甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

姜尚中さんと熊本の戦後

2016年08月22日 23時04分07秒 | 戦争と平和
★ 姜尚中さんと熊本 「母 オモニ」より

 熊本駅のプラットホームに降り立った時には、父と母からはすっかり生気が失われ、ふたりは呆然としたまま、一言も口が利けない状態だった。

 危く戦災を免れた駅舎が灼熱の太陽を照り返して、にぶい光を発していた。辺りは、炎天下で静まりかえり、からからに乾いた路面に死体らしきものがいくつか転がっているのがわかった。

 駅前から市の中心街に向けて、視界をさえぎるものはほとんど消え失せ、はるか遠くに阿蘇の山並みが見晴らせそうだった。名古屋で目撃した光景がここでも再現されていた。

 七月一日、真夜中の十一時三十分頃、アメリカ軍第二一爆撃飛行集団傘下の第七三爆撃飛行団が、サイパンを飛び立ち、九州の南西をなでるように飛んだ後、天草下島上空から宇土半島を越えて熊本市上空に達し、B-29から千トン以上の焼夷弾を投下し、市内を火の海にしたのである。

 この熊本大空襲で市中心部と健軍の三菱重工熊本航空機製作所などの工場周辺が破壊され、市街地の五分の一が焦土と化した。死傷者は八百人を超え、罹災家屋(りさいかおく)は一万戸近く、罹災者は四万人にのぼる大惨事であった。

 父と母は、廃墟と化した市街を、重い足取りでとぼとぼと健軍方面に向けて歩き出していた。

 じっと立っているだけで目眩(めまい)がしそうな猛暑だった。しかも、蒸し風呂の中にいるような、異常な蒸し暑さだった。毛穴からどっと汗が噴き出し、着た切り雀のボロボロの国民服の中をごそごそと虫が這いまわっているようで、気味が悪くなるほどだった。……「母 オモニ」姜尚中 2010 集英社


 熊本地震の後、何か熊本に関わるものを読まなくちゃ、と無理矢理? 姜尚中がお母さんたちの生きてきた時代を振り返っていた小説を読みました。

 地元の方には、イマイチだったかもしれないし、作家の虚構があるかもしれないけれど、上手に過去の時代をすくい上げてきて、再生しているなあと感心して、抜き書きしました。

 今となっては、それどころではないだろうけど、それ以前に、こんな何もかもなくしてしまった焼け野原の時代があったんですね。そういえば、私の小さい頃、私の育った大阪だって、戦争から20年近く経過しているというのに、焼け野原みたいなものでしたし、しょっちゅう大雨が来て水浸しになったり、常に台風におびえ、梅田や難波などの繁華街には傷痍軍人さんたちがいました。

 万博が近づく頃、そういう人たちは見なくなったけれど、大阪も、たぶん東京も、仙台も、みんなそれたりに大変だったろうと思います。

 うちの奥さんも、小さい頃、仙台に出かけていったとき、そこで傷痍軍人さんを見たそうで、強烈な印象だったということでした。



 熊本と朝鮮人労務者との関係は、韓国併合よりも早い、1908年(明治四十一年)にまでさかのぼる。日本最初のループ線工事をともなう、人吉―吉松間の鉄道敷設の難工事に数百人の朝鮮人労務者が使役されていたと言われ、企画院による「労務動員計画」にもとづき、一九三九年(昭和十四年)以降、三井系の三池炭鉱や阿蘇鉱山、三井三池染料、さらに健軍の三菱重工熊本航空機製作所などで強制労働に従事していた。健軍飛行場や従業員の住宅建設、健軍川改修工事、熊本市電の水前寺――健軍町間の延長工事など、朝鮮人労務者の数は、それだけでも二千人にのぼると言われていた。

 これらの朝鮮人は、いくつかの地域の飯場やバラックに身を寄せ、その辺りだけが化外の地のように忌み嫌われていた。万日山周辺の春日地区の北西部や、熊本駅周辺の白川右岸と坪井川両岸の低地に点在する朝鮮人たちの居住区は、隣接する旧い熊本城城下町の静かな佇まいとは異様なほどの対照をなしていた。

 日本の敗戦、祖国の解放の日、どこにそれだけの数が潜んでいたのか、「マンセー(万歳)」を叫んでいた朝鮮人たちは、最初は恐る恐る、しかしやがて大っぴらに続々と蝟集し、歓喜の声で解放を迎えたのである。

 やがて祖国への帰還を一日千秋の思いで待ち続けてきた人々が、博多と下関を目指して熊本駅に殺到し、駅周辺やその広場は騒然とした雰囲気に包まれていた。

 父や母も、その歓喜の渦の中に浸り、わたしの祖父母たちとの再会を夢見ていた。しかし、テソン(叔父さん)とその家族を見捨てることはできなかった。


 唐突だけれど、とにかく抜き書きしておきたい、私たちの国で、そういうふうに戦後を迎えた人たちがいたというのをメモしたかったんです。

★ ただの言い訳ですね。本当は、現在の熊本と過去の熊本とつなげてみたり、地図でどういう関係にあるのか調べたり、もっと多面的にとらえてみたかったんです。

 でも、勉強不足で、ただの抜き書きと、終戦直後の雰囲気の断片しか伝わりませんね。私の迫り方がいけない。もう少し、時間のあるときに調べてみます。さしあたって、熊本の地図を見てみたいと思います。

 地理感が全くないのです。駅に降りたことはありますが、お城にも行ったことはないし、町を歩いたこともないんですから、せいぜい地図でイメージトレーニングします! 


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