門前の小僧

能狂言・茶道・俳句・武士道・日本庭園・禅・仏教などのブログ

『山上宗二記』の真実 第七回

2011-03-29 20:08:59 | 茶道
それでは引き続き、「珠光一紙目録」を読み進めます。まず冒頭に、「大壷の次第」。大壷とは、葉茶壷のこと。利休以前、書院台子の茶の時代、大壷は床に飾る道具としてもっとも重んじられていました。東山以来の名品を総覧する一紙目録では、これらを必然的に筆頭にあげたものと思われます。


一 三日月

このお壺、茶が七斤入る。天下無双の名物なり。大きな瘤が七つ。前に腰袋を附けたような格好で、横長の瘤がある。その様が前へ少し傾いたように見え、面白い。それで三日月と名付けたということだ。下膨れの様も珍しい壺である。これは、その昔、奈良興福寺の内、西福寺にあったものだ。後に日向屋道徳の所持となる。次に、下京の袋屋。さらに三好実休へと渡る。戦乱に遭い、河内国高屋城にて六つに割れる。これを堺の宗易が継ぎ直し、太子屋の手で信長公へと奉ることとなった。(三好の老衆が三千貫にて太子屋へ質入れしていたものだが、太子屋がこれを信長公に捧げたのである)割れてなお、その値は上がり続け五千貫、一万貫と果てもない。お壺の様子は口伝する。しかし、総見院殿の本能寺の変にて焼失してしまった。

一 松島

 このお壺、茶七斤と少し入る。紫の土、釉の様は、真壺の手本である。三日月が無双の壺といえども、松島には劣る。二つを比べ、松島がよい、と古人も言い伝えるのだ。形はなるほど、三日月が面白い。しかし、この壺を松島と名付けるそもそもの理由。奥州松島は小島が多く、面白い名所である。この壺に島の如く、瘤が多いゆえ、これを松島と名付けたのである。
これら二つともに東山御物なり。その後、御物は方々に散失。松島は、桃山中期、三好宗三 の所持となる。後に宗三の子、右衛門太夫(三好政勝)が、紹鷗に売った。次の所有者、今井宗久が信長公に奉ったのである。これも、総見院殿、本能寺の変にて焼け失せた。

一 四十石のお壺

 このお壺、茶七斤半入る。関白様ものである。昔、真壺の値が百疋、二百疋かといわれていた時、千本の関本道拙が、米四十石の田地で求めたゆえ、四十石といった。ただし、四十石という名は、東山殿御物となってより付けられたものである。御物散在後、南都の蜂屋紹佐が所持。その次、堺の宗訥。後に関白殿へ上る。松島・三日月滅して後、天下一の壺であろう。その壺味は、三日月と同じ。さらに口伝がある。

一 松花

 このお壺、茶が七斤入る。黄清香(きせいこう)の壺である。土は黒色。瘤が二つあり。下釉は白っぽい赤。この清香の壺、松島・三日月・松花と三名物に数えられること誉れである。壺のお茶閑味は、名人衆も驚くほどという。古い言い伝えである。さらに口伝あり。松花、元は珠光所持。次に、誉田屋宗宅。その次、道陳。そして、信長公へ奉った。本能寺の変に、堀秀政が救い出し、関白様へと献上したのだ。

一 捨子

 関白様所持。この壺には茶が七斤と袋七つ、八つほど入る。お茶味のことはいうに及ばず、土もよく、釉かじかみ、上部に霜が降ったような面白いあんばいである。ある時、心敬が伺候すると、
「この壺に発句せよ」
 との上意である。頃も口切の折りであれば、
  ささかじけ 橋に霜おくあしたかな
 と詠んだ。
 この壺には「乳」がないので、捨子と名付けられたという旧説がある。が、これは誤り。乳は四つ、いかにも見事にある。東山殿が初めてご覧になって、御物とされた時、能阿弥を召し、
「これほど見事な壺に名がないとは。さては捨子か」
 と仰ったという。そのお言葉により、すなわち捨子となった。

(『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社)


「三日月」「松島」「四十石」「松花」「捨子」と、当代一の名壷が目利きされます。
まず冒頭の「三日月」。「松島」がその贅(こぶ)の多さにより命名されたのと同様、「三日月」も"七つ"の大きなこぶにより、まず珍重されたという。加えて、「横長の瘤があり、壷が前へ少し傾いたように見え、それで三日月と名付けた」と、命名のいわれを説き明かします。利休以降、均整の取れた端正な美が尊ばれますが、この時代にはいまだ珍奇な"異形"の美が好まれていたのでしょうか。茶の美の変遷が伺え興味深いです。

名物「つくも茄子」は当初"九十九貫"で売られたため、その銘を得た、とする説があります。「四十石」も千本道堤が、四十石の田地を売り払い入手したため、その値がそのまま銘になったという。一般的に和歌や故事から引用され、名付けられる茶道具が多い中、"売買金額"がそのまま銘となる、そういうところに堺商人たちのバイタリティあふれるユーモア精神が感じられます。

銘の附け方でいえば、もっともしゃれているのが「捨子」。八代将軍義政が、連歌師心敬・同朋衆能阿弥という当代きっての数奇者ふたりを役者にそろえ、「見事な壺に名がない。さては捨子か」と即座に御物に加えたとの逸話でした。

数奇の世界には、天下の「三名壷」といわれるものがありました。古く義政の東山時代には「松島・三日月・象潟」。続いて信長の代には「松島・三日月・松花」。天正十年、本能寺の変にて「松島・三日月」が火に入り滅して後、「松花・四十石・金花」が名壷の代表とされるようになりました。

松花、旅衣ハ清香ナリ (分類草人木)
清香壷の類、松華・金花 (仙茶集)文禄二

利休も生涯、多くの自会に「橋立」を飾り、死の直前までこの壷には深く執心したものです。しかし、「侘び」をいっそう強く志向する利休以降の茶の世界では、やがて大壷は数奇者の床の間よりその姿を徐々に消していくこととなります。
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言の葉庵支店への検索ワード結果

2011-03-28 20:00:02 | 日本文化バンザイ
庵主が出店しているブログ、【言の葉庵支店】のアクセスを本日「検索ワード」で分析してみました。
かなり多くの「日本文化フェチ」の方がいらっしゃる。なかなか興味深い結果でした。以下、本日付最新の検索結果順を、各アクセスページのエントリー名で公開します。


1.日本文化のキーワード第一回【もののあはれ】
2.謎の日本語、〈博士語〉〈お嬢様語〉とは?
3.風狂のバケモノ、寒山拾得
4. 「千利休名言集」できました。
5.夏の風物詩「能の虫干し」。金剛能楽堂 能面装束展覧会
6.万葉集は韓国語で詠まれていた
7.奥の細道行脚。第十一回「立石寺」
8.「日本を今一度せんたくいたし申候。」龍馬の手紙
9.寺子屋Bクラス「風姿花伝」講読会のご案内
10.日本文化のキーワード第三回【幽玄】
11.いろは歌は、古代の怨念とSOSのメッセージ〈前編〉
12.奥の細道行脚。第十三回「象潟」
……

アクセス数としては、「3.寒山拾得」「4. 千利休名言集」がもっとも多いですね。「寒山拾得」について、現在ネットでは当ブログがもっとも情報量が多いので多少はお役に立てたかもしれません。より詳細な情報を求めている方はぜひ紙(書籍)でも調べてみてください。出典・引用元は記載していますので。
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言の葉庵メルマガNo.30 本日発刊

2011-03-26 08:21:40 | 旅行
特別編集コラム「東北地震」を含む、【言の葉庵】メルマガ臨時号を発行しました。ぜひご覧ください!

●芭蕉の祈り~松島讃【言の葉庵】No.30
http://bit.ly/dd7PHE

<今週のCONTENTS>
【1】特別編集        東北大地震。芭蕉の祈り~松島讃
【2】能の名人列伝     第四回 観世と柳生の力くらべ
 編集後記…
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『山上宗二記』の真実 第六回

2011-03-17 21:09:30 | 茶道
「序」に引き続き、今回は『山上宗二記』の主要段落ともいえる「珠光一紙目録」を読み進めます。そもそも『宗二記』は、別名『茶器名物集』とも、『珠光一紙目録』とも称されてきました。茶の湯の開山、村田珠光が能阿弥とともに目利きした当代名物の由緒・評価の一覧を門弟に相伝した秘伝書が、『宗二記』の実体だったのです。


珠光一紙目録

 この一巻は、珠光が目利き稽古の道を、能阿弥に問い究め、その内容を日記としてつづったものである。後継者、宗珠へ相伝した。(ある本によれば、末子に相伝したとある)引拙の時代までは、珠光の風である。その後、紹鷗がことごとく改め、加筆を終えた。紹鷗は当時の偉人であり、先達、中興である。追加の一巻は辻玄哉まで相伝された。茶の湯の道具と秘伝が追々記されている。さて、この内茶の湯の行き方はすべて禅からきたものである。口伝・秘伝は口頭にて伝えたい。書いたものはない。奥書に載せたものだけである。

 紹鷗が逝去して三十余年、今、茶の湯の先導者は宗易である。すなわち宗易尊師に二十余年の間、聞き置いた秘伝の数々をこれへ書き改め、勘考しているところ。名物一種一種についての目利きの習い、奥儀がここにある。とどまるところ、数寄者の覚悟とは、禅の心をもってなすべきである。

  紹鷗末期の言。
 料知す。茶味と禅味同じなること
 松風を吸い尽くして、こころいまだ汚れず

 唐物は代価の高下によらず、床に飾る道具をもって名物とよんだ。大壺と三つ石は、昔より床に飾ってきた。その他、当代千万の道具はみな紹鷗の目利きによって選び出されたものである。


「大壷の次第」よりはじまり、以下、天目、茶碗、釜、香炉、香、墨蹟、掛絵と『一紙目録』の目利きは続きます。加えて、上のように冒頭には、その巻頭言として、珠光~紹鴎~利休へと継承されてきた、侘び茶の湯の系譜と正統が説かれます。
この部分の著者ははっきりしませんが、内容により、紹鴎直系の門弟、あるいは利休の口伝を宗二自身が書き加えたものと思われます。
ここではなによりも「茶と禅」の一体性が、まず説かれる。紹鷗末期の言として
「料知す。茶味と禅味同じなること」
が紹介されますが、これは紹鴎の像に画賛として付された、大徳寺第九十世、大林 宗套の偈の第三・第四句です。
まさにここから、現代茶道史の「茶禅一味」思想が始まったことを考えれば、この書の重要性はいくら強調しても、強調しすぎることはありません。

「茶の湯の行き方はすべて禅からきたものである。口伝・秘伝は口頭にて伝えたい。書いたものはない」
まことに茶の湯の道は、禅と同様に“不立文字”、”教外別伝”。珠光、紹鴎、利休と伝えられた真実の教えは、「書き物にはない」と師の鉄槌を甘んじる他はありません。
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『山上宗二記』の真実 第五回

2011-03-10 15:30:09 | 茶道
さて、それでは各段落主要部分をご紹介しましょう。
まずは、宗二記冒頭におかれる「序」(原典に題はなし)。

ここでは、室町八代将軍足利義政へ同朋衆能阿弥が、奈良の茶人村田珠光をひきあわせた逸話が紹介される。茶道史では東山山荘が建築された1482年、能阿弥がすでに没していたため、この逸話は疑問視されています。三者の生没年を見ましょう。

・能阿弥 1397-1471
・足利義政 1436-1490
・村田珠光 1423-1502

そして東山山荘建築が着工されたのは、1482年、翌年には義政をこの地へ居を移しています。義政と珠光が出会ったのは東山ではないことは確かですが、三者の年代は上のように重なり合っており、その出会い自体を否定することはできません。

もうひとつ着目すべきは、能阿弥の珠光を推薦する言葉の中に
「珠光は、孔子の道をも学んだ者」
とあることです。
「茶の湯者覚悟十体 追加十体」の段落に、『論語』の「十有五にして学に志し」を引き、茶湯者としての年代別、稽古の要諦を説きます。茶道史にとって禅の影響は確かに大きいものです。が、「礼」と「中庸」をもっとも重んじる儒教の茶への影響も、この能阿弥の証言から再び光を当ててみる必要があるのかもしれません。




 そもそも茶の湯は、普光院殿 、鹿薗院殿 の御代より、唐物 、絵讃のたぐいを高貴な方々が集め終えたことからはじまる。その頃の同朋衆は、善阿弥、毎阿弥であった。さて、右おふたりの公方様が、お亡くなりになった後、桂雲院殿 が跡を継がれたが、十三歳で落馬にて薨去。短命であられた。その後、東山慈照院殿 の御代となって、世の名物ことごとく集め終えられる。花の御所様 へ家督を譲る時、明光院殿 が後見として都に残る。この方へ名物を少々授与されたが、そのほか御所様へお譲りの七珍萬宝は数えることもできぬほどであった。
 譲位の後、慈照院殿は東山 に隠棲。四季の移り変わりとともに昼夜ご遊興召されたものだ。
 頃は秋の末、月待つ虫の音も物あわれな折り節、能阿弥 を召し出し、『源氏物語』雨夜の品定めなど読ませる。和歌、連歌、月見、花見、鞠、小弓、扇合わせ、草尽くし、虫尽くし、さまざまな興をもよおしつつ、来し方のことなど物語なさる内に、慈照院殿、ふと仰せ出される。
「古来よりのありきたりな遊びも早や尽きてしまった。ようやく冬も近い。雪山分けての鷹狩も老いの身には似合わぬもの。何ぞ珍しい遊びのないものか」
 と仰ったので、能阿弥かしこまって承り、はばかりながら申し上げた。
「茶釜のたぎる妙音は、松風すらそねむと申します。かつまた、茶の湯は、春・夏・秋それぞれに趣きある遊び。近頃、南都称名寺に珠光と申す者がおります。この道に志深く、三十年来茶の湯に身を抛ち、孔子の道をも学んだ者にございます」
 と。珠光より受けた秘伝、口伝ならびに二十一か条の仔細ことごとく言上し、かつ、
「唐物のお飾りは、日頃見慣れぬ珍品を眼前にできますもの。これまた名物の徳と申せましょう。小壺・大壺・花入・香炉・香合・絵・墨蹟を愛でる寂びた遊びは、茶の湯にまさる物とてございませぬ。また、禅宗の墨蹟を茶の湯に用いることがある。珠光が一休和尚より、圓悟の墨蹟を賜り、これを茶飾りの一種として愛でたもの。しかれば、仏法も茶の湯の中にございます」
 と、委細申し上げたのだ。
 これにより、慈照院殿は珠光を召し出され、茶の湯の師匠と定められた。以来、これを生涯唯一の楽しみとされることとなる。
 当時、茶の湯を嗜まぬ者は人にあらずといわれた。諸大名はいうまでもなく、下々、ことに南都、京、堺の町人に至るまで、茶の湯を専らとする者があらわれた。彼らの内、上手ならびに名物を持つ者は、京・堺の町人であろうとも、大和の大名と同様に、命により茶の湯の席へと召し出され、歓談の人数に加えられたのである。このようにして京・堺に珠光の弟子が増えていった。有名なところでは、松本 ・篠 ・道堤・善法 ・古市播州・西福院・引拙らの名があげられる。
 さて、東山殿薨去の後も、代々の公方様は茶の湯に親しむ。同朋衆の芸阿弥 ・相阿弥 も先師、珠光に学ぶ。やがて東山御物は市井に散失してしまうが、今も変わらず茶の湯の道は、隆盛しているのだ。珠光の後継者は、宗珠・宗悟・善好・藤田・宗宅・紹滴・紹鷗らである。
 目利きであり、茶の湯も上手、数寄の師匠をして世を渡る者を、茶の湯者という。名物を一物も持たずして、胸の覚悟一、創意一、腕前一、この三つの揃った者を、侘び数寄という、と。
 唐物を所持し、目が利き、茶の湯も上手。この三か条調い、一道に志深い者、これを名人という。

  茶の湯者とは、松本・篠の両人のこと。
  数寄者とは、善法のことである。
茶の湯者であり、数寄者でもある。これを古今の名人という。
  珠光ならびに引拙・紹鷗のことである。

『山上宗二記 現代語全文完訳』能文社 2006
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