ふつうの暮らしとリハビリテーションとケア

もし、障害を負ってしまったらどうするか?
今までの生活は??
暮らしを支えるリハビリテーションとケアを考えます。

誰のために働くのか?

2005年05月08日 | おもてなしの話
今日は豪華2本立て(笑)
訪問理学療法士 きた さんのコメントから考えてみよう。

JRの事件から、私なりに「技術」と「信頼」について述べた。

意図するところは、JRをなぜ選んでいたか、ということである。
民鉄もあるが、そもそもイチ技術職として、運転士を信頼している。

公共交通機関の一つであって、運転技術も備えている。
安全管理も当然しているだろう。
そういった総合的な技術面での信頼だ。
#病院なんだから、医者もリハビリテーション職員も、
#ある一定の技術を持っているだろう。
#まさかミスを起こすことなんて無いだろうという信頼。

今回の事件であからさまになった、タイムスケジュール至上主義とは思わなんだ。
#まさか一単位20分で、それ以上のリハビリテーションを行わないとは思わなんだ。

そして、背後に儲け主義で、厳しい罰則があるとはしらなんだ。
#そしてほとんどの病院が赤字で、実はセラピスト一人ひとりにノルマがあるのは知らなんだ。
#実際私は病院勤務時代に一日5万円と言われていた。

構造上、似ていると思うのは私だけ・・・?

以前、新人理学療法士さんと議論になったことがある。
「誰のために働くか?」がテーマであった。

彼は「家族のために働く」と主張。
家族を食わすために働いている、と豪語する。

そうれはどうだろう?
患者さんの装具は、君は家族のために作るのか?
例えば患者さんのためにどんな装具がいいか、考え、調べ、作製する。
そんな君の勤務態度が上司の評価をよくし、給料にかえり、
結果的に家族を食わすことになるのでは?

という私の主張とまったく食い違ったままの飲み会であった。

医療・介護の仕事は、あくまで患者・利用者さんのための職業である。
それを生業としている以上、患者さん・利用者さんのために技術を磨いているはずである。
そしてそれを、多くの患者さん・利用者さんが期待している。

「あなたは私のために、どんなことができますか?」
腕自慢でもなく、できないならできないなりに、熱意を持ってあたることだ。

そして、その技術の無さを自分で認めることだ。
そこからがスタートだ。卒業はゴールではない。
自分が理学療法士である以上、ふつうの人とは違うのだ。

ただでさえ、理学療法士の養成校が増え、質が心配されている。

でも、その本質さえ見失わなければ、すばらしい職業だと、信じてやまない。





「技術」と「信頼」

2005年05月08日 | ケアの話
今日も朝からJRの事故の特集をやっていた。
JRの信頼も、地に落ちたな、なんて思っている。

JRのユーザーは、JRの何を信頼していたのだろう?
スピードか?いや、時間の正確性か??安全性か???

私が思うにこれらを含めた全て、すなわち「技術」といえないだろうか?
時間に遅れない運転技術。それを実現してなお、他者を圧倒するスピード。
そして事故の少なさ。

しかし、それが実は綱渡りのような技術だったと判明したから、大騒ぎになっている。

という所で、自分の仕事を振りかえると、利用者さんや患者さんは、
私達の何に、「信頼」をよせてくれるのでしょう?

治療技術か?それとも介護技術?看護技術?
私達の仕事は対人サービスでもあると思う。

とするなら、人としての信頼はどうなんだろう?
確かに、恋人やカミさん、友人達は信頼している。
それは友人である技術ではなく、彼らがいったい私のためにどうしてくれるか、
という信頼である。

とするなら、医療・介護技術はもちろん、その対人サービス技術も
兼ね備えていないと、本当の意味で「信頼」してもらえないのではなかろうか?

このリハビリテーションのなかの理学療法の技術でさえ、
あまたの技術手技がある。治療手技・コンセプトがある。

でも、それはいったい誰のための技術なのか?

理学療法士内で腕自慢していてもしょうがない、とも思う。

自分がその手技を突き詰めて患者さんに提供したいと思えば、
大学に行くのもよし、大学院に行くのもいいだろう。
学会や研修会に出席し、自分のテクニックを更新するするのは、
技術職として、すごく当然とも思う。

基本は患者さんのための理学療法士という職業でありたい、と願う。