先日、ナショナルジオグラフィック日本版に「マヤ文明は『崩壊』などしていなかった、大幅な回復が判明、研究」という記事が出た。「文明崩壊、王朝消滅!」などのありがちなミステリアスさはずいぶん前に卒業した者としては、逆に何がそんなに新しい判明ごとなんだ?って感じで、記事を読んでみた。

こういうのって著作権に引っ掛かるんですかね? それはともかく、ナショジオでさえ、話を「ミステリアス」系に持っていきたい思惑があるのを感じるw。
わたしが考古学でいう文明の定義を知らないからか、何百年も変わってなさそうなマヤ人の暮らしを毎日目にしているからか、記事を読むだけではまだイマイチ何が判明したのかよく分からなかったので、今回発表されたという論文を読んでみた。いろいろ感想が浮かんだので、忘れないうちに書いておく。
論文の内容を簡単に書くと、ある都市国家が消滅しても、人々は周囲に散らばって住んでいて、散らばった「統治者なき、一般人が住んでるだけのエリア」の人口は以前考えられていたよりずっと大きく、彼らが新国家の構築を助けた…だから文明(ある国家/王朝)の崩壊という言葉は正確ではない、という話。
ポイントは、神事祭事、つまり政(まつりごと)に関係なくただ人が住んでいるだけのエリアが遺跡(ピラミッドとか)からずいぶん離れたところにたくさんあり、その人口も以前考えられていたよりずっと多かったという部分です。ある王朝の崩壊後、役人(王族でなく)がそういうエリアに住むようになり、後に別王朝が興るのをその子孫が助けた、つまり「文化の継承」が見られる、と。
先行研究への参照が他の論文と比べて非常に多く、「これはライダーで新事実が分かったからから間違い」、「これは範囲を広げて調査したらこうだったから解釈違い」ってな感じで、マヤ文明研究の歴史を読んでるみたいだった。

真ん中辺の赤い線で囲まれた部分が、マヤパン遺跡(古代都市、世界遺産)。黒い線が我々がメリダに行くのに乗る自動車道で、それに沿って調査したら、現存する村のほぼすべてに古典期終末期から後古典期にセメントを使って造られた何らかの遺跡(ピラミッドとかじゃなくて)が見つかった。
今マヤパンと呼ばれる行政区域はマヤパン遺跡から少し離れたところにあって、域内には別の名前の小さい村がいくつかある。それらの村がマヤパン統治の時代からそこにあったか知らないが、スペイン人が侵略してマヤの人口が減少した後、スペイン人の子孫であるユカタン中央の支配層にマヤ人は奴隷扱いされている。奴隷扱いされていたマヤ人はどこに住んでいたのか? 農作業にこき使われていたマヤ人全員が支配層が住む街やアシエンダ(農園)の主人の屋敷のそばに住んでいたわけではなかろう。実際、メリダの街にはマヤ人が入れないエリアがあったし、カスタ戦争(1849-)のときにはあちこちの村で戦いがあったんだし。
で、そのマヤ人の「居住するだけエリア」について、昔はそんなものないとされていたし、比較的最近の研究も遺跡(ピラミッドとか)から大きく離れた場所を調査したことはなかった。今回の研究で、そういうエリアの人口や、移動などが明らかになった。ところで移動じゃなくて引越という言葉を使うと、人々が都市ごと棄てた…みたいな、例によって「ミステリアス」な話になりがちだ。実際は、マヤ人って個人レベルでしょっちゅう村から村へ移動していて、そういう文化は最近始まったわけじゃないと思う。
なんというか、王朝消滅!棄てられた古代都市!みたいな見方をやめれば、ロマンwはなくなるかもしれないが、この「人々の移動」なんか、太古から続く暮らしの一幕以外の何ものでもなく、別に珍しいことじゃないじゃんと思った。「知事とか都庁の位置変わったけどオレらずっと東京に住んでるし」とか、都心3区が一旦空洞化したあと高層マンションがニョキニョキ建ってやれ銀座だ六本木だ次は麻布台だ…ってのと少し似てるんじゃなかろうか。
今回の論文を読むと、1980年くらいまでの西洋人研究者たちは謎を解明!と言いつつ「ミステリアスな文明を扱ってる」的にちょっと酔いしれてたんじゃないかという印象を受ける。1950年以前の論文なんかは、今論文という言葉から得る研究のイメージと違って、「発掘!浪漫!」的なノリだ。その後も、技術レベルが違ったからもちろん判ることは限られていたんだろうが、すでに消滅した文明ってのを前提にしているのがすごく感じられる。そもそも、それら先行研究の著者が、西洋人ばかり(英語あるいはヨーロッパの名前)だし。
今回はマヤ人研究者がいる。昔の論文に「蜂蜜生産のための小さい土台等」と書かれていた遺跡(ピラミッドじゃないですよ)を、「石塀で囲まれた土地に小さい家が数戸」と解釈し直したのなんて、その研究者はわかりやすいヒントの蓄積がいっぱいあったんじゃないか。

石塀の跡と、それに囲まれたエリアの中にある、家の土台らしきもの、家じゃなさそうなものを表してある。使われたモルタルの年代は古典期終末期かとか後古典期かとか調べている。ハッキリ言って敷地の使い方なんか、もろこの辺の家と同じ。石塀で囲った土地の中に小っこいマヤの家と道具や薪を入れておく小屋などがいくつか、まさに絵のようにバラバラと建ってて、他に家畜を繋いでおくための台座とかがある。「自宅以外の土地」には家らしきものはないけど何らかの「造ったもの」がある。今だと、水を溜めておく石製の水槽とか、ポンプを置く台とか。ホント、今でも図の通り。
これ、そのマヤ人の研究者には「そんなん、明らかに誰か住んでた家の跡じゃん…」ってなことだったのかなぁ。さらに、今回の研究グループは昔の白人探検者と違って、「そうそう、こんな小っこい家に何人もハンモック吊って寝てるし。もっと人口多い証拠!」とか思ったのかなぁ。おそらく昔の金持ち発掘者達にはそれが分からなかったんじゃなかろうか。いや、昔だろうと研究論文なんでハナから決めつけてたわけじゃないだろうけど、彼らの頭が想像できる範囲が違ってた、というか。
メキシコには、スペイン語化政策のために先住民言語の使用を禁止していた時期がある。「何民族だって言って喧嘩しない!みんなメキシコ人!」なので目的自体は悪くないが、やり方が先住民差別につながった。先住民が社会的に復権した後も、被差別感情は強く残っている。それはともかく、ずいぶん経った今でも、教育レベルの差はなかなか埋まらない。これからはどんどんマヤ人研究者に活躍してもらいたい。が、マヤ人だって皆が歴史や考古学をしたいわけじゃない。マヤ人であることに誇りを持っている人たちには、言語系に行ったり文化紹介系に行ったり芸術系に行ったり、いろんな人がいる。昔のことよりこれからのことの方が重要かもしれない。
ライダー(航空レーザー計測技術)の恩恵ってすごいから、解明の速度はぐんと上がってくだろうけど、研究者層も変わっていってほしい。考古学だけじゃなくていろいろ(マヤ語に関することとか)、「ヨーロッパの言語を使う人たち」の考えることには偏りがある。彼ら同士で別文化だと思ってるから(イギリスだアメリカだフランスだカナダだなど)、彼らには偏ってるという自覚がない。
日本からも留学や研究に来る人がいるけど、マヤ文明の範囲は広いのでグアテマラとかホンジュラスとか別のところに専門がバラけてしまう。英語の論文を読むの面倒くさいんで、ユカタン半島低地南部へ、来れ、日本人研究者!www
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