引き続き、南部の村探訪。
村の中心部も場所によっては坂があったが、村々をつなぐ道(マヤ遺跡の間の「白い道」の位置そのまま)の南側は標高が高くなっている。といっても最高点で確か標高210メートルくらい。丘が連なってるといった感じ。ただ、半島そのものがほぼ真っ平らなので、ちょっと坂を登るとはるか地平線が見える。ちょうどいい位置に建っている家からも見えるし、少し離れたところにある荒地からの360度に広がる景色はすごかった。
遺跡と言われたら信じてしまう。
木がほとんど生えていなくて岩がゴロゴロしている丘もある。そういうところに1人で住む爺ちゃんの暮らしが凄かった。家はお金貯まったら買える分だけブロックを買って自分で少しずつ積んで、最近古い波形鉄板で屋根をかけたという。4m四方。古いハンモック。シャワーはなく、風呂はよく写真で見る「盥に水張ってその中にしゃがみ、瓢箪の椀ですくって身体にかけるだけ」。トイレなし電気なし煮炊きはインディアンみたいな3本の棒を組んだやつ。FBでは古き良きマヤの生活みたいな感じで紹介されることが多いが、実際は壮絶な暮らしである。100mくらい丘を下ったとこに集落の共同井戸があるので、日に3回くらい汲みに行く。89歳。3人の息子はたまにしか来ない、1人はメリダ、2人はキンタナロー(隣村をそう呼ぶ)だと思うと言う。いとまするときに来た友達(こちらも老人)とはマヤ語で話していた。
そこから10kmくらい離れた集落の外れにあった家で盥で皿洗ってた少女、水はセニョーラが時々車にタンク(彼女の描写だと100Lくらい)を積んで来る、うちにはホースがあるから簡単にバケツに汲んでもらえると自慢げに話してくれた。
今住んでいるプログレソでも水道で苦労しているが、そういうレベルじゃない。ただ、ユカタン半島には川が一切なく(山がないんだから)、水源は地下水のみ。
チチェンイツァやそれより古い時代の遺跡にも、水を貯めておくいろんな大きさの物が遺っている。遺跡で見るとロマンチックだが、川(流水)がないのは今も昔も変わらない。コロナで日本人の衛生観念がどうとか言っていたが、地形に恵まれていただけである。
旧大陸から馬が持ち込まれるより前の時代は、どうやって移動してたんだろ? もちろん江戸時代も一般人は歩いてたんだが。。。ってか旅じゃなくて、せっかく平らで土壌もいいのに、畑を耕すのに人力だけってのは大変だっただろうなぁと思う。
小高くなっているところで何かの果物の木やバナナはだいたい後から植えたものだが、丘にもユカタンの梅の木ならある。ちょうど旬で、めちゃくちゃいい匂いがしていた。
メリダの市場で見るのはもっと緑色で、一部赤くなっていても硬くてゴツゴツしたのばかりだったので、そういう種類なのかと思っていた。あれは追熟した(しきれてない?)ものだったのだ。
丘を下った村(オシュクツカブの隣村)にある家でもらった。庭で落ちた実のうちキレイなのだけ毎日お母さんが集めているという。金に困った人がいたら、売ってこいと言ってあげるらしい。ピコデロロという種類。マンゴーの種類はめちゃくちゃ多くてメジャーなものしか覚えてないが、少なくともプログレソではお目にかかったことがない。微かに栗みたいな味がした。
さすが「ユカタンの畑」地域だけあって、場所によっては、どこの家の庭にも果物屋で見るフルーツがなる木がガンガン植わっている。実がなる木の本数で土地の価格が変わる。別の人は、うちにあるライムの木で即 4000ペソ(3万円弱)は稼げると話していた。
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