甘い生活 since2013

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恵文王のことばから 中歴77

2020年05月09日 09時08分24秒 | 中国の歴史とことば

 もう一度『戦国策』を見てみようと思いました。歴史は流れて行きますが、この本は、国ごとになっているので、私は今、秦という国が気になっているので、第三巻の「秦」のところからほんの少しだけ読んでみました。

 早速、ヒントが見つかりました。今に生きている言葉なのか、少し微妙だけど、おもしろいと思ったので、今からコツコツ打ち込んでみます。

 秦という国は、中国大陸の西の山奥にあります。なかなかイメージできないですけど、いろんな世界が山や大河に区切られていて、それぞれに個々の世界がある中国大陸の中でも、はるか西の土地です。存在はあるんですけど、もちろん見えない。

 だから、一般庶民としては、ずっと太陽の沈む向こうの方に、メチャクチャ戦争が好きな、野蛮な国があるという感じだったのでしょうか。たぶん、言葉も少し違うだろうし、変な言葉をしゃべる人々がいるけど、時々やつらはやって来て、戦争を始めて、たくさんの兵士が死んでったりしていくなあ、あの国が何かすると恐ろしいなあ、という感じを持ってたんでしょうか。

 そういうのがBC700からBC200あたりまで五百年続いたんですから、想像を絶する状態です。今の自分に置き換えたら、ミサイル好きの国があったり(それが唯一のアイデンティティ)、あと十数年大統領になろうという独裁者のいる国(人気はあるみたいだけど、本当に人々が支持しているのかボクにはわかりません)、無愛想で戦闘機・軍艦をビュンビュンと、よその土地まで飛ばしてくる国(人々は政府を見限っているのに、政府だけが拍手喝采をしています)、これらのよその国は、たいてい遠くから無理難題を押し付けてきます。

 そうでした。あの庇あたまのオッサンの国も、武器を押し売りしたり、わがもの顔で私たちの世界を飛び回ってましたっけ。あれも、人それぞれは友好的なのに、国家ということになると、ビジネスの話と武器の実験と、いやなことを押し付けるとんでもない野郎に変わります。それが国と国の「政治の話」ということなのかな?



 中国の人々は、秦という好戦的な国に五百年悩まされたということが書きたかったんでした。だから、今のボクたちが、今の世界状況をあれこれ悩んでも、それは昔っから何百年も、何千年も人々が悩まされてきたことと同じなんでしょう。

 ということは、人が作った人へのプレッシャーは、人が解決するしかありません。そして、戦国時代は、いろんな人が遊説し、自分のアイデアを披露し、王様に取り入ろうとしました。人って、どんなことにも情熱を傾けられるんです!

 うまく王様に気に入られて、絶大な権力を握った商鞅さんという人もいました。でも、この人の最後は、あまりに今までの権力が絶大だったので、保護してくれた王様が亡くなられると、車裂きの刑に処せられたということですから、恐ろしいです。

 手足を縛り、それぞれを馬車か何かで引っ張って引きちぎったというのです。恐ろしい。そんなことはされたくない。どうしてそんなふうに殺されなきゃいけなかったのか。まあ、彼自身も今までたくさんの人をそうしてきたから、最後は自分がしてきたことを人からされた、というだけのことなのかもしれません。まわりまわってきた。



 商鞅さんがいなくなって(BC338)、恵文王さん(BC338~BC311)のところに、相変らず各地から売り込みに来る策士たちがたくさんいました。もちろん、簡単にはお目通りはできなくて、人の紹介だったり、たくさんおカネをばらまいてようやく王様の前に行かせてもらえたり、それなりに元手は必要だったことでしょう。

 蘇秦という人が売り込みに来て、ここは守るに易く、攻めるにも都合がいい、土地は豊かで、兵士も強い。だから、天下を統一しましょうと述べます。

 王様は、こういうおしゃべりで生きる弁舌の徒というのが好きではなかったのかもしれません。前の商鞅さんで懲りてたのかもしれない。

 「羽毛の豊かに生えそろわないものは、高く飛べない。条文の整わないものは、誅罰を行えない。道徳の手厚くないものは、人民を使役できない。政治や教育が民心に添わないものは、大臣の手を煩わすことはできない」と聞いています。ですから、私は、先生のお話を実践できる立場にはありません、まだまだ未熟ですといって蘇秦さんに引き取ってもらうのでした。

 そりゃね、すべての統治者が万全の資質を持って、準備怠りなく政治を行うなんて、ありゃしないのです。どの政治家もいい加減で、チャランポランで、権力志向で、人々をこき使ってやろう。自分のわがままを国政で実践してやろう、そう思っているのです。人々のためなんて、あまり思ってはいない。それはそれでいいのです。最低限のことをするだけでいい。政治に期待することは、調整役であって、何かに取り組む姿勢を見せるヤツって、めんどくさいヤツです。

 でも、統治者として、自らの欠陥を意識することは大切なことです。私はまだしっかりとした「文章成らざる者」です。法律など不備がたくさんあるし、足りないことはいっぱいある、そう意識してもらえるのはありがたいことです。

 「道徳厚からざる者」として、自らの資質を問い直してくれるのは有り難い。自分のミスを帳消しにし、関係書類はすべて処分し、自らの非を認めないのは、道徳が足りない証拠です。

 「政教順ならざる者」は、大臣(部下)にあれこれ指示することはできない。自らがちゃんとしたことをやれないヤツが命令したって、すべての基礎が間違っているのだから、まともなことができるわけがない。

 せめて、こういう気持ちでやってもらいたいけど、これも、セールスマンへのお断りの言葉だから、ただの嫌味であって、本意ではないのかもしれません。

 こういう気持ちは持ちたいけど、王たるもの、やりたい放題、自らのわがままを貫き通す、それが王者だ、というのが本音かな。

 王様にもなりたくないです。ひとりでいじけて、本でも読んでる方が私には向いてるな。そういう世界へ蘇秦さんは飛び込むんだから、人って、向き不向きがあるんだろうな。

 蘇秦さんのこと、66回で「揣摩臆測」を書きました。他のは書いてないみたい。もう少し『戦国策』を読まなくちゃ!


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