形見  2013年終焉

2013年12月30日 | 日々のこと
今年は主人の交通事故に始まり大切な人達との別れが続き

書き留めるのも不快な事もあったりで我が家にとってはおそらくこれ以上ない

というくらいの試練の一年だった。

中でもおとうさんが天に召された事は4ケ月が過ぎても実感がなくて

時節の行事がある事に痛感させられる。

いないってことに「慣れる」日が来るのかなあ。

おとうさんの事を書き留めるにあたり

書きたいけど書くのをためらっていたことがある。

明日でこの忘れられない2013年が終わる。



…おとうさん、やっぱり書きますね。



おとうさんが旅立つ1ケ月ほど前のこと。

私は猛暑の中の草刈り作業の合間の休憩に、

もう一日のほとんどを床に伏せるようになっていたおとうさんのそばで

アイスクリームを一緒に食べていた。

すると急に思い立ったように、けれどとても静かに、私に話しておきたいことがあると言う。


父「これから話す事は他人はもちろん親も妹も誰も知らない、誰にも話した事は一度もない。

嘘やと思うやろけどなあ、わしはな…特攻隊員やったんや。」

おとうさんは旧家の跡継ぎとして大切に育てられ、現在の教育大である師範学校を出て公立の小学校の教員となり

後半は校長として多くの教育者から信頼されていた事。

現場から引退しても晩年までいろんな場所に頼られては演台に上がったりした事。

私が知る限り順風満帆な人生であり、恵まれた時を過ごして来た人といった印象しかなかった。

おとうさんには戦争の影などなかった。

あ、ただ一度だけ、家族旅行で行ったグアムの水族館で、展示物的に水槽に沈められていた旭日旗の描かれた戦闘機を

見たとき珍しく不快感を露わにして怒っていた。

「こんな見世物みたいなことを」と。



おとうさんは旧制中学の時にほぼ男子生徒全員が手を挙げた予科練に気がすすまないまま自分も志があるようなふりをして

手を挙げたそうで、戦況がどんな状態なのかわからないまま流れにのって仲間たちと訓練に臨んだとのこと。

学校から徒歩でいくつか山を越えた村で暮らす家族には「ただの訓練」と告げたまま、鹿児島の知覧へと向かった。

その流れは詳しくは語らなかったのだけれど、結局は仲間たちとともにゼロ戦に乗り込み飛び立った。

たったまだ17歳。

当時訓練のために使う燃料はなく、飛び立つことを想定して地上で操縦を教わった。

なんとか飛び立ったけれど、エンジンの不調かオイル漏れか、敵機へたどり着く前にパプアニューギニアの沿岸に不時着し

気絶したところを現地の人たちに助けられた。

パプアにはすでに日本軍が多数いて、そこへなんとか合流して終戦前に帰還船にもぐりこみ横浜かどこかの港へとたどり着いた。

民家の物干しからシャツとズボンを拝借し、ドロドロの戦闘服を着替えてなんとか西へ向かう列車に乗り込み大阪の地へ

降り立つまで約2年かかった。

大阪から30キロ余り、山をいくつも越えて両親の待つ家へ着いたら村の人たちも家族もまるでお化けでも見るように驚いた。


いつの時点かで上層の軍人さんから言われた。


「戦後の日本で教職に就きたいならば、特攻として飛び立ち帰還したことは口が裂けても誰にも言うな。」

当然もしもそのことを知られたならば、戦犯として罪人扱いされ教職には絶対就くことは出来ないと思った。

その時、そのことは墓場まで持っていくと固く誓った。




おとうさんが話し始めたとき「何をまたえらい冗談言うて。おとうさん、そんなこと言ってたらバチ当たるよ。」

と言ってた私は震えるほどの衝撃を覚えていた。

数日後、おとうさんは蔵の隅にある箪笥の引き出しの奥からある物を探してくるように私に言った。


それがこれ。




特攻服と戦闘機をつなぐベルトについていた金具。

命からがら帰還するときに、これだけはと持ち帰り誰の目にも触れぬように仕舞い込んだとのこと。


唯一のおとうさんの誇りであり、あの2年間を空白にすることはあまりに悲しくてこの金具をそっと仕舞ったのだろう。


じっと見つめる私に「これ、持っといてくれるか?」と言った。

私は「いいんですか?」と受け取った。

ずっしりと重く、60年以上の時を経ているとは思えないくらいキラキラ光っていた。

「大事にしますね、おとうさん」と言うと、おとうさんは嬉しそうに笑っていた。



昨日、主人と「永遠の0」を観に行った。


あの戦争に関わった全ての人に各々の物語がある。


まさしくその通りだと思った。


おとうさんにも観てもらいたかったな。



「あんたの胸にだけしまっておいてな」とそう言ってたけど、やっぱりおとうさんの人生の大切な2年間を

空白のまま葬り去らせることは出来なかったので、ここに書き留めておくことを許してくださいね。

勇気ある強い17歳のおとうさんが、日本を守ろうとした一員であったこと、私も誇りに思います。


おそらく大変な苦労の末、ようやく日本の地を踏んだその日誰にも言ってもらえなかっただろう言葉を・・・


「おかえりなさい、おつかれさまでした。」