それでは引き続き、「珠光一紙目録」を読み進めます。まず冒頭に、「大壷の次第」。大壷とは、葉茶壷のこと。利休以前、書院台子の茶の時代、大壷は床に飾る道具としてもっとも重んじられていました。東山以来の名品を総覧する一紙目録では、これらを必然的に筆頭にあげたものと思われます。
一 三日月
このお壺、茶が七斤入る。天下無双の名物なり。大きな瘤が七つ。前に腰袋を附けたような格好で、横長の瘤がある。その様が前へ少し傾いたように見え、面白い。それで三日月と名付けたということだ。下膨れの様も珍しい壺である。これは、その昔、奈良興福寺の内、西福寺にあったものだ。後に日向屋道徳の所持となる。次に、下京の袋屋。さらに三好実休へと渡る。戦乱に遭い、河内国高屋城にて六つに割れる。これを堺の宗易が継ぎ直し、太子屋の手で信長公へと奉ることとなった。(三好の老衆が三千貫にて太子屋へ質入れしていたものだが、太子屋がこれを信長公に捧げたのである)割れてなお、その値は上がり続け五千貫、一万貫と果てもない。お壺の様子は口伝する。しかし、総見院殿の本能寺の変にて焼失してしまった。
一 松島
このお壺、茶七斤と少し入る。紫の土、釉の様は、真壺の手本である。三日月が無双の壺といえども、松島には劣る。二つを比べ、松島がよい、と古人も言い伝えるのだ。形はなるほど、三日月が面白い。しかし、この壺を松島と名付けるそもそもの理由。奥州松島は小島が多く、面白い名所である。この壺に島の如く、瘤が多いゆえ、これを松島と名付けたのである。
これら二つともに東山御物なり。その後、御物は方々に散失。松島は、桃山中期、三好宗三 の所持となる。後に宗三の子、右衛門太夫(三好政勝)が、紹鷗に売った。次の所有者、今井宗久が信長公に奉ったのである。これも、総見院殿、本能寺の変にて焼け失せた。
一 四十石のお壺
このお壺、茶七斤半入る。関白様ものである。昔、真壺の値が百疋、二百疋かといわれていた時、千本の関本道拙が、米四十石の田地で求めたゆえ、四十石といった。ただし、四十石という名は、東山殿御物となってより付けられたものである。御物散在後、南都の蜂屋紹佐が所持。その次、堺の宗訥。後に関白殿へ上る。松島・三日月滅して後、天下一の壺であろう。その壺味は、三日月と同じ。さらに口伝がある。
一 松花
このお壺、茶が七斤入る。黄清香(きせいこう)の壺である。土は黒色。瘤が二つあり。下釉は白っぽい赤。この清香の壺、松島・三日月・松花と三名物に数えられること誉れである。壺のお茶閑味は、名人衆も驚くほどという。古い言い伝えである。さらに口伝あり。松花、元は珠光所持。次に、誉田屋宗宅。その次、道陳。そして、信長公へ奉った。本能寺の変に、堀秀政が救い出し、関白様へと献上したのだ。
一 捨子
関白様所持。この壺には茶が七斤と袋七つ、八つほど入る。お茶味のことはいうに及ばず、土もよく、釉かじかみ、上部に霜が降ったような面白いあんばいである。ある時、心敬が伺候すると、
「この壺に発句せよ」
との上意である。頃も口切の折りであれば、
ささかじけ 橋に霜おくあしたかな
と詠んだ。
この壺には「乳」がないので、捨子と名付けられたという旧説がある。が、これは誤り。乳は四つ、いかにも見事にある。東山殿が初めてご覧になって、御物とされた時、能阿弥を召し、
「これほど見事な壺に名がないとは。さては捨子か」
と仰ったという。そのお言葉により、すなわち捨子となった。
(『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社)
「三日月」「松島」「四十石」「松花」「捨子」と、当代一の名壷が目利きされます。
まず冒頭の「三日月」。「松島」がその贅(こぶ)の多さにより命名されたのと同様、「三日月」も"七つ"の大きなこぶにより、まず珍重されたという。加えて、「横長の瘤があり、壷が前へ少し傾いたように見え、それで三日月と名付けた」と、命名のいわれを説き明かします。利休以降、均整の取れた端正な美が尊ばれますが、この時代にはいまだ珍奇な"異形"の美が好まれていたのでしょうか。茶の美の変遷が伺え興味深いです。
名物「つくも茄子」は当初"九十九貫"で売られたため、その銘を得た、とする説があります。「四十石」も千本道堤が、四十石の田地を売り払い入手したため、その値がそのまま銘になったという。一般的に和歌や故事から引用され、名付けられる茶道具が多い中、"売買金額"がそのまま銘となる、そういうところに堺商人たちのバイタリティあふれるユーモア精神が感じられます。
銘の附け方でいえば、もっともしゃれているのが「捨子」。八代将軍義政が、連歌師心敬・同朋衆能阿弥という当代きっての数奇者ふたりを役者にそろえ、「見事な壺に名がない。さては捨子か」と即座に御物に加えたとの逸話でした。
数奇の世界には、天下の「三名壷」といわれるものがありました。古く義政の東山時代には「松島・三日月・象潟」。続いて信長の代には「松島・三日月・松花」。天正十年、本能寺の変にて「松島・三日月」が火に入り滅して後、「松花・四十石・金花」が名壷の代表とされるようになりました。
松花、旅衣ハ清香ナリ (分類草人木)
清香壷の類、松華・金花 (仙茶集)文禄二
利休も生涯、多くの自会に「橋立」を飾り、死の直前までこの壷には深く執心したものです。しかし、「侘び」をいっそう強く志向する利休以降の茶の世界では、やがて大壷は数奇者の床の間よりその姿を徐々に消していくこととなります。
一 三日月
このお壺、茶が七斤入る。天下無双の名物なり。大きな瘤が七つ。前に腰袋を附けたような格好で、横長の瘤がある。その様が前へ少し傾いたように見え、面白い。それで三日月と名付けたということだ。下膨れの様も珍しい壺である。これは、その昔、奈良興福寺の内、西福寺にあったものだ。後に日向屋道徳の所持となる。次に、下京の袋屋。さらに三好実休へと渡る。戦乱に遭い、河内国高屋城にて六つに割れる。これを堺の宗易が継ぎ直し、太子屋の手で信長公へと奉ることとなった。(三好の老衆が三千貫にて太子屋へ質入れしていたものだが、太子屋がこれを信長公に捧げたのである)割れてなお、その値は上がり続け五千貫、一万貫と果てもない。お壺の様子は口伝する。しかし、総見院殿の本能寺の変にて焼失してしまった。
一 松島
このお壺、茶七斤と少し入る。紫の土、釉の様は、真壺の手本である。三日月が無双の壺といえども、松島には劣る。二つを比べ、松島がよい、と古人も言い伝えるのだ。形はなるほど、三日月が面白い。しかし、この壺を松島と名付けるそもそもの理由。奥州松島は小島が多く、面白い名所である。この壺に島の如く、瘤が多いゆえ、これを松島と名付けたのである。
これら二つともに東山御物なり。その後、御物は方々に散失。松島は、桃山中期、三好宗三 の所持となる。後に宗三の子、右衛門太夫(三好政勝)が、紹鷗に売った。次の所有者、今井宗久が信長公に奉ったのである。これも、総見院殿、本能寺の変にて焼け失せた。
一 四十石のお壺
このお壺、茶七斤半入る。関白様ものである。昔、真壺の値が百疋、二百疋かといわれていた時、千本の関本道拙が、米四十石の田地で求めたゆえ、四十石といった。ただし、四十石という名は、東山殿御物となってより付けられたものである。御物散在後、南都の蜂屋紹佐が所持。その次、堺の宗訥。後に関白殿へ上る。松島・三日月滅して後、天下一の壺であろう。その壺味は、三日月と同じ。さらに口伝がある。
一 松花
このお壺、茶が七斤入る。黄清香(きせいこう)の壺である。土は黒色。瘤が二つあり。下釉は白っぽい赤。この清香の壺、松島・三日月・松花と三名物に数えられること誉れである。壺のお茶閑味は、名人衆も驚くほどという。古い言い伝えである。さらに口伝あり。松花、元は珠光所持。次に、誉田屋宗宅。その次、道陳。そして、信長公へ奉った。本能寺の変に、堀秀政が救い出し、関白様へと献上したのだ。
一 捨子
関白様所持。この壺には茶が七斤と袋七つ、八つほど入る。お茶味のことはいうに及ばず、土もよく、釉かじかみ、上部に霜が降ったような面白いあんばいである。ある時、心敬が伺候すると、
「この壺に発句せよ」
との上意である。頃も口切の折りであれば、
ささかじけ 橋に霜おくあしたかな
と詠んだ。
この壺には「乳」がないので、捨子と名付けられたという旧説がある。が、これは誤り。乳は四つ、いかにも見事にある。東山殿が初めてご覧になって、御物とされた時、能阿弥を召し、
「これほど見事な壺に名がないとは。さては捨子か」
と仰ったという。そのお言葉により、すなわち捨子となった。
(『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社)
「三日月」「松島」「四十石」「松花」「捨子」と、当代一の名壷が目利きされます。
まず冒頭の「三日月」。「松島」がその贅(こぶ)の多さにより命名されたのと同様、「三日月」も"七つ"の大きなこぶにより、まず珍重されたという。加えて、「横長の瘤があり、壷が前へ少し傾いたように見え、それで三日月と名付けた」と、命名のいわれを説き明かします。利休以降、均整の取れた端正な美が尊ばれますが、この時代にはいまだ珍奇な"異形"の美が好まれていたのでしょうか。茶の美の変遷が伺え興味深いです。
名物「つくも茄子」は当初"九十九貫"で売られたため、その銘を得た、とする説があります。「四十石」も千本道堤が、四十石の田地を売り払い入手したため、その値がそのまま銘になったという。一般的に和歌や故事から引用され、名付けられる茶道具が多い中、"売買金額"がそのまま銘となる、そういうところに堺商人たちのバイタリティあふれるユーモア精神が感じられます。
銘の附け方でいえば、もっともしゃれているのが「捨子」。八代将軍義政が、連歌師心敬・同朋衆能阿弥という当代きっての数奇者ふたりを役者にそろえ、「見事な壺に名がない。さては捨子か」と即座に御物に加えたとの逸話でした。
数奇の世界には、天下の「三名壷」といわれるものがありました。古く義政の東山時代には「松島・三日月・象潟」。続いて信長の代には「松島・三日月・松花」。天正十年、本能寺の変にて「松島・三日月」が火に入り滅して後、「松花・四十石・金花」が名壷の代表とされるようになりました。
松花、旅衣ハ清香ナリ (分類草人木)
清香壷の類、松華・金花 (仙茶集)文禄二
利休も生涯、多くの自会に「橋立」を飾り、死の直前までこの壷には深く執心したものです。しかし、「侘び」をいっそう強く志向する利休以降の茶の世界では、やがて大壷は数奇者の床の間よりその姿を徐々に消していくこととなります。