昨夜の23時からEテレで澤地久枝さんに取材した「ミッドウェー」の第一部を見ました。それからもう一度、NHKプラスでパソコンによって見てみました。こんなだったら、最初から夜更かししないで、パソコンで見たらよかったけれど、そういう合理的なことに慣れてないから、単純に無理して土曜の夜は夜更かしでしたね。
ミッドウェー島というのは、どこかフィリピンの東沖くらいのあたりかと思っていました。大岡昇平さんのいくつかの作品があるから、そちらに引きずられたのかもしれないけど、実際はハワイ諸島と日本列島の中間くらいにあるようです。
ミッドウェーという名付け方も、アメリカから見て、アジア大陸につながる海の道の途中にポツンと浮かぶ小さな島という感じでした。けれども、太平洋戦争の時には、アメリカには戦略的に大事になるし、飛行場も設置されているようでした。ここから日本へ爆撃攻撃をするには、まだ遠かったかもしれませんが、ポイントになるところは是が非でも確保しておきたかったことでしょう。
(あのペリーさんが来日して、強引に開国させたのは、捕鯨のための補給基地として日本に港を開放してもらわなくてはならない、というような、アメリカって、当然のことながら自国の利益で同盟国や敵国を設定して、あれこれとと吹っ掛けてきますね。まあ、そんなの当たり前ですね!)
1941年の12月8日、パールハーバーは日本軍の突然の攻撃を受けて、多くの被害が出ます。いつでも日本軍が奇襲をかけて来る、というのは予想されてはいた。でも、まさか向こうからこんなところを攻めて来るとは、米国には少し驚きだったでしょうか。いや、真実はわかりません。予定通りだったのかもしれない。
かくして、いくつかの戦艦が沈没し、「Remember Pearl Harbor」は米国の激励材料になりました。相手を刺激はしたものの、どれだけの効果があったものか。日本軍には、最大で最後の戦果ではなかったのかなぁ。あとからの数年間はずっと人々を犠牲にする、自らが起こしてしまった戦争をどのように終わらせるか、その試行錯誤だったのかもしれません。
誰が始めて、誰が終わらせることができたのか、たくさんの犠牲者が出て、このままでは国がなくなってしまうというところまで来て、やっとみんなが気づいて、戦争を終わらせることができたのではなかったか。
それくらいに戦争を終わらせる、というのは難しいものなのだと思われます。
真珠湾への奇襲の後、日本海軍は何をしていたのでしょう?
マレー半島に上陸(12月)、シンガポール占領(42年2月)、バタビア占領(42年3月)、米軍による初空襲(42年4月)、米軍ガダルカナルに上陸(42年8月)と、太平洋の各地で戦いは続いていたようです。
陸軍はずっと中国で戦争を続け、ミヤンマー(ビルマ)、マレーシア、インドネシアへと展開していた。これらの土地は欧米の植民地であり、欧米がヨーロッパで大変な時に火事場泥棒的に侵略しようとしたものでした。
もう、ずっと明治維新の初めから、欧米に対抗する、不平等な関係を解消する、向こうの植民地に割り込んでいく。そういう戦略でコソコソと利権を求めて入り込もうとしていました。新政府ができてから70年ほどで、その間ずっとその割込み主義で儲けようとしている国でした。
よそで戦争が起きると、自分たちは儲かるし、自分たちが戦争を起こしても、それなりに成果は得られたのでしょう。できれば、あまり遠征しないで植民地が手に入ればいいけど、それは無理だから、樺太、朝鮮半島、台湾、フィリピンなど、植民地のことばかり考えていましたね。
太平洋戦争は、「戦争」という名前がついていますが、これらはただの自分たちの利益拡大が目標であり、アジア全体を豊かな経済圏にする、というような「大東亜共栄圏」なんて、誰が考えた理屈だったのでしょう。有名無実だし、人々への視点などもとからありませんでしたね。
要は、ただの利権あさりのために、軍部を動かして自分たちのワガママできるところを求めただけのことでした。そういう行為に、国民は動員されていったようです。
アメリカに戦争を宣言してしまった。だったら、奇襲だけではなくて、ハワイに上陸して、ここを基地にしてアメリカ本土を攻めなくてはならなかった。アメリカと真正面から戦争する、というのはそういうことです。
それとも、寒いけれども、アラスカ南岸に上陸し、ここからアメリカ本土へ進撃する。
どれも、途方もなくて、バカげたことだと思われますが、アメリカを攻めるのであれば、それくらいのことをしなくてはアメリカと戦えない。
けれども、ハワイを自国化しようという気持ちはなかった。中国は、まさか広大な中国をすべて自分のものにしようとは思っていなかっただろうけれど、満州(中国東北部)で得た利権は絶対に手放したくないと思っていた。だから、満州鉄道は、細やかに満州全体につなげようとした。それくらいに熱心に植民地経営をしようとしていました。
満州国という体裁は、形だけのもので、得意のわがまま占領だった。すべてが日本人による支配でなされていくものだった。そこに住んでいる人間のことなど考えたんだろうか。教育政策はあったのか、それは不確かで、よくわからないですね(中国がウイグルやチベットでやっている行為は、まさしく戦前の日本のマネだったのかもしれないです)。
でも、たくさんの日本人の移住民たちがチャンスを求めて来させられていたので、その子どもたちの日本人としての軍国教育はなされていたようです。子どもたちはみんな見事に軍国少年少女になりました。中国のエリートでさえ、日本語教育を受けたようで、残念ながら、彼らは日本語がしゃべ(ら)れる人にさせられていた。
ミッドウェー沖の海戦というのは、1942年の6月4日から5日にかけての1日で終わった戦いです。日本海軍の4隻の空母がすべて沈没してしまった。真珠湾攻撃からここにたどり着くまでの半年、日本海軍が何をしていたのか、私はわかりません。
どこかで、アメリカの海軍と雌雄を決する時が来る、なんていうイメージがあって、そのぶつかる時はいつなのか、その時こそ、日本海軍の底力を見せてやるのだという、日露戦争でバルチック海軍を全滅させた過去の成功体験を再び期待していたでしょうか。何十年も前のことの再現を夢見る人たちは、本当に戦争を遂行する権利があったのか、私にはわかりません。
すでに海の戦いは、戦艦が打ちあう、まるで海賊の戦いのようなものではなくなっていた。大砲も巨大化し、射程距離も伸び、精度も高まっただろうけど、巨大戦艦よりもそれらに付随する攻撃機・爆撃機・雷撃機などの飛行機が海の戦いを左右するものとなっていました。
まるで長篠の戦いのように、三段構えの信長軍の鉄砲隊に突撃する武田軍のように、飛び道具を持たない日本の戦艦たちは、自らの華麗なテクニックに溺れていたのではなかったのかなあ。
いくつもの悔いはありますね。そもそもアメリカという国に、どうして戦争という手段でなければ、対等に立ち向かえなかったのか。それが近代日本の限界だったのか。
力対力で、どこまでも軍事力を誇示し、その力を見せつけて、相手を後退させる、そういう交渉しか思いつけなかったのか。
悔やんだらきりがないけれど、80年経った今だから、あれこれ私みたいなものでも考えたりできます。
これが当時の若者として、そこにいたのであれば、私なんて、すぐにクタクタになっていたでしょう。何度も泣いて、何度もボンヤリして、何も考えないようにしたかもしれない。ああ、当時の若者たちがかわいそうでならないのです。