京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

朝露に音して

2008年08月11日 | 日々の暮らしの中で
   朝露に音して
   開く白蓮は 
   み仏の声
   御陀の呼声

植物園内の蓮池。
あっちでポン! ポン こっちでもポン!…ポン ポン ポン…
ふっくらとしたつぼみです。それが開こうとするときに音が聞こえてきそうな…、そんな風情すら感じます。
大きな葉が揺らぎます。
風がよい香りを運んでくれる・・・ほどには開花していません。

早朝に咲くという蓮の花、「睡蓮」は未の刻に開くという。午後2時。
開花後30分ほど経過というところ。
まあ、それも名の由来だから…。
熱帯スイレン。園内では「静かな、大人気」と、園長さん。

こちらはオニバス。葉のふち!   
夜、白い花が咲き、二日目はピンク色に変わり、三日目、花は終わるのだそうです。
月下美人よりは長命ながら、なんて「薄命」なのでしょう。

昨夜は宇治川花火大会。
友人の土産話に耳を傾け、抹茶だんごをいただきながら休憩所のベンチでおしゃべりです。
帰宅時間や混雑ぶりを考えるとわざわざ宇治まで出向く勇気はありません。
普段あまり足を留めることがない蓮見に誘い、ひょうたん、にがうり・かぼちゃのトンネルを抜けて北門へ。

下鴨神社の糺の森で始まった「第21回 下鴨納涼古本まつり」に“行けたら行こう”と明日を予定。
80万冊、37古書店が連なります。とても一度では回れません。
森の木陰の涼しさを感じながらの古書店めぐりができるならいいのですが、おそらくは汗だく?になるに違いないと想像します。

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おこしやす京都へ

2008年08月09日 | 日々の暮らしの中で
“あなたも楽しい企画を立てて京都へおこしやす”

視覚に障がいのある方の京都観光を、アイヘルパーとしてサポートさせていただく活動がこの春から始まっています。

私は別の用事でボランティアルームに一足早く出向いていたのですが、受講者が次々と集まってこられます。

本日は、現在開催中の養成講座での最後の実体験となるようで、男性は会の代表以外に5名参加、白杖使用者が3名、正眼者も交代でアイマスクをつけたり白杖の代わりにピンク色の杖を使ってみたり、ガイドをしたりと体験するようです。20名ほどがペアーを作って外へと出て行かれました。
午後2時、外は○○いのですが、楽しそうです。
20代の若い女性も混じり、年齢層はまちまち。
「京都」に関する知識は“人並み”以上を自負される方も多いとか。

一時間半ほどして、汗だくでご帰還!真っ赤なお顔。
室内の温度は一気に上昇。クーラーは効かず?扇風機までフル回転です。
冷たいお茶で一息ついて、皆さんの声を聞かせてもらえることになりました。

歩行に際しての障害を、タイムリーに、的確に伝え、危険を回避していく難しさはよく耳にします。
車が来る来る来る、と言うばかりの人もいると笑って話されますが…。

何の知識もなく、何度かハイキングや、散策のコースの下見にと、視覚障がいのある方と組んで歩いたことがあります。
山歩きでは自分のほうが足元不安定になり、大丈夫かと声をかけられたりする始末でした。お恥ずかしいが、楽しかったものです。

  大徳寺周辺の電柱は色が違うのを知ってますか?
  今日は、太鼓橋を渡ったけれど擬宝珠(ぎぼし)を触ってみましたか?
  狛犬があったけれど触ってみた?
  狛犬は、八坂神社、清水寺、北野天満宮…それぞれ違っているのを知っていますか?
あるベテランのアイヘルパーさんからの問いかけです。

「足がどの位の太さかと思っていた」と、おかしそうに話され、全体を触って確かめたとおっしゃる方がいらした。
その時に言ってくれたらいいのに?という注文も。

足元や周囲への配慮はもちろんのことです。
同時に、知識を伝えたいという思いが優先されるのではなく、それを、利用者の目の代わりとなるという観点から接することの自覚の大切さ。
さらには耳で、鼻で手で…、サポートができるよう努力が求められることを感じながら聞いておりました。

足元から目線を上げて周囲に目をやり、楽しい情報・雰囲気などをも共有しながら。「ともに」楽しい一日であるために。

これはきっと普段から好奇心旺盛に、目をきょろきょろさせて、些細なことにも感じる心・感覚を忘れずにいようという忠告かもしれません。
子どもたちがさまざまな色で心を染めていくように。
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ほら、青い柿が

2008年08月07日 | 日々の暮らしの中で

日中は暑さのピークを迎えるものの、早朝、涼風が漂い始めるころ。蜩が鳴き出すころ …とある。立秋。
  もくもくと天空を飾る今日の雲、心なしか趣が違って見える、と、するには無理があるだろうか。

少しも衰えを見せない、照りつける強い日射し。アスファルトの照り返しも歩く者を打ちのめす。陰を陰をと、日傘をさしてまだよけ歩く。
きのうから今日への移行で、特段変わることはない。

        そよりともせいで秋たつ事かいの   鬼貫

民家の小屋脇にある柿の木。 

見上げることもなければ葉に埋もれ気づかない。せめて秋への移ろいの兆しでも見つけてみよう。

非常に蒸し暑い夕刻、日が沈むのを待ちかねる。

そんな中、修理に出していた車が戻る。 3月末、名神高速道路を走行中のこと。飛んできたボルト?様の2個のうちの一個がフロントガラスを直撃。徐々に現れて、伸びるひびを防ぎようもなく、交換。実費となった。

雷様の訪問こそなかったが、後味悪い“涼しさ”が残ってしまいました。

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やはり百鬼は“夜行”でなければ

2008年08月06日 | 日々の暮らしの中で
妖怪が出た!というので、(笑うことなかれ)正体を見届けよう?、ということにしました。

いました。アーケードの上にいました。でも!、
  「だあれも見てる人いないんじゃない?」
  「そうやなあ」
そりゃあそうです。『百鬼夜行』と言うではありませんか。
昼間に行ったところでどうなるものでもないのです。
単にユーモラスな図柄にすぎない?

ちなみに、紅葉シーズンにごみを持ち帰らないと人間を落ち葉にしてしまう「紅爺(もみじい)」、烏の妖怪で信号を操り交通渋滞を起こす「烏魔(からすま)」などが通り過ぎる人たちを見下ろしているのです。昼間だから、そっと。
   
   
     京の現代社会を風刺したオリジナルキャラクター約二十種類の絵を、電球付きで和傘風のものに装飾したというのが“正体”。
明かりがともってからが、彼らの出番なのでした。
「夜」の繁華街に“百鬼”のお出ましとなれば、きっと、ひや~~っとした涼しい風も感じられるのでしょう。

「豪華さ」か「わび・さび」かで人気投票が続いているらしく、今のところ後者がリードしているのだそうだ。
つまり、幽霊ってこと?
   ひゅ~~~~~ぅ、どろどろどろ......
   柳の木の下で??? 
なんてことはやはりあまり好きではありません。
が、やはり夏は、お化け屋敷を歓声?をあげて楽しむくらいですから、「怖さ」がメインでないといけません…のでしょう。

近付くゴロゴロの音を意識して、家路を急ぎました。
大粒の雨が落ち出したと思うや、どしゃぶりです。
ひと鳴りごとに大きくなります。いなびかりまでが加わります。 
頭上でものすごい音。落ちた!!と身をすくめるや、さらに追い打ちをかけるようにと続きます。
肝を冷やしているうちに、すっかり涼しくなってしまいました。

ピタ ピタ ピタ ピタ… 何か聞こえます?


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長年のお付き合いがもたらしたものかしら

2008年08月04日 | 日々の暮らしの中で
  『美を超えて 第四十一回 延暦寺根本中堂』  今朝の新聞である。

天台宗根本経典の一つ「法華経」を重んじた最澄が説く。

国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて国宝となす。故に古人言く『径寸(けいすん)十枚、これ国宝に非ず。照千一隅、これ即ち国宝なり』と。古哲また伝く(いわく)『能く言ひて行ふこと能はざるは国の師なり。能く行ひて言ふこと能はざるは国の用(ゆう)なり。能く行ひ能く言ふは国の宝なり』」

小声に出して読んでいく…、うん?径寸って?、「径寸十枚」って?
文章は、「夏休み、全国から天台宗ゆかりの子どもたちが比叡山に集う。自らも一隅を照らす光になろうと、根本中堂内に座る」と結ばれている。

法華経に触れたこともない、が、何が宝なのか、くみ取ることはできそうだ。神仏に帰依、深い信仰心とともに導きに従って日々暮らす、わけでもない。そうではあっても、優れた教えや言葉には自ずと心は向くものだ。

若い頃には馴染めなかった言葉、もの言い、習慣…の数々。一方で、年齢を重ねることでようやくわかってくる感覚、考え方、人あたり・人間性。
受け入れがたいことも受け入れていく、人生を通じての努力。私には、これがなかなか難しいのですが。

特別でない日常の中で、縦や横のつながりを通じ、人と人とのかかわりが紡がれていっているのだ。
あの日、あの時の、あの言葉と同じもの言いをしている自分がいる。「長年にわたる温かなお付き合い」がもたらしてくれた陶冶だろうかしらん。
やさしさに欠け、あたたかみにも不足していたなあ。
さまざまな知恵をつけ、人の厚情を感じ、やっと、「日々守られ生かされている」というような言葉も使えるまでにはなってきている…みたいです。

根本中堂の内陣はさながら灯りとともに海底より立ち上がる蓬莱島。
中央のお厨子には最澄以来1220年間絶えることない「不滅の法燈」がともっている...そうです。

つながるご縁を感じに、一度参拝したいと思うところです。宗教的なことには疎いのですが、こころのありようでしょうか。


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季節のうつろいを、少し、感じて...

2008年08月03日 | 日々の暮らしの中で
うたたねをしてしまいました。
どこかの世界へ、ふーっと吸い込まれるように、体も傾き、立て直してみたところで同じこと。繰り返しながらいつか寝入ってしまう。
はっと気付くと、外は明るく、まぶしい。 …えっ!?「朝」の目覚めではありません。…ああ、そうか…。

今度は昼寝の始まりです。少しゴロンとしましょうと。
外はひとの声もない、日盛り。
ただ、窓からは、大きくカーテンをひるがえす風が入って来ています。クーラ―をつけてのお昼寝は(たぶん)ありません。
寝かしつける幼な子もいませんから、簡単に“昼寝の国の住人”となれます。
が、目覚めてボーッとした思考回路の調整と、かえってだるく感じる身体機能を今一度呼び覚まさねばなりません。

日も落ちると扇風機やクーラーにはない、涼しい風の心地よさを感じる今日でした。
「だいぶ日が長くなってきた」などと口にしたのは、ついこの間のようです。日の暮れがわずかにでも早くなっています。
「八月」「立秋」、こうした言葉を耳にすると、一歩・二歩、季節の先へと押しやられた感覚でとらえてしまいます。あいかわらずの暑さではありますが。

繊細で敏感な季節感が、否応なしに私たちの、日本人の心を動かすのかもしれません。
暑さ、涼しさ、雲の動き、風の流れ…、いたるところに些細な変化を感じながら、季節は確実に廻っていくことを実感します。
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霊峯を眺めるたびに

2008年08月02日 | こんな本も読んでみた
比叡山を眺めない日はほとんどといってないようだ。
信長の叡山焼き打ちの歴史もあるが、親鸞聖人もここで学んだ。
たびたび京の街へ下りて来る親鸞の描写を、想像をめぐらせて読んだ吉川英治著『親鸞』。

七年かけて行う千日回峯行を二回満行された酒井雄哉師の画賛集を開いてみた今日…。
不眠不臥、断食断水で、親しい人とのこの世の別れの儀式をしてからお堂に入るという過酷な行だという。
 
≪温度が下界より低いというだけではない緊張感にも似た霊気が漂う。僧坊はいずれも南北に走る比叡山の稜線の東側(琵琶湖側)にある。西側の京都側にないのは、冬季に北西風(あなじ)と呼ばれる悪風が吹き風害や寒気が厳しく住むのには適さないからだ。そのぶん夏は涼しい。山中には風の道と言うものがあり山そのものの霊気を風が隅々まで運ぶ。風が雲を呼び、雲が散るときは大地に恵みの雨をもたらす。行者は、早朝、雲とも霧ともいえぬ淡い霞に浸る山中を歩みゆく≫(本文よりの抜粋)。 

霊峯だ。今後眺める際の思いも変わりそうだ。

根本中堂をバックにほほ笑む両親の写真が、二人で歩いた最後の旅でのひとコマとなった。
このテレホンカード、富士山の上に輪の雲。このリングをくぐって天上とつながっているのかしら,,,。
母と父とをつないでいた当時のまま残されて、わずかに、ほんの何分かでもまだ使えそうです。ゼロにして、断ち切るようなことはできません。
きっと守っていてくれるのです。


仏様は必ず見ていてくださる、そういう“目”を信じるなら、明日の新しい自分への励みになるでしょうか。

こんなこと思うのも時節柄? 
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オオサンショウウオのように

2008年08月01日 | 日々の暮らしの中で
暑い時には腹が立つものだろうか、気象予報士がにこやかに軽々とした口調で「週末は晴天で、海水浴日和でしょう…」と言うのを聞いて、つい、「うるさい!」と、テレビに罵声を浴びせてしまった。
68歳男性の投稿の一部を読んで思わず笑った。(環境対策の重要性と言う内容で)

暑いからイライラするんだわ、カッカするのよね。何を涼しそうに!って思うものよね?こんな時でも、こともなげに「おあつ~おすなあー」とかなんとか涼やかなお顔で過ごす、そんな美学の持主でいられるだろうか。
「もう!暑い」は口癖、自分だけ暑いのでないことは重々承知なのだが、つい、ポロッと出てしまう。「うるさ~~~い!」と言いたくなる気持ち、わかるようです。
隣人には、このしつこさ、不機嫌さ?で、環境破壊を及ぼしているのかもしれませんが。

養老孟司さんによると、もともと脳は熱くなりやすい器官なので、気温が高くなると熱中症になりやすいのだという。
カッカしている人に、「少しは頭を冷やしたら」と言葉をかける。
その知恵を働かせたのか、特別天然記念物のオオサンショウウオが鴨川に“朝涼み”に現れた。
「川の段差があるところで落ちてくる水流を背中に当てながら、行ったり来たりする様子」だったそうで、体長1メートル以上の大物。
のっそのっそと歩いて、ちゃんと体の冷やし場所を知って、やって来たのだろうか。

湧き上がる怒りを晴らそうと、あまりに短絡的な行動に出る「人」がいる。
頭を冷やす“場所”はないのだろうか。
ここに「人が壊れてきたなあ」という養老さんの言葉があてはまるのか、社会も壊れてきているのか。

「ひとのせいにはするな」「友人のせいにはするな」「近親のせいにはするな」「暮らしのせいにはするな」「時代のせいにはするな」
と繰り返し、そして、「ばかものよ」とむすぶ茨城のり子さんの詩もある。
が、やさしく生きることがどんなに大変なことか、穏やかな日々ばかりではないのだから。

心波立つ荒れた日も、どこか奥底には、自らを覚ます・冷ます力量があるといいのに。
勇気をもって人の目に触れるところまで出てきたオオサンショウウオのように。
彼は(彼女は)人間の温かさを信頼していたのかもしれないな、と思ってみたりします。


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