器をすり替えたのではないかと我々は考えました。まあこの場合は、彼女に罪をなすりつけようとしたというより――むしろ、西園寺紗江子があの日の晩、夫の丸太小屋へは行っていないとわかっているがために、彼女が捕まることはないと確信しての行動ということになりますな」
「でもそれだと、少しおかしくないですか?そもそも何故犯人はそんなまだるっこしいことをしたのか……確かに、凶器の始末には困ったでしょうが、でもそれだって、夜の内に湖へ捨てるなどすれば良かったんじゃないですか?」
「いや、要。おまえも言ってたろ。蛾の大群が半端なくいて、蛾を踏まないことには道を歩けないほどだったって……つまり、俺が思うには犯人は出来ることなら湖にでも凶器をすぐに捨てたかっただろうよ。でも蛾の大群に阻まれるあまり、たとえば仮に楽器ケースにでも入れて、こっそり部屋へ持って帰るしかなかったんじゃないか?でもそんなものが自分の手元にあれば、近いうちに警察が令状を手にして捜索に来るかもわからず……犯人の奴は苦しまぎれにそんなことをしたんじゃないだろうか」
「そのとおりです。我々もまったく似たことを考えました。となると、そんなことをした人間は一体誰なのか、というより――<そんなことが出来たのは一体誰なのか>という話になります。あの奥さんは音楽祭へは出かけていかず、一日の半分以上は部屋で過ごしていることが多いと聞きました。となると、彼女の目を盗んで火かき棒を取り替えられるのは、かなり親しい間柄の人間ということになりますね、当然。そこで我々はまず、第一容疑者としてラインハルト・ヘルトヴィッヒにターゲットを絞ることにしました。まずは奴さんを署までしょっぴいていき、繊細な音楽家の精神に揺さぶりをかけようというわけですな。しかしながらヘルトヴィッヒはドイツ国籍を持つ外国人ですから……事は慎重に行わなければならない。ちなみに彼は指紋やDNAの提出をはっきりと拒絶しました。それもまた我々が彼をあやしいと考える理由のひとつなんですが――もうひとつ、出来れば決め手が欲しいと思っているのですよ。そこでおふたりに何か、いい知恵をお貸しいただければと思いまして」
赤城警部の話を聞いている途中で、翼と要は自分たち一般人にここまで捜査情報を洩らしていいのか、と感じてはいた。だが、今の警部の結論を聞き、不思議そうに互いの顔を見合わせる。
「その前にひとつ聞きたいんだけど、西園寺圭の丸太小屋を盗聴してたっていうのは結局誰だったんだろうな?俺がこう聞くのはさ、世界的指揮者西園寺圭の弔辞を読み上げて最初にタクトを取ったのはラインハルト・ヘルトヴィッヒだったんだろ?じゃあ、彼が師である男の室内を盗聴し、自分が彼の後継者として<南沢湖音楽フェスティバル>の監督に就任できるかどうか探ってたっていうことか?しかしながらその結果、甚だ残念なことにその権利は自分の弟弟子の手に渡ることになったと知った彼は、自分の音楽の師匠を殺害するに至った……そんな筋書きってことなのかな」
「いえ、盗聴器を仕掛けたのが誰なのかはまだわかりません。西園寺氏が毎年お使いになるあのバンガローは、他の時期には当然希望のあった方に貸している場所ですし、となると、何かそうした種類の変態が、カップルのあえぎ声を聞くために仕掛けたですとか、色々考えられますもので、我々はあまりそこに固執するつもりはないのです。あくまでも広い捜査範囲の内の一隅を担う情報といったところですな」
「刑事さんに真顔であえぎ声とか言われると、むしろなんか奇妙なおかしみがこみあげてくるな。そういや要、赤城警部にはあの日の夜、駐車場で西園寺紗江子を見かけたと言ってあるんだろ?」
要はといえば、「言ったような、言わないような」という顔をして、小首を傾げるのみである。
「聞いてませんよ、時司さん」赤城警部は赤ら顔に、さらに若干朱を足したような顔をして、身を乗りだしている。「西園寺さんと会ったあの日の夜、本当にあなたは駐車場で西園寺夫人をお見かけしたんですか?」
「ええ、まあ。西園寺さんと二、三十分くらい話したのち――大体十一時くらいですかね。大量の蛾を踏みつけて歩いたもので、靴の裏に蛾の羽の名残りがたくさんこびりついていたんですよ。それをコンクリートブロックにこすりつけて落としていると、ふと視線を感じて振り返ったんです。そしたら、黒のジャガーの運転席に座る西園寺夫人の姿が見えました。『一体何をしてるんだろう』と不思議にはなりましたが、そう深く考えることもなく、ホテルまで戻ってきたんですよ。でもあとにしてみたら、彼女こそが盗聴電波を聞いていた張本人という気がしてきて」
「そうそう。話の筋としてはさ、一番ありえそうなのがそのラインだよなって話を俺らはしてた。何話してんのかまではわかんないまでも、西園寺圭と西園寺紗江子が何か言い争ってると思しき声を、俺たちは寝室で聞いたりしてたわけ。夫婦喧嘩の末期症状みたいな雰囲気を感じはしたけど、何分なんのことでそんなに言い争ってるのかまではわかんない。でも夫婦関係が険悪だっていうことは、十分に感じ取れたっていうかさ。そんでもって、あの夫婦っていうのは片方がホテルのスイート、もう一方がキャンプ場のバンガローっていうふうに、仮にそれが短期間でも一緒にはいられない仲なわけだ。でも奥方のほうは「それでも絶対離婚なんてしなくてよ。おほほ」って感じで夫に執着してて……となると、旦那が夜に何してるのかっていうのが、彼女はすごく気になってたんだと思う。もし愛人に会ってるんだとしたら許せない――自分も愛人がいるくせにとか、そういうことは一旦置いておいて、あの奥さんにはあの奥さんなりの、あの奥さんにしか理解できないある種の理論があるわけだ。そこで夜な夜な夫の様子を盗聴し、たぶん知りたくもないことを知っちまったんじゃないだろうか。つまり、要が川原美音のことである提言をしにいくと、西園寺圭は簡潔にいえば、彼女とのことを真剣に考えている、妻とは必ず離婚して美音と一緒になるつもりだとはっきり語った。たぶんこの時奥さんは、自分の夫が本気なのだと悟ったはずだと思う。で、もし彼女が犯人だとしたら……ここで次の行動に移ったことになると思うんだよな。『夫のことはもう殺すしかない』みたいに。けど、あの奥さんと旦那の体格を比べてみると、拳銃でも持ってこないことには、殺すのは難しいんじゃないかって気がする。そこで愛人、ラインハルトの登場ってことになったんだろうか。今聞いた赤城警部の話も考えあわせると」
「なるほど」
赤城警部はこの時点で、見た目場末のホストといった感じの男に対し、心の内で侮蔑的な眼差しを投げるのをやめた。それは窓辺の白河刑事も同じだったらしく、自分の上司に向け、何度か頷きの合図を送っているほどであった。
「実をいうとですな、我々はもうひとつの有力な情報を得てもいるのですよ。ヘルトヴィッヒ氏が西園寺圭の弔辞文を読み上げ、そのまま指揮台の上に立つことをあなたはどうお思いですかと、いわばライバルといっていい立場のロシア人指揮者アファナシエフ・ギレンスキーに聞いてみることにしたのです。彼は西園寺氏の訃報を聞くと同時に部屋へ閉じこもり、まるでかたつむりのようにそこから出てこなかったと周囲の方々にはお聞きしました。ちなみに彼は、<みずうみの宿、胡蝶>に宿泊しているのですが、このホテルというのは実はキャンプ場に一番近い場所に位置する、隠れ家的宿なのです。ギレンスキー氏は、毎日ここから朝、歩いて十分くらいかけて西園寺さんのいる丸太小屋へいき、その日一日のプログラムについて、話し合ったりするそうで……まあ、弟子というか彼の場合半分付き人のような役割も果たしていたらしいですが。西園寺さんが殺された日の朝も、彼は師とロシア語で色々なことを話していたそうです。と、そこへ何故か切羽詰った顔をしたピアニストのルカ・ドナウティ・ミサワがやって来たという。ギレンスキー氏はロシア語・ドイツ語・イタリア語、それに英語と日本語を話せるそうなんですが、唯一日本語に関しては、イントネーションがおかしかったり文法を間違ったりするとギルトヴィッヒが陰険にそれを直してくるため、彼の前では絶対に使わないとのことでしたな。なんにしても、ルカ・ドナウティが先生とふたりきりで大切な話があるというので、ギレンスキーは席を外すことにしたそうです。ただ、彼はギレンスキーがロシア語と英語くらいしか話せないと誤解していたらしく、日本語ですぐにこう言いはじめたんだそうですよ――『僕は実をいうとあなたの息子なんです』と」
「ええっ!?」
翼と要は、驚きのあまり互いに顔を見合わせた。
「もちろん、その後西園寺圭とルカ・ドナウティとの間でどんな会話がなされたのかはギレンスキー氏にもわからなかったそうです。ただ、ふたりがバンガローを出る時に『他言は無用だ』と一言いわれたきりだそうですが……西園寺さんは特に気難しく眉根を寄せるでもなく、むしろ嬉しそうな印象ですらあったとのことでした。まあ、このこととこの日の夜に起きた事件との間に、一体どんな関連性があるのかは、我々にもまだはっきりとはわかりません。ただ、今結城さんがおっしゃったように、もしこのこともなんらかの形で誰かが盗聴していたらどうなるのか……なんにしても我々はまず、ラインハルトのことを取調室まで引いていくつもりですが、ここでもう一度先ほどの話に立ち戻りますと、何かこうもう一手、決め手となることはないかと思いまして」
「そういうことなら」と、要が少し考え深そうにしたあとで、顎に指を置いたまま提案した。「この部屋で、現場の再現をするというのはどうですか?最初は、隣の空いているスイートでと考えたんですが、間取り的にはやはり、この部屋のほうが西園寺さんの丸太小屋を再現しやすいと思ったものですから。下に敷いてあるゴブラン織りのラグを外して、ラタンのソファと安楽椅子も片付け、ホテルの別の部屋から黒い革の似たような家具を持ってくるんです。壁にはゴッホのひまわりを掛け、当然凶器となる火かき棒は、キャンプ場から同じものを借りてきて置けばいい。ラインハルト・ヘルトヴィッヒが犯人なら、これだけでもかなり動揺するはずです。そこで、あの日の朝に起きたことから順に、関係のある人間全員を呼んで再現してもらうんですよ。もちろん当然僕も協力します。何しろ、僕が飲まなかったワインに犯人は口をつけている……あら不思議といったことを話す過程でも、よほど心臓の血管が太い人間でもない限り、手のひらに汗をかきはじめるに違いありませんよ。それともうひとつの利点は、犯人が自分の犯行を隠すために無口になったり饒舌になったりする姿を見ることにより、それがかなりいい判断材料を与えてくれるということです。刑事さんは、今までひとりひとり個別にお話をお聞きになっていたのでしょうが、そうした人たちが一同に会することで、一種の連鎖反応が起きることも期待できると思います。特に、あの奥さんは自分に都合の悪いことや、体面を傷つけられるという時には、かなりヒステリックな本性を表すかもしれませんし……そうした過程で何か新たに<わかること>があるかもしれません」
「ですが、指紋もDNAの提出も拒んでいるようなヘルトヴィッヒが、そんな誘いに乗るものでしょうか?」
ここで白河刑事が、どこか興奮したように一同の会話の中に初めて加わった。
「たぶん、そんなに難しくないと思いますよ。この過程をクリアすれば、あなたの容疑は晴れる可能性が高いとか、うまく言いくるめればいいんじゃないでしょうか。なんだったらあの奥さんに、そう愛人に言ってもらうよう誘導するとか……警察はまだ凶器がなんなのかを発表してませんし、火かき棒のことについては彼女は本当に何も知らないのかもしれません。また、彼女が愛人と共謀してないのであれば、西園寺夫人は喜んでこの捜査に協力してくれるんじゃないでしょうか?」
「ふううむ」
相手がもしある程度社会的地位のある外国人でなかったとしたら、すぐにでも取調室で締め上げてやるところだが、なんといっても事は「任意の同行」という問題である。ヘルトヴィッヒは音楽祭が終わるまではそんなことには応じられないと、間違いなく言うだろう。だとすれば、ここから車で一時間以上ある本部へ連行する前に、相手がうっかり口を滑らせ、供述と矛盾することを吐いてくれるというのが、確かに理想的ではある。
「なんにしても、確かにそれは有効な手段ではありますな。そして、もしやるとするなら今夜がいい。何故といって明日は華々しいオペラとともにフィナーレという夜ですからな。湖でも花火が上がるそうですし、そんな日の夜に殺人事件の再現劇など誰もやりたがらないでしょうから」
「それに、明日の夜やったんじゃ結局、本星がそのままドイツに逃亡しちまう可能性もあるし」
事態の推移がなんと面白くなってきたことか、などと思いつつ、翼はどこか不敵にニヤリと笑っている。
「では、我々はまず西園寺夫人とラインハルト・ヘルトヴィッヒの了解を得るため、彼らを順に説得してきます。今日の夜音楽祭が終わるのは、大体九時半頃でしょうから、十時か十時半をメドにはじめるというのはどうでしょう?他に、ギレンスキー氏とルカ・ドナウティ・ミサワも呼ぼうと思っています。何故といって、結局のところあの丸太小屋からは彼らの指紋や髪の毛など、DNA情報が出てきておかしくないからなんですよ。あの日の朝、運ばれてきた食事を七時ごろ食べた西園寺氏は、八時ごろに<みずうみの宿、胡蝶>に一っ風呂浴びにいったんですな。そこで顔馴染みのキャンプ場の清掃員に彼は出会い、彼女から『先生、お風呂へ入りにいくんでしたら、その間にお掃除を済ませて構いませんか?』と言われ、『まあ、そんなに几帳面にしなくても、適当でいい』といったように返事されたそうです。この掃除のおばさんはですな、朝からいい男と会話出来たことが嬉しくて、いつも以上に気合を入れてバンガローの掃除を行ったとのことでした。窓もガラスクリーナーでピッカピカに磨いておいたから、その内側からもし指紋が出たとしたら、それがきっと犯人のものに違いないと、親切にも我々に教えてくれましたよ。なんにしても、風呂に入って西園寺圭が九時前に戻ってくると、掃除のほうはすでに終わっていたということです。そしてそこへ、師を追いかけるような形でアファナシエフ・ギレンスキーがやって来、ふたりが色々その日のプログラムについて打ち合わせていると、ルカ・ドナウティ・ミサワがやって来たといった寸法ですな」
「ハイハイ、ていあーん!!」
ここで翼が、その場に似つかわしくなく、幼稚園児のように左手を上げて言った。
「ついでに、西園寺圭の息子の翔くんも呼んじゃおうぜ。なんでって、一刻も早く誰が父親を殺したのか知りたいだろうし……うん、うまくいえないけど、大事だと思うんだよな、そこらへん。それに、あの息子は自分の母親のどこを突けば彼女がもっとも痛がるかを知ってるから、面白い展開になるかもしれない。まあ、もしかしたら思った以上の修羅場ってことになるかもしれないけど、そういう感情の連鎖的なもんからも、何か新情報が得られるんじゃないかって気がする」
「そうですな。そもそも、彼のことは我々も呼ぶつもりではおったのですよ。言い忘れていましたが、朝西園寺さんのバンガローで打ち合わせするのは、その日にもよりますが、大体ギレンスキー氏と西園寺さん、それに西園寺氏の息子さんの三人であることが多いそうです。ただあの日は翔さんが珍しく寝坊したとかで、朝の打ち合わせには遅れてきたとか。ゆえに、ルカ・ドナウティが中で父親と話している最中に彼はやって来、その後室内で彼も少しお父さんと話をされたそうですから、まあ、この三人のDNAは部屋から出てきて当然ということになりますな」
「でも、足跡についてはそれじゃ説明つかないんじゃないか?あそこから一体何種類の靴跡が出てきたのかはわかんないけど、その中で蛾の鱗粉つきのものがくっきりはっきり残ってたら――この三人の中に犯人がいるっていう可能性も生じるよな?」
「それもまた、実は少し難しいのですよ」
安楽椅子の腕木のところに肘をつきながら、赤城警部は重い溜息を着いた。
「何故といってギレンスキーは、先生と一緒の車に乗って、<みずうみの宿、胡蝶>へ戻ってきてるのですよ。あの蛾の大群の中を通り抜け、まあ彼の弁によると先生と互いに笑いながら、ようやくのことで西園寺氏の丸太小屋へ辿り着き――彼はこの時、コーヒーでも一杯飲んでからホテルへ戻ったらどうかと言われ、飲み物は辞退したものの、スーツの内側にひそむ蛾をほろい、退治してから、自分のホテルへ戻ったそうです。つまり、彼にもその日履いていた靴を提出してもらいましたが、ギレンスキー自身が白い足跡を確かに自分はその時残していったと証言してるんですよ。だからまあ、何が動機かは別としても、彼が一度ホテルへ戻り、また蛾の大群の中を抜けて師を殺害しにやって来た場合……足跡を証拠とするのは難しいかもしれんのです」
「でも、僕の靴の跡とギレンスキー、西園寺翔、ルカ・ドナウティの靴跡を除いていった場合、残る靴跡はあと何種類……みたいに、すでにその部分の鑑定結果は出ているのではありませんか?」
「まあ、靴跡といっても、あのように狭い室内でのことですから、人間が通る道っていうのは当然同じところを無意識のうちにも繰り返し踏んでるもんですよ。そしてあんまり重なりあったところは、判別が難しい部分もあり、そう考えた場合にも我々は、ラインハルトが今現在所有している靴を、証拠品としてよだれが出るほど欲しいと思っています」
「そっか。じゃあまあ、そういうことなら証拠隠滅をはかられる前に……って考えるのが当然だわな」
このあと四人は、夜の十時半~十一時をメドに殺害現場の再現劇を行うということで、それぞれがその準備に追われるということになった。赤城警部と白河刑事は、西園寺紗江子や西園寺翔、アファナシエフ・ギレンスキー、ラインハルト・ヘルトヴィッヒらに、音楽祭が終了後、二十階の2002号室へ集まってもらえるかどうかと打診し、また翼と要はホテルの従業員とともに絨毯を片付けたり、レザーソファを配置したり、より現場の雰囲気と似せるための工夫を凝らしたりした。
そしてその間も時々、赤城警部と携帯で連絡を取り合い、苦労してヘルトヴィッヒの了承を取りつけたことや、西園寺紗江子がむしろこの再現劇に非常に乗り気であったことを翼と要は教えてもらったというわけである。
南沢湖音楽フェスティバル、六日目――この日の夕方、早めに軽い食事を済ませると、要と翼はアファナシエフ・ギレンスキーが指揮するムソルグスキーの『展覧会の絵』を聴きにいった。西園寺圭のムソルグスキー狂いは、氏を彩る有名なエピソードのひとつではあったものの、この曲はロシアものがあまり得意でないヘルトヴィッヒから、ギレンスキーが譲り受けた曲であった。
彼は指揮台に立ち、観客席に向かって一礼すると、「私が西園寺先生に見出されたのもこの曲であり、公演が終わったあと、私の解釈が斬新でなかなか面白いと褒めてくれ、そのことがきっかけで私は彼の弟子入りをすることになったのです」と、拙い日本語によってギレンスキーは告げた。
「またその時に、西園寺先生の魅力的な人柄に触れ、この人にどこまでもついていきたい、いつかこの人のように指揮できる人間になりたい、そうした強い熱意が生まれたのです。もちろん、先生は魅力的であると同時に、とても厳しい方でもありました。ここにいる楽団員の方々はみな、そのことをよく知り抜いている人たちばかりでしょう。確かに先生は癇癪持ちではありましたが、その怒り方というのはこう、その時にパッと弾ける、スパークするだけで、あとには残らない怒り方でした。人の中には時々いるでしょう。昔あった嫌なことをいつまでもネチネチと覚えていて、機会を捉えてグサリと刺してくるような、私の女房のような女性が」
ここで、客席から少しばかり笑いが起こる。
「なんにしても、西園寺先生はとても魅力的な方でした。あの人に見つめられると、言うとおりにしないわけにはいかないと、大抵の人が思うくらいのカリスマ性があったのです。その人が、そんなに素晴らしい人がこんな亡くなり方をするだなんて……」
ここでギレンスキーは少しばかり涙ぐみ、燕尾服のポケットからハンカチを取りだしていた。
「すみません。私は先生から貴重な教えを受けた、最後の愛弟子として、先生と出会うことの出来たこの曲を、天国へ向かってお捧げしたいと思います。それでは、お聞きください」
翼は要と中二階の片隅で並んで座りながら――『第二曲:古城』あたりで、睡魔に抗しきれず早々に眠ってしまった。万雷の拍手が巻き起こったその音で、翼はハッと目を覚ましたのだが、クラシック音楽の公演では珍しく、立ち上がっている客が多数いるのを見て驚いた。
「細かいところまでとても神経のいき届いた、すごくいい演奏だったと思うよ」といったようなことを要が言うのを聞いて、翼としては帰り道で少しばかり不思議になってしまう。
「まあなんにしても、美音ちゃんがヴァイオリンをとってくれて良かったとは思うけど……でもさ、要。昼間あったヘルトヴィッヒの公演のほうは物凄かった、泣いている客さえいたって聞いたけど、そんなの変じゃないか?だって、クラシックの曲ってのは、色んな人間が色んな解釈によって何千回となく演奏してきてるわけだろ?なのに今回に限っては、特別中の特別な出来栄えだなんて――日頃から同じようには出来ないもんなのかね?」
「まあ、<いい演奏>の定義っていうのは、昨今とても難しくなってるんじゃないかと僕は思うよ。たとえばさ、そこそこ並の演奏だったとしても、とても心が傷ついてる時に聴いたら、ひどく胸に沁みいったりするものだろ?それと同じでね、観客の側も今、西園寺圭の死に対して、神経過敏に感じやすくなってるせいもあるにしても――それ以上に楽団員たちひとりひとりが、いつも以上の底力をだした、それが一丸となってホールいっぱいに満ち溢れたっていったほうがいいのかもしれないね」
「ふむ。なんにしても、俺にとっての本日のメインディッシュはこれからってとこだからな。座席でぐっすり眠った御陰で、今では目がばっちり冴え渡っちまったぜ。ラインハルト・ヘルトヴィッヒの奴、このまま逃げたりしなきゃいいけど」
白樺林の頭上を、星月夜が今にも降り注いできそうな空を見上げて、翼は隣の親友とともに意気揚々とホテルへ引き上げていった。これから、一体どんな人間ドラマを傍観者の立ち位置で見せてもらうことが出来るのか――翼も要も、長く伝統のある素晴らしいオペラなど見るより、そのことが楽しみで仕方なかったのである。
>>続く……。
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