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稚内、松前から・長崎まで日本縦断3000キロ「歩き」

2014年04月01日 | 歩き旅行
2000(平成12)年の4月から、5,6.7,8月と5回、北海道へ行き、函館国道5号線、札幌12号、旭川40号から稚内まで都合、19日間かけて北海道を歩き、札幌へでて、手稲山に登って一人で「万歳」しました。 平成元年6月3日、日本橋から品川まで歩いたのを皮切りに、ほぼ1日1宿で京都に着いたのは8年10月16日。 東海道歩きは、旧道史跡にこだわって歩いていたが、京都で長崎まで歩く気になり、大阪までは淀川東岸1日。

大阪からは昔の九州人と同じで、瀬戸内海は船で渡り、九州は門司から7日間で長崎へ着いたのが10年4月20日。長崎へ着いてみると、北海道まで歩いて日本を歩いて縦断する気になった。 日本橋から日光、奥州。松前街道を東北へ向かい、津軽半島先端の三厩宿へ着いたのが、11年9月16日。この津軽の最先端龍飛岬に旧街道がそのまま国道になったために階段になっているところがあった。車で行く人は日本海側からどうぞ。

奥州街道は江戸五街道の一つであるが、終点がはっきりしない。奈良飛鳥時代の東山道が基本になっているが、これは鎮守府多賀城までである。江戸幕府の官道は白河まででそれ以遠は各藩が管理したので奥州道中の名もある。

実際に奥州街道を歩き始めるまでは芭蕉さんの「奥の細道」の題名に騙されていて、細い道だとおもっていたのですが、東海道とおなじく、3間5,4メートルの本道に1間1、8メートルの松、杉などの並木と側溝が両側について5間道である。この5間道が長崎から松前の対岸まで続いていたのである。

盛岡からの松前街道は、津軽海岸と鉄道に挟まれたところにあるが、酔っ払いの設計のごとく蛇行している。これと対照が盛岡南方でほぼ40キロが直線である、馬の国・南部の意識であろうか。

この地方に一戸、二戸、三戸の地名が残るが「戸」は藩営牧場で馬を飼育していたのである。走る馬が曲がりたがらないのとかかわるか。ここでは旧街道が真っ直ぐで現代のバイパスが曲がっている。 街道1の美景は静岡県の薩垂峠。いまは道が整備されている由であるが、私は昼寝する蛇をまたぎ、落果枇杷をかじりながら畦をよじ登る道だった。峠からは海越しに富士が美しかった。

東海道は半分ほど国道1号線と重なっているが、静岡市周辺が旧道の形は残っていないのに対し、遠州では片側の松並木を残し、片側を拡幅している。列車からでも分かるのがうれしい。 天竜川を渡る橋は片側に狭い歩道があるだけで生命の危険をかんじるほどである。歩いてみると、日本の道は車のため。歩道まで自転車に占領されつつある?

街道筋には常夜灯があって、某が寄進したなどと書かれているが、江戸時代の仕組みでは、それ1基に1反300坪の菜種畑がついていて、運営費用に当てたという。日永追分からの伊勢道でわおびただしいかずで夜道も歩いたという。

北海道に渡って小樽、札幌、旭川は交通量もあるが、他は人の気配が少なくなる。6月の大沼あたりは晴れていたのに太平洋岸の森は霧の中。

稚内の方はさらに厳しく道中食事の場所もない。7月の9、10日水筒1本のお茶と1食だけで1昼夜ほぼ75キロを歩いた。何もないのである。食べるところも、寝るところも。幌内の雪印工場はどうなったか?

歩き始めは快適であった、両脇の牧場は広々、東京よりいいという気分であったが、夜になれば景色もたよりなく、月は1時頃地平に没した。かすかな星の光を頼りに歩いているのだが「路面に反射光がない」

突然、歩道が無くなっているのだ。寒さが厳しくなってきたし、これでは歩けない、駅へ行って一休みしようと思えばカギがかけてある。外のベンチで3時間ほどねたが寒さで目が覚める。歩くよりない、特急の止まる音威子府までいけばなんとかなるだろうーーーーーーーー。これで道に迷っていたらあの世行きだったかも。

日本を歩いて縦断した気分のよさに浮かれ、札幌へ戻ってそのまま手稲山へ登った。翌日から腰痛。直るのに3ヶ月かかった。そのときは2度としたくないと思ったが、すぐに気分はかわり、瀬戸内を船で九州へ渡った。山陽道も歩く気になり、甲州、中山道、四国遍路も、となった。

[飛行機追伸]札幌・丘珠空港から紋別、オホーツク沿いにサロマ湖、網走湖、トーフツ湖上空から、知床半島のオシンコシンの滝、カムイワッカの滝、カシュニの滝をみて知床岬へ。女満別空港に着陸したら大変でしたが!






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