ふつうの暮らしとリハビリテーションとケア

もし、障害を負ってしまったらどうするか?
今までの生活は??
暮らしを支えるリハビリテーションとケアを考えます。

私の都合 あなたの都合

2005年05月31日 | おもてなしの話
医療・介護職員は忙しい。
そんなイメージを多くの人は抱いていないだろうか?

実際、忙しそうだ。
外来医師が2人しかいないのに、待合室は満員御礼。

外来看護師も検査技師もリハビリもはたから見ると当然「忙しそう」となる。

実際病院勤務時代は忙しかった・・・
昼12時を過ぎてやっと患者さんが減っていく。
1時を過ぎればまた、4時過ぎまで断続的に患者さんがやってくる。
その後は病棟でのリハビリテーションをおこない、記録を書いて帰るのが、
どうしても7時過ぎとなり、会議があれば8時過ぎまで病院にいた。

少し見方を変えてみよう。
そんなバタバタスタッフが動くのを患者さんは見ている。
これはどうしても声をかけにくい。

「またでいいや・・・」

こうして患者さんの情報を得る機会が減っていく。

忙しそうだけど、声をかけてみよう・・・
「あの~、実は・・・」
「今忙しいの!後にしてください」

医療・介護はお金を頂いて、医療・介護サービスを提供している「対人サービス業」でもある。
そのお客さんをさておいて「後にしてくれ!」とはどうしたものだろう?

忙しいのは実は個人の都合であって、患者さんの都合ではない、ということだ。
健康を患い、入院している人の声を、自分の都合で無視している、とも取れる。

自分もかつてそうだった。
「忙しい」が先行し、午前中はまだいいのだが、
午後に入って徐々に不機嫌になる自分がいた(と思う)。

見方を変えると、
午前の患者さん、午後の患者さん、頂く料金は一緒だ。
料金は一緒なのに、午前中は表情・愛想はいい。
午後の患者さんはぶっきらぼうで、愛想良くない。

「忙しいのだから、わかってくれよ!」

そう、鼻が高くなっている自分がいたに違いない。

今日、こんなことを書いているのも、学生がそんなことを言ったからだ。
「忙しいのに、先生は態度が変わりませんね」

鋭いところを見ているじゃないか。
その気持ちを忘れないで、大事にしてほしい、そう思う。

「心を亡くすと書いて【忙しい】と書く」
誰から聞いた言葉だっただろうか?


自由と責任

2005年05月30日 | 日記・雑感
社会福祉マンさんからのコメントから考えてみよう。

自由ってなんだろう?
なんでも思い通りになるという事だろうか?

私達の行動に、自由でいいのだろうか?
私達の行動の裏には「責任」があるとは思えないだろうか?

一般世間的なルールを守る、という暗黙の了解がある。
それをバックグランドに個人は行動していると言っていいだろう。

そのバックグランドが個人個人違う、と言うことも理解しないといけない、
とも思う。

そうした個人個人が障害を持って集うところが施設だ。

施設は施設で、「ルール」を作らなければ、大人数の利用者のケアは難しい。

要は基本をどこに置くか、だ。
欧米タイプの「個人主義」てきなルールに振っていくか、
日本型の「管理主義」てきなルールに振っていくか、だ。

個人主義的なルールだと、本人の自己決定が優先される。
食事を食べようが食べまいが、それは本人の自己決定と取り、
それ以上のケアは行わない。

日本式に普段介助が要らない人が食べないとき、あの手この手で食べささない、
ということだ。

欧米式だとこれでOKだ。
しかし、日本式でいく場合、これで「責任」が問われるときがある。

ここが難しい。

「食べない」事を選んでいる利用者さんを目の前にして、何もしないか?
糖尿病であることがわかっている、でも食べたいといったから食べさした。

自分の身内でこれをされたら、責任追及をしてこない世の中ならいいが・・・?

もちろん「年齢」もあると思う。
50歳の糖尿病の方と、90歳で糖尿病の方、同じ入所者でもケアが変わると思う。

自由と責任、それは表裏一体と思う今日この頃です。
#最後、まとまりませんでした(笑)

自分のカルテ、見たい?

2005年05月29日 | 制度を問う!
学会で更新ができませんでした。

さて、自分のカルテを見たいですか?
今、第三者評価がはやりです。

要するに、外部の人から自分の施設がちゃんとしているか、見てもらおう、
ということです。

その第三者評価は記録物は公開が原則だ。

さて、実際医者や看護師や介護職、リハビリ技師がいったい何を記録に書いているか?
ということを知ってもらった上で、判断してもらわないと困る。

前回のBLOGでも書いた。
「お前ら、言うことを聞け!」とか、その日にあったトピックスを書く。
検査データーや、その医師の考察、看護上のトピックスが書いてある。

例えば、検査データー。
レントゲン写真の結果が書いてある。
「腫瘍の疑いあり」とか、「前回より血液検査の値が悪い」
「肋骨が肺に刺さっている」
という様な事が書いてある。

これは「生」を希望する患者さんにとって、耐えられるものなのか?

治療内容はもちろん、看護上・介護上のトピックスが書いてある。
「不眠で看護師に文句を言う」とか
「便通が悪くて介護職にあたる」とか書いてある。

見ていてバツが悪くならないだろうか?

もちろん、治る病気で、入院態度に落ち度が無いと自信のある方は見ると良い。
私はとっても見る勇気がない(笑)

やっぱり、記録物を見るという事は、
医者や看護師や介護職・リハビリ技師などからきちんと説明がなされている、
ということが前提になると思う。

その「きちんと説明できているか?」
「患者さんが納得できる説明をしているか?」
が今の制度では難しいのだ。

私が入院したら、自分の体に何が起きていて、どうすれば治るのか、
という事が知りたいのだ。経過ではない。

そうして不幸な結果になってしまったときに、
家族が記録物を見ればよい。医療内容に不信感があれば家族がすればよい。
私はそう思っている。

介護はどこまで付き合えるか?

2005年05月25日 | 支援費・自立支援法の話
人の意を汲み、それを実現するのが「介護」とする。

しかし、これにいったいどこまで人は、介護職は付き合えるのだろう?
糖尿病の人が入ってこられた。

血糖のコントロールも悪く、医療度の高い人だった。
施設は当然(これもどうかと思うのだが)、病人食に近いものがある。
これを食べておられ、おまけに売店や他の誘惑が無い。

このころは「命ばかりは助けてください」というものだった。

しかし、食事コントロールが必然的になされ、誘惑も無く、
薬もきちんと管理され、みるみる良くなった。
血糖値も良くなった。

となると、人間欲が出る。
もう一品食べたい、間食がほしい、外出してたべちゃいけんか、
これにいちいち答えていいものか?

どこまでがラインなのか?

命が惜しい、といっていたが、だんだん逆ギレされる。
「何で俺だけ!」などといった言葉が出るようになった。

さらにはお前らはなあ、などど説教めいたことも始まった。

また別の方は、
「お前らは、俺達のお金で食っているんだろう?言うことを聞け!」と言うようなこともあった。

「バカ!全然ダメだ!お前では話にならん!!」
そういわれたスタッフもあった。

「なんで私達があそこまでいわれなくちゃいけないんですか!?
私たちがいなければ、暮らせないんですよ!」
そう、涙ぐむスタッフもいた。

与えられることに慣れた福祉。
これが自立支援給付法に変わるとどうなるのだろう?

そして、それだけの根拠を示せる介護が求められるのだろう。

でも、いまのままではサービス提供者側も、利用者側も、共倒れになりそう、
そんな気がしてならない。

オムツ ゼロ

2005年05月24日 | ケアの話
数年前の話だ。
とある施設でのこと。

その施設のスタッフと談笑していると、オムツの話となった。
そのオムツの話から、オムツをどうやってはずしていくか、という話になった。

「ウチでは安楽尿器を使ってオムツを減らしているよ」
などという。

安楽尿器とは、寝たままで使える尿瓶と思っていいだろう。

それがオムツはずしとどう関係があるのか?
お部屋を見せてもらうことにした。

確かにオムツはつけていなかった。
お部屋に帰った寝たきりの方は、ズボン・パンツを下ろし、
安楽尿器をつけて寝ていたのだ。

これでオムツを減らしている?
オムツが安楽尿器になっただけだね(苦笑)

本当は、オムツだったらどうやったらポータブルトイレになるか、
ポータブルトイレができたら、どうやったら普通のトイレが使えるか?
戦略をもったケアを考える必要があるのだろう。

入所者・利用者さんに、そのチャンスをどれだけ提供できているか?

本来のオムツゼロはそういう意味合いだ。
オムツの代わりに安楽尿器を用いることではない。

「身体拘束」

ふとこの言葉が浮かんでしまった。