明治7年9月14日、いわゆる「北京談判」最初の会談が総理[行のなかに吾]門において行われた。16日、19日、10月5日、18日、20日、23日、25日、29日、清国が、わが征蕃の義挙たるを認め、償金50万両の支払いを諾す。31日、大久保大使ら北京出発。
この日の大久保日記「これまで焦思苦心言語の尽くす所にあらず、生涯又かくのごときのことあらざるべし」と。
この成功は大久保の用意周到、冷静沈着な交渉能力、粘りである。
内外の国際法の知見の士を帯同した。それによれば、清国は台湾の領有を主張するが、その官吏もおらず、政教の実なし。
10月25日には、談判破裂となったが、外交団の仲介、根回しで北京が折れてきた。
この日の大久保日記「これまで焦思苦心言語の尽くす所にあらず、生涯又かくのごときのことあらざるべし」と。
この成功は大久保の用意周到、冷静沈着な交渉能力、粘りである。
内外の国際法の知見の士を帯同した。それによれば、清国は台湾の領有を主張するが、その官吏もおらず、政教の実なし。
10月25日には、談判破裂となったが、外交団の仲介、根回しで北京が折れてきた。