脳内出血になっても、フツーのおばちゃんに戻りたい

35歳で脳内出血で倒れた「わたし」のリハビリ記録&その後

「その正体」との衝撃的出会い

2006-09-30 22:08:26 | リハビリ日記
「こんにちは~。どうですか?」
そう言って入ってきたのは、車椅子に乗った、おそらく30代半ばの男性。誰や・・・、この人・・・。あっ、後ろにもう一人誰かいる。ん? なんか学生っぽいなあ。
「僕はね、言語のリハビリを担当する、Tって言います。どう? しゃべる感じは?」
「ゆっくり話せば何とか会話できます。」と私。
「十分しゃべれてるやん。まあ、明日からゆっくりリハビリしていきましょう。」
そう言って、学生らしき人に車椅子を押されて部屋をあとにしたのでした。
へえ、あの先生が言語のリハビリを担当してくれる先生かあ。足、どうしたんやろ。怪我でもしてんのかなあ。だから今だけやろうな、車椅子は。
フツーにそう思っていました。

翌日、昨日の学生さんが「リハビリの時間です。」と部屋まで呼びに来てくれました。へ? 先生は? そう思いつつも、車椅子に腰掛け、学生さんに押してもらって言語のリハビリ室へ向かいました。言葉のリハビリということで、手足のリハビリルームとは離れた静かな階に部屋はありました。
学生さんがノックをして部屋に入ると、昨日のT先生が車椅子に座って待っていました。
「こんにちは。」お互いにそう言うと、私はテーブルをはさんでT先生の正面に座りました。

「京都の大学やったんやね。僕もや。」
「えっ、そうなんですか?」
いきなり世間話です。
「35歳ゆうたら、えらい若いのに・・・。正直めずらしいで。この歳で脳内出血は。ちなみに僕は39歳やけどな。」
へえ。私より、たった4つ上なだけなんや。なんか親近感感じるなあ。学校も京都やし・・・。

という具合に、いろーんな、ホントにいろんな世間話をしました。

その話の中でわかった衝撃的な事実・・・。
T先生は、大学時代に京都から姫路(厳密にいうと神崎郡)の実家へ帰る際、友人のバイクの後ろに乗っていて事故に遭い、その結果脊椎損傷を負い、下肢(つまり両足)と両手が不自由になってしまったのです。車椅子に乗っていたのはそのせいだったんです。
もちろん、障害者手帳も交付されているとのこと。
言葉は悪いかもしれないけれど、障害を持っていながら、リハビリの先生をしているなんて!
すごい衝撃でした。話によると、事故直後、この石川病院に運ばれ、応急処置をした後、加西の大きな病院で手術をしたそうです。その後、4年間のリハビリの後、言語聴覚士の資格を取るために専門学校に通い、29歳のときにこの石川病院に言語聴覚士として就職したということです。

私なんてしれてる・・・。これが正直な気持ちでした。
T先生のように、ひどい状態でも、長い年月をかけて頑張って社会復帰できたわけやから、私にだってできるはず。そう思いました。本当にそう思いました。
入院してから、はじめて前向きになれた瞬間でした。

こうやって、この日の言語のリハビリは約30分間の世間話で終わりました。
これホンマにリハビリなん?

どうなりたい?

2006-09-29 13:59:18 | リハビリ日記
入院初日の問診の際に看護士さんに聞かれたことがコレ。 ?????
どういうこと?
つまり、退院するときにはどこまでよくなっていたいかということ。
この時私は、
「フツーの人と同じようになりたい」
と、即座に答えました。
普通ってどんなふう? と看護士さん。
そりゃあ、フツーはフツーですよ、と思ったものの
「歩いたりしても他の人が見ておかしいと思わないように・・・」と私。
じつはこの時、私はこの「脳内出血」という病気がどんなものかわかっていなかったのです。
意識が戻ったときに、私はどうなったかという説明は簡単に聞きました。
左の脳の血管が破裂して出血し、その結果脳の細胞にダメージを与え、右半身が不自由になっています、と。だから、これからは麻痺している右の機能を取り戻すためにリハビリをしますと。
リハビリをすれば、100%もとの体に戻れると思っていました。シャキシャキ歩いて、ダーッと走って、ペラペラしゃべって・・・。全部できるように、元通りになるものだと思っていたのです。
「フツーになりたい」という私の言葉を、看護士さんは問診表にスラスラっと書き込みました。これは後でリハビリの先生が、どういうリハビリを行っていくかの参考資料となるものでした。

午後6時をまわった頃でしょうか?
理学療法士(足のリハビリ担当)・作業療法士(手のリハビリ担当)の先生が挨拶に来られました。明日から担当します、ヨロシクと。
その後、車椅子に乗り、白衣を着た男性が「こんにちは。どうですか?」と部屋に入って来たのです。
誰? 誰、誰? この人は誰? 私知らないよ。しかも車椅子に乗ってるし。患者さんかなあ・・・。

さて、その正体は・・・

ちょっと一服・・・

2006-09-29 11:04:06 | ひとことメモ
ずいぶんと多くの方に、私のような者のブログを読んでいただき、本当にありがたく思っています。
感謝、感謝です。

じつは、いつも会社の昼休みに更新をしていることが多いんです。
今は昼じゃねーぞって?
ちょっと時間が空いたので・・・(内緒っ)

ありがたいことに、小さい職場のわりには、1人1台のパソコンが与えられていて、(まあ、業務上必要なわけで)常時インターネット接続可、という恵まれた環境であります。

ということで、今日はまず、読んで下さっている方にお礼をと思い、更新しました。
これからもよろしくお願いしますね。

やったろうやん!

2006-09-28 14:10:52 | リハビリ日記
10/4 転院の日は朝から雨でした。病室を後にするとき、ずっと担当だった看護士さんや介護士さんが「あせらずに、ゆっくり頑張ってね。あなたは若いから、きっとよくなる。大丈夫よ。」と。
私の頭の中では、「若いからって何が大丈夫なんだ???」という気持ちと、約2週間だったけれど、本当にお世話になりましたという感謝の気持ちと、早く地元へ帰りたいという気持ちが入り混じり、とーっても複雑な心境でした。

雨だったので、病院の玄関先まで父が車を横付けしてくれました。父の車は、日産セレナで背が高く、乗るのにひと苦労。お尻を先に移動させ、そして足をあとからよっこらしょと手で持ち上げる。

2週間ぶりの外の景色でした。入院してからずっとベッドとリハビリルームの往復だったので・・・。外はもう肌寒い季節になってました。入院した日は暑くて、半そで着てたのにねえ、なんて考えながら、名神高速・阪神高速へ。阪神高速神戸線の京橋PAでお昼を食べ、午後1時頃、石川病院へ到着。看護士さんが車椅子を持って迎えに来てくれました。血液検査など、いくつかの検査をしてから病室へと向かいました。
部屋は個室。南向きの日当たりのいい部屋でした。
両親は、少しでも早く転院できるように、個室でもいいから空いた時点で転院させて下さいとお願いしていたようです。で、10/4に退院予定の人がいたので、転院はその日になったというわけです。そして、後日、大部屋(6人部屋)が空いたらそちらへ移るということになっていました。入院費だけでもかかるのに、その上個室なんてぇぇぇ! ごめんなさぁ~い!

そして、看護主任さんともう一人看護士さんが部屋にやって来ました。少し問診をするとのこと。
名前やら住所やら年齢やら・・・そんなん言えて当たり前やん、と思うことも聞かれましたが、これは言葉も含めて、どの程度の症状かを見るためだったようです。
そして、もう一人の看護婦さんが「何か困ったことないですか?」と聞いて下さったので即座に「髪の毛を洗ってほしいんです」とお願いしました。
京都の病院では、お風呂の曜日が病棟ごとに決まっていて、私の場合、部屋を転々としたため、一般病室のときに1度あらってもらったきり、1週間ぐらい洗ってもらってませんでした。
で、洗髪の準備をしているところへ主治医の先生登場。簡単に挨拶をしたあと、私に「右手で握手してごらん」そう言って自分の右手を差し出しました。私は・・・握り返すことができませんでした。指が曲がらない! ピクリともしない!
主治医の先生が両親と話しているのが聞こえてきました。
「どうでしょうか」 「おそらく左手だけの生活になるでしょうね。右手はもう無理でしょう。」
ぬゎ~にぃ~!!! なんで今そんなことが分かるねん!!
そこまで言うならやったろうやん!! 右手を動かしてみせるでぇ~。見ときやぁ。と、気が強い(?)私は思ったのでした。

リハビリの方針は・・・

2006-09-27 13:50:20 | リハビリ日記
日常生活で困ったことといえば、服やズボンを脱いだりはいたりすること。左手しか動かないので、ズボンを履くのが苦労しましたね。左手を使って、右側を上げないといけないんですから。
ボタンも留められないので、パジャマは上からスポッと被れるトレーナー状のものを持ってきてもらいました。

さてさて、ある日、リハビリの先生方と私、そして私の両親を交えて、今後のリハビリの方針を話し合うミーティングが行われました。なぜダンナがここに居ないか・・・。それは、平日だから仕事に行ってましたのです。ハイ。ちなみに父はすでに定年退職をして、悠々自適な生活をしておりましたと・・・。
で、足のほうは、やはり装具を作りましょう、ということ。手は、左手で何でもできるように訓練します、ということ。言葉は、おおかた問題なし。
とその時「じつは、自宅近くの病院へ転院させたいのですが・・・」と父。
そりゃそうだ。京都まで片道約2時間半、高速代だってバカにはならないですから。今度は家族のほうが倒れてしまう・・・。
「それのほうがいいと思いますよ。自宅の近くなら毎日とまではいかなくても、ご家族の方が病院に来て顔を見せてあげられますからね。ご本人もご家族の方が見えれば、少しでも気分も楽だし、リハビリも頑張れると思いますよ。転院先が決まればご連絡くださいね。こちらでのリハビリの方針などを記入した紹介状をお渡ししますので。それまでは、こちらでしっかりとリハビリのお手伝いをさせていただきます。」との言葉。
というわけで、とりあえず転院することは決まったけれど、いつ・どの病院へ?
そこで登場したのが、両親が持ってきたパンフレット。5件くらいありました。考えてみると、これだけの件数の病院を両親は私のために走り回ってくれたのかと思うと、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
私の自宅は兵庫県加古川市、両親の自宅は姫路市。
で、結局、加古川と姫路の中間ということで、姫路市別所町にある、石川病院にしようということになったのです。リハビリルームが広く設備も整っていて、言語聴覚士の先生がいるということ。また、姫路循環器センターという大きな病院から、リハビリのためにこの病院へ転院してくる人が多いこと。これがこの病院に決めた理由でした。
また、それぞれの家の中間というのは理由の1つですが、やはり、それぞれの自宅の近くの病院だと知り合いに出会うこともあります。そのときに、嫁が、娘が、しかも脳内出血で倒れたなんて言うのが嫌だったというのも正直なところです。
で翌日、両親は石川病院の院長先生に会い、転院の承諾を貰ってきてくれました。
「なんでこんなに若いのに・・・」院長先生がおっしゃったそうです。
転院は10月4日と決定。それに向けて、車椅子から自動車へ乗り移る練習などもリハビリでしました。

この石川病院で、私にとって衝撃的な出会いがあったのです。

司会は誰がやったんやろ?

2006-09-26 22:22:49 | リハビリ日記
話は多少前後しますが、救急車で運ばれて集中治療室でベッドの上にいる時、ふわふわする意識の中で考えてたのがコレ。
「今何時かなあ。ずいぶん寝てた気がするから、演奏会はとっくに始まってるんやろなあ。そういや、司会は誰がしたんやろ? 原稿は私が持ってるでぇ。」
ってな具合。
その反面、「私、手術するんかなあ。死ぬんとちゃうやろか?」なんてことも考えてたりしました。
どうやら、司会は楽団の指揮者の人が司会も一緒にやって下さったようです。
また、手術はしませんでした。幸い、点滴による止血剤のおかげで、脳の出血は大きくならず、手術は免れました。

さて、昨日の続きです。
流動食が始まった翌日から、導尿の管が取れ、ベッド上でのリハビリが始まりました。看護士さんに手伝ってもらい、車椅子に乗り換えて少し移動させてもらえるようになりました。
リハビリは、まず、自分で起き上がること。そして、手足のマッサージ、ゆっくりと曲げ伸ばし。自分ではできないので、リハビリの先生がやってくれます。
言葉のほうも、ゆっくりと物の名前を言うことから始まりました。脳出血などで倒れると、頭では「これはリンゴ」とわかっていても、言葉に出てこないという症状が出る人があるそうです。

そして3日後、今度は回復期病棟に移されました。
回復期病棟とは、ある程度病状が落ち着き、今度はリハビリが中心の患者さんばかりがいる病棟です。1階はすべてリハビリルーム。いろんなリハビリの機械が置いてあります。
2階から上が病室で、私は4人部屋に入りました。この病室通路が広く、車椅子で移動しやすくなっています。またベッドの高さも低く、車椅子に乗り降りしやすいようになっていました。そして、食事は各部屋から出て、広い食堂のようなところでみんなで食べます。部屋で食べると移動をしないので、体を動かすことが減るため、少しでも体を動かせるようにという配慮です。もちろん、患者同士のコミュニケーションのためでもあります。
この病棟に移ってから、1階のリハビリルームで本格的なリハビリが始まりました。
まず、何かにつかまって立つこと。左手でお箸を持つこと。本を読むこと。
立つことがこんなに大変なことだとは・・・。
毎日、同じことを何度も何度も繰り返すのです。

家族はみんな兵庫へ帰りました。仕事がありますもん。

で、次の日曜日、両親が、兵庫の自宅近くの病院のパンプレットを幾つか持ってやって来ました。

「あいうえお」の表

2006-09-25 22:04:55 | リハビリ日記
翌日、集中治療室に再びやって来た妹が、おもむろに何かを取り出しました。
「あいうえお」表です。つまり、50音すべてが表になったものです。もちろん濁点(゛)や半濁点(゜)・数字も書かれているわけです。
どうやら、前の日に私に何やら話しかけたところ、答えてはいるが何をしゃべっているのかわからず、意思疎通ができなかったということらしい。そこで妹はこの50音表を思いついたらしいのです。言いたいことがあれば、字を指で指し示すということです。
ただ、次の日には、何とか言葉も少しは話せるようになり、一般病室へと移されたのでした。
せっかく作ってくれたのに・・・。ゴメンね。

で一般病室へ移ったものの、ナースステーション横の、重病患者ばかりの部屋。もちろん自分で動くことなどできるわけがなく、ずっとベッドの上。意識がもうろうとしているので、眠ったり目覚めたりの繰り返し。
だから、楽団のメンバーがお見舞いに来てくれたらしいのだけれども、よく覚えてないのです・・・。ほんとーにごめんなさい。

で、翌日ぐらい(自分ではっきり覚えていない)には、ナースステーションから離れた、確か6人部屋かな、そこに移されました。まだこの頃は絶食に点滴、トイレには行けないので管が付いてる状態です。
その部屋に移った日の夜から流動食が始まりました。うすーく味の付いた重湯(おもゆ)。これのなんとおいしかったこと!
以前なら、こんなに薄味の、しかも重湯の味をおいしいと感じることはまずなかったでしょうね。
左手でスプーンを持ち、口へ持っていく。右の口の端からこぼれる。
こぼれていることを、自分では感じない、わからない。
だから、ずっとタオルは手放せませんでしたね。

こうやって、私の入院生活&リハビリ生活が始まりました。

ここで問題になってきたのは・・・
ここは京都。自宅は兵庫。ダンナの勤め先ももちろん兵庫。
そんなにしょっちゅう来れないよ~、ということ。
診断書には「3ヶ月程度の入院・リハビリを必要とする」と書かれている。
さあ、どうする・・・

続く


「なんで薬飲ましてへんのや~!」

2006-09-24 21:51:27 | リハビリ日記
これが、救急車で運び込まれた病院の先生の最初の言葉らしいです。主人が「ずいぶんとキツイこと言われたで~」と後に語っていました。
つまり、どうして血圧の薬を飲ませていなかったのか、ということです。私は見るからに太っていて、血圧が高くて倒れたのだろうというのは、先生の目には一目瞭然だったようです。
さて、私が運び込まれたのは、名神高速の京都東I.Cを降りてすぐのところにある、洛和会音羽病院という大変大きな病院でした。ホールからは5分くらいのところでしょうか。当然ながら、運ばれた日はそんなこと覚えてもいません。
救急車の中で、救急隊員の人が「名前は? 年齢は? 生年月日は?」と話しかけていて、それに一生懸命答えようとしているのに、呂律がまわっていないことは覚えています。これは、私の意識がどの程度かを見るためだったようです。
そうそう、倒れたとき、楽団のメンバーの中に、看護士さんと介護士さんがいらっしゃったらしく、すぐにその場で処置をしてくださったそうです。その看護士さんが、主人が兵庫の自宅から到着するまでの間、ずっと病院で待っていて下さったようです。本当にありがたい偶然、というかホントについていました。
脳梗塞や脳卒中は、発症してからどれだけ早く処置をするかで、あとの後遺症が違ってくるということです。私は本当にラッキーでした。
そしてMRIやCTを撮り、集中治療室へ。この辺りはほとんど記憶がない!!
気がついたら、どうやら酸素吸入のマスクを付け、ベッドのまわりを、主人と子供、私の両親と妹、主人の母が囲んでいました。

結論から言うと・・・
診断書には「高血圧による左被殻の脳出血」というものでした。

長くなりそうなので、続きは次回に・・・
スイマセン!!


倒れた日

2006-09-23 22:44:15 | リハビリ日記
私が倒れたのは、2004年9月19日。ちょうど今から2年前のことです。
その日私は、京都は山科区のとあるホールにいました。私の友人が主宰する楽団の演奏会があり、その司会をすることになっていました。
もともと私自身、中学から楽器をはじめ、そのままずーっと大学・社会人になっても続けていました。で、京都の大学に通っていたころに知り合った友人の楽団の司会を引き受けていた、というわけです。
で、その日は朝6時半ごろに兵庫の自宅を出発し、9時にはホールに到着、10時からリハーサルが始まりました。途中11時ころに休憩をはさみ、再びリハーサルが始まりました。私は舞台ソデの陰マイクのところに居ました。陰マイクとは、わかりやすくいえば・・・よく音楽界などで、司会者は姿を見せずに「本日は○○演奏会にお越しいただきありがとうございます」ってアナウンスするやつです。
で、その陰マイクのところで座っていると、なんだかじわじわっと右手が冷たくなってきたんです。まだ9月だったので、ホールは結構空調がきいていました。きっとそのせいで寒いんだな、と思ってました。
でも、なんだかおかしい。冷たいというより、感覚がないなあ。あれ、腕が上がらないぞ、となってきたわけです。それでもまだ、疲れているせいだくらいに考えていました。なにせ、朝が早かったわけですから・・・。
ところが、次に陰アナウンスをしようと思い、陰マイクのスイッチを入れようとすると・・・やっぱり腕が上がらない。 ????? という感じ。なぜ、なぜ?
仕方がないので、左手で右手の手首をつかみ、よっこらしょという感じで陰マイクのスイッチを入れました。「ただいまより15分間の休憩をいただきます。」とアナウンスをしました。その時はまだしゃべることができていました。
リハーサルがその後すぐに終了し、友人である団長が「メンバーに紹介をするから」と言って私をステージに呼びました。その時・・・足に力が入らない! なんとかゆっくりと歩きステージまで行ったものの、今度はうまくしゃべれない。自分でもどうしてなのかわからない。「よろしく」と言ったぐらいですぐに舞台ソデに戻り椅子に座りました。そしてメンバーは昼食へと。そしてステージには誰もいなくなった。
さて、私も食事に行こうと立ち上がったら・・・倒れた! 右側を下にして。立ち上がろうとするけれど、立ち上がれない。ここでもまだ、????? くらいのもの。楽屋で休めばよくなるよ、くらいの考え。
ところが何度立ち上がろうとしてもできない。
そこへ、舞台へ練習をしに戻ってきたメンバーがいたのです。そのとき、叫ぼうと思っても声が出ないことに気づいたのです。誰も私がここで倒れていることなんて知りません。仕方がないので、体の右側を引きずりながら反響版のところまで這って行きました。そして、動く左手でドンドンと反響版を叩き、声になっていたのかなっていなかったのかわからないけれど「助けて!!」と叫びました。
この瞬間、床に倒れこみ、意識が途切れ途切れになりました。
もうろうとした意識の中で、団長が携帯電話で主人に連絡してくれていたのをぼんやりと覚えています。

ブログデビュー!!

2006-09-22 18:35:19 | リハビリ日記
ついにブログデビューです。(パチパチ)
なぜブログを開設したか・・・。

私は、2004年9月19日、兵庫県民なのに、なぜだか京都というところで、脳内出血で倒れました。35歳のときです。
救急車ですぐに病院に運ばれ、集中治療室へ。
気がついたときには、右半身が動かない・・・。えっ、って感じです。

私の新たなチャレンジはここからスタートしました。

私みたいに、ごくごくその辺にいる人が脳内出血で倒れ、その後どうやって現在に至ったか・・・。
つまらない独り言かもしれませんが、よろしくお願いします、ね。

今の状態・・・身障者手帳6級を交付されています。
       右半身はしびれたまま。できないこと多数。
       でも仕事してます。