甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

つぼのいしぶみ、朝のうちの小雨

2021年07月08日 20時20分40秒 | 芭蕉さんの旅・おくのほそ道ほか

 今日は7月の8日です。昨日は七夕だったんですね。もうとっくの昔に芭蕉さんたちは先へ進んでいます。まあ、遅れてもいいから、芭蕉さんたちを追いかけます。

 せめて8月いっぱいかけて、新潟までには行きたいんです。新潟はあんなに細長くて、距離もあるのに、芭蕉さんは一回で通り越してしまうから、秋には富山に行けるかな。がんばりましょう。

 というんで、「壺のいしぶみ」ですね。そういうのが今も残っているとかいう話ですけど、歌枕を巡る旅をしていて、何か本当に感心したとかあったんだろうか。

 白河の関と、日光と、那須野くらいじゃなかったかな。まあ、全国の芭蕉さんを慕う人々とめぐる歌枕だから、教養的な雰囲気は作らなきゃいけませんよ。

 壷碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城にあり。

 つぼの石ぶみは高さ六尺あまり、横三尺斗ばかりか。苔を穿(うが)ちて文字かすかなり。四維(しゆい)国界(こっかい)の数里をしるす。

 壺のいしぶみは、市川村の多賀城にありました。その高さは六尺を超えるくらいの高さ(二メートル以上)で、横が三尺(一メートル)ほどでしょうか。苔を身につけていて文字もかすかにしか見えません。四方の国の境までの距離を記してあるようです。

 はてさて、何のいしぶみなんだろう。由緒はあるのは確かです。多賀城に関係のある、奈良時代からある石碑なんでしょうか。



 「この城、神亀(じんき)元年、按察使(あぜち)鎮守府(ちんじゅふ)将軍大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)の所置(おくところ)なり。

 この多賀城というところは、神亀元年、按察使鎮守府将軍・大野朝臣東人が築いた大和朝廷の根拠地・前線基地だったところでした。

 神亀元年って、724年で、平城京ができて東国に支配地域を伸ばしていた時代だったんですね。知られざる土地はたくさんあったわけです。

 ついこの間まで養老という元号だったそうです。その8年の2月に白い亀が現れたので、それを記念して改元したということです。まあ、奈良時代も落ち着かない時代ではあったので、そういう出来事にすがりたいところもあったのかな。何しろ聖武天皇さまですから、いいと思ったら次から次と転進される転地療養のみかどだったんですから。



★ 大野東人さんの上司は、藤原宇合(ふじわらのうまかい)という、藤原不比等さんの息子さんでした。お父さん、お祖父さんともに朝廷の中でナンバーワンの権力者でしたけど、奈良時代って、はやり病があったそうで、兄弟みんな病気で倒れてしまうんでした。

 藤原宇合さんが東北地方に来たのか、来たとしてもすぐに帰って、実際は東人さんが指揮していたのか、そういうところなのかもしれません。

 724年に東北の多賀城にいた東人さんは、740年の九州に起こる藤原広嗣の乱には参戦し、翌年の恭仁京(京都の関西線の加茂駅のあたりですね)遷都の時には平城京の留守番役をしたそうで、東奔西走していたようです。もうかなりの年だったのかな。翌年には亡くなってしまいます。

 そのお父さんも武人として働いた方だそうで、数十年前の壬申の乱(672)の時には、大津方の使用軍だったそうです。でも、有能な人だから、ふたたびカムバックして、朝廷にお勤めしていったんですね。お役所勤めというのは、昔も今も大変だったみたいです。 



 「天平(てんぴょう)宝字(ほうじ)六年参議・東海・東山(とうせん)節度使(せつどし)同(おなじく)将軍・恵美朝臣(えみのあそん)あさかり[漢字が見つかりません]修造(しゅぞう)而、十二月朔日(ついたち)」とあり。聖武皇帝の御時(おんとき)に当たれり。

 碑の文字を見てみますと「天平宝字六年、参議東海東山節度使同じく将軍恵美朝臣修造 十二月朔日」と書いてありました。聖武天皇さまが世を治めておられた時代に当たるようです。

 さて、天平宝字六年というのは、762年で淳仁天皇さまの時代に当たります。芭蕉さんのコメントが間違っているわけで、まあ、芭蕉さんにはネットも歴史年表もないわけだから、天平は聖武天皇というあてずっぽうなのか、適当なことを書いたのか、どうしてそんなミスをしたんだろう。

 それから、恵美押勝ではなくて、恵美のあさかりって、誰なんだろう。うちの本によりますと、恵美押勝(えみのおしかつ)と中国風の名前にしていた藤原仲麻呂さんの子どもさんが「あさかり」さんなんだそうです。

 この「あさかり」さんは東北地方への遠征軍の将軍になっていたそうで、それなりの権力者ではあったんですね。二年後にお父さんの押勝さんが乱を起こしたということで、その時に死んでしまうそうです。

 芭蕉さんって、日本史習ったんだろうか。奈良時代って、どんなイメージを持ってたんだろう。あんまり視覚的なイメージは持ってなかったでしょうね。ただ、江戸幕府が再建した東大寺の大仏の最初の形ができた時代、くらいの認識だったのかなぁ。



 むかしよりよみ置ける哥枕(うたまくら)、おほく語り伝ふといへども、山崩れ川流れて道あらたまり、石は埋(うず)もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り代(よ)変じて、その跡たしかならぬことのみを、ここにいたりて疑いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前(がんぜん)に古人の心を閲(けみ)す。

 昔から歌枕、和歌がつくられるきっかけとなった土地というのは、いろいろと語り伝えられてはいます。けれども、山は崩れたりするし、川は流れを変えたり埋まったり変化します。石があったとしても、土に埋もれてしまったり、言い伝えられた木というものも若きに変わったり、時代が変わり、世の中も変化していくというのに、この壺のいしぶみというのは、千年前の古代の人々の営みを今に伝えているのです。当時の古代人の心を見させてもらうような、貴重なものではあるのです。



 行脚(あんぎゃ)の一徳(いっとく)、存命(ぞんめい)の悦(よろこ)び、羈旅(きりょ)の労(ろう)をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり。

 これも、旅する者だけが得られるしあわせというものでしょう。今ここに生きている喜びも感じます。だから、旅している時の大変さもすべて吹っ飛んで、感動の涙も出てくるのですよ。

 それくらいピュアな感動の気持ち、そういうのが感じられた多賀城でみつけたいしぶみでした。

 そう、千年前から今の私たちにずっと託されたメッセージではあったのですね。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。