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蔵くら日記

人生最後の数年を田舎暮らしで。2004年4月、実現のための行動開始!それは思わぬ展開でスタート・・。今では安曇野三昧

おぉパキスタン・・いくつかのホテル

2008年07月15日 | 海外旅日記
パキスタン北辺地域の旅は13名のツアー。
イスラマバード在住の友人夫妻と旅行社Cox&Kingsでアレンジして頂いた安心安全満足の旅。
この旅行社の総括マネージャーは、大阪府出身の白井さんという方で、滞在中私のあるプロブレムに対し、的確なアドバイスを頂き感謝感謝。
電話口の男性スタッフも、ガイドのアリさん(男性)も大変親切で優秀、そして美しい日本語を話す。社員教育が整っていると実感した。

さて現場に戻ろう
仕事の関係で6名の方は、25日までご一緒したあと、飛行機でイスラマバードに、ラホールに、カラチにと帰られた。
残留組はさらに2泊3日を、フンザ地方から東南のスカルドゥ・シガルへ旅を進めるる。
スカルドゥはK2登頂の基地となる町で、基地といってもここから車で7~8時間の奥地だそうだ。メンバーの一人が、友人に「K2が見える所まで行く」と伝えてしまったと、大笑いになった。当然K2を見ることはない。

ホテル紹介は、クンジュラブ峠への前後とフンザ、魅惑のシガルを過ごしたホテルです。

ホテル・Hunza Embassy ラカポシ山の夕日朝日を眺めた標高2400mのホテル。
夕焼け頃と夕食時間が重なるので、写真を撮りたいのに困ったと一丁前に嘆いていたら、広いバルコニーにテーブルセッティングが始まる。やれやれ

アルコールを禁じているイスラム圏でも、中国産ビールを飲めた。
明日は4700mの峠まで6時間のミニバス移動。ぐっすり眠っておきたい。
 おそらく日本ではもう見られないプルタブ
350mlの缶ビールが600ルピーつまり約1000円だ。ぜいたく品である。
おかげでぐっすり眠れたので、翌朝6時には万全の体制で出発できた。

ここカリマバードはなかなか賑やかで、旅行社やインターネット・カフェ、村で製作されたカーペットや刺繍製品が販売されている。
2泊後はさらにジープで移動の、標高2800mデュイカル地区
ホテルEagle's Nest
別棟の新館は我々だけのようで、石をたくみに使ったお気に入りのホテルだ。
(槍ケ岳より細く高い)レディ・フィンガーがベッドに転がっても見える端部屋だった。


しかし庭の石組みは荒くて怖い。


圧巻は最後の2泊、400年前の藩王の城砦をホテルに改造したSERENAグループの
ホテルSigar Fort Residence

正面入り口。降り立つなり期待が高まる
 ホテルのパンフから拝借画像 
旅行社が勧めてくれたという。
外観や、天井や梁の木材は当時のものを使い、補強し漆喰壁をぬり、トイレ・洗面・浴室・水栓金具類は最新仕様。私のシングル部屋にはテレビがなかった
  エントランス付近

  中庭から眺めると

シングル・ツインとも間取りはさまざま。もとの形を利用してリフォームしたのだろう。
私の部屋は川側の上の窓。囚われの姫が棲んでいた部屋だったかも?


室内の天井と梁  入り口ドアとクロゼット

パブリックスペースには、古い織物がさりげなく掛けてある


食卓にはシンプルなタイセラドンの食器が並ぶ


夕食のオーダーをする時、調理場スタッフが厨房を案内してくれた
おまけに写真を撮ってと・・・撮られたがりやはアジア共通ですが、ここパキスタンでは女性の撮影は禁物。
観光客なれしているから「見せて!」と、デジカメ機能を知っている

建物だけでなくスタッフもワーカーもあったかい人々。ゆったりと時間が流れた。

翌朝はスカルドゥから飛行機で1時間、イスラマバードへ向うが天候次第では欠航に・・・・
タオルでてるてる坊主を作って祈ったが
昨日の、平原の砂嵐は天候不順の予兆-------やはり大当たり!
元来た道を1泊追加し、TOYOTA Coasterをぶっ飛ばして戻った。

花の時期にもう一度訪れたい

■次回はゆるゆると「おじいさんとこども」 いい顔してるんよ

カラコルム・ハイウエイ・・村や町

2008年07月13日 | 海外旅日記
イスラマバードは新興都市なので、京都市内のように碁盤の目に区画されており、住所表示も非常にわかりやすい
車道は広く、緑あふれた町だ。

一方カラコルム・ハイウエイの都市部を過ぎると小さな町~ひたすら走る1車線道~谷筋沿いの怖い道~所々に村、と続きます。向い側の山に切り込むような極細道は、古のシルクロード。

インダス川をはさみ、橋はないのでいまでは村もない。
山の水脈から沁み出す水が育てる木々が、きっとオアシスだったのだろう。


カラコルム・ハイウエイ沿いの川幅の狭い所にはいくつかの岩絵・磨崖仏が残されている。
ガンダーラと中国を往来した仏教僧の手によるこれら線画の大きさは、半端じゃない。



(この岩絵は後半に紹介するスカルドゥ方面)
大きな町のレストランの庭。トイレ休憩に寄ったりランチ休憩するのだが、まだ美しい。
このあと北へ向かうに従い、ガソリンスタンドなども借りるが、予想していたとはいえトイレ室は悲惨になってゆく



モーテルでのトイレ拝借は、ベッドルーム内を借りる
やがて村は忘れた頃に現れる
畑が多くなり

ヒツジや牛のご一行様に出会う

町のはずれで見かけるこの看板は、病院や保健センターなどの支援施設だ。

ある地域では警察のジープが先導してくれた
 
が、我々の写真タイムには気軽にポーズをとってくれる
 のどかな1枚
ある時、道路わきで山からこぼれ落ちるガーネットの原石(小石)を拾っていたら、一緒に拾って私の手に乗せる。(JICAのメンバー旅行なので、安全確保のため配慮していただいたようだ)

フンザに近づくにつれ、村人の顔つきがエキゾチックになり、瞳が青かったり、髪がグレーや茶色だったり。
民族衣装も微妙に違う。フンザの村人はアレキサンダー大王の末裔だとも言われている。
写真下左:築400年の家で、現在も住んでいる家庭を訪問。70歳の主は3回目の結婚で少年少女幼女の4人の父親だ。まだ子どもが欲しいという。元気だこと
若い奥さんが畑を耕し生計を保つ。この地域では女性が畑に出ており、男性は何をしているんだろうと思う。
都会や町では女性の姿は少なく男性・男・オトコだらけだった
別の村で築500年の家も訪問。保存のための入場料を払い一帯を見学する。
村のプールで泥色の水しぶきをあげているのは男子のみ。その周囲に三々五々椅子に腰掛け、老人達が穏やかな顔を向ける。まさか観光用パフォーマンスではないと思うが・・・

古代のシルクロードを抜けて通りに出た

村を結ぶ道路は、中国へもイスラマバードへも行けるが、生活道路でもある

桃源郷と言われるフンザは、すっくと伸びたポプラとゆさゆさ実のなる杏と、宝石のようなさくらんぼと、麦とジャガイモがいっぱいだった。
桃源郷の由来は長寿もさることながら、3月下旬から咲く杏の花の素晴らしさに起因しているらしい。
花の頃はさぞかし・・・・・・・

余談
信州千曲市のあんずの里が有名だが、まだ行ったことがない。写真でみる限り、フンザの景観のほうが標高が高い分(2400m)濃く深いような予感がする。機会があれば花の頃に訪ねてみたいものだ

おまけ
フンザお役立ちサイト
自力で行ってみよう、またはツアで出かける人の予習用に
↑ここがわかりやすい。泊まるのは中高年にはちょっとしんどいので、情報収集とランチかお茶に。

カラコルム・ハイウエイ・・山々に抱かれ

2008年07月10日 | 海外旅日記
7000メートル級の山がひしめくパキスタン北辺地域。
素晴らしい写真はWebサイトにいっぱい掲載されている。
私はというとデジカメの充電がままならず、それでなくても下手なのに、携帯電話のカメラ画像は精一杯背伸びの写真である。
おまけに帰宅すると、山の名前がわからなくなり撮影日時を見当に思い出す。
朝やけか夕がただったかも怪しい始末。
※山の名前を間違えていたので、7月15日訂正しました。

初日は丸1日、車に揺られていた。
チラスで撮影のナンガパルパット(8126m)夕景

二日目以降は、道路から見上げたりゆっくりホテルから鑑賞したりと落ち着いてきた。
世界でも珍しいと言われる三大山脈のぶつかるジャンクション・ポイント

ヒマラヤ山脈(写真中央)とヒンズークシュ山脈(右手前)とカラコルム山脈(左手前)のそれぞれの端がここに集結。
その谷間からきたインダス川とギルギット川(V字)が合流している。
写真の左に少し見える横線は、ギルギット川に沿って北上するカラコルム・ハイウエイ
 看板があるが、とほほ・・・写真とうまくリンクしない

ラカポシ山は標高7788メートル
昼食に立ち寄ったレストランでは、かき氷がすべり落ちてきそうな・・・
このあたりで標高2000mくらいだろうか?日差しが強く暑い。食事は美味しかったが、量が多くて食べきれない


食事はいつもてんこ盛りで、特に小柄な日本人は残る。「食べ残し、ゴミを出してけしからん!」なんて心配は要らないような気がする。料金こちら持ち、残りはスタッフのお腹に収まっているのではないか?

やれやれフンザに到着。明日はクンジュラブ峠まで行くという前日だ。
ホテルのバルコニーから、ポプラや杏の緑濃い村が眼下に見える。
 走ってきた緑の並木道を思い出す

ホテル・フンザエンバシーからの夕景
 ラカポシ

 ディラン

嬉しくて寝てられない!
 夜明け前のバルコニーから 

待ってまって・・・朝焼け1枚

雪を冠った山ばかりではない
岩山の間を流れる雪解け水。急流は砂を巻き込み泥色だが、山深くなると清流に
シルクロードを旅した昔人が石に彫った仏像(もっと大きな磨崖仏もある)

フンザを出てまもなくの、峠へ向うPASSUで。岩にはWELCOME TO PASU。
看板代わりに大きな石に地名や案内や指示が書かれている
信州の独鈷山よりでっかいギザギザ山(名前がわからない。地図をみるとTHAPOPDANかも?)
 花はドライフラワーのように乾燥している

山から張り出した岩の下を、TOYOTA Coasterの天井にすれないかと心配する道も走った。
怖さにめげずガラス越しに写真も撮った。ベテランドライバーでも、最初は怖かっただろう。
ガイド氏によれば転落事故や衝突事故はないそうだ。
信じられない!
そしてクンジュラブ峠から戻った翌日のホテルは、ジープで移動の標高2800メートル 「イーグルネスト」
角部屋から見えた槍ケ岳じゃなかった・・・レディ・フィンガー
 隣のお椀はフンザピーク
レディ・フィンガー。きっとあるだろう名前------やっぱり
【カクテル】
ドライ・ジン2/4  キルシュ1/4 チェリー・ブランデー1/4 中口ですって
甘口と辛口の中間?   
【野菜】
オクラの一品種にあるそうな
オクラは食物繊維を多く含み、コレステロールを減らす効果をもっている。
パキスタンの友人は、どっさり買ってよく料理に使ってくれました

ゆるゆると、次は町や村

おぉパキスタン・・KKH

2008年07月07日 | 海外旅日記
何はともあれ無事帰還しました。
パキスタン滞在16日、その間8日間の北辺地域観光、前後の移動と友人宅居候で19日間の夏休み。毎日が日曜日の身分ながら・・・・図々しくも
しかも快眠快食快便=旅の基本を全うしつつ。

雨季に入っているはずなのに数回しか遭遇せず、室内は天井ファンで34度、おそらく外気温は40度だったと思う。
私が離パキ後から本格的な雨季が始まり、停電もおさまったそうです。

さてカラコルム・ハイウエイ。
インド旅行を始めてからたびたび耳にしたKKH。アジアハイウエイとともに憧れの道である。
中国からの援助や合同建設で、部分開通しながら1986年、我々でも通れる観光ルートになった。ただし国境越えは冬期は閉鎖、天候不順や崖崩れで突然の足止めもありと、なかなか難儀が予想されるが晴天に恵まれ体調も問題なかったのはラッキーだった。

私のKKH体験はイスラマバードから中国との国境クンジュラブ峠まで。
中国側のカシュガルまではとてもとても×××

目指すはクンジュラブ峠 標高4700m(ガイドブックによっては4900mとも)

ツアは、友人夫婦のアレンジにて往路はTOYOTA coaster。復路はスカルドゥ(K2登山の基地となる町)からプロペラ機で・・と8日間の予定だが、フライト不可なら1泊追加のKKH再びTOYOTA coasterの旅になる約束である。

こうしてイスラマバードを21日の早朝出発し、インダス川に沿ってひたすら走る
21日標高1000mくらいのチラース泊
22日標高2400mのフンザ泊
23日高山病に気をつけながらクンジュラブ峠まで
即折り返し、標高2450mのカリマバード泊
24日デュイカルまでジープ移動の標高2800mのホテル泊
25日ギルギットへ戻る前半の旅の始まりはじまり~

 往来を疾走する電飾トラック
重心が高いので、デコボコ道では車体がゆれる。荷物は建築資材や木材、じゃがいもや小麦と思われる野菜などを満載。
HINOやISUZUのトラックを改造し、大金を払って装飾する。
先輩ガイドから聞いた話だけどと前置きし「アフガニスタンでは家を飾り立てるそうな。そこでパキスタンでは車に好きな女性や目や花などを描くようになったのではないか?」相当の経費がかかり、専門のデザイナーも勿論いる。
改造現場を見学したいね。

  乗り合いタクシーもこの通り

ハイウエイといっても日本の高速道路を想像してはいけない。北へ進むにつれ薄いアスファルト道はあるもののデコボコ、砂道、落石ごろごろ、はては雨後の山崩れに道がふさがれ、男性数人で手作業除去といった具合である。

ドライバーは50歳くらいのベテランだが、話し方がラリっているように聞こえる。
ある時後ろ席の女性が「ドライバーが居眠りしているようにバックミラーに映っているぅ」と注意するが、どうもまぶたが下がり気味なのか、顎をあげて運転するので、そのように見えたらしい。
大丈夫です。
崩れ落ちた石の山をエイ!!と乗り越え拍手喝さいでした。車体が大きく揺れ重石代わりの私達も大きく左右に揺れた。

派手派手タンクローリーをわき目に、小さな町を通過し、

路肩すれすれの細道で、窓のガラス越しに下をみるとタイヤが見えないので怖い!
まるでジェットコースターだ。
写真左:川の向い側、山の中腹に昔のシルクロードが見える。中国から僧たちがガンダーラへ通った道だ。大きな石に彫られた磨崖仏がいくつか残されている。カラコルムハイウエイは山間の谷にインダス川を眺め、シルクロードに沿って走っているのです。(右下の白い帯は見なかったことに・・・・)
写真上右:橋のないところではゴンドラが活躍。向かいの中腹で運転しているようだ。おそらく手漕ぎギアだと思う
家は見えないのに、どこからともなく人が現れ歩いています


重石を使ったエコな検問所のバー
ひたすらクンジュラブ峠をめざす

大地が開けてきた。用意の酸素ボンベを使うことなく・・・・・
昨夜のホテルでは、高い中国製の缶ビールを飲み、ぐっすり眠る。
今日は、粉末アクエリアスを溶いた水をちびりちびり飲みながら、高山病を予防する。


到着しました! この先は中国です
予想したほど寒くなかった

小石をポケットに偲ばせ、もと来た道をカリマバードへ戻りました。

まだ行ったことはないが、四国巡礼をバスでめぐるのに似てる

■このあとゆるゆると「山、ホテル、おじいさんと子ども、ラホール」などに続く

インド・スジャータ村

2007年10月02日 | 海外旅日記
スジャータをご存知ですね。そうコーヒーに注ぐあのミルク。
そのメーカーのHPでは、このように説明しています。
『めいらくグループは、1976年にスジャータの発売を開始しました。
「スジャータ」という名称は、長期間の修行に疲れ休息していたお釈迦さまに乳粥を差し上げた、というインドの娘の名前「スジャータ」からつけました』

9月3日~4日連れの婦人と、ブッダガヤ~スジャータ村を訪ねた。
滞在先から車で5時間、のはずが道路工事中やトラックお横転事故やらで、6時間半を要した。


左:遠くに列車が走る田園風景
右:ブッダ・ガヤ(現地ではボーダ・ガヤ)の入口到着

滞在先の日本寺住職の紹介なので、ドライバーもその助手もホテルも安心安全だった。
ブッダ・ガヤは仏陀が悟りを開いた地、旧オーム真理教で有名になったマハーボディ寺院のあるところです。勿論初めて。



左:境内には成道の時に仏陀が座っていたという金剛宝座や大木菩提樹があり
右:アジアからの巡礼団が、熱心に祈りを捧げています

左:夜の菩提樹(仏陀の時代から4代目)  
右:早朝のマハボディ大塔内で若い僧が金色の仏像を磨いていた

寺院付近には日本寺、中国寺、チベット寺、タイ寺など仏教国の寺が点在しています。仏教の大聖地です。特別信仰心が強いわけではありませんが、もう一度来ることはないだろうこの地を踏んでおいてよかったとは思いました。

左:ご飯がてんこ盛りの遅いランチを終え(4人分で487ルピー=1400円くらい)ホテルへ
右:ミネラルウォーターを買うときはキャップに注意。混ぜ物水や再利用容器があるから

大塔から車で15分のスジャータ村に向かう。ミーハーだが、ここには大浴場を持つホテルがあるという。
”ホテル スジャータ”
日本人観光客が多いのでと、10人は浸かれる大理石浴場を6年前に改装したそうです。1泊2400ルピー(7200円)から。レストランも立派でした
当日の湯沸しはないとのことで宿泊はしなかったが、見学だけはしなきゃ・・・・
左:レセプション
右:男女別の浴室入口”お~ふろ”

大理石の浴槽とイス、洗面器  日帰り入浴システムはない

その後一人の中年男性がスジャータ村を案内するよ、と近づいてきた。ホテル内1階にある現地旅行社のスタッフらしい。彼は仏教徒だという。下層カーストから抜け出すために、改宗したのだ。今は幸せと胸をはった。

  遠くに仏陀が苦行した洞窟がある山とネーランダー川

スジャータを祀る寺

左:乳かゆを差し出す娘スジャータ(黄色の壊れた木象)
右:長い苦行で川を渡ってきた後、この井戸に伸びた髪を切手捨てたと伝えられている
らしいが、本当かどうか? 数人の男が寄ってきて、清掃など維持管理に寄付をせよと迫る

観光ツアでは行かない奥まで案内してくれたが、その夜の大塔見学には現れるし、翌朝の再訪時にもどこからともなく現れる。喜捨やリベートを要求しない人だったが、何故私の行動を先まわりするのか、後で少々気味が悪かった。
スジャータ村にはかつて日本人が学校を建設したり、日本語学校の看板などが見えるが、現地の若者や子供が寄付を要求してくる。どうも当時のボランティア団体などは、今存在しないようだ。帰国後、元関係者をNet検索したが見当たらなかった。

夕刻、頼まれたお土産を探しに露店をうろつく
菩提樹の葉10枚入りパックを10個、が指示された商品だが見つからない。
店のオヤジさんは、指定品を取ってくるから待ってて!とどこかへ消え、大きな袋を提げて戻ってきた。
だが菩提樹の葉50枚(数えたら48枚)入りパッケージだったので断る。
依頼品にはならない、と談判している横からスーと手が伸びてきて「これだろ?」の表情。
 
10日間くらい水に漬けて葉脈だけにし、乾燥させたものがこれ!

本命現る!とばかり値段交渉に入ると露天のオヤジが、烈火の如く喚いた。
たぶん「俺の客を横取りするな!」だ
しかし本命は本命。我らは新登場のおじさんと交渉開始するが、黒山の人だかりとなってしまった。結局本命菩提樹を10枚入り10ルピーを10個無事ゲットできた

怒りおさまらないオヤジの店で、不要だが48枚入りの菩提樹の葉と絵葉書を買う。
解決後、別の男性が”沈静化を計るべく割って入って終了させた”と自店の土産物屋へ誘導しようとする。
ったく、頼んだ覚えはないぞ。
この時期観光客がすくないので目立つし、争奪戦になる。

往復の道路には派手なトラックや路線バスが行き来する。渋滞で大行列だ
帰路やっと辿り着いたバラナシのレストラン「アンナプルナ」で食事していると、オーナーがおごそかに近づき、丁寧な言葉で
「日本のガイドブックはお持ちではありませんか?」
用件は直感でわかった。『私のレストランは紹介されているか?』
残念ながら持ち合わせはない

4人で600ルピー(約1800円)の豪華食事でガヤの旅を終えた

おまけ
時間に余裕ある方はサールナート滞在記をご笑覧ください

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Indian Collor(インド色)

2007年09月27日 | 海外旅日記
便利で丈夫なブルーシートは、災害時や事件現場の覆いにと大活躍です。しかもほかの色の物より安価だと聞いています。
安曇野の今頃は、田圃の”はぜかけ”に掛けられており、違和感がありました。しかし今年は少し様子が違い、透明や淡いベージュ色のほうが多いのです。まさか昨年、私がブログでブルーシートは田園に似合わないなんて書いたから・・・なんてことはないが、景観に配慮しようという気運が育ちつつあるのであれば嬉しい。
山も空も雲も川も稲穂も蕎麦の花も、コスモスの揺れる景色にもどうもブルーシートは邪魔なんです。

では、まだまだ続くしつこいインド旅行印象記
インドにもブルーシートはあるのか?あまり目にとまらない。
そこであちこち移動する道すがら探ってみたら。。。
訪問したお寺の通りで、ある家の塀に直接商品や銘柄をペイントしていた。
この手法はあちこちで採用されており、たしかに広告用の材木は不要だ。
自転車、脚立、ペイントの白と赤と刷毛だけ。
そしてこのメーカーは躍進目覚しいのか、あちらこちらで広告を見かけた



道路沿いを乗用車から撮影


列車の窓から

これらの黄色は香辛料のターメリック色

黄色はヒンドゥ教徒にとって最高におめでたい吉祥の色だそうです。カレー粉の黄色はこのターメリックがあるから。ターメリックはショウガ科ウコン属の香辛料で、日本では黄色の染料や漢方薬の「ウコン」の名でも知られている。気にもしていなかったが、新聞の広告欄に「ウコン」の文字が踊っていることがある。たいてい健康に関する記事だったと思う。探す時は見つからない。今度見かけたら読んでみよう
夕食はターメリック、にんにく、しょうが、レモン汁を使った魚料理にしようっと。
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DELHI METROに乗って

2007年09月24日 | 海外旅日記
思い出話ばかりですみません
8月31日は成田からJAL直行便14:40発でデリーへ
 7時間40分(通常は8時間)で到着した
主目的は資金・物資の運搬なので、当然荷物は多く安全の確保が第一。
準備段階からネット検索のゴニ・トラベルにお世話になった。
デリーでのホテル宿泊と送迎タクシー・国内線(デリー⇒バラナシ)チケット・バラナシ駅からデリー駅への鉄道チケットの手配を依頼しました。超多忙を極めていた時期だったので、きめ細かい対応に感謝でした。

さて
デリーにはメトロが走っていました。沿線には大きなビルも建ち始めています
8年前は、まだ工事がはじまるよ~段階だったので興味深々。その頃はまだエスカレーターに乗るサリー婦人の恐る恐るの顔つきに苦笑したものでした。
メトロ駅周辺は序々に整備されているようで、ビジネスマン向けらしいホテルが建つ
ポスト前は、上のメトロに並行した道路で、やっぱりオートリクシャやタクシー・乗用車・自転車がホーンを鳴らしながら、ひしめき合って走る

左:駅周辺は大型マーケットなど開発著しい 右:遠くのマンション建設ラッシュ現場

転じて駅の階段屋根に目をやると、ボコボコのトタン板はいかにもインドらしい


ホームの注意書き掲示板には、日本にはもうないマークが・・・・
そうです、街では平気でごみを投げ捨てる、タンを吐く、刻みタバコを吐き捨てる。

車内には、MITSUBISHIとの合弁事業を示す銘板がありました。


乗り方は、窓口で行き先を告げてトークン(プラスティックのコイン)を購入し、SUIKAのように読み取らせてバーを開閉し、降車駅で回収される。紙キップでなくトークンは使いまわしだから、環境には配慮しているのだ。
軍のお姉さんが駅にいて、写真は撮っちゃダメという。なんでこんなところをダメというのか?・・・。あごをしゃくって、とにかくエバっているのだ
デリーを中心に東西南北に走り、地下部分の距離は少ない高架線です。
コンノートプレイスは様変わりしていました。
ニューデリー駅までゆくと鉄道駅とメイン・バザールにつながっています
車内の女性は殆どがサリー以外のTシャツやブラウスにジーパンが多かった。
都会の若者のサリー離れは、確実に進んででいると思いました
2010年8月にはニューデリーとAirport Expressがリンクする予定だから、タクシーの運ちゃんと値段交渉しなくても、デリーへ出られるんだ。
やれやれ嬉しか~

付録
ゴニ・トラベルのオーナー、セナ氏は日本にもたびたび来ておられて、友人も多いという。
滞在最終日にホテルで会食しました。
実はガイドからの転進組の成功者で「地球の歩き方」でも超有名人だそうです。
全く知らずにあれこれワガママを聞いていただき、大変誠実な方でした

おまけ
今回は同行者がおり、またパキスタンへも立ち寄るというので、携帯電話の海外ローミングを初体験しました。インドからパキスタンへ移動しても自動的に接続会社へジャンプします。凄いですね。
しか~し、請求書がきたら青くなること必至。とほほ
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メイン・バザールは今でも燃えている

2007年09月23日 | 海外旅日記
IT大国や、経済発展目覚しいといっても、それは限られた層の話。
庶民の日常は変わっていない、特に田舎ではノンビリと時間が進みます
左:サイクルリクシャ   右:物資を運ぶ婦人(いずれもサールナートにて)

さすがに繁華街の闊歩牛は減っていました

観光客相手の喜捨要求も旺盛だった。真夏の観光客、それも主力カモである日本人が少ないので狙われやすい。すり抜けながらの撮影でした。立ち止まると手が目の前に・・・
さてデリーの一番面白いスポットはなんといってもメイン・バザール。
今も変わらぬ賑やかさだ。外国人老ヒッピーもお愛嬌だった。若い頃の衣裳そのままだが白髪なびかせ、おまけに老カップルという人も・・・・
ヒッピーと言ってどの世代までがわかるのだろうか?
では、はっちゃかめっちゃかな雑踏風景から
左:鉄道デリ-駅前からバザールは始まるが、横断に一苦労。インド人に続いてすり抜け渡る
右:神様グッズの旗がひらめく。寛大なインド人ならでは

左:道幅6メートルに乗用車、営業車、オートリクシャ、写真のサイクルリクシャがひしめく
右:1本脇道なら喧騒は少ない

左:今でも写真撮ってくれとせがまれる。彼は清掃の仕事をしていると茶髪で笑う。
すぐ見せてとせがむのは、すでにデジカメは承知。昔ならポラロイドカメラだった
右:同じように若者向け衣服ショップの店員にせがまれるが、彼はe-mailで送ってと名刺を出す
やっぱり返信がきた。日本の山や街の写真を送れと言ってくる。そのうち日本で働きたいと言ってくる。引き時を・・・・

左:埃も一緒に混ぜて売るスナック菓子屋
右:2階から笑顔がこちらを見ている。1階は生地と洋服の店舗、2階は縫製室。しかし昼間なのに暗い

バザールの中間あたりのスパイス屋
オヤジさんがここで調合する有名な店。言葉が通じなくなると近くの息子の店を紹介する。息子は、配合説明や使用法を簡潔に日本語でしたためたボードを差し出し、英語と日本語で対応する
観光客プライスの店だからインド人客は当然いない

こんなこともあった
若い女性と行き違った。夕食を一緒にと話がまとまり入りかけた店の前で「あらっ、ひょっとしてどこかで逢った人!」
一人旅をしているとよくある話で、彼とはラオスであったことが判明。再会を祝し合流して「Chat House&Sonu」で会食した。
従業員氏”むちゃくちゃ旨いよ”と呼び込む。
私「”むっちゃ旨いよ”の方がウケるよ」
次に通りかかったら早速採用していました
左:若者は先進国でワーキングホリデーのあと、半年アジア各地を放浪しているって
右:むちゃくちゃ美味しい店のパンケーキはクレープで、散々待ってやっとき来たのはバナナのカットが転がっていた


おかまさんにも挨拶された
さすがに写真は遠慮したが、私の被った白い大きな帽子(日本のバーゲン品)がステキと肩を叩く。どこの国にもいるが、まだまだ化粧にセンスがみられないのが残念だ。
店は多少こぎれいになったが、ゴミは散らかっており、通行者がいても平気でほうきで掃いているか、ばら撒く。店先で扇風機用の発電機をブンブンかけるので、熱風にさらされる。
雑多な街は今でもメラメラ燃えていた
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インドへ

2007年08月29日 | 海外旅日記
インドも世界経済の常識に慣れてきたのだろうか?
インド国内航空会社ががんばっている

デリー→バラナシの航空運賃の話だ
Air India  独占にアグラを書いてきた。 無茶高い
Jet Airways 日本支社を開設し、日本語対応電話・ネット購入OK
Sahara    出始めのころ利用したことがある。高かった記憶が・・・
以上は従来の会社

そこへ果敢に参戦しているのが以下2社
■Spice Jetスパイスジェット・エアライン--安すぎる。デリー・バラナシ間が鉄道並の設定
■King Fisher キングフィッシャー・エアライン---経営母体はビール会社
F1のトヨタ車にでかでかステッカーが貼ってあります
個人旅行される方は参考にしてください

いいですねぇ。おおいに価格破壊の競争してほしい
ただし安かろう事故が多かろうは御免こうむりたい

8月31日成田発で8年ぶりにインドへゆきます。
手伝っている支援グループの若いS氏の学術研究渡印に、同世代3婆が途中までコバンザメ状態でついてゆきます。
インドに帰化した日本人住職へ届け物の運搬・サールナートとブッダガヤ観光、ついでにパキスタン・イスラマバード在住の友人夫婦を尋ねる旅。
リュウマチに悩む住職へははとむぎ精白粒や煮干、椎茸などの自然食品や本を。
イスラマバードの友人へは懐かしい日本食品(のりや高野豆腐や醤油ほか)を。
4人とも持込可能重量ぎりぎりの荷物になりました。税関で「なんの商売しとるんや!」と不審がられそう・・・・。細かい詰問にはS氏を全面に差し出すつもり。
コバンザメの所以である

それでもって更新は9月中旬までお休み
当然ながら暑いらしい。熱さまシートも持ったもん
ほんでもって赤の勝負リュック。生来強運の私のこと、まず元気で生還いたします。
それまでしばらくごきげんよう。。。。。


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バヌアツへ逃避行?Part2

2005年12月16日 | 海外旅日記
バヌアツは南太平洋の群島国で、オーストラリア・ケアンズのほぼまっすぐ東にある。
滞在したエファテ島は首都ポートビラ(国際空港がある)のある、3番目に大きい島である。
といっても面積は沖縄本島よりやや小さく、形は屋久島のようにやや丸い。
賑やかな町は南北に広がり、歩いても15分くらい
■かのエロマンガ島はこの島から南にあり、Erromango が正しい
■バンジージャンプ発祥の地はポートビラから約220キロ北の島で、
現地ではランドダイビングと呼び、収穫祭のイベントである(現地のパンフレットから転載)


さてエファテ島での滞在は格安・ビュー美・うまい朝食つきロッジに滞在し、
ランチ、夕食は石原氏宅でお世話になった
好物のマンゴーも、当分はいらないというほど食べました

散歩コースの浜辺とマーケット紹介
フレンドリーな子ども達が、カメラを向けるとわざわざカメラ目線で配置につく
海水パンツなどではなく、シャツとパンツの普段着で泳いでいる



オープンマーケットにて
バナナの葉で編んだ大きいバスケットは、野菜や果物を運ぶ
ココナッツもそうだが、捨てるところがない!



ん? ”firewood”
なぜ南国で薪?まさかストーブではないはず。かまど(煮炊き)用でした
1束=200VT(つまり約200円、束の大きさも日本とほぼ同じ)
私がNPO法人「柴刈十字軍から買う薪と同価格。フフフ・・・
残念ながら木の種類を聞きもらしたが、島内の様子から、バナナかヤシか?

ココナッツクラブ(ヤシガニ)
浜辺の木の前にガラクタをあつめて巣を作るらしい蟹で、いつもあるとは限らない。
ラッキーなことに食卓にあがりました。それも超特大を2匹も。
石原夫妻は私達のために奮闘して茹でてくれました(暴れたらしい)
形は少々グロですが、なかなか美味。特に味噌が・・・・
たっぷりのかに味噌に真っ白の身をつけて、ごちそうさま。
写真左:食卓にのぼった蟹   写真右:マーケットのしょぼい蟹

お土産いろいろ
各種パンフレット
タムタム(トーテムポールのような木工品)
手編みなべ敷き
お土産を代表して「ぶっとい貝」登場(エコツアのングナ島滞在地の浜辺にて獲得)

*大きい貝
重さ 500グラム 大きさ 横20.5センチ 縦10センチ 高さ5センチ
*小さい貝
重さ 220グラム 大きさ 横11センチ 縦9センチ 高さ3.5センチ
*用途
食器・小鉢、灰皿、ビー玉いれ、インテリアなどに

写真右の30センチ定規(250VT)は、愉快なイラスト入りでバヌアツお土産最適品です