范雎(はんしょ)さんの「范」は名字ですね。たしか、范文雀(はんぶんじゃく)さんという俳優さんがおられました。「雎」という字は、「隹(ふるとり)」が入ってるから、みさごという猛禽類を表わすようです。
ことばは、「遠交近攻」です。意味は、
【遠交近攻】……遠方の国と仲良くし、近くの国を攻める。近くだとケンカしやすくなり、遠くだと適度な距離をもって接する。
どうして人間は、近い距離の人たち同士でいがみ合い、遠くの人となら敬意を持って接することができるという、この不思議な距離感に陥ってしまうのか。それがすべてではありませんけど、近しい人とは仲良く、遠くの人とはそれなりに付き合う、ということがあり得ますが、一番近くの国の韓国や台湾、中国との関係だって、親密になったり、疎遠になったり、くっついたり離れたり、あまりうまくいっているとは言えないです。
まあ、政治はどうあれ、人と人では、近しいのであれば、仲良くするのに越したことはない。そばにいるのだから、しょっちゅう声を掛け合えばいいんですね。私は、ちゃんと声掛けできているかは問題だけど、仲良くあらねばならない、というのはずっと思っています。
范雎(はんしょ)という人がいました。中国の戦国時代末期に秦で活躍しました。あとしばらくしたら、中国は秦の始皇帝によって統一されてしまうので、その秦という国に方向性を与えた政治家とされています。
范雎さんは魏の人だったそうで、諸侯[日本でいう大名]の間を遊説したものの思うようにいかず、家は貧しいので魏の中大夫の須賈(しゅか)さんに仕えました。そのお供をして斉という国へ行き、そこで数カ月間を過ごすことになりました。この時に斉の襄王さんが范雎さんの弁舌が優れていることを聞き、金十斤と牛・酒でスカウトしようとしたそうですが、范雎さんはこれを断りました。もっと壮大な夢があったんでしょうか。
ご主人の須賈さんは邪推して、魏の秘密を斉に漏らした代金としてこれらの品物を送ってきたのだろうと考えました。魏へと帰ってきた須賈さんは宰相の魏斉さんに報告します。自分の部下なのに、簡単に売ってしまいます。魏斉さんは怒って范雎を竹の板で何度も打った。このことで范雎はあばらを折り、歯を折られました。これでは殺されると思った范雎さんは死んだふりをしましたけど、魏斉さんはさらに簀(す)巻きにして厠へと放り出し、客は厠へと来るたびに范雎さんに小便をかけることになったそうです。
范雎さんは番人に「後で礼をするから」と約束して助け出してもらい、番人は魏斉さんに対しては死体を捨ててきたと嘘を言ったそうです。その度胸は大したものです。番人さんはきっと范雎さんの話にホロリとしたんでしょう。
范雎さんは友人の鄭安平(ていあんぺい)さんの助けを借りて体を治し、魏斉さんが本当に死んだかどうかを疑っていると聞き、張禄と言う偽名を使って逃げさせます。
ちょうどその頃、秦の昭襄王さんが使わした謁者(取次役)の王稽という人魏の国に来ていました。鄭安平さんは張禄と名乗らせた范雎さんを売り込み、みごと秦へと逃がしてあげたのでした。これはなかなかできないことで、友だから、その命をどこまでも守ってあげようとしたのですね。
秦に入り、王稽さんから昭襄王さんに推挙されますが、簡単に登用されませんでした。その時の秦の宰相は、穣侯魏冄(じょうこうぎたん)という人で、昭襄王の母の宣太后の弟でした。権力はすべてこの叔父さんの穣侯さんが握っていて、他にもたくさんの叔父さんたちがいて、それぞれに権力のおこぼれをもらっていたそうです。これは中国にはよくあることですね。
将軍には白起さんという人がいて、次から次と領土は拡大していきますが、その土地はこの叔父さんたちのものとなったり、王様の弟の高陵君・涇陽君などが取ってしまっていました。国の中に小さな独立国が育っていく感じでしょうか。
一年が過ぎて、范雎さんは王様に対して、
「とにかく試してください。良ければ用い、悪ければ打首にされても構いません。ただただ王様のことを思っているのです」と手紙を書きます。
王様はやっと范雎さんの話を聞くことになりますが、そこですぐに今、王様の邪魔者たちを取り除きなさいと発言したとしたら、すぐに王様もろともに暗殺されてしまいますので、内政ではなく、外交問題を取り上げます。
「宰相である穣侯さま、現在隣国の韓や魏と結んで、遠国の斉を討とうとしています。けれども、これは間違いと思われます。なぜかといえば、遠くの斉に勝って領土を奪ったとしても、遠くの国ではそれを保持することができないのです。
あたり前のことですが、遠くの土地は、管理することができません。遠くの国である趙・楚・斉とは交わりを結び、近くの魏・韓を攻めるべきです。そうすれば、奪った領土は全て王のものとなり、更に領土拡大をすることができます。いうなれば〝遠交近攻〟というものです。」と。
この進言を受け入れた王様は、魏を攻めて領土を奪い、韓に対して圧迫をかけました。その成果に満足して、范雎さんに対する信任は非常に厚くなりました。
そこで、范雎さんは王様に対して、親戚とはいえ権力をほしいままにする穣侯たちを排除しなければ王権が危ういことを説きます。王様は、太后を廃し、穣侯・華陽君・高陵君・涇陽君ら(親戚の権力者たち)を函谷関の外(秦の国の外)へ追放しました。かくして王権の絶対性を確立し、国家がまとまった秦は、門閥の影響が大きかった楚など諸国を着実に破っていくことになるのでした。
めでたしめでたし、というところですが、人生とはそんなに簡単なものではないようです。いかにして成功しようとも、最後まで無事に乗り切るのか、これは大きな問題となるようです。