「てき」、または「かたき」と読む、敵。
宿敵、天敵、商売敵、恋敵、仇敵、不倶戴天の敵など。敵の種類は、日本語のボキャブラリーとして、実に数多くあります。そもそも敵とは、人と人との関係から生ずる概念であり、自分と利益や価値観を相争う相手のことを指します。これは、「仇」というニュアンスをもつ「敵」のこと。
能の配役に、シテとワキがあります。主に、この二人の会話によって能の物語は進行していく。その関係性を考える時、ワキを脇役とする説明がありますが、これは間違いです。
能のワキは、主役に対する脇役ではなく、シテと互いに対立、あるいは協調しあいながら、劇を進行させていく対等な立場の「相手役」となります。悪霊と、これを調伏する聖職者という設定(道成寺・葵上など)では、シテに対してまさしく「敵」となる役どころ。
これに対してシテを支え、付き従う役は、ツレやトモで、夫や妻、あるいは家臣や従者を演じます。いうなれば、敵ではなく「味方」でしょうか。
舞台や小説など、創作の世界では、このように敵と味方は明瞭に区別され、まぎれることはありません。「文章の法は、言葉をつづめて理のあらわるるを本とす」と、『申楽談儀』で世阿弥がいうように。
しかし現実生活においては、敵・味方の概念は、人によって日々変化し、時に反転するもので、政治の場をはじめ、家庭、会社、学校など、日常的なあらゆるシーンで「昨日の敵は今日の友」という現象が起きているのではないでしょうか。
自然界に天敵をもたなくなった人間にとって、不変の敵とはいったい何か。古来、宗教ではそれをどのように定義していたかを、たどっていきましょう。
◆キリシタンの敵とは
キリスト教では、信仰上の敵をどのように捉えていたか。戦国時代、カトリックの教義問答書である『どちりなきりしたん』より、師と弟子の問答を以下にご紹介してみましょう。
弟子 私たちの敵とは何者ですか。
師 世間、悪魔、肉体です。
弟子 なぜこれら三つが、人間の敵といえるのでしょうか。
師 霊魂に対し、しきりに罪を犯させようとするけれど、かなわないため、悪をすすめ、その道に人間を引きずり込もうとするので、敵というのです。
弟子 これら三種の敵が起こす悪のすすめと、善の妨げとなる誘惑を神が止めないのは、なぜですか。
師 人がそれらと戦い、神の合力により勝利を得て、その褒美を受け取るためです。
弟子 悪魔はどのように人間を誘惑するのでしょうか。
師 人の心に悪念を起こし、また罪に陥るきっかけを私たちの前に置くのです。
弟子 悪念はどのようにすれば防げますか。
師 その方法は多くありますが、とりわけ三つあります。一つ目は、心に悪念が起きてしまった時、それを善心と置き換えるのです。二つ目は、胸に十字架の言葉を唱えること。三つ目は、聖水を額に注ぐのです。
弟子 罪のきっかけとなる悪の原因とそれへのつながりをどのようにして防げばよろしいですか。
師 一つ目は、そのつながりから逃れること。二つ目は、祈りを唱えること。三つめは、善き導きを得て、聖典を読み、味わうことです。
弟子 世間を敵だといわれましたが、私たちにとってそれはどのようなものでしょうか。
師 世にある悪行と悪習、また悪人をも含めて「世間」とよぶではありませんか。
弟子 それでは、世間はどのように誘惑するのでしょうか。
師 今いった悪行や悪習、悪人との雑談などにより、みだりに人の心に悪因を起こさせるのです。
弟子 それらのことを防ぐ方法はありますか。
師 神の掟とともに、主イエス・キリストをはじめ、善人たちの善き行いを鑑とすること。さらに四終である「死」「審判」「地獄」と「天国」の快楽を思い出すことです。
弟子 なぜ、肉体は敵なのですか。
師 アダムより受け継がれた原罪 によって、生まれつき悪しき肉体を敵といいます。
それに加え、自らが犯した罪科によって、悪性が満ち満ちた肉体を指してそのように名づけられました。
弟子 肉体は、なぜ誘惑するのでしょうか。
師 身に備えた悪しき生まれつきと悪しき性向により、心中にいたずらな望みを起こさせ、罪へと傾かせるのです。それはまた心をもくらまし、悪がわからないようにしてしまいます。
生まれつきの悪とは、根源的な欲望、依存、愛憎、悲喜、恐れ、怒りなどです。
(『現代語訳 どちりな きりしたん』水野聡訳 能文社2017年10月)
http://nobunsha.jp/book/post_218.html
キリスト教の信仰を妨げる、第一の敵は、悪魔。様々な手立てを使って、人間を背教へと誘惑する、と師は警告します。そして悪行と悪習に満ち溢れる世の中と、原罪により生まれつき汚れた人間の肉体をも敵とみなしているのです。さらに、人がもともともっている、欲望、依存、愛憎、悲喜、怖れ、怒りを根源的な「悪」として、肉体が自らの敵である根拠としています。悪は、敵の本体なのでしょうか。
◆仏教の悪とは
仏教には、キリスト教のような人が生まれつきもつ原罪や、悪の根源たる悪魔というものも、ともに存在しません。
仏道修行を妨げるとされる、天魔(第六天魔王)も、涅槃に入る釈尊に神咒(正法を護持する真言)と飲食供養を捧げようとしたといわれ、「魔」としては悪魔ほど徹底していません。
また、各宗派の中で、仏法に私見をもつ者を法敵とよび、排斥の対象としますが、これとて一僧侶の背教に過ぎず、仏敵というほどの存在には成りえませんでした。
仏教の敵は、悪しき世間というよりは、人の心に巣くう、悪心や悪念ではなかったでしょうか。
心の闇である、「悪」が人間の生まれつきもった本性である、とする〔性悪説〕。これに対し、人は本来善をもつ、とする〔性善説〕が、紀元前の中国で提唱され、論議されました。
しかし、仏教はいずれの説も採りません。禅宗では、すべての人は本来〔仏性〕をもっており、それを見つけ、わがものとすることを、悟りを開くこととしています。
しかし、弱い人間の心には迷いや煩悩が沸き起こり、〔仏性〕を隠してしまうのです。のみならず、悪のあらわれである、欲や愛憎、疑い、怖れ、怒りに惑わされて、自ら苦界へ沈んでしまいます。
この人間の弱い心こそ、人が克服すべき「敵」と「悪」の正体。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
(名言名句第十六回 歎異抄)
http://nobunsha.jp/meigen/post_63.html
人は超人的な苦行や精進をしなくても救われる。それができない弱い人をすべて阿弥陀如来は、哀れに思い救ってくださるから。ましてや、自分で自分を救済できぬ極悪人こそ往生できるのだ、と親鸞は説きました(悪人正機説)。
心の師とはなれ、心を師とせざれ。
(名言名句第十三回 珠光心の文)
http://nobunsha.jp/meigen/post_52.html
自慢や執着にとらわれた、弱い自分の心に従ってはならない。むしろ自分が一段上に立って、己の心を指導する師となるべき。このように侘び茶の祖、村田珠光は後世に伝えたのです。この句は、仏教『大般涅槃経』にある、「願作心師、不師於心」をもととしています。
弱さゆえ、意図せず悪へと走ってしまう人間の心。もはや自分を救うことができない極悪人にまで手をさしのべてくれる、仏教の測り知れない慈悲。
これは、キリスト教の「愛」とどこか通じ合っているのかもしれません。
あなた方も聞いている通り、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。
しかし、わたしは言っておく、
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
(マタイによる福音書5章44節)
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◆【言の葉庵】オフィシャルホームページ
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http://nobunsha.jp/blog/post_219.html
#キリスト教 #悪魔 #どちりなきりしたん #仏教 #禅 #悪人正機説 #親鸞 #村田珠光
宿敵、天敵、商売敵、恋敵、仇敵、不倶戴天の敵など。敵の種類は、日本語のボキャブラリーとして、実に数多くあります。そもそも敵とは、人と人との関係から生ずる概念であり、自分と利益や価値観を相争う相手のことを指します。これは、「仇」というニュアンスをもつ「敵」のこと。
能の配役に、シテとワキがあります。主に、この二人の会話によって能の物語は進行していく。その関係性を考える時、ワキを脇役とする説明がありますが、これは間違いです。
能のワキは、主役に対する脇役ではなく、シテと互いに対立、あるいは協調しあいながら、劇を進行させていく対等な立場の「相手役」となります。悪霊と、これを調伏する聖職者という設定(道成寺・葵上など)では、シテに対してまさしく「敵」となる役どころ。
これに対してシテを支え、付き従う役は、ツレやトモで、夫や妻、あるいは家臣や従者を演じます。いうなれば、敵ではなく「味方」でしょうか。
舞台や小説など、創作の世界では、このように敵と味方は明瞭に区別され、まぎれることはありません。「文章の法は、言葉をつづめて理のあらわるるを本とす」と、『申楽談儀』で世阿弥がいうように。
しかし現実生活においては、敵・味方の概念は、人によって日々変化し、時に反転するもので、政治の場をはじめ、家庭、会社、学校など、日常的なあらゆるシーンで「昨日の敵は今日の友」という現象が起きているのではないでしょうか。
自然界に天敵をもたなくなった人間にとって、不変の敵とはいったい何か。古来、宗教ではそれをどのように定義していたかを、たどっていきましょう。
◆キリシタンの敵とは
キリスト教では、信仰上の敵をどのように捉えていたか。戦国時代、カトリックの教義問答書である『どちりなきりしたん』より、師と弟子の問答を以下にご紹介してみましょう。
弟子 私たちの敵とは何者ですか。
師 世間、悪魔、肉体です。
弟子 なぜこれら三つが、人間の敵といえるのでしょうか。
師 霊魂に対し、しきりに罪を犯させようとするけれど、かなわないため、悪をすすめ、その道に人間を引きずり込もうとするので、敵というのです。
弟子 これら三種の敵が起こす悪のすすめと、善の妨げとなる誘惑を神が止めないのは、なぜですか。
師 人がそれらと戦い、神の合力により勝利を得て、その褒美を受け取るためです。
弟子 悪魔はどのように人間を誘惑するのでしょうか。
師 人の心に悪念を起こし、また罪に陥るきっかけを私たちの前に置くのです。
弟子 悪念はどのようにすれば防げますか。
師 その方法は多くありますが、とりわけ三つあります。一つ目は、心に悪念が起きてしまった時、それを善心と置き換えるのです。二つ目は、胸に十字架の言葉を唱えること。三つ目は、聖水を額に注ぐのです。
弟子 罪のきっかけとなる悪の原因とそれへのつながりをどのようにして防げばよろしいですか。
師 一つ目は、そのつながりから逃れること。二つ目は、祈りを唱えること。三つめは、善き導きを得て、聖典を読み、味わうことです。
弟子 世間を敵だといわれましたが、私たちにとってそれはどのようなものでしょうか。
師 世にある悪行と悪習、また悪人をも含めて「世間」とよぶではありませんか。
弟子 それでは、世間はどのように誘惑するのでしょうか。
師 今いった悪行や悪習、悪人との雑談などにより、みだりに人の心に悪因を起こさせるのです。
弟子 それらのことを防ぐ方法はありますか。
師 神の掟とともに、主イエス・キリストをはじめ、善人たちの善き行いを鑑とすること。さらに四終である「死」「審判」「地獄」と「天国」の快楽を思い出すことです。
弟子 なぜ、肉体は敵なのですか。
師 アダムより受け継がれた原罪 によって、生まれつき悪しき肉体を敵といいます。
それに加え、自らが犯した罪科によって、悪性が満ち満ちた肉体を指してそのように名づけられました。
弟子 肉体は、なぜ誘惑するのでしょうか。
師 身に備えた悪しき生まれつきと悪しき性向により、心中にいたずらな望みを起こさせ、罪へと傾かせるのです。それはまた心をもくらまし、悪がわからないようにしてしまいます。
生まれつきの悪とは、根源的な欲望、依存、愛憎、悲喜、恐れ、怒りなどです。
(『現代語訳 どちりな きりしたん』水野聡訳 能文社2017年10月)
http://nobunsha.jp/book/post_218.html
キリスト教の信仰を妨げる、第一の敵は、悪魔。様々な手立てを使って、人間を背教へと誘惑する、と師は警告します。そして悪行と悪習に満ち溢れる世の中と、原罪により生まれつき汚れた人間の肉体をも敵とみなしているのです。さらに、人がもともともっている、欲望、依存、愛憎、悲喜、怖れ、怒りを根源的な「悪」として、肉体が自らの敵である根拠としています。悪は、敵の本体なのでしょうか。
◆仏教の悪とは
仏教には、キリスト教のような人が生まれつきもつ原罪や、悪の根源たる悪魔というものも、ともに存在しません。
仏道修行を妨げるとされる、天魔(第六天魔王)も、涅槃に入る釈尊に神咒(正法を護持する真言)と飲食供養を捧げようとしたといわれ、「魔」としては悪魔ほど徹底していません。
また、各宗派の中で、仏法に私見をもつ者を法敵とよび、排斥の対象としますが、これとて一僧侶の背教に過ぎず、仏敵というほどの存在には成りえませんでした。
仏教の敵は、悪しき世間というよりは、人の心に巣くう、悪心や悪念ではなかったでしょうか。
心の闇である、「悪」が人間の生まれつきもった本性である、とする〔性悪説〕。これに対し、人は本来善をもつ、とする〔性善説〕が、紀元前の中国で提唱され、論議されました。
しかし、仏教はいずれの説も採りません。禅宗では、すべての人は本来〔仏性〕をもっており、それを見つけ、わがものとすることを、悟りを開くこととしています。
しかし、弱い人間の心には迷いや煩悩が沸き起こり、〔仏性〕を隠してしまうのです。のみならず、悪のあらわれである、欲や愛憎、疑い、怖れ、怒りに惑わされて、自ら苦界へ沈んでしまいます。
この人間の弱い心こそ、人が克服すべき「敵」と「悪」の正体。
善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや
(名言名句第十六回 歎異抄)
http://nobunsha.jp/meigen/post_63.html
人は超人的な苦行や精進をしなくても救われる。それができない弱い人をすべて阿弥陀如来は、哀れに思い救ってくださるから。ましてや、自分で自分を救済できぬ極悪人こそ往生できるのだ、と親鸞は説きました(悪人正機説)。
心の師とはなれ、心を師とせざれ。
(名言名句第十三回 珠光心の文)
http://nobunsha.jp/meigen/post_52.html
自慢や執着にとらわれた、弱い自分の心に従ってはならない。むしろ自分が一段上に立って、己の心を指導する師となるべき。このように侘び茶の祖、村田珠光は後世に伝えたのです。この句は、仏教『大般涅槃経』にある、「願作心師、不師於心」をもととしています。
弱さゆえ、意図せず悪へと走ってしまう人間の心。もはや自分を救うことができない極悪人にまで手をさしのべてくれる、仏教の測り知れない慈悲。
これは、キリスト教の「愛」とどこか通じ合っているのかもしれません。
あなた方も聞いている通り、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。
しかし、わたしは言っておく、
「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」
(マタイによる福音書5章44節)
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◆【言の葉庵】オフィシャルホームページ
こちら↓
http://nobunsha.jp/blog/post_219.html
#キリスト教 #悪魔 #どちりなきりしたん #仏教 #禅 #悪人正機説 #親鸞 #村田珠光
【言の葉庵】古典名作現代語訳シリーズ、十三作目の新刊がリリースされます。
『現代語訳 どちりな きりしたん』。戦国時代のキリスト教教理問答書で、日本で発行されたいわゆる“キリシタン版”を代表する名著です。
『現代語訳 どちりな きりしたん』 水野聡 訳
本体価格:2,980円 +税
判型:四六版 164ページ
発売日:2017年10月10日
出版社:能文社
ISBN ISBN978-4-9904058-7-8
▽商品ページ
下記にご購入方法、立ち読みコーナーなどの新刊詳細があります。
http://nobunsha.jp/book/post_218.html
本書は、『長崎版 どちりな きりしたん』(岩波文庫)を底本とする、全文現代語訳です。
〔本書の特徴〕
・どちりな きりしたん(Doctrina Christam)とは、古ポルトガル語で「キリスト教の教義」という意味である。安土桃山時代に来日したイエズス会宣教師により作成された、日本語によるわが国初のキリスト教教理問答書とされている。本書は現存する版本の内、後期版(1600年長崎刊)の初めての全文現代語訳である。
・『どちりな きりしたん』は、カトリックの教義を問答体で平易に説く教理問答(カテキズモ)の一種。
フランシスコ・ザビエルは、日本人信徒第一号であるヤジローの協力を得て初めて基本的な教義書を作った。これに、代々の来日宣教師たちが、手を加え整えていき、ヴァリニャーノの頃にようやく完成を見たのがこの『どちりな きりしたん』である。
現在日本のカトリック教義は『公教要理』として教会・信徒の間で共有されているが、この『どちりな きりしたん』と内容を比較した場合、根本教義の要点は完全に同一である。イエズス会より遅れて来日した、ドミニコ会やフランシスコ会の宣教師たちによって、何の支障もなく用いられたというから、当時キリシタン禁令の下、司祭による教えを受けられなくなりつつあった日本人信徒にとって、信仰の大きな支えとなったことはいうまでもない。
・信者はもちろん、初めてキリスト教に触れる方にとって、本書は現在もキリスト教の最適な入門書となることであろう。
キリスト教の信仰と教えの根本は、聖書にあることはいうまでもない。しかし、キリストの受難の意味、聖母マリアの処女懐胎、三位一体説、最後の審判など、主要な教義について、互いに関連付け、体系的に解き明かしてくれる書ではない。その点、本書は教理問答として、一つひとつの教義について師が弟子に口頭で答えていく、明快な構成が採られている。
とりわけ〔後期版〕では、当時の日本人の宗教観や民俗・風習から発する疑問に懇切丁寧に答えており、現代の私たちにとっても、シンプルかつ具体例に富むキリスト教の入門書たりえているのだ。
(書店向け新刊紹介チラシより)
#宣教師#問答#キリスト教#現代語訳