ウツウツ記

毎日の生活で感じたことを書いています。

「カルトの子」

2009-03-30 20:00:11 | 読書
「カルトの子」米本和弘著を読んだ。
(エンブリオの途中で読み始めたら、面白くて一気に読んでしまった)
カルトとは組織や個人がある教えを絶対であると教え込み、
それを実践させる過程で、人権侵害や違法行為を引き起こす集団。
ここでは、身近なオウム真理教、エホバの証人、統一教会、ヤマギシ会
を取り上げ、親がこれらに傾倒し否応もなく巻き込まれた子ども達について
書いてある。

取り上げられたどのカルトも知っている。
オウムはあまりに有名だし、私が大学生の頃は隠れ統一教会が
話題になった。サークルだと思ったら実は統一教会だった、というような。
ヤマギシ会は新婚の頃住んでいた所に、この会の車が野菜などを
売りに来ていた記憶がある。
エホバの証人は知人が信者だし、家にもよく冊子が入れてあった。
私はどれも必要と感じなかったし興味もなかったので
(というか、宗教には反発があるので)
どれも深くかかわらずに過ごしてこれた。
この本を読んで、今更ながら、かかわらずにいて良かったな、
と思った。

どのカルトに入った親も真面目だったのだと思う。
オウム犯の本を読んでも、学力もさることながら
人生を深く考える真面目な人が多かった。
どの親も真面目に教義を実践しようとして、
配偶者を、子供を巻き込んでゆく。
大人はいい。
判断する力を持っている。
カルトに嵌まってしまうのは、結局は個人の責任だから。
けれど、判断する力も一人で生きてゆく力もない子供、
あるいは生まれた直後から
ある特定の価値観だけを与え、外界を一切遮断してしまうのは
暴力、虐待以外の何ものでもない。
親の心は全て、カルトにむいていて
子供に与える愛情などない。
実際、親子を隔離してしまうカルトが多い。
あるいは、自分は人生の途中からの信者だが
子供は生まれた時からの信者、超人にしたい、
と自分の思い通りにしようとする。
隔離され監督者から虐待される子供は、
親に捨てられた、と思う。
そのカルトを信じていれば親に嫌われずにすむ、
と感じる子供は自分の心を押し殺す。
オウムのように強制的に救い出せた例もあるが
ヤマギシ会のように、脱走をしない限り把握すらできない例もある。
せっかく生まれたのに、自分の人生を生きることもできず
その無念さはいかばかりだろう。
覚醒する親もいるが、
そのカルトがカルトだとは気付くが
自分が子供を巻き込んだことには気付かないのだ。
なんともはがゆい悔しさである。

宗教に反発がある、と書いたが
それには理由がある。
私の母はプロテスタント系クリスチャンである。
20代で洗礼を受けたそうな。
絶縁した母は、それはもうクリスチャンを売りにしていた。
日曜日は礼拝に行き、平日の一日は教会で婦人会に行き、
月に一度は家に牧師を呼んで勉強会を開いていた。
勿論私や姉も、強制的に日曜礼拝に行かされたことがある。
口ずさむ歌は賛美歌だし、取っていた雑誌も
教会系のものだった。
クリスマスプレゼントは聖書物語3巻。いらねー。
絶えず母の周りには教会の人がいたし、
話題も教会の事が多かった。
母の基準は、教会の人かそれ以外か。であった。
教会の人は信用できる。
それ以外の人はケチをつける。
私だって子供だったから、親に気に入られたい。
教会に行けば機嫌がいいから、行った。
ただそれだけだ。
こんな環境にあっても、私は子供心に絶対にクリスチャンなんかに
ならないぞ、と決めていたのだ。
それは何故か。
まず第一に、聖書の教えと彼女の日常はあまりにかけ離れていた。
人を差別していたし、自分は他人を傷つけているかもしれない、
という謙虚さを全く持っていなかった。
私は正しい、と常に言っていて実際、家庭を支配していた。
博愛精神なんてなかった。
(エホバの証人の子供の虐待について記述してあったが、
 うちも似たようなものだった。ひどく殴られたし包丁で
 脅されたこともある。心理的な脅しも多かった。)
教会の人だって、悪口をたくさん言い合っていた。
妬み嫉みがあった。
百歩譲って、だから人間なんだ、と思っても
それならそういう不完全な人間だ、という事を認めようよ。
でも、認めないんだな、絶対に。
クリスチャンだから世の人より、優れている、
そう言いたい人ばかりが集まっていた。
信者の裏側を見ているから、
私は素直に教会に通いながら心は絶対に渡さなかった。
彼女が何故クリスチャンになったのか、
理由はあったのだろう。
祖母はお寺の出身で、これまた熱心な信徒だったから。
人生への不満?
転勤の多い夫との暮らしには、教会の人間関係は確かに
安心できるものだったのだろう。
でも何を求めていたのだろう。
 
じゃぁ私には、全くの宗教心がないのか。
私は人間が敵わない存在はあった方がいい、と思っている。
例えば、自然。
だから昔の人のように、山には山の神、海には海の神。
八百万の神様がいていい、と思うのだ。
自分は不完全なものである、という謙虚さ。
それが大切なんじゃないだろうか、といつも思う。
何かを畏れる。
何かに敬意を表す。
それは結局は、自分以外の誰かや何かを大切に思うことだ。
そんな小さな存在だと自覚する。
それだけで、結構心は穏やかになれるんじゃないだろうか。

本の感想と言いながら、自分の過去を振り返りすぎた。反省。
けれど。
私の生き苦しさは親に自分の意見を言えないことだと気付くまで
何十年もかかった。
最後の会話は、「あなたは自分が誰かを傷つけたかもしれない、
と思う時があるか」だった。
「あるかもしれない」と言われたら、絶縁はしなかった。
でも返ってきたのは「私は正しい事しかしていない。傷つけてなんかいない」
だった。
そうか。やっぱり、そうなんだ。
私は絶対に正しい、と思える人とはわかりあえない。
年取った親と縁を切る罪悪感に苛まれる方が、
偽る苦しさよりいい、と思った。
カルトのよって自分を奪われたこども達も、
永遠に親との関係に苦しむのだろう。
いつかは対等に対決しなければ、自分の人生は始まらないと思う。
親を許す人も、親と別れる人も。
対決できるまで心が無事であることを祈るばかりだ。
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