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「民主主義は次善の制度」か? 憲法96条は権力者から国民の権利を守る最大の防壁 九条より重要

2013年03月15日 | 平和・人権
「民主主義は次善の制度」とよく言われる。『バカに民主主義は無理なのか?』という扇情的なタイトルの本が出ているようで(読む気はないが)、そういった見方は可能なのかもしれない。民主主義、多数決が善という型にはまった学校教育から自ら外に出ようとしない人には何を言っても通じないのだが。

絶対王政や独裁制が国民に支持されることがあるのは、童話の世界だけでなく、リビアやベネズエラなどでも現実に起こっている。悪魔のようにののしられたのは、アメリカの世界戦略に都合が悪かったから。ただし、もし悪政だったり腐敗がはびこっても、クーデターでしか排除できない。

(ベネズエラのチャベス大統領は選挙で選ばれではいるが、クーデターを企てた経験もあるし、大統領就任後に憲法改正して権限の強化をはかっているので、実質的には独裁制と言っても差し支えないだろう…)

「民主主義が次善」であるのは、失敗したら選び直すことが可能だから。菅政権の福島棄民政策→ひどい→野田政権の財務省言いなり増税政策→ひどい→安倍政権のアメリカ言いなりTPP原発推進政策→ひどい→何度でも選び直して、どんどん泥沼に落ち込んでいくことができる点において優れている。

ナチスも民主主義から生まれた。茶色の朝もそう。正当に選ばれた民主的政権が、その制度そのものを自ら都合の良い方向にねじまげてしまうことができれば、「次善」ですらなくなってしまう。その歯止めが憲法。内閣法制局の憲法解釈は、そのためにある。憲法は権力から自分たちを守るためにあるんだよ。

権力者が憲法を変えたがるのは、それが自らを縛っているから。今でも相当多くの人が勘違いしているみたいだけど、国民は法律に違反することはできても、憲法違反に問われることはありません。憲法に違反することができるのは、権力者、官憲だけ。

(そもそも学校で憲法の意味を教えられていないのが一番の問題。偉そうに書いてるけど、私自身も大人になってから知り、世の中の見方が変わったから。)

まず最初に憲法96条を変えようとしているのは、本丸(九条)に攻め込む前に、自らの手足を縛っている「3分の2発議」要項を「3分の2」の賛成が得られやすい瞬間(参院選後)を狙って一気に解き放ってしまおうとしている。憲法96条は硬性憲法の最重要条件で、九条そのものよりも重要。

それに、本来、憲法を変えることができるのは、憲法を守る義務のある首相・内閣じゃなく、国民の代表である国会だけ、のはずなのだが、そうではないという論もあるようだ。

憲法を変えずに「正当に選ばれた民主的政権が制度を自ら都合の良い方向にねじまげてしまうこと」が一番簡単にできるのは、選挙制度を都合の良いように変えること。昨年末の選挙で気がついた人が多いと思うけど、あの細川・河野深夜談合で決まった「政治改革」はそういう意味だったんだよ。

あのとき、メディアの「政治改革」大合唱に騙されて国民は自らの権利を失ったことに気がつかなかった。憲法96条改正なんて絶対に許しちゃ駄目だよ。茶色の朝はそうやって始まるんだから。コントロールしやすい大衆をメディアを利用して誘導し、少数意見はどんどん圧殺されていく時代になる。

解釈改憲を否定し、憲法改正(自主憲法制定?)をうたって多数を占めた安倍政権が、内閣法制局の憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を可能にすること(=解釈改憲)は、全くの自己矛盾。(ここで内閣法制局の憲法解釈について少し勉強しないといけないのだが…)

内閣法制局による憲法解釈小論(PDF)http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200802_685/068503.pdf

ここまで書いたのは、憲法は絶対変えちゃいけないという意味では勿論ない。たとえば原発国民投票。国民投票の制度を憲法に組み込むのは、国民の権利を高めて権力者を縛る機能を付加するものだから、本来の目的に沿っている。だから政府・権力者は反対する。その逆の理由で96条を改正したがる。

ものごとを理解するには、それで誰が得して、誰が損するのか、お金はどこから出て、どこに入るのかを理解するのが一番簡単。堤未果さんの著書『政府は…』にもそう書いてあったはず。憲法改正にせよ、TPPにせよ、原発再稼働にせよ、みんな同じ。

TPPと混合医療解禁だって、損するのは国民で、得するのは保険会社と医療費を削減したい財務省。モーニングバードのそもそも総研でも、玉川さんはその辺を伝えようとしていたけど、出演者はよく理解できていないようだった。

核心評論「憲法96条改正論 根本的な理念の転換」(共同通信編集委員・川上高志)
 発議権の緩和は単なる「手続き」の問題ではない。「憲法は人々の権利や自由を確保するために国家権力を縛る」という「立憲主義」の放棄を意味する根本的な理念の転換だ。
 根底には2012年に自民党が策定した「憲法改正草案」にも共通する憲法観がある。草案は、国民が憲法を尊重する義務を定め、国民の義務規定を新設するなど「国民統制」が目立つ。国家の側に立つ憲法観だ。国家権力を制限する立憲主義との違いは明確だろう。

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