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門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

光源氏の老い。『源氏物語』若菜 下

2014-08-16 10:55:05 | 読書
さかさまに行かぬ年月よ。老いはえ逃れられぬわざなり~『源氏物語』若菜 下


源氏物語後半〔若菜 下〕にある、光源氏のことばです。
このことば自体、普遍の真実を含むもののとりたてて際立った文飾はありません。

しかし、このことばを口にした人と向けられた人との関係、そしてそれが発せられた場面。そのことばの真意を知る時、光源氏の未知の人格と深い心の闇が垣間見え、慄然とするに違いありません。
以下に、当句を含む〔若菜 下〕の主要段落を現代語訳でご紹介しましょう。

必要な場合、物語の背景とあらすじは下記リンクをご参照ください。

●3分で読む源氏物語 若菜 下
http://genji.choice8989.info/main/wakanage.html


〔現代語訳〕

●若菜 下

 衛門督をこうした機会に参加させなければ、催しも引き立たず物足りない。その上人々も不審に思うといけないので参上するよういってやったが、病が重いと称して参らない。とはいうもののそれほど病状も悪くなさそうである。遠慮しているのでは、と気の毒に思い、殿は丁重な招待状をお送りした。父の大臣も、
「なにゆえ辞退なさるのか。すねてでもいるように院の殿にとられかねない。たいした病気でもないのだからがまんして参りなさい」
 とすすめられるところに、重ねて招待がきたので衛門督は辛い辛いと思いつつ参上した。

 上達部たちもいまだ集まっていない時分。殿はいつも通り衛門督を側近く御簾の内に招きいれ、ご自身は母屋の御簾を下し、その中にいらっしゃる。
 衛門督を見ると、確かにひどくやつれ、青い顔である。常々弟の君たちとくらべても誇らしく派手な振る舞いは見られないのだが、今日はことさら行き届き物静かな様子が人とは違って見えた。皇女たちの婿君として側にならべても、まったく遜色のない有様ではあるが、ただ例の件では二人ともまるで無分別であったことは許し難い。と、じっと目を注ぐのだけれども、さりげなくやさしく、
「さしたる用事もなかったので、ずいぶんとお久しぶりのことです。この頃は病人たちの介抱のため、心の余裕もないところに、院の御賀のためこちらの女宮が法事をしようとしても何かとさしさわりが重なり、このように年も押し詰まってしまいました。なかなか充分とは申せませんが、形だけでも精進のお料理をさしあげようと思います。
 御賀といえば仰々しく聞こえましょうが、わが家の子供たちも増えてきたので、お目にかけようと舞など習わせはじめました。せめてその催しなりとも果たしたいもの、その拍子をどなたにお願いしたものか、と思い悩んだ末、ごぶさたの恨みも捨ててお呼びしたのですよ」
 と仰る気色は、なんのこだわりも感じられない。衛門督はいよいよ恐懼し、顔色が変わってしまうのでは、とにわかに返事もできなかった。

「この頃、こちらで心配なことが起こっているとお聞きし、案じておりましたが、私も春より持病の脚気がますますひどくなり、しっかり立って歩くこともかないません。日ごとに弱り、宮中へも参内せず、世間とも縁を切ったように引きこもるばかり。
 今年は院が五十になられる年。心を込めてお祝いしなければ、と致仕の大臣が思いついたのですが、
『もはや冠も挂け、車もきっぱりと捨ててしまった身。自ら進んでお仕えしたくとも、その場所はもうない。そなたは卑官の身ながら、お祝いする気持ちの深さは私と同じであろう。その志をご覧に入れよ』
 とせきたてられまして、重い病をおしてここに参りました。
 朱雀院はこの頃ますます静かな境地に精進され、仰々しい御賀など期待してはおられますまい。せめて儀式は簡略にすませ、ただご息女(女三の宮)とのご対面をかなえてさしあげるが何よりと存じております」

 と衛門督はいう。殿は、女二の宮主催の盛大な御賀をも夫である自分が仕切ったといわない、衛門督をなるほど行き届いたものだと思う。

「いやもう、この通りです。簡略なお祝いに世間は気持ちがこもっていない、と見るかもしれませんが、あなたはちゃんとわかってくださっている。さればこそ、と私も意を強くすることができました。夕霧は公務の方ではようやく一人前になりましたが、こうした風流の催しはそもそも気にかけないものか。
 朱雀院は、すべての方面にもれなく通じていらっしゃるお方。とりわけ音楽にはご熱心で、精通していらっしゃいます。出家しすべてを捨てられたとはいえ、静かな境地で鑑賞できる今こそ、私たちもいっそうの心遣いが必要なのでしょう。かの夕霧といっしょにしっかりと舞の童たちにたしなみや心構えを教えてあげてください。芸事の師匠は自分の芸はともかく、人に教えることにはまるで役に立たないものですから」

 などと親しげに頼まれるため、うれしさの反面、心苦しく気詰まりに思う衛門督。返す言葉もなく、一刻も早く御前を逃れたいばかりで、まともな会話もできず、ようやくのこと座をすべりでた。
 その後、衛門督は東の御殿に行き、夕霧が用意した楽人・舞人の装束に、さらに助言する。これらは考えうる限りの工夫・趣向を凝らしたもの。にもかかわらず、衛門督の手によりさらに精妙さを加え、完成されていく。なるほどこの道に深い造詣をもった人には違いない。

(中略)

 日も暮れていく。殿は御簾を上げさせて興にのられる。御孫の君たちのなんとも美しい姿、かたち。見たこともない舞の妙技を尽くして、師伝の奥儀をも越えさらに各々の才能を発揮して舞う姿は、みなみな限りなくいとおしく感じさせる。老いた上達部たちはみな涙なくしてこれを見ることができない。式部卿宮も孫の舞姿に鼻が赤くなるまで泣いていらっしゃるのである。

「寄る年波には勝てず、酔い泣きというものは止められないようですね。衛門督はこれを目ざとく見て笑っておられるが、なんともきまりの悪いこと。なに、それも今だけのことです。年月はさかさまには進まない。老いというものは誰しも逃れられないものですから」

 といって主の院は衛門督をじっと見据えた。誰よりも緊張の中で気が滅入り、実際気分もすぐれず楽しいはずの宴の様子も目に入らない人に、酔ったふりをして名指しでこのようなことをいうとは。戯れをよそおった言葉にひどく胸をえぐられ、回り来る盃にも頭痛を覚え、飲んだふりをする衛門督であった。殿はこれを見咎め、盃を取らせたびたび無理強いする。中途半端に盃をもてあましている衛門督は、宴席で一人だけ浮き上がってみえるのであった。

 心も乱れ、耐え難く、宴のさなかに中座する衛門督。自宅に戻るとひどく苦しくて、
「いつも通りの酒で深酔いしたわけでもないのに、どうしたというのだろう。やましさから血が頭にのぼったか。それほどの意気地なしとも思わなかったが、なんと不甲斐ないこと」
 と、われながら思い知らされるのであった。しかしこれは、一時の悪酔いなどではなかった。ほどなく衛門督は重い病の床に伏してしまうのである。

(『源氏物語』若菜 下 現代語 水野聡訳 2013年4月)


〔解説〕

文中の殿・主の院は光源氏、衛門督(えもんのかみ)は柏木です。
この物語中、各人物の年齢は、源氏44-5歳、女三宮18-9歳、柏木28-9歳と推定されます。
現代でいえば、源氏と女三宮は年の差婚です。四十五の中年男と娘盛りの新妻。この若妻がこともあろうに輿入れ直後、若い男と通じてしまうのです。

中年とはいえ「光る君」として宮中すべての女性の憧れの的であり、身分も知性も教養も並ぶもののない圧倒的な存在だったのです。
完全無欠、神にも等しい主人公が妻を盗んだ男に投げつける、ことばの剣。

「寄る年波には勝てず、酔い泣きというものは止められないようですね。衛門督はこれを目ざとく見て笑っておられるが、なんともきまりの悪いこと。なに、それも今だけのことです。年月はさかさまには進まない。老いというものは誰しも逃れられないものですから」

この刀は、罪の恐れにひどく弱り、今にも絶えなんとする柏木の心を過たず貫き通しました。
病をおして参内した柏木、これにはたまらず宴を中座。帰宅後ますます弱り、ついに他界してしまいます。
完全無欠の人格として描かれる光源氏の容赦ない仕打ち、報復は一体どのように受け取るべきでしょうか。
神ならぬ生身の人に忍び入った「老いの影」は、中国の偉大な聖帝、太宗晩年の事跡にもたどれます。無謀な高麗への度重なる征討と、皇太子選定の過ちがそれです。
聖賢凡愚に関わらず、老いは等しく人の目をおおい隠すものなのでしょうか。

後日女三宮は懐妊し、出産します。それは夫源氏ではなく、柏木の子。
毛ほども愛情を覚えぬ赤子を膝に乗せ、憮然たる源氏の胸中を去来したのは、因果応報の想いでした。
思えば若かった自分も、義母藤壺と密通した。父桐壺帝はこれを知りながらも生涯色に表すことをしなかったのではないか。その報いの罪が今、自分にあらためて下されたものか。

「さかさまに行かぬ年月」

時間は決して逆行することはないが、人は世代を越えて同じ行い、同じ過ちを繰り返し犯すものである。因果応報のわだちからはとうてい逃れられぬ、と源氏の心を凍りつかせるのです。

すなわち、「え逃れぬわざ」は、老いではなく因果の報いではなかったでしょうか。


実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
(ダンマパダ 第一章 ひと組みずつ)

◆ブッダの名言(能文社)
http://dp20101654.lolipop.jp/img/ブッダの名言(能文社).pdf


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【言の葉庵】翻訳作品リスト更新しました

2014-07-03 18:59:28 | 読書
能文社、古典翻訳全作品のリストを本日更新、公開しました。

■水野聡(能文社)翻訳作品一覧
http://nobunsha.jp/img/sakuhinlist.pdf

電子ブックとインターネットファイルは、リストのリンクから直接ご覧になれます。
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現代語訳『十牛図』(能文社)発刊

2014-05-01 10:05:14 | 読書
十枚の牛の絵で悟りを導く、禅の古典名著『十牛図』。能文社より、全文現代語訳をリリースしました。
【言の葉庵】ホームページから、どなたでもご覧になれる電子ブック(PDF版)です。
本書「まえがき」を抜粋して以下に概略をご案内いたします。


◆まえがき

本書は、南宋の廓庵禅師『十牛図』の全文現代語訳です。
わが国にもたらされた現存唯一の伝本、五山版『五味禅』廓庵和尚十牛図一巻(国会図書館)を底本としました。

〝悟り〟というと、現代人である私たちにとって、何か縁遠く、神秘的なもののように思われます。しかし、それは本来の自己を見つけ、わが心の内に確認することと分かち難く結びついているのです。

自分を見つけること―。

言うは易し、行なうは難し。このことは一見至極簡単なように思えますが、「これが本当の自分だ」と自分自身明確に指し示し、人に断言することができるでしょうか。
一般人はもとより、禅寺で修行するお坊さんたちにとっても、これは大難題。中国で、日本で、古来何百万人、何千万人もの修行僧が、公案問答をし、座禅を組み、額に脂汗をにじませ、悩み、苦しみ、追い求めてきました。

『十牛図』は、一匹の牛を〝見失ってしまった本来の自己〟になぞらえています。牧人が、牛を尋ね、探し当て、その手に捕らえることによって、悟りへと導かれていく様を十枚の絵と短い詩文であらわしたもの。
誰にでもたやすく、目で見て直観し、悟りを開くことのできるイメージトレーニングツールとして創作されました。

悟りを開くことは、禅宗徒でもない私たちにとって日常的にどうしても必要とはいえないかもしれません。
しかし十牛図では、牧人が牛をわがものとするその過程において、人間として一生涯成長していくことをまず教えたものなのです。さらに、自分はなぜ成長しなければならないのか、成長の果てにどうなるのか、何をすべきか、そしてそもそも人は何のために生まれ、存在しているのか…。
その答を探すための、自分探しの成長マニュアル本としての性格もあわせもった作品といえましょう。

それゆえ、『十牛図』は鎌倉以降、禅宗僧侶をはじめ、武士や貴人、芸術家や庶人などにも広く受け入れられ、周文の作品を代表とする日本画の画題としても好んで取り上げられるようになります。

『論語』為政第二の「子曰く、われ十有五にして学に志す、三十にして立つ」、『風姿花伝』の年来稽古條々、『山上宗二記』の又十体「茶湯の仕様、十五から三十までは万事坊主に任せる。三十から四十までは我が分別を出し」など、わが国では各分野で、心の成長をたどる指標が考案され、伝えられてきました。

何かを目指している、何かを獲得したい、と一度も考えたことのない人はごく少数ではないでしょうか。その何かを見つけ、そこにたどり着く過程の、いったいどのあたりに自分は今いるのか。次のステップは何か、あるいは今後どんな展開が待ち受けているのか。
実年齢に関係なく、自分の現在の成長段階を『十牛図』でイメージすれば、今後の長い道のりを歩いていく上で、またとない〝旅の手引き〟になるのかもしれません。


※電子ブック本文は、以下のリンクよりご覧になれます。

◆現代語訳『十牛図』(PDF形式) 廓庵師遠著 水野聡訳
(2014年4月29日 能文社)
http://nobunsha.jp/img/juugyuuzu%20denshibook.pdf

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能と茶道史の入門新講座、次週4/17よりはじまります。

2014-04-15 20:57:31 | 読書
4/17(木)と4/23(水)より、言の葉庵4月期新講座がそれぞれ開講されます。
能と茶道をやさしく学ぶ、初心者向け“超”入門講座です。

■【言の葉庵】カルチャー講座一覧
http://nobunsha.jp/img/kozalist.pdf


◆〈銀座おとな塾 産経学園〉
千利休と侘び茶の世界 ~戦国武将と茶の湯~
第一回 天下布武。織田信長のお茶の湯政道
4/17(木)10:30~12:00 

今期より、全6回コースのトピックス別で茶道の歴史を学ぶ、入門コースが新たにスタート。
2014年4月期では「戦国武将と茶の湯」をテーマに、信長・秀吉・家康等、戦国武将が彗星のごとく時代を駆け抜けた中世を、世界に例のない“茶の湯”という独自の文化的背景を通して学んでいきます。
歴史の主役は上の戦国武将たち。しかし茶の湯という平和的手段で、日本に一本の道筋を追い求めた千利休をはじめとする茶匠たちの戦いを別の視点から見て行きましょう。

第一回講座は「信長と御茶の湯御政道」。茶の湯が一部の特権階級の遊びから、商人、町人等庶民を含む日本人全体の文化となった背景を、利休の“侘び茶”と禅の精神から読み解いていきます。
4/17はどなたでもご参加いただける公開トライアル講座。この機会にぜひ、銀座おとな塾までお運びください。



◆〈自由が丘産経学園〉
お能鑑賞 はじめの第一歩
~神や鬼、美女に化ける能の演技の秘密~
第一回 能の物真似は「物に学ぶ」こと。二曲三体とは?
4/23(水)10:30~12:00 

今回より自由が丘参詣学園にて始まる、お能の初心者向け鑑賞講座です。

歌舞伎、文楽にくらべて「難解」「高尚」とされる能狂言。動きが少なく、室町時代の言葉そのままで演じられている伝統芸能のしきいの高さもあるかもしれません。ですが、こつと簡単なルールさえわかればこれほど面白く、かつ深い感動を与えてくれる舞台芸術は世界中でも、この日本にしかないもの。

当講座では、能へ近づく第一歩として、演劇としてのテーマ分類方法をまずご案内したいと思います。
歌舞伎の世話物、荒事などと同様、能にも独自の分類があります。それは5種類の分類で、「神・男・女・狂・鬼」と呼ばれるもの。神様の能、武将の能、貴女の能、狂いものの能、鬼の能です。
今期講座では、一回に一つの分野を取り上げ、そのジャンルの代表的な能をビデオで鑑賞しつつ、詞章と鑑賞ポイントを初めて能に触れる方にもわかりやすく、解説していきます。

第一回目は、世阿弥が創った能の分類法「二曲三体」を基本としながら、後の時代の「神男女狂鬼」が創られていく時代背景を共に学んでいきます。
江戸時代に確立した「五番立」の演能形式について、実際の江戸幕府勧進能の舞台見取図も紹介しながら、リアルに能の歴史的発展にも迫りたいと思います。

「能はいったい何を訴え、どのように表現し、その面白さはどこにあるのか」。豊富な資料と画像・映像を駆使して、能の面白さを必ず発見していただけることと思います。

みなさまとオフラインでお会いできますことを楽しみにしています。

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風化させぬ人類の記憶『六千人の命のビザ』

2014-04-04 16:50:49 | 読書
杉原千畝という、第二次大戦中の外交官の名を初めて聞く方も多いと思います。
名前は千畝(ちうね)と読み、大戦中リトアニア日本領事館の領事でした。
杉原の在任中、ナチスドイツの迫害を受け、欧州各地より逃れてきた多数のユダヤ人たち難民がこの領事館を訪れる。もはやどこにも身の置き所のなくなった彼らは、日本のビザを最後の藁ともすがり、他国へ逃れようとしたのです。老人、子どもを含む多くの家族、何の罪もない哀れなユダヤ人たちの窮状を見かねた杉原は、本国外務省の訓令を無視して、独断で日本通過のビザを発給しました。
これが6000人ものユダヤ人の命を救うこととなり、戦後、杉原は海外で「日本のシンドラー」と讃えられるようになるのです。

◆『六千人の命のビザ』杉原幸子
http://p.tl/4SJw


この本は、千畝の妻、幸子がリトアニアへ同行し、すべてを自らの目でつぶさに見た唯一の記録。世界大戦という状況の中、国命と人道の板ばさみとなり、苦悩の末、自分の未来も家族もすべて投げ出し、見ず知らずの異国の民を救った夫の決断。これを身近で見、その体温を感じつつ、懸命に支えた伴侶の貴重な証言なのです。

未来に向け、決して風化させてはならない魂の記録、『六千人の命のビザ』より、いくつかの段落を引用して以下概略をご紹介しましょう。


リトアニアのカウナスにある領事館に着任した、1940年7月27日の朝、信じられない光景が杉原夫妻の眼前に突然あらわれます。

 

一九四〇(昭和十五)年、七月二十七日の朝。私たちはいつもと同じように軽い朝食をとり、夫は階下に下りていきました。
夫は早起きで、夜明けの鳥の鳴き声とともに起き出してきます。その朝も晴れていて、顔を覗かせたばかりの柔らかな陽の光が、カーテンの隙間から差し込んでいました。夏といっても、リトアニアは北の国です。朝晩は肌寒く、昼でも気温は十七度ぐらいにしか上がりません。しかし私たちが起き出す頃には、領事館の中は適当な室温に保たれ過ごしやすくなっていました。
カウナスは古風な家並みが続く静かな町でした。日本領事館は丘の中腹の高台に建ち、庭から町が一望できます。一階が家族の部屋が並ぶプライベートなフロアで、平地下の階下は夫が仕事をする領事館の事務室になっていました。そして二階に使用人がいました。朝食が済むと階下に下りていき、昼食の時間に再び家族の前に顔を見せるのが夫の日課でした。
その朝も、階下に下りていく夫を見送り、私は自分の部屋に戻ると、本を読み始めました。いつも、こうして静かな午前が過ぎていくのです。本を開いて十数行ほど読み進んだとき、ノック音がして、夫が入ってきました。
「ちょっと窓から覗いてごらん」
私を促すように窓に近づいていく夫に、一瞬、戸惑いを覚えました。夫は仕事にまじめな人でしたから、執務時問中に一階に上がってくるようなことはまずないことでした。カーテンを少し開けて、夫は再び促すように私を見ます。夫の側に寄り、窓の外を何気なく眺めて、私は自分の目を疑いました。 ・、
建物の回りをびっしりと黒い人の群れが埋め尽くしているのです。
カウナスの中心地から少し離れたこの高台は、人通りもあまりなくいつも静かなところでした。それが一夜にして何百人もの群衆が押し寄せ、動いているのです。「どうして?」という思いで私は夫の顔を見つめました。夫にもその理由はつかみきれない様子でした。
再び夫は階下へ下りていくと間もなく上がってきました。
「ポーランドからナチスの手を逃れてユダヤ人が来ている。日本通過のビザを要求しているんだよ」
これは只事ではないと夫は考え、ボーイのボリスラフを呼んだのでした。

(『六千人の命のビザ』第一章 逃れてきた人々)


異常な事態に当初動転する杉原夫妻。生きる希望を失い、それでも一縷の望みにすがりはるばると苦難の旅を続けてきた難民たちです。何とかして助けてやりたい。そのために日本外務省にビザ発給の許可を求めるのですが…。



外務省への三度にわたる電報には、いつも同じ返事が返ってきました。三度目の「内務省が大量の外国人が日本国内を通ることに治安上反対している。ビザ発行はならぬ」という回答に、夫の心は決まったようでした。

「幸子、私は外務省に背いて、領事の権限でビザを出すことにする。いいだろう?」
「あとで、私たちはどうなるか分かりませんけれど、そうしてください」
私の心も夫とひとつでした。大勢の人たちの命が私たちにかかっているのですから。
夫は外務省を辞めさせられることも覚悟していました。「いざとなれば、ロシア語で食べていくぐらいはできるだろう」とつぶやくように言った夫の言葉には、やはりぬぐい切れない不安が感じられました。
「大丈夫だよ。ナチスに問題にされるとしても、家族にまでは手は出さない」
それだけの覚悟がなければ、できないことでした。
「ここに百人の人がいたとしても、私たちのようにユダヤ人を助けようとは考えないだろうね。それでも私たちはやろうか」
夫は私の顔をまっすぐに見て、もう一度、念を押すように言いました。

(第一章 逃れてきた人々)


己の信念と良心のみに従い、ビザ発給を決断する杉原。決心したからにはもはや後のことなど念頭にはなく、一天の曇りもない澄みきった心中でした。しかし実際、ビザを求める難民は数知れず、手書きでビザを作成する日本領事は千畝ただひとり。この瞬間から、寝食を忘れた杉原の戦いが始まりました。


夫が表に出て、鉄柵越しに「ビザを発行する」と告げた時、人々の表情には電気が走ったようでした。一瞬の沈黙と、その後のどよめき。抱き会ってキスし合う姿、天に向かって手を広げ感謝の祈りを捧げる人、子供を抱き上げて喜びを押さえきれない母親。窓から見ている私にも、その喜びが伝わってきました。
門を開くと大勢が入って混乱するというので、ガレージの入りロが使われることになりました。
それでも入りロが開かれると、人々は我先にと争って入ろうとします。鉄柵を乗り越えようとする人も出てきました。
「ビザは間違いなく発行します。順序よく入ってきてください」
夫の呼びかけに、人々は少し冷静さを取り戻したようでした。


始めの頃、夫は一日に三百枚のペースでビザを書くつもりでいました。カウナスの領事館は情報を得るための臨時のもので、ビザの用紙もそう多くはありません。全てを手書きで、しかも一人一人の名前を間違えないように書くという手間のかかる作業です。
事務員のグッジェが領事の印を押すのを手伝っていました。
グッジェはドイツ系のリトアニア人でしたが、ユダヤ人を助けたいという気持ちは私たちと同じだったのでしょう。夫とともに食事もとらずに懸命に働いてくれました。それでも記入するのは夫でなければできません。知らず知らず手にも力が入ってしまいます。万年筆が折れ、ペンにインクをつけて書くという日が続きました。一日が終ると夫はぐったり疲れて、そのままベッドに倒れこむ。痛くて動かなくなった腕を私がマッサージしていると、ほんの数分もたたないうちに眠り込んでしまっている状態でした。

(第一章 逃れてきた人々)


無数のビザの山と果てしない格闘を続ける杉原のもとへ、本国からリトアニア離脱の緊急命令が届きます。いまだに多くのユダヤ人が取り巻く領事館をやむにやまれず後にする杉原夫妻。取り残された人々の茫然とした表情が目に焼きつきます。しかし、杉原はカウナス駅の列車の中でも、最後の最後まで、懸命にビザを書き続けました。


「リトアニアはソ連領になった。すぐに引き揚げろ」、という内容の外務省からの電報が届きました。国境が閉ざされてしまえば、国外に脱出することはできなくなります。
九月一日の早朝、カウナス駅でべルリン国際列車を待っている時にも、ビザを求めて何人かの人が来ていました。汽車が走り出すまで、窓から身を乗り出して夫は許可証を書き続けていました。
汽車が走り出し、夫はもう書くことができなくなりました。
「許してください、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」
夫は苦しそうに言うと、ホームに立つユダヤ人たちに深ぶかと頭を下げました。茫然と立ち尽くす人々の顔が、目に焼きついています。
「バンザイ、ニッポン」
誰かが叫びました。夫はビザを渡す時、一人一人に「バンザイ、ニッポン」と叫ばせていました。
外交官だった夫は、祖国日本を愛していました。夫への感謝が祖国日本への感謝につながってくれることを期待していたのでしょう。
「スギハァラ。私たちはあなたを忘れません。もう一度あなたにお会いしますよ」
列車と並んで泣きながら走ってきた人が、私たちの姿が見えなくなるまで何度も叫び続けていました。


(第一章 逃れてきた人々)


リトアニア離脱後、日本に引き揚げるまで数々の苦難を経験。ようやく日本へ帰国した杉原へ外務省から冷酷な仕打ちが待っていました。それは予想し、覚悟もしていたことなのですが。



夫は外務省へ時々行っていたのですが、しばらくは出省しなくてもよいということで身体を休めていました。日本に帰って三ヶ月ほどした時、外務省から手紙で出省するようにという知らせがありました。その日、帰ってきた夫の顔が暗く、沈んでいるように見えました。
「何かあったのですか?」
よくないことがあったのではないかという予感がして、すぐに聞きました。
「ああ、外務次官の岡崎さんの部屋に呼ばれて、『君のポストはもうないのです、退職して戴きたい』と言われた」
夫はポツリと言うと、黙り込んでしまいました。私は言葉を継ぐこともできません。ただ夫の顔を見つめているだけでした。かなり後になって、岡崎次官に「例の件によって責任を問われている。省としてもかばい切れないのです」と言われたことを聞きました。
夫は「こういうことになるのでは」と覚悟していたようでした。しかし外務省のために全力を使い果たして帰国した身に、この仕打ちに対しては、やはりがっかりした様子でした。ユダヤ人を助けるために本省の命に背いてビザを発行した時点ですでにこうなることは決まっていたのですが、ヨーロッパは遠いために生き延びてきたというのでしょうか。それにしても夫はカウナス以後も外務省のために懸命に働いてきた人です。それを戦後になって…。

(第六章 祖国の苦い土)



戦後、杉原の「命のビザ」の事跡に対し、日本政府、外務省は一貫して無視の態度を貫き通しました。当時、杉原のビザにより命を救われたユダヤ人が外務省に照会を求めたところ、「そのような人物は存在しない」と一顧だにされなかったといいます。
外務省を追われ、不遇の後半生を送る杉原のもと、28年ぶりにカウナスで別れたユダヤ人より連絡が入ります。1968年、日本の大使館へイスラエルの領事として新たに赴任してきたB.G.ニシュリ、その人でした。
再会に涙するニシュリが「これを覚えていますか」と差し出した、ぼろぼろになった一枚の紙切れこそ、杉原自身が発行した「命のビザ」だったのです。


◆続きはこちら↓
http://nobunsha.jp/blog/post_158.html
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