舞蛙堂本舗リターンズ!~スタジオMダンスアカデミーblog

ダンス(フラ・ベリーダンス他)と読書と旅行とカエル三昧の日々を綴る徒然日記。

マミとラナのさむいあさ

2007-11-19 23:02:44 | 徒然話
今日のタイトルはもちろん、カエラー悶絶必至の超フェチ向け絵本・『バムとケロのさむいあさ』からきてます。
この絵本のことを語り出すとキリがなくなりますから、またの機会にゆっくりぶっちゃけるといたしまして。

いやマジ、寒い朝でしたねえ!!
っていうより一日中寒かった。日光では雪が降ったという噂もあります。
吸い込んだ空気は冷たいし、衣服のわずかな隙間をぬって冷気が入り込んでくるし、ほんとにこれで11月中旬か!?という寒さでした。

そんなわけで、今日の夜のレッスンの際には冬用に買っておいたコートが初登場することに。
行き先は昨日書いた日光市のレッスン(最終回)です。
凄まじい寒さだったにもかかわらず、それにめげずに来てくださった方がたくさんいらっしゃいました♪
おどろくべきことに皆勤賞の方もかなり多かったそうで、嬉しかったですねえ。

寒さにも負けなかった生徒さんたちはさすがにとてもテンションが高くて、何を喋っても興味を持ってもらえるのがうれしくて、つい曲のバックグラウンドの神話とかまで解説してしまいました。

今日は広報の方が取材に見えてました。
その記事と一緒に、1月号の広報で次回の募集が告知されるそうです。
次回のスタートは来年2月後半!!今度は暖房の効く施設を利用してくださるそうで、今日みたいな寒い日でも無問題ですね♪
今日のレッスン終了後に「じゃあまた2月に!」と言ってお別れしたメンバーの方もいらっしゃいました。またお会いできるのが楽しみですね♪

ただし、今回もそうでしたが次回も応募が殺到することが予想されます。
なにしろ受講者数が当初の定員の倍になったにもかかわらず、入れなかった方がそのさらに数倍いらしたそうですから。
告知には募集開始日も載ると思いますので、できるだけお早めに申し込まれることをおすすめいたします!!!

レッスン最終回

2007-11-18 23:52:11 | ダンス話&スタジオM
日光市の6回限定フラレッスンは、いよいよ明日最終回を迎えます!!
このところめっきり寒くなってきた夜の体育館に熱心にお通いくださった皆様、どうもありがとうございました♪
「本物のフラ」とは何なのか、限られた回数内でできる限りお伝えするべく頑張ってまいりましたが、いかがでしたか?お楽しみいただけたでしょうか?

私たちから見ると、回を追うごとに生徒さんのテンションが変わってきて、最近ではすごく歌詞解説なども興味を持って聞いていただけるようになり、それが嬉しかったですね。

フラにはたんなる運動の枠を超えた奥深い楽しみ方がたくさんありまして、歌詞の意味や背景を知るのもそういった楽しみのうちのひとつです。
そういうことに思いを馳せるようになると、それまで漠然と見ていたハワイの写真の風景や、何となく通り過ぎてしまったハワイ観光などの記憶が、俄然生き生きと感じられてくるのではないでしょうか。
また今後、本やテレビでハワイに接したときの印象もだいぶ変わるのではないかと思います。

...な~んて、まるでもうお終いのように書いちゃってますが、実はこのフラ講座、続編が企画されてます。
うれしいことにご好評にお応えして第二弾が開催されることになったのです!!
改めてメンバーを募るそうですので、詳細が決まればまた広報などで告知されることでしょう。


一方、うちのスタジオは今週から新曲に入ったところです。
じつは衣装もおそろしく素敵なのを計画中で、曲も振付けもその素敵さに負けないよう気合いを入れた出来栄えです。
詳しくは企業秘密ですから、既にご存じの皆さんはくれぐれもバラしたりなさいませぬよう(笑)。

学長懇話会

2007-11-17 23:23:33 | Memoirs of 東京女子大
今日、東京女子大学現学長・湊 晶子先生を囲んでの懇話会がおこなわれました。

湊先生はちょうど私が入学した年に学長に就任され、卒業の際は壇上で先生から直接卒業証書をいただく栄誉に浴することができました。
その学長先生が今回、わざわざ宇都宮までお越しくださると伺い、それ以来数カ月間ずっとこの日を心待ちにしていたのです。

会場は宇都宮グランドホテルの2階で、おりしも美しく色づきはじめた庭園が一望に見渡せる素晴らしいお部屋でした。
先日の同窓会支部会でお会いした先輩方とご挨拶しつつ、籤で決まった席に行ってみるとなんと!!!一番前でしかも学長先生の正面の場所です!!!
学生時代もカブリツキが好きだった私ですが、こ、これはいくらなんでも緊張する~~~

お隣は本部からいらした理事の方でこれまたドキドキです。
しかし、そのさらにお隣は2003年卒業の方で、今回の出席者の中ではかなり近い先輩です。
というより21世紀に入ってからの卒業生が私含め3人しかいません。
'90年代の卒業生にいたっては、一人もお見えでありません。きっとそのあたりの年代の方は、仕事にしろ家庭にしろ忙しかったり、郷里を離れていたりすることが多いでしょうからねえ。

なにしろうちの大学の就職率は98%で、女子学生の就職氷河期といわれていた時代さえこの水準を保っていたそうですから、20~30代の卒業生が皆さんお忙しかったとしても不思議はありません。
かくいう私も、本当はレッスンがあったところを、生徒さんに平謝りしてこの懇話会に出席させていただいたのです。だから前半のクラスに母マミちゃんしか参上できなかったのでした。ごめんなさい~~。この埋め合わせは来週必ず!!!

時間になり、鮮やかなエメラルドグリーンのジャケットがお似合いの学長先生がご到着になりました。
うわあ、懐かしい!!!それに全然お変わりない!!!と喜んでいるうちに会が始まり、まずは校歌斉唱から始まりました。

...って、ええっ!?校歌!?!?
ど、どどどどうしましょう。ワタクシ、校歌なんてウロ覚えです。なのに司会進行の方は「じゃ、アカペラで」などとおっしゃるし、両隣の先輩方は確固とした声で歌っておられるし、冷や汗をかく思いがしました。
去年卒業式をやったばかりで一番最近歌ったはずの私なのに、なんでこんなに覚えてないんでしょう。そりは曲が難しいからです。
あの山田耕筰氏が作曲したという東京女子大学校歌は、特に前半部分は唖然とするほど難しく、私ごときの楽譜読解力では到底太刀打ちできぬ代物です。いつも必死にオタマジャクシを追ってるうちに曲が終わってしまい、覚える領域に届かないまま、大学の4年間が終わってしまったのでした。
しかし私にとって東京女子大に限っては愛着ある母校ゆえ、今後も同窓会などに出席すると思われ、今からでも真面目に覚えた方がよさそうです。

続いて、湊先生のスピーチが始まりました。
先生のお話は在学中から何度も聞いておりますが、いつも先生の高い志とそれを実現できる行動力の持ち主でいらっしゃることがうかがえるスピーチです。

その一端がわかるエピソードが、一年次のカンファレンスでうかがった「肌色」のお話です。
湊先生はかつて、クレヨンか色鉛筆などを使いながら日本語でどの色を何と呼ぶか黒人女性にご説明なさったことがあるそうです。
そして「skin color=肌色」とおっしゃったとき、その色とご自分の肌の色を見比べる黒人女性の姿をご覧になり、この名前の問題に即座に気づかれた先生は、すぐ絵具の会社にそれを訴えられました。
先生の再三の訴えの甲斐あって、いまではほとんどのクレヨンや色鉛筆で「肌色」ではなく「ペールオレンジ」あるいは「うすだいだい」の名前が定着していますね。

私はこの件をだいぶ昔にニュースで耳にしてとても印象に残っていたので、それが自分の大学の学長先生だと知ったときは心底驚いて、こんな縁もあるものかと思ったものです。
なぜなら私も子供の頃ハワイの人と一緒に絵を描いていて、日本から持参した色鉛筆ではハワイの人の肌を塗る色がなくて困ったことがあるからです。
しかし私は、困っただけで終わってしまいました。そこから一歩先に進んで「はだいろ」という名前の持つ矛盾に気づくことができなかった。
そういうわけで、私は湊先生をいたく尊敬しているのです。
この方が史上初の「東京女子大出身の学長先生」だというのですから、いいかげん自分の母校に愛着も湧くというものです。

だから、そんな学長先生がスピーチの最中に私の名前をお呼びになり「'06年卒業の福田さん...あぁ、総代の!!覚えてますよ」とおっしゃったときは、あまりの光栄に悶えました。
お隣の理事の方もこれには驚いて、「印象深いお顔なのかしらねえ」とおっしゃいました(※ちなみにその時も背中からコウモリの羽を生やしていました)が、たぶん違います。理由はほかにあります。


覚えていていただけたのが嬉しくて、そのあと一人ずつ自己紹介した際に、私が東京女子大に入った経緯を告白することにいたしました。

ダンス屋一家に生まれながら、どういうわけか小さい頃から「私は大学に行く!!それも4年制大学に!!!」という謎の確信を持っていた私。
ではどの大学に?となると不思議とピンと来ないまま高校生になったある日、教室の後ろの壁に貼ってあったポスターに書かれた「東京女子大学」の文字を見た瞬間、「あーーーーっ!!!」とインスピレーションが降ったのです。

...というくだりをお話ししたら、皆さんから「おお~~~」という声が出てうれしかったですね(笑)。

その後、滑り止めも受けずに(だってここしかあり得ないという大学を見つけたのになぜ滑り止めを受けなければならないのでしょう)受験して合格し、4年間は好きなことばかり学ばせてもらえてひたすら楽しかったという話の後、総代になってインドの民族衣装で壇上にあがったというオチで終わりました。
学長先生が覚えていてくださったのは、ひとえにこの人騒がせな扮装のせいではないかと思われます。

こういった趣旨の話をしたら、少なからぬ先輩方から「パワーを貰いましたよ」「パンチのあるお話だった」というご感想をいただきました。

先輩方を見渡しても、自分はこの大学の卒業生としてそうとう異色なキャラクターだという気がヒシヒシして参りますが(つーか実は在学中からそうだった)、中学の頃のような居心地の悪さは感じません。むしろお話を伺っていると興味の対象などに共通する部分がたくさんあって、私も見てくれはこんなですが、うれしいことに本質においては近しいものがあるようです。

そういえば、大先輩の瀬戸内寂聴さんも在学中に「私とはちょっと違う」と思ったとおっしゃってましたっけ。それでも『源氏物語』の解説などを読めば、やっぱりこの方も東女生だよなあ、と感じられます。

スタジオM語録

2007-11-16 23:51:43 | ダンス話&スタジオM
うちのスタジオには(つーか私やマミちゃんが勝手に使っているんですが)、スタジオM語録とでもいうべきものが存在します。

そして昨日めでたく(は、ないか)新たに語録に加わったのが「光源氏」です。

光源氏

手が早い

踊りのタイミングが早すぎること、またはそういう人

...という、まわりくどくて最早便利なのか不便なのかわからぬ新語です。
現在私が瀬戸内先輩の『源氏物語』にハマりきっていることからこの語が登場しました。

でも、これを形容するスタジオM用語ができたのはつい昨日だけど、踊りのタイミングが早すぎることはずっと前からの懸念材料であります。

たとえばフラの場合、足のステップはリズムにあわせて踏む一方で、手の動きは歌われている意味内容を表現します。
優れたダンサーになると、今初めて聴いた曲でもその場で踊れるといわれています(ただ、どれだけハワイ語に秀でていても、聴いたその場では歌詞のバックストーリーまではリサーチできませんから、正式な意味で「踊る」ことはできないのですけどね)。
つまり厳密には「手で表した後から歌詞がついてくる」ということはあり得ないのです。

一方ベリーダンスも、本来なら即興演奏にあわせて踊るものです。ダンサーは音楽を聴きながら当意即妙の動きをし、奏者もダンサーの様子を見つつ演奏を展開していくわけです。
だからたとえ生演奏じゃなくても、音が聞こえてから動くことが望ましいです。

それなのに、次にくる音が分かりきっていて振り付けが決められていると、つい先へ先へと進みたくなっちゃいがちなんですよね。

確かに世の中にはどんどん早めにやってった方がいいこともありますが、うちでやってる踊り(フラやベリーダンス)に関してその概念はあてはまりません。
リズムをいっぱいいっぱいに取って音が聞こえてから反応した方が、遥かに優雅で美しくなるたぐいの踊りです。

光源氏は音楽や芸術の才能に優れているそうですが、踊り方が光源氏なのはいただけませんね。
あ、女癖が光源氏なのも十分いただけないか(笑)。

くだんの『源氏』は序盤のヤマ、葵の上が六条の御息所の生き霊にとり殺されるあたりまで読みました。
しかし六条さん、若い頃に読んだときはひたすらおっかない姉さんだったけれど、今読むとけっこう魅力のあるキャラクターです。
高貴な生まれの人らしく高い教養やセンスを持ち、光源氏を激しく愛しているけれど高い矜持との間で揺れ動き、祭りの日の葵の上との接触事件で矜りをいたく傷つけられて身を引こうとするも、光源氏に対する愛憎が深すぎて生き霊となって葵の上に取り憑くなんて、とても素敵です。
だから紫式部さんも、光源氏との詩歌のやり取りをたびたび登場させることによって、彼女の人間としての魅力やたしなみの深さを再三アピールしてるんでしょうね。


巻末におさめられた瀬戸内さんご自身による解説を読むと、東京女子大生っぽさが随所に現れていてうれしいです。
とくに「作者は紫式部一人ではなく、複数かもしれないという説もあるのは、これだけの壮大華麗な傑作が、到底一人の女性の手では書ける筈がなかろうという、男性研究者の想像と仮説から出たもので、根拠はない。」という一文!!!思わず快哉を叫びましたね。
男性研究者」とわざわざ特定しているところが、なんとも女子大の先輩らしいです。そういうあたり、私が自分の大学にいたく愛着を持っている理由のひとつですね。

早乙女太一『蒼伝説』

2007-11-15 23:56:32 | 徒然話
今日、教育会館で行われた早乙女太一君の公演に行って参りました。

早乙女太一君は、稀代の美貌の若手女形役者で、北野武監督作品に出演したりして徐々に注目を集め、最近ではテレビなどでもよく取り上げられています。

ここで早乙女君をご存じの方はお思いになることでしょう。「私の好みとしちゃ若すぎやしないか」と。
いつも公言しているように、私にとって理想の男性は20歳以上年上からで出来ればふたまわりは離れていることが望ましく、40歳未満は男性の範囲外です。
なのに早乙女君ときたら16歳。男性としてはいくらなんでも若すぎです。

しかしこの場合、そんなことはどうだってよいのです。私は早乙女君に惚れていますが、男性としてではありません。
目当てはあくまでも女形の早乙女君なのです。
だから最愛のバーレスク・クィーン、ディータ・ヴォン・ティース様に懸想する気持と同じなんですね。

ディータ様も早乙女君も、生まれもっての美貌だけではなく「完璧に作られ演出された美しさ」である点が素晴らしいです。
私の好きな言葉に「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」という格言があるのですが、まさにそれを体現しているお二人といえましょう。
特に早乙女君は素顔は普通の少年なのに卓越した自己演出によって妖艶なる女形に変身する手腕がお見事の一言です。

今回の舞台は二部構成でした。
第一部は私の大好きな大衆演劇のお芝居(ベタな筋書き、クサイ演技、大袈裟なBGMなどがたまりません)で、容赦なく殺りくする殺陣シーン(悪役に改心の余地なし)なども時代劇愛好者としては大いに楽しめましたが、やはり本命は早乙女君が女形を演じる第二部の舞踊ショーでした。

衣装も照明もかなりセンス良い色彩で配され、バックダンサーが舞い踊る中、女形の早乙女君が華麗に登場!!!
もう、めっさ鳥肌立ちました。
う、ううう美しい。美しすぎる。もはや男にも女にも見えません。美しすぎて人間らしさを超越しています。

しかしその美しさは、彼の天性の容貌でもなければ、ましてや若さでもありません。
終演後に「やっぱり若さだね!」と言い合ってたお姉さんがたがいらっしゃったけど、断じて違いますよ。よほど話に割り込んで突っ込もうかと思いました(笑)。
あれはひとえに早乙女君の魅せ方の技術です。

まず化粧、ご本人が自ら施しているというそれは、どの表情がどういう効果を及ぼすか知り尽くしている施し方です。
まるで描かれた絵のように、あるいは人形のように、高い完成度でもって創られた美貌です。

そして踊り!!!
早乙女君の踊りの、なんと完璧なことでしょうか。
若さを賞賛するのなら、その若さそのものではなく、その若さにしてここまでの技術を会得し、自分の見せ方を知り尽くしていることこそ驚嘆に値します。
なおかつ真に素晴らしいのは、隅々まで計算されきった踊りをしつつも、限りなく自然な演技によって、これが計算されたものであることが巧みに隠されているのです。
早乙女君の踊り方はかなり腰を使っているはずですが、それすら見る人が見なければそうと気づかれません。
だから、上辺しか見ていなければ「これは若さだ」と思い込まされてしまっても不思議はありません。


ああ、早乙女君の踊りに比べたら、私の踊りのなんと稚拙なことよ。
「すごく腰が揺れている」と人から言われてしまう、己の踊り方の浅さよ。
早乙女君と同じく生まれたときから踊り手として育ち、23年も踊っていながら、自分のレベルの未熟さを痛感しました。

しかし、そのことが私には嬉しいです。
自分が十分なレベルに達していないと痛感することは、自分にはまだまだこれからも向上する余地があると実感できるということですから。
こんなに楽しいことはないですよ。

やはり、踊り手はさまざまな舞台を見ることが不可欠です。
それもものすごく完成度の高い舞台や優れた踊り手を見て、見る目を養い、刺激を受けまくるのがよろしいかと思います。

「フラノート」の是非

2007-11-14 23:38:10 | ダンス話&スタジオM
フラを書いて覚えるという人の数はそうとう多いらしく、フラ雑誌には専用の枠が印刷された「フラ用ノート」の広告まで出ています。
実際、うちのレッスン後も一生懸命振りをノートに書いている人がたくさんいらっしゃいますし、ハワイの先生までレッスン中に「ノートを取る時間」を設ける人が随分いると聞きます。


しかしそもそもフラをノートに書いて覚える行為は是なのか?非なのか??


一つだけいえるのは、マミちゃんが所属していた30数年前のハワイのフラスタジオでは、振付けのノートなど誰一人取っていなかったということです。
そして私も、今まで覚えてきた曲は何百曲だか知れませんが、ただの一曲も書いて覚えたことはありません。

つまり、少なくとも書いて覚えなければいけないわけではありません
もし同じクラスの人がみんなせっせとノートを取っていたからといって、強いて自分も書く必要はないのですね。覚え方は人それぞれでオッケーだと思います。

だからもちろん書いてもいいわけですけれども、ただし書くにあたっては、くれぐれも心に留めておかなければならないことがあります。
それはダンスを文章に直すのには限りがあるってことです。
どんなに文才のある人でも、絶えず動き続けているうえに三次元的なダンスを完全に文章で表現することはできません。
それを無理矢理一挙手一投足を文章に直そうとすると、どうしてもどこかに無理や矛盾ができて、かえってわかりにくい代物になってしまいます。

そういえば、フラ以外の踊り(ベリーダンスとか)の人は、あまりノートに取ろうとしていませんね。
フラの場合、なまじステップ名などで表せそうな気がしてしまう踊りだから、つい文章にしたくなっちゃうのかもしれません。
でもフラが(たとえば手話ではなく)ダンスである以上、最終的には信用できるのは自分の身体の記憶です

ということは、ノートを取るにしてもできるかぎり最低限の事柄に留めておいた方がいいと思います。
一番おすすめなのは、手で表現している意味内容(風とか波とか)だけを書き留めておくことです。
それだけじゃ分からなくなりそうなら、「右手のみ」とか「前で」くらい書いてもいいと思うけど、「右にあった手を前を通って左に、かれこれこの辺で左手も添えて」なんてことまで書きはじめてしまうと、これはちょっともう書き過ぎです。

結論するなら、「フラノートは身体が覚えたことを補うものであり、フラノートでもって覚えるのはダメ」です。
ノートに取ってある(けどノートを見なきゃ踊れない)曲を「覚えている」とはいえません。その曲はあなたのレパートリーではありません。
もしある人が200曲の振付をノートに取ってあって、それらをいっさい見ずに踊れる曲が10曲だけなら、その人のレパートリーは10曲です。私にいわせればレパートリーの多寡なんて何のバロメータにもならないけど、ノートを取っただけで満足するような人ほどレパートリーの数を気にするんだよなぁ。

あと、ノートはあくまでも自分自身の記憶の補助なので、自分の言葉で書かないと意味がないです。
人に取ってもらったノートのコピーは何の役にも立ちません。ハッキリ言って無い方がマシです。
というのも、同じ動きでも言葉での書き表わし方は人によって違うため、振り付けを知らないで人の書いた文章だけ見せられても混乱を招くか、実像とドンドコかけ離れていくかのどちらかです。

てなわけで、「どーしても文章じゃなきゃ覚えられないッ!!」という人のみ、自分の言葉で(しかもできる限り簡潔に)ノートを取ればオッケーです。
そうじゃなくて「ダンスは身体で覚えるもの」と思っている人は、自分の身体の記憶力を信じて繰り返し踊って覚えれば大丈夫。その方が振付の記憶は長持ちします。
いずれにしても、誰か親切すぎる人が振付を書いたコピーをくれたとしても、それは見ない方が無難です。自分では書けないけれど何か文章が見たいときは、歌詞カードを見ることをお勧めします。

先輩の本

2007-11-13 23:53:13 | ぼくはこんな本を読んできた
作家の瀬戸内寂聴さんは、東京女子大の先輩です。
その先輩の最高傑作の一つである『源氏物語』完訳が、今年文庫化されました。

瀬戸内さんの『源氏』の刊行が始まったのは、かれこれ11年前のことでした。
当時中学1年だった私は古典文学が大好きで、特に源氏物語は無謀にも漫画化を謀ったほど好きでした。(『あさきゆめみし』つー素晴らしすぎる先達があると知り頓挫しましたが)
しかしハードカバーゆえその価格は2,000円超×10巻!!!13歳にはいささか、いえ、そうとうキビシー出費でございます。かといって私は一人っ子のせいで人のお下がりを使えない性分で、古本を買うこともできません。
しかたなく、文庫化の時を執念深く待つことといたしました。

で、待ってるうちに実に11年の歳月が流れてしまったんですねえ。
その間いろんなことがありまして、奇しくも瀬戸内さんと同じ大学に行くことになったわけです。尤も、それを知ったのは入学後だいぶ経ってからでしたが。
パイプオルガンの音色麗しい校舎手前のチャペルとか、校門を入ると正面に見えるクラシカルな本館(かつては図書館だったそうな)に瀬戸内さんも足を運ばれたのかと想像すると、不思議な縁になんとも趣深く思われるのでした。(←微妙に古文風)

そう、早速読みはじめております、巻の一!!
あらすじや重要場面はとうに知っていましたが、改めて読むとやっぱり面白いですねえ。
先輩の訳がまた素晴らしいです。って後輩の贔屓目じゃなく、文の雰囲気や内容を原文から大幅に変えることなく、なおかつ現代語として自然な文章に仕上がっています。仕事が丁寧なのですな。
さすが、これまで長きにわたって源氏物語に取り組んでこられた方だけのことはありますね!!
物語がすでにご自分のものとしてしっくりしている感じがうかがえます。

古文の時間に、現代文と同じく生徒が一人ずつ朗読する時間があったのですが、私はこれが大好きでした。
声に出して読むと、字面では意味不明だった古文の一つひとつの言葉の意味がはっきりして、生きた言語として頭にすんなり入ってくるのです。
瀬戸内さんの文章は、黙読しているだけでまさにそれと同じ現象を味わえるような感じです。古典らしさを損なわないまま、意味をすんなり理解できるのです。頻繁に出てくる歌の訳もリズム感の良い文章で、歌の情緒が味わえます。


すんなり理解してみて改めて思いました。
源氏の君、女に節操なさ過ぎ。
つーか光り輝くばかりの麗姿と頭脳明晰で芸にも優れているという美辞麗句に騙されそうだけど、冷静に見ると男としてけっこう最低です
女と見れば見境なく手を出すし、行間読むとどうも男にも手を出していそうだし、女に対して口うるさく注文つける(けどやっぱり手は出す)し、お父さんの後妻に懸想したあげく手を出す(けどやっぱりほかの女にも手を出す)し、紫式部さんも源氏に対して敬語を使っておきながら、女癖の悪さに対しては結構冷ややかなツッコミも入れていて、それがひそかに面白いです。

極めつけは有名な紫の上のくだりですね。そう、療養先で見かけた美少女(注:幼女)に執心し、ほとんど誘拐レベルで自宅に連れ込んだ挙げ句、自分好みの女に躾ける(とかいいつつやっぱり遅からず手を出す)というアレです。
い、異常だ。あんたは『痴人の愛』のジョージか。あ、コッチが本家か。

いっそのこと紫の上がナオミ並みの悪女で、あの源氏の君がさんざ振り回された挙げ句愛の奴隷にされるというのなら面白いですが、あいにく源氏の君の絶望的な女癖はその後も永遠に続き、紫の上を苦しめることになります。
まあ、最終的に源氏の君にも天罰が下り、恋人たちがみんな自分をおいて出家とかしちゃっていく上に、あろう事か自分の奥さんの一人をほかの男に取られちゃうわけですが、そのへんはこの日本一有名な古典のこと、私が解説するまでもないですね。

この『源氏物語』、瀬戸内先輩の風雅な文章と源氏の君のダメ男っぷりが見事なコントラストをなした傑作です。
原作者の紫式部さんも漢詩などの教養のすぐれた才媛だったと聞きますから、きっと遥か昔にこの原文が発表された頃も、当時の人はこのコントラストをさぞ面白く読んだんじゃなかろうかと思います。

アーユルヴェーダ(其の弐)

2007-11-12 23:58:01 | 徒然話
先日アーユルヴェーダを初体験し、その気持ち良さと「ヘッドマッサージとヘアトリートメントを一緒にできるお得感」をいたく気に入った我々は、今度は別のお店に行ってみることにしました。
いえ、本当はこないだのとこ(ケイジクラス・ピチカというお店です)が良かったんですが、予約でいっぱいで入れなかったため別の店を試すことになったのです。

なお、今回行った所の店名およびそれを特定できる記述はいたしませんので、どうぞご了承ください。理由は後でお話しするとして.....。
「本店は普通の美容室だけど、アーユルヴェーダのみの専門店を出したお店」とだけ、お話ししておきます。

雨のそぼ降る中予約の時間にお店に入ると、まず普通の顧客カードのほかに「ドーシャチェック」というフィジカル・メンタル両面からの診断テストを記入しました。
これは火・土・風・水・空の五元素のうち本来の自分の属性や現在の状態を知るためのもので、実は以前も別のお店でやったことがあり、このブログでも書いたことがありましたね(って、そうとう前のことなので覚えてる方は天才だ!!)。

診断結果をもとにお勧めのメニューや使用するオイルが決まるらしいのですが、我々は最初から「シロダーラ(額にオイルをたらす施術)とヘッドマッサージ」のコースと決めてあったので、あんまし意味なし(笑)。
ただ、私が「くすぐったがりです」と書いておいたら、診断結果を見たお店の方に「それは警戒心からくるものです」と言われたのだけは目からウロコでした。お、思い当たるフシがあり過ぎます。

カウンセリングが終わると、一人ずつ個室に通されて早速ヘッドマッサージから入ります。
普通の椅子(座り心地は微妙)に腰掛け、オイルを使ってマッサージします。頭皮だけでなく、首筋もちょこっとマッサージしてくれました。事前にくすぐったがりと伝えておいたおかげか、あまり苦痛を感じないですみました。

それからベッドに移動してシロダーラです。これは細い蛇口のついた給水機のような専用装置の真下に額が来るように横たわって、ひたすらオイルをたらされるという代物です。
っていうとなんか大したことなさそうですが、どういうわけかこれをやると謎のα波が出て、意識はあるのにまるで眠っているかのような瞑想状態にトリップできます。
ただ私の場合、たらす位置が数ミリずれるとくすぐったすぎてトリップできません。難儀だよなあ、くすぐったがりも。

今回は幸いダメなツボに当たらない位置にたらしてもらえて、いい感じにトリップしているところでシロダーラが終了しました。
しかし、問題はこの後だったのです。

頭にたっぷり浸透したオイルを洗い流してもらうべく、最後にシャンプー台に移動しました。
ここのシャンプー台は最近増えている着席式です。つまり、かつて主流だった椅子がリクライニングするものではなく、座った体制のまま頭のみを上に向けてシャンプーしてもらうのです。
このタイプのなかには困ったことに時折首や背中、腰に負担をかけるものがあり、残念ながらこのお店のものもそうでした。
シャンプーは一回洗いのみで大した時間ではなかったはずですが、「く、首が痛い、早く終わらないかしらん」と思いながら過ごしました。

シャンプーが終わると、「ごゆっくり」とか言われながらパウダールームに案内されました。
そう、信じられぬことに、乾かすのはセルフサービスなのです。それでいいのか美容室。あ、ここはアーユルヴェーダ専門店であって美容室じゃないのか。

部屋はうちのドライヤーを当てる洗面所なみに狭く、おまけにエアコンがありません
エアコンがない苦しみを痛感したのは、髪の毛を半分くらい乾かした頃でした。密室ゆえドライヤーを当てれば当てるほど温度および湿度が劇的に上昇し、ほとんど場末の古い銭湯状態に。

それでもなお髪の毛を乾かすと、更なる衝撃の事実が判明して参りました。
頭のオイルが十分に落ちていません。つーか、後頭部などヌルヌルのベタベタです。
はっ、後頭部...!!!そ、そうか。あの首の痛むシャンプー台、あれのせいだな!?!?
着席式シャンプー台のもう一つの問題は、技術者の洗い方がまずいと後頭部を洗うことができないのです。または逆に洗おうとして失敗し、首筋をびしょ濡れにされることも。

手をヌルつかせながら乾かしているところへ、一歩遅れてマミちゃんも来ました。
そしたらこの人の頭がまた私に輪をかけてヌルッヌルです。
どうやらマミちゃんを担当した人の技術にはそうとう深刻な問題があったようで、マッサージの時点から痒い所に手の届かないモヤッと施術だったのだとか。

いちおう乾かしましたが、あまりにひどいベタつきにけっきょくもう一度洗い直してもらうことにしました。
私もやり直してもらおうか悩んだのですが、頭皮がベタついてるわりに毛先にはオイルが行き渡っていないことに気づき、これ以上毛先がパサパサになるよりはと思って諦めました。

ヘッドスパやアーユルヴェーダのオイルは髪に良い物ですから、もちろんたしょう残っている分にはむしろ歓迎です。こないだ行ったお店など、残ったオイルにトリートメントと同じ効果があったくらいです。
しかしこれじゃあいくらなんでも残り過ぎだ。ポマードを塗りたくった頭のようにグロッシーになってしまうというのはどうなんでしょう。

タオルを借りてオイルを拭き取る我々に気づいた店員さん、我々の頭を見てこりゃ確かにヒドイと思ってか「今日のお代は結構ですから...」とおっしゃいましたが、それを呑んだら我々の最も忌み嫌うクレーマー達と同じに成り下がってしまいますので、当然ながら丁重にお断りして通常料金をお支払いしました。

そういうわけで、このお店に対する中傷となってしまうことを避けるため、お店の名前は出しません。
ただ今回の件で我々が予想したのは、アーユルヴェーダの施術じたいには資格が要らないのでは...?ということです。
つまり、美容師の資格がなくても今回のようなマッサージなどをすることは法律の抜け穴で非合法にならないのではないか。このお店に一般の美容院のメニューが無いのや、ブローがセルフサービスなのは、その抜け穴のためではないか。だから店員さんたちのシャンプーがあんなにも残念な技術だったのではないか.....。

だから、いかにも専門ですというもっともらしい看板を出していても、騙されてはいけないということです。
だいいち「資格」というのにも甚だ胡散臭いものが紛れています(もちろん、美容師のようなすでに確立された資格は別)。お金さえ払えばもらえるけれど、ごくごく一部の場所でしか通用しないような資格です。

「資格=本物」「専門=本物」と、私たちはつい騙されてしまうけれど、本当に本物かどうかを判断できるのは自分の審美眼のみです。
ご立派な看板の裏側がハリボテだったなんてこと、実はよくある話ですよね。
今回の我々のようにときには痛い思いをしつつ、自分の見る目を養っていくしかありませんな。

救急措置実習

2007-11-11 23:13:24 | 徒然話
今日の自動車教習は学科でした。
普段だったら、学科は教習における私の唯一の得意分野です。特に授業なんて最高です。私は講義形式の授業を聴いてるのがとても好きだし、なにより車を運転する恐怖から解放されるオアシスです。
以前も教官に「学科は退屈でしょう、運転している方がいいでしょう」といわれ、「滅相もない。実地が免除されるならこの10倍の講義を聴いても平気です」と力強く即答した記憶があります。

しかしそれは、個人単位で授業を受けていられればの話。
今日は勝手が違いました。なにしろ救急措置の講義ということで、受講者総出で実習しなければならないのです。

講義はなんと3時間連続でおこなわれます。
最初の1時間はいつものような自習で安心しました。しかしながら、3時間ひたすら講義を聴かせてくれるわけもなく、2時間めからは実習室に移動です。

実習室は東京の学生アパートのサイズで、そこに受講者8名プラス教官が入ります。
って、うぎぇええぇ、私以外みんな若者じゃん!!!
高密度で若者のただ中に座らされ、それだけで私は既にグロッキー!!

おっと、昨日書いたばっかりなように私は実年齢では人を差別しない主義です。ここで「若者」というのは年齢のことではなく、若者オーラを発している人々のことですね。
だから中高生でもそういうキャピキャピ(←とか言ってる時点ですでに死語)オーラを見境なく放っていない人なら平気だし、30代でも40代でもナウなヤングの気配を醸し出していれば、それは私にとっては若者です。

今日の実習で居合わせたのも、まさにそういう若者オーラをびしばしと発射している人々でした。
彼らはお喋りの話題からイントネーション、ピースサインの出し方まで、私とはほぼ別人種です。ときおり、別の惑星から来たんじゃないかとさえ思います。
おかげで、自分が中高生だった時分に常に感じていた違和感というか居心地の悪さを思い出す羽目になってしまいました。
男子は寝癖なのかスタイリングなのか判然としない髪型でジェリースライムのようにうだうだしているし、女子は何が可笑しいのかさっぱり分からないながらクスクスクスクス笑いどおしで、男女共に語尾の発音が必要以上にだらしない、そんな人々がよりによって集っています。う、うああああ、わからん。こういう若者は苦手だ。

若者の生態を観察しても苦悩の悪循環にはまり込むだけなのでこのへんにして、教官の行動に目を転じますと、横倒しに置かれた縦長のロッカーから何か取り出しておられるところでした。
って、人体じゃん。
そう、横長のロッカーに寝かされて収納されていた人体(全身2体&上半身のみ1体)を取り出すところだったのです。しゅ、シュールだ。なんてシュールなんだ。
しかもその人体にはしんのすけ等といった名前までついています。シュールすぎです。

教官がその人体に何やら機械を装着して準備完了です。
なんと、人体に対して人工呼吸や心臓マッサージなどを行い、正しく行われれば音やランプでお知らせしてくれるという、ありがたいのかありがた迷惑なのか微妙な装置なのです。
いえ、それで実演を見せてもらえるってんならありがたいですが、これで自分が実際にやらなきゃならないとなると.....ねえ..........。(沈黙)

危惧していた通り、その後の2時間は結構キツイひとときでした(笑)。
受講生8人に対して人体は2体のみですから、誰かがやっている間ほかの人はひたすら観察に回るわけで、私はなぜかどうしても人工呼吸がうまくいかないのを、若者女子のクスクス笑いに耐えながら凌がねばなりませんでした。

なんでもこの救急措置の講義は上からかなり厳しく義務づけられていて、やったことにして誤魔化すことが決して許されないために、こういういたたまれない3時間を過ごさなければならないのだそうです。
せめて実地終盤の高速教習はなんとしても一人でやらせてもらおうと固く心に誓ったのでありました。

ダンサーの姿勢

2007-11-10 23:28:25 | ダンス話&スタジオM
いきなりですが、日本の人って年齢をものすごく気にしますよね~。
新聞やテレビを見ても、芸能人であれ事件の容疑者であれ、必ず名前に続けて年齢が書いてある。私には不思議でたまりません。
「85歳の現役ラッパー」とか「2歳で大学に入学」というのなら、そりゃ年齢も重要でしょう。でも、99.9%は年齢と関係ない話題です。

そういえば言葉の上でも、英語だったらbrother/sisterで済ますところを「兄」「弟」/「姉」「妹」と細かく言い分けますよね。
「いとこ」も「おじ」「おば」も、音は同じなのにわざわざ漢字を使い分けて、年齢の上下が分かるようになっています。
意識しているからそういう言い分けが生まれたのか、言葉があるから意識が生まれたのか、今となっては分かりませんが、無駄に年齢を意識しているシチュエーションがやたら多いです。

でも私は実年齢が幾つかなんてそんなの関係ねーと頑に信じて生きてます。
20年前、今よりさらにプライドが高くて不遜だった私(注:当時4歳)は、周りの大人たちから子供扱いされたり幼児言葉で話しかけられたりすると怒髪天をつく勢いで怒り、「生きてる年齢がちょっとばかし少ないからって莫迦にするなっ!!」と吠えていたものです。
しかし、そのまま精神的成長をみずに20年経ってしまったので、今となっては実年齢が精神年齢を追い越してしまいました。

こういう人間ですから、「自分は何歳だ」と意識して生きていることは、あまり好きではありません。少なくとも自分はそうなりたくないです。
自分の専門分野においては若輩であることなど言い訳にならない(なにしろ己のキャリアは年齢と無関係に長いのだ)し、一方で成年になったからといって、自分の好きな玩具や遊びから卒業するのはまっぴらごめんです。
つまり、場面に応じていろんな「設定年齢」があってもいいのではないかと思います。

そんな時、ダンスは自由自在に設定年齢を変えられる点がいいです(ああ、ようやっと本題に辿り着いた)。
うちはレッスンでも衣装選びでもステージでも年齢による差別は一切しない主義で、自分の可能性を年齢を理由に狭めるなんてナンセンス!!踊りたいダンスを着たい衣装で踊るのが一番!!!と思っています。

だからひとたび舞台に上がれば、年齢など曲のイメージや自分の好みで如何様に設定しても全然オッケーなわけですが、そのために姿勢の良さがものすごく重要であることは忘れてはなりません。

はっきりいって、大舞台でお揃いの衣装を着て強い照明を浴びてしまったら、その人がいくつくらいなのかはまったく分からなくなります。
うちの衣装は体型をよく見せることにかなり心血を注いでいるので、スタイルの善し悪しすらさほどハッキリしません。
年齢を判断する材料は唯一、姿勢のみです。
きょくたんな話、どんなに若くても背中が丸まっていればお婆さんに見えてしまうかもしれないし、逆に年がいくつであれ、美しく装いを凝らしてシャンとのびた姿勢で踊っていれば、いくらでも若く見えるのです。
となれば、できる限り姿勢を良くするっきゃないですね!!

でも、ダンスによって求められる「姿勢の良さ」は異なります。
例えばフラの場合、ハワイ語で美しい人をたとえるのに「pali e ke kua=背中は絶壁」という言葉があるように、背筋は天に向かってまっすぐのびていることが望ましい。

わざわざ「天に向かって」と述べているのは、後ろへ反ったりお尻が出っ張ったりしていては、いくら背中がまっすぐでも無意味だからですね。
後ろへ反ることを良い姿勢とみなすダンスもあるので、求められる姿勢の違いに注意が必要です。
また、フラをお尻を出っぱらかして踊るものだと勘違いしている人がいますが、決してそうではありません。ハワイの人やマミちゃんのようにお尻が出っ張っているように見えるけどそれが地の体型というフラの先生がときおりいますが、あれはあくまでわざと出っ張らせているわけではないので、もともとそういう体型でない人は、姿勢をまっすぐに保ちましょう。
わざわざお尻を突き出さなくても、正しくさえ揺らせば十分綺麗に揺れます。

一方、ベリーダンスはフラより官能性を前面に押し出す踊りです。
ということは理想の姿勢も違ってきますね。女性らしいラインを姿勢でもって演出する工夫が必要です。
つまり、元の体型がどうあれ、年齢のみならずプロポーションも姿勢ひとつでいくらでも演出することができるのですね。

ただしここで気をつけなければならないのは、「わざとらしくなったらアウト」ということです。
なまじ官能的な踊りなだけに、ことさらにセクシーに見せようとする意図が丸出しになると、たんなる下品な踊りになってしまいます。
このあたりのさじ加減はベリーダンスの細かいテクニックを身につけるより遥かに難しく、世界を見わたしてもこれを高いレベルでいかにも自然に自分のものにしているダンサーは片手で数えるほどしか知りませんし、若手のベリーダンサーのなかにはただの一人も見かけたことがありません。

だから、実はベリーダンスもフラと同じくらい「自然な振る舞い」が重要な踊りということになりますね。
とくに姿勢をよく保つことは大切ですが、いかにも背筋を伸ばしきってます!!というわざとらしい感じが出ないように注意することはもっと大切です。

理想の姿勢をずっと保つことは大変だけれど、これは日常生活の姿勢を良くする役にも立つと思うので、ぜひ姿勢に気を遣うことをおすすめします。

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