甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

ヒツジとキツネのワキの下?

2023年11月15日 20時37分58秒 | 中国の歴史とことば
(こちらはキツネではなくて、千歳川の公園のエゾリスです!)


 漢和辞典(角川・新字源 1968初版→1987・256版!)を見ていて、初めて見る故事成語を見つけました。こちらでは史記の商君伝(商鞅・?~BC338)とありましたが、故事成語辞典(三省堂 1994)では趙簡子のこととしてかいてありましたので、古い人のこちらで書いてみます。

 もうはるか昔に「春秋時代」は終わりましたけど、まだまだ知らない言葉はたくさんありますね。いや、むしろ知らない言葉の方がたくさんあるのだから、とにかく知り得たものをメモしていくのが精一杯です。

 趙簡子とは、趙鞅(ちょうおう ?~BC476)というのが本名で、亡くなってからそんな風に言われたようです。春秋時代の晋の政治家だそうです。姓は嬴(えい)、氏は趙、諱(いみな、本名のこと)は鞅、諡(おくりな、亡くなってからの呼び方)は簡。それで、趙簡子と呼ばれるようになって、記録にも残されるようになりました。

 エリートの一族の人でした。BC514年、趙鞅は晋の国の政治の中枢を担う人であったにもかかわらず、権力争いで有力な二つの家を滅ぼし、中国のど真ん中にある晋を他の四家と分け合うなど、少しずつ勢力を広げていったそうです。
 BC501年には、魯で数々の悪名を流して晋に亡命した陽虎(孔子さんをスカウトしたけれども逃げられ、結局本人も国を追われた政治家)を、全家臣の反対を押し切って召し抱えたりしたそうです。何か使えるとでも思ったのでしょうか。

 それからもずっと権力争いの中にあって、後継者も見つかりますが、権力争いをしていたそれぞれの家が建国して、晋という国は消滅していきます。

 そうした分裂・結合の時代のひとりの英雄だったんでしょうか。

 趙鞅さん(「趙簡子」が歴史的な記録では正式な呼ばれ方なんでしょうね)の家臣に、まっすぐに意見を述べて諫めることのできる周舎(しゅうしゃ)という人がいたそうですが、その人が亡くなってからは、趙鞅さんは政治にやる気がなくなったそうです。それで部下たちが「殿様、どうして元気というか、政治をやるお気持ちをなくされたのですか?」と質問しました。

 すると、こう答えたそうです。
「いや、君たちには申し訳ない。申し訳ないのだが、千枚の羊の皮も、一枚の狐のワキの下の毛皮の価値には及ばない、なんて思うんだよ。

 君たちは、真面目で、コツコツ励んでくれてはいるんだけど、みんなハイハイと言うだけで、私に小言・耳の痛いこと・忠告みたいなのは言ってくれないと思うんだよ。だから、いつも心地よいハイハイ空間にいる私は、だんだんユーウツになってしまったんだよ」と語ったそうです。

 人は、ちゃんとものを言ってくれる人が欲しい。特に権力者は、耳の痛いことを本人がイライラするくらいに言ってくれる人が必要です(受け止める度量というのも一つの才能なんでしょうね。なにを話してもカエルの面に水みたいな人では、それは楽だけど、意見しようという人たちも逃げていくでしょう)。そうでないと、今度は何もかも受け入れてるだけじゃ空っぽになってしまう。

 空っぽになった権力者なんて、みんなから捨てられるだけなのです。ちゃんと耳の痛いことも受け入れられる権力者にならなくちゃね!

★【千羊(せんよう)の皮は一狐(いっこ)の腋(えき)に如(し)かず】……史記・趙世家(ちょうせいか)より

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