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火牛の計から盗跖(とうせき)へ その2

2023年11月26日 20時16分27秒 | 中国の歴史とことば

 コンサイス外国人名事典(1994 改訂版・三省堂)より抜き書きします。

 田単(でんたん)生没年不明。戦国時代、斉の武将。斉の王族田氏の一族。
前284斉が燕将・楽毅(がくき)のために大敗すると一族とともに即墨(そくぼく、山東省)で燕軍を防ぐ。燕で恵王が即位すると、スパイを放って楽毅を失脚させるとともに、奇計を用いて油断させ、夜火牛を用いて燕軍を破り、斉の70余城を回復。前279襄王を莒(きょ)より臨淄(りんし)に迎え、その功により安平君に封じられた。

 斉というのは歴史のある国でした。BC1100ころに成立して、その建国の功労者の太公望と言われた呂尚(りょしょう)が山東半島あたりを任されて、そこからずっと続いていた国です。ところが、ここで家老の田氏に奪われてしまいます。田氏は「下剋上」の元祖みたいな一族でした。けれども、田氏が下剋上してすぐ即位するのではなくて、王様を殺害した人のお孫さんが即位するという、時間をかけて即位という、長いスパンが必要でした(BC379~221)。

 田単さんが活躍したのは、田氏が王様になって百年ほどは経過していますので、田氏の一族といえば、もう王につながる人という扱いだったでしょう。

 王にはならなくても、いいポジションを与えられ、政治・軍事に関わることはできたでしょう。

 有名な「火牛の計」とは、源平の戦いの折、木曽義仲が華々しくデビューする倶利伽羅峠の戦いで、松明をつけた牛たちが峠を駆けおりてきて、驚いた平家軍はちりぢりになるというあの「火牛の計」でした。もとは、中国の戦国時代に発明された戦法だったのですね。それを木曽義仲さんはマネしたらしい。

 田単さんからは千数百年が経過していますから、古典的な戦い・戦略が普通に使えるくらいに、戦いの方法として伝わっていたのでしょうか。

 けれども、時代の流れは押し寄せていて、あと数十年したら、斉という国も、戦国時代も終わって、項羽と劉邦という新しい英雄に時代は取り込まれていくのです。



 さて、言葉でした。「跖(せき)の狗(いぬ)堯(ぎょう)に吠ゆ」でした。大盗賊の犬は、どれほどに聖人として立派な方であっても吠える。つまり、主人でない人は犬には吠えられるものだ。犬とはそれほどに主人に忠実な生きものだ。ということでした。

 どういう意味・来歴があったんでしょう。『戦国策』という本に載っている言葉なんだそうです。

 斉の貂勃(ちょうぼつ)さんは、いつも田単さんを批判していたそうです。権力の一翼を担う人への批判ですから、細心の注意を払いつつなされていたのかもしれません。貂勃さんとしても、批判すべき時には、ある程度の正論で述べていたでしょう。批判を聞いた田単さんは、この貂勃と話してみようと思い、面会するチャンスがありました。「どうして私をいつも批判するのかね」と訊ねてみました。

 貂勃さんは「待ってました」とばかりに答えます。
 「大盗賊の盗跖(とうせき)の飼い犬が、聖人の堯であってもに吠えたというのは、伝説の聖王・堯さまを軽蔑しているからではありません。犬はもともと主人以外の者に吠える習性を持っているのでございます。

 ということは、私を家来として召し抱えてくだされは、ご主人様に忠実に働いていきます。どうぞ、私をご採用くださいませ。」



 と述べたそうです。それで、「なぁんだ、ただの売り込みなのか」と追い払うようでは、器が問われます。採用してみて、人材として使えたら、頼みにする。あてにならないようであれば、給料を与えないとか、いろいろ後のことはあったでしょう。

 売り込んだり、採用したり、そういう人の動きは当たり前にあったでしょう。そういう人材採用のエピソードだったんですね。相手にぶつける言葉は、ある程度刺激的でなくてはいけない。そういう要素を含んだ言葉だったんですね。

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