門前の小僧

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日本語はなぜ「七五調」なのか?〈前編〉

2009-12-20 13:23:43 | 日記
日本語はなぜ「七五調」なのか?〈前編〉

 とにかく。ゴロがいいんです。ピシッと決まる感じがする、七五調なら…。「日本語のリズムは、何音でできているか?」ときかれて、「七音か五音の七五調」と答える人が大半ではないでしょうか。俳句・和歌・短歌はむろん、演歌、民謡、童謡、ことわざ、標語、慣用句、かけ言葉、応援歌からキャッチコピーにいたるまで、およそ日本人が声に出すあらゆる決め文句が、「七五調」といっても言いすぎではありません。日本民族の血液中を脈々と流れ、遺伝子にプリントされている、この七音と五音のリズムの正体はいったい何なので
しょう?

 さて、今回日本語千年の謎を解き明かすナビゲーションは、この著作。

『日本語のリズム 四拍子文化論』別宮貞徳 筑摩書房 2005.11


 タイトルに、すでに正解が書かれていますね。そうです。七五調、影のフィクサーは、「四拍子」。まず本著、安西徹雄の「あとがき」には、こうあります。


 それにしても、しかし、五七調にしろ七五調にしろ、明らかに奇数の音節で構成されているものから、一体どうして、四拍子という偶数のリズムを引き出すことができるのか。この、まこと意表を衝く転換のカギは何なのか。休止、間の発見にほかならない。本書を通読された読者には、今さらくどくど説明するまでもないことだけれども、かりに一音節の長さを八分音符で表すとするなら、八九ページの第8図

http://nobunsha.jp/img/shichigo1.jpg

にもあるとおり、五音節の句には一拍半の休止、七音節の句には半拍の休止を置く。するとたちまち、キチンと四拍子を構成することになる。実に、明快そのものである。


 実は、「七五調起源論」、古くは本居宣長にはじまり、近代を経由し、明治から平成の現代に至るまで、100年以上も各分野の学者、研究者に取り上げられてきた古くて継続したトピックスなのです。金田一晴彦、和辻哲郎、折口信夫、外山磁比古、野上豊一郎、寺田寅彦…。国語学の専門家、第一級の学者たちが、寄ってたかって議論しても、「これぞ」という明解な答えが得られなかった。この間の諸家諸説経緯は、以下のページにまとめられています。

“十七音の謎 2”HP
http://www.d2.dion.ne.jp/~t_katou/onnonazo2.html

 この中の、10.11.にありますが、明治三十二年、高橋龍雄の「四拍子論」が世にはじめて出て、「四音歩説」、「等時音律説」などを交えながら、次第に七五調が、日本人独自の内在的なリズム=四拍子に立脚するものであることが、確かめられるようになっていきました。

 以下、ざっと本編プロットを追ってみましょう。


1.日本人が七五調を詠むリズム

 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣つくる その八重垣を
『古事記』

 リズミカルにこの歌を読もうとするとき、われわれはけっして、ずるずるべったりには読んでいないことに気づく。つまり、リズムを解くかぎは、切れ目にあるということになる。では、どのように切って読んでいるだろうか。
 もちろん、「ヤク モタ ツイ ヅモ」のように、でたらめに分断しているわけはない。切るべきところで切り、続けるべきところは続けながら、切って休むその長さはけっして気分しだいのでたらめではなく、そこに一定の法則がある。いつどこで読んでもだいたい一定しているし、まただれが読んでもほとんど変わりがない。

「八雲立つ」と、全体の主題の提示のような形で歌い出し、そこでまず一息入れる。第三句の「妻ごめに」のあとでも一休みする。また、第四句の「八重垣つくる」のあとにも、第一、三句のあとほどではないがちょっと間を置いている。そればかりではない、第一句の「八雲」と「立つ」のあいだ、第二句の「出雲」と「八重垣」のあいだにも、心もち間が置かれているらしい。今、その切れ目まで示して書けば、この歌は次のようになる。


 ヤクモ・タツ・
 イヅモ・ヤヘガキ・ツマゴメニ・
 ヤヘガキツクル・ ソノヤヘガキヲ


 さて、ここでまず、日本語のきわだって大きな特徴を一つあげておこう。日本語は、どの音(音節)もほぼ同じ長さ(時間)で発音されるのである。これを等時性という。「ヤ」も「ク」も「モ」もすべて同じ。あたりまえのように思うかもしれないが、普通のヨーロッパ語ではぜんぜんそんなことはない。
 そして、撥音(はねる音)、促音(つめる音)、長音(引く音)がみな一つの音節としてかぞえられることも、日本語独特である。ローマ字で表記するときには、はねる音はNを使い、つめる音は子音を重ね、引く音は、母音の上に横棒を書いたり母音のあとにHを入れたりするが、外国人がそれを読めば、音節が長くなるだけで少しもふえたことにはならない。たとえば「万金丹」は日本語で六音節だが、MAN-KIN-TANは三音節(中略)。

 そこで「八雲立つ…」について考えると、たんに字数(いいかえれば音数)を取るかぎり、五音句と七音句の時間の比は、等時性の原理によって五対七になるはずだ。しかし、実際には、先ほど述べたような間が入っている。さて、その結果はどうなるか。
 あとでくわしい実験結果を明らかにするが、これを読むときに―どんな短歌でも同じ―われわれは、各句にほぼ同じ時間をかけているのである。そこで、「ヤクモ・タツ・」と「イヅモ・ヤヘガキ」の時間が同じなら、「タツ」のあとの・は音(字)二つぶん、また「ツマゴメニ」のあとの・は三つぶんでなければ勘定が合わない。「ソノヤヘガキヲ」のあとにも一つぶんの・があるにちがいない。・一つを一字ぶんとみれば、結局どの句も八字ぶんの長さをもっていると推定される。つまり、五七五七七といいながら、時間的な長さにすれば八
八八八八ということになる。音符を使って記録すれば、第一図

http://nobunsha.jp/img/shichigo.jpg

のとおりで、これはまさしく四拍子にほかならないではないか。



2.日本語は二音節で一つの単位になっている。

 日本語は二音節ずつ一つにまとめて組み立てられていることが特徴である。なぜ二音節が一単位になるのか、その理由は、はっきりとはわからないが、金田一晴彦氏のいわれるように(『日本語』岩波新書)、日本語の音節があまりにも短いためでもあろう。たとえば、ここでたびたび出てきたリズム(rhythm)という言葉は、英語では一音節である。スタートは、日本語では四音節なのに、原語(start)では一音節。(中略)日本語の音節はおそろしく短い。そして、前にも触れたように、どの音節もほぼ同じ長さ(時間)に発音される。つまり、等時性をもっている。
 二音節が一単位ということは、身近なものの名前を思い浮かべただけでもわかる。山、川、空、土、父、母、春、夏、人、家など。基礎的な名詞は、たいてい二音節語である。これは、二音節が日本語ではいちばん自然な、発音しやすい単位であることを物語っている。

 これに反して一音節の言葉は非常に少ない。(中略)…一般的に、一音節は聞き取るのがむずかしく、理解しにくい。(中略)
 このとおり、われわれは一音節の言葉をきらっていて―あるいは苦手としていて、だいたいその数が少ないばかりでなく、使うばあいにも、ほかの言葉をつなげたり、音を重ねたり、延ばしたり、なんとか多音節にしようと苦心している。

 二音節一単位の原理の端的なあらわれは、日本語に非常に多い略語である。日本人はあまりに長い単語もきらいで、すぐに略語を考えだすが、その方式は二音節を二つ重ねることにだいたいきまっている。大学卒業は「ダイ・ソツ」、国民体育大会は「コク・タイ」(中略)、外国語の省略はとくにはげしい。というのも、先ほど述べたとおり、外国語は日本式に発音すれば非常に音節が多くなり、そのままでは日本人の使用にたえないからだろう。「エン・スト」「ハン・スト」「全スト」「パン・スト」…。

 さて、二音節一単位というのは、けっして一つの単語の音節数についてだけいわれるのではなく、長い音節の言葉あるいは文の読み方についても同じで、歌のリズムの解析には、それが大きなモーメントになる。

 まず、一つの単語についていえば、たとえば、「桜」「紅葉」は、それぞれ、|サク|ラ|、|モミ|ジ|と発音される。「紫」は|ムラ|サキ|、「紅」は|クレ|ナイ|である。外来語も同じことで、「クリスマス」は、|クリ|スマ|ス|になる。(中略)
 念のために申し添えると、|サク|ラ|、|ムラ|サキ|と分けて書いたが、縦線のところで切ったり休んだりするわけではない。ただ、そこで切れるような感じに読むだけ。おもてにはあらわれない感覚、リズムのとらえ方の問題で、それを表記上、縦線で示しているのにすぎない。(中略)

 次は、二つ以上の単語が結びついた結合語。二音節語が二つ重なった言葉は、ぜんぜん問題ない。前に、そういう言葉が身辺にはたくさんある話をしたけれども、たとえば、|ダイ|コン|、|ニン|ジン|、|カナ|ヅチ|のように、単純に二つを分けてしまえばいい。問題は、奇数音節語がまじっているばあいである。一音節、二音節、三音節、あるいはそれ以上の組み合わせがいろいろあって、ややこしいが、まず基本的には、頭から二つずつまとめていく法則があると思っていてまちがいない。(中略)

 一音節と二音節の組み合わせは、「子供」=|コド|モ|、背中=|セナ|カ|、歯ぐき=|ハグ|キ|、小川=|オガ|ワ|になる。意味上のつながりはまったく考慮されない。(中略)

 一音節と三音節の組み合わせも同じで、「手袋」は|テブ|クロ|、歯並びは|ハナ|ラビ|、夜桜は|ヨザ|クラ|で、けっして意味のつながりに従った、|テ|ブクロ|、|ハ|ナラビ|、|ヨ|ザクラ|にはならない。(中略)

 一音節語がうしろへ回って、三音節プラス一音節ならどうなるか。桜づくしでいくならば、「桜葉」=サクラバ、桜井=サクライ。(中略)

 三音節に二音節が結びついたものは、ひじょうに数が多いが、また桜づくしでいくとして、「桜草」「桜色」「桜餅」はどうだろう。|サク|ラソ|ウ|、|サク|ライ|ロ|、|サク|ラモ|チ|も成立する。しかし、|サク|ラ|ソウ|、|サク|ラ|イロ|、|サク|ラ|モチ|ともいえる。この拍の分け方は、意味に従ったもので、かりに「意味分拍」と呼んでおこう。
 つまり、三音節プラス二音節のばあいは、音数分拍も意味分拍もありうることになる。(中略)

 三音節プラス二音節なら両方可能だが、元へ戻って、一音節プラス二あるいは三音節のばあい、意味分拍が絶対にないことは注意してよい。これは、日本語では、語頭、文頭に一音節の発音を置かないことを意味している。なぜそうなったのか、わたしにも理由はからない。


 さて、日本語生来のリズム四拍子は、二音節一単位として、そのペアが四つ集まり一小節を構成し、生まれることがわかりました。このペアは「音数分拍」という強固なリズム原理に基本的にしばられ、意味で切れることがない、ということも。
 それでは、そもそも八八八八八の「四拍子」のリズムに乗せるために、なぜ「五音」と「七音」だけが撰ばれたのでしょうか。その秘密は、いよいよ次回にて解き明かされます。


→〈後編〉へ続く。

【言の葉庵】メールマガジンより
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「標準語」って、一体何語?

2009-12-19 11:37:35 | 日記
 今回のテーマは「標準語」。”言葉探検”ずばり、直球勝負です。さて、かくいうわたくし、生粋の関西人ですねん…。関西人はすべて、関西弁が正しい日本語、標準語であると考えています。ところが時々、無意識に頭の中で”標準語=東京語”で考えていることがある。これはなぜか?そもそも標準語って何? 何が標準語に採用され、何が捨てられたのか?
 今回以下にご紹介する著作をナビとしながら標準語成立の謎に迫りたいと思います。

『標準語の成立事情 日本人の共通ことばはいかにして生まれ、育ってきたのか』
真田信治 PHP研究所 1987

 本著は「社会言語学の視点で標準語成立事情を追究」した作品です。標準語そのものの定義や歴史など教科書的な説明は↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%99%E6%BA%96%E8%AA%9E
でご確認いただくとして、日本語ジャングルでは、トリビア的視点に立ち、そのエッセンスのいくつかを拾い読みしていきたいと思います。


1.江戸以前の正しい日本語は、”京都ことば”。

 安土桃山時代、布教のため来朝したポルトガルの宣教師たち。教義を日本人によく理解させるためには、日本人共通のことばで説教をしなければなりませんでした。彼らが「標準語」として採用したのが上(畿内)の京都ことば。京都の上層階級の人々が用いることばでした。このことばにより日本初の外国人による日本語辞典が生まれました。

『日葡辞書』1603・1604 長崎刊
『日本大文典』1604・1608 長崎刊 J.ロドリゲス編


2.「行かない。都さ上るべい」が”東ことば”。

 京都ことばに対する、東(あずま)ことば。東日本の語法上の特徴を『日本大文典』から見ます。

 a.打ち消しには「ぬ」の代わりに「ない」を使う。上げない、読まない、申さない、など。
 b.未来にはさかんに助辞「べい」を使う。上ぐべい、読むべい、申すべい、など。
 c.移動の「へ」の代わりに「さ」を使う。「都さ上る」など。

 「べい」は、今の首都圏若者語にも「おめー、いねーべ」などと使われていますね。


3.講義・スピーチのスタイルから標準語は生まれる。

 時代は下って、江戸。享保年間、京都、石田梅岩によっておこされた石門心学は、神・儒・仏教を総合、折衷した学問。この講義=道話により、全国各地庶民へ、教えをわかりやすく伝える独特の「講話」のスタイルができあがり、普及しました。

 心学道話と現代標準語の成立事情は、以下のようにたどれます。

「抄物→江戸講義物(心学道話等)→明治講義物→演説→標準語の口語は、一本の連続線上にあるのではないかという予想を述べたが、道話に対する今回の小調査に関する限り、この予想を裏切る否定的要素がなかった」森岡健二

「演説調・講義調・説教調のように、ことばの型が定まってくるスタイルができると、ことばの訛り・語法の乱れは次第におさえられ、多数の聞き手に理解されやすいことば遣いが整ってくる。現在のニュースや天気予報のスタイルも同じプロセス」田中章夫

 ロジカルな思考を行っている時、プランニングをしている時など関西人のぼくも無意識で”標準語”で考えている。これは上のように、標準語が新しい知識を伝えるため、理性に訴えるべく整えられ、成立した言語だからなのかもしれません。どなたか正しい根拠を知っていれば、ご教授ください(庵主)。


4.標準語化が生んだもの。”ダ体・デス体・デアリマス体”。

 明治の標準語化を強力に推進したのが「言文一致運動」。当時の小説家たちが作品の中で実験的に用いた文体が、今日の標準的な日本語表記として定着することとなります。以下が、それらの作家、作品と文体。明治20-24年に一挙に出揃いました。

 『浮雲』二葉亭四迷 “ダ体”
 『胡蝶』山田美妙 “デス体”
 『野末の菊』嵯峨の屋御室 “デアリマス体”
 『二人女房』尾崎紅葉 “デアル体”(デゴザイマスとダ体の中間)

 当時、言文一致運動に「落語」の話法がヒントを与えたというユニークな逸話があります。以下、二葉亭四迷のエッセイ『余が言文一致の由来』より。

「もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分からぬ。そこで、坪内(逍遥)先生の許へ行つて、何うしたらよからうかと話して見ると、君は円朝の落語を知つていよう、あの円朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ。
 で、仰せの侭にやつて見た。所が自分は東京者であるからといふ迄もなく東京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤と目を通して居られたが、忽ちはたと膝を打つて、これでいい、その侭でいい、生じつか直したりなんぞせぬ方がいい、とかう仰有る。
 自分は少し気味が悪かつたが、いいと云ふのを怒る訳にも行かず、と云ふものの、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、円朝ばりであるから無論言文一致にはなつている」


5.標準語化が奪ったもの。”方言摘発・撲滅運動”。

 明治時代の言語統一の考えは、戦前まで続きます。各地のお国ことば、方言は、標準語普及にとって、邪魔な物、無用の物、社会的な「悪」とまでみなされてしまいます。
 この「悪」をつみとるために実施されたのが、”方言撲滅運動”。方言を使用する教師が摘発、生徒が告発されることとなりました。方言を使用した生徒に懲らしめとして「方言札」なるものが、首からぶら下げられたり、背中に貼られたりしたのです。
 方言を禁じることは、方言使用者が自由に意見をいうことまでをも禁じること。むろん、このような政策が受け入れられることも、成功するはずもありませんでした。


6.「ゴ注文ハヨロシカッタデスカ?」は、語法の乱れではなく、方言。

 たとえば、「コワイ」「オッカナイ」「オソロシイ」などの言葉が、全国にどのように分布し、標準語化とどのように関わるのかを解明している章があります。
 ここで面白い例は「おはようございます」の方言。北海道、四国、中国の一部に「ございます」の部分を過去形にした「オハヨウゴザイマシタ」がある。これは、意味的にはむろん過去ではなく、丁寧な表現になるということです。
 よく耳にする、若者/接客用語の「よろしかったでしょうか」。文法的には”過去の時点での確認”とする解釈もあるようですが、現在も現地で使われているこの”丁寧語方言”由来であるとした方が、すっきり説明できるようにも思えますね。


7.コトバは年速0.6kmで旅をする。

 本書にコトバの伝播について面白い実験があります。ある一点で使用されている語形が、どのくらいのスピードで周辺地方に伝わってゆくのかを調べたものです。

・「行く」の否定形過去は、東日本・北日本では「行かなかった」、京都では「行かなんだ」。
・「行かなんだ」は現在、中部・首都圏・山陰・中国地方で使用されている。
・「なんだ」語形初出は、1477年成立の抄物、『史記抄』に。しかし、実際の発生は約50年ほど前か。
・「なんだ」分布範囲は、京都を中心に上の地方へと、半径330kmの円の中にぴったり収まっている。
・これらの地方への伝播は現在までで、約550年かかっている。試算すると伝播スピードは年速(km/年)0.6kmとなる。


8.共通語は「現実」であり、標準語は「理想」である。

 戦後「標準語」に代わり、「共通語」という用語が登場してきます。「標準語」という言葉がもつ統制というニュアンスが嫌われたためだと思われます。

・「共通語」の原義は、異なった言語間のコミュニケーションに用いる第三の言語をさす。インドネシアのマレー語/東アフリカのスワヒリ語/英語など。

・『国語学大辞典』による、現代の標準語・共通語の定義。

「共通語は現実であり、標準語は理想である。共通語は自然の状態であり、標準語は人為的につくられるものである。したがって、共通語はゆるい規範であり、標準語はきびしい規範である。言いかえれば、共通語は現実のコミュニケーション手段であるが、標準語はその言語の価値を高めるためのものである」柴田武

・「地域共通語」の一例。和歌山県中部の一部では、改まった席では、大阪ことば(関西中央部方言)が使われる。


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